第2話
昼時だからと言って、魁児の心は休まらない。
今この時間も、の繰り返し。今も、鹿南は十日院と弁当を食べているのかもしれない。おかずなんか交換して、食べさせ合ったりしているのかもしれない。
「キモいって魁児。そんなにおかずが欲しいなら僕のあげるけど」
「いらねぇよ。ってかそれ焼きそばパンじゃねぇか!」
「僕なんかこびりついたソースで十分だし、焼きそば部分全然あげれるけど」
「いらん!」
そうは言っても、一人きりじゃなかったのは本当に幸いだと思う。墨花すらいなかったら、俺はもう、とっくに壊れていたかもしれない。
たかが恋愛。されど恋愛。たったこれだけのことで、ここまで穏やかな日々が崩壊するかとは思わなかった。
「さすがに女友達と食べてるって。魁児だって、いくら彼女が出来ても僕とお弁当食べてくれるでしょ?」
「まぁ、毎回ってわけにはいかなくなるかもだけど」
墨花の言うことはもっともだ。味気ない唐揚げ弁当を頬張りながら、ぼんやりと考える。
鹿南と付き合っていても、たしかに墨花との交友関係に変わりはないだろう。学年も違うし、そう毎回は一緒に食べようなんてイベントも起こり得ない。けれど毎回じゃないにしろそういうイベントはあるんだ。ましてや十日院は超がつく積極的野郎だ(未だに交際には踏み切れていないが)、毎日のように誘っていたりなんなら鹿南ちゃんの女友達の集団に入り込んでいってみんなでご飯を食べたり。
「長い、長いよ魁児」
「俺は、やっぱりもう死ぬかもしれん」
呼吸がままならない。唐揚げの風味も、墨花の焼きそばパンの香ばしい匂いも、周囲の雑音すら遠くのものに感じる。
「すぐ下の階の教室にいるのにねぇ。そんなに顔真っ赤にして思いを馳せなくても」
「そうか、窓から思いっきり叫べば聞こえる……二人の甘酸っぱい時間を妨害できる!」
「嫌われるよん」
現に、魁児は告白後に何度も選択を誤った。最初の内は今まで通りに恋愛相談等々に乗っていたが、いつの間にか、「俺の方が良いんじゃない」と我が出てきてしまったのだ。なんというか、奥手すぎるのも良くないのではないかと。
しかしその結果がこうだ。
連絡の頻度は減り、魁児くんと呼ばれていたものが焚村くんに変わり。魁児の好感度は初対面時並みにすり減ってしまったに違いない。
「くそぅ。告白が遅れたのも焦りすぎたのも、全部後悔だ。俺の人生、後悔ばっかりだよ……」
「マジでこの世の終わりって顔してる。――まぁでもさ、新しい恋をするってのも、ありなんじゃないの?」
「無理だし、そんな相手いねぇし」
「そう? 人は選ぶけど、魁児悪くない物件だと思うけどなぁ」
「人は選ぶは余計だ」
そう思いつつも、魁児はさっきの出来事を思い出していた。
至近距離まで詰め寄られ、頬を手に取り、終いには「私を見ろ」。
魁児の失恋話は、あの時のヤジのせいでバレていたとはいえ、あの行動には謎が多すぎる。
そんな陽坂は、女生徒に囲まれながら普通に弁当を食べていた。
「なぁ墨花、お前本当にあの転校生のこと何も知らなかったのか?」
「さっきも言ったじゃん~、知らないよ。先生だって急遽って言ってたでしょ」
見た目にそぐわず大口でパンを頬張る瞬間を見ると、墨花が男である実感が湧いてくる。
「そんなに気になるんだ、転校生が」
「そういう意味じゃねぇけどさ」
時期から考えても、どうやら普通の転校生というわけではないのかもしれない。
昼食を済ませ、俺と墨花は適当に時間を潰そうと廊下に出た。校庭には既に多くの生徒が食後の運動タイムにい勤しんでいる。広い校庭に、蟻のような生徒たちが群がっている光景は、マンモス校ならではだなと思う。
季節は七月。夏本番を目前に、気持ちの波は夏の天気のように落ち着きがない。夏休み中の鹿南だって気になる。あの二人は、もう何時結ばれてもおかしくはないのだ。夏祭りだ、なんだとイベントは目白押しなのである。ただ、喧嘩するほどなんとやらなのか、それなりにぶつかることも多いらしいのも事実だった。それを相談されては解決に導いていたのは外ならぬ自分だ。
陽坂の動向も気になるといえば気になる。
あんな行動に出たのは何か意味があるに違いない。魁児に気があるってことは、まずないだろうが、どうも、魁児が鹿南に夢中でいるのを快く思っていないようだ。
「おい、魁児!」
カリッカリの声に名前を呼ばれた。水気のない、乾いたヤンキーみたいな声だ。その主は先輩の
兆川は階段の下から魁児を見上げて、機嫌の悪そうなオーラをブンブンと放っている。
「お前、たしか白井の事好きだったよな。なんださっきのは」
「さっきのって?」
「体育の授業中に、お前がやたら可愛い子と保健室に入っていくのが見えたんだよ」
「ああ、見られてたんすか」
目撃者としては最悪の人選だ。兆川は何かにつけて俺に絡んでくる面倒くさい奴なのだ。本当のことを言って、納得してくれるかも怪しい。
「あれは転校生ですよ兆川センパイ。魁児授業中に具合悪くなっちゃって、保健室を案内がてら付き添ってもらったんです」
墨花が助け船を出してくれた。
魁児が言うよりよっぽど効果的だろう。
「仲睦まじい雰囲気だったけどな。ベラベラくっちゃべってよ」
「それは~……。魁児さん、説明をどうぞ」
「あー、はいはい」
あの時陽坂にされたことを正直に話すべきか。いや、墨花にだけならまだしも、兆川にそんなことを話す義理はない。話したところで、つけ入る隙を与えるだけだ。
「教室でこいつらが俺にヤジ飛ばしたんすよ。鹿南ちゃんはどうしたんだっつって。それについてからかわれたから、言い返してただけっす」
兆川は押し黙った。
なんだ? 今日の兆川は、なんだかいつもと様子がおかしい。
「俺はよ。白井もてっきりお前のことが好きなのかと思ってたんだぜ」
「まさか。学園のアイドル気質の鹿南ちゃんっすよ。誰にでも優しいだけです」
「そうだ。白井は誰にでも優しい。だからみんな勘違いしちまうんだよな」
階段を踏みしめながら兆川が迫ってくる。
言いたいことはなんとなくわかった。しかし、なんだろうか、この。得体のしれない覇気のような、何かとてつもない兆川の感情の高ぶりは。
そこまで、するような奴だったか。
「俺はよぉ、白井には恋愛感情を向けられてねぇってわかってたからよぉ。てめぇに譲ってやろうと思ったのによォ……」
「譲るって。誰目線っすか」
「それをてめぇは、美少女転校生がきたらそっちに目移りか。んで、転校初日から落としにかかって」
「ちょっと落ち着きましょうよ」
もう兆川は目前だ。怒鳴る未来図が見えている。
こいつ、まわりが見えなくなっているんじゃないか。休み時間の、こんな場所でわざわざ詰め寄ってくる話題か?
「俺は、心底てめぇが嫌いだぜ」
低く唸る声が静かに眼前を掠めた。それは嵐の前の静けさだった。
「なぁ!!!」
獣の咆哮の如し爆音が廊下に響き渡る。耳が千切れたかと思い、手で確認してしまうほどだった。もはや人間離れしていた。普段から細い眼は吊り上がり、小さな瞳孔がギロりとこちらを睨みつけている。
廊下は静まり返り、生徒たちがこちらを見ている。
「てめぇはマジで一回ボコしたいと思ってたんだよ」
目にも止まらぬ速度で、兆川は魁児の胸ぐらを掴み上げた。
手繰り寄せられ、態勢を崩したその時だった。
「い、ってぇ……! なんだこれっ」
兆川の身体が突然のけぞり、頭を押さえて苦しがっている。
その様子は尋常ではなく、単なる頭痛のそれとは違って見えた。頭部に、抜けない何かが刺さったかのような。そんな悶え方。
「何をしているの」
静かな廊下を穿つ、澄んだ声がした。声量こそ穏やかに、しかし腹の底から出たような力強い一声。
「焚村くんはこういうお友達が多いの?」
「友達じゃねぇ、先輩だ」
「同じようなものじゃないの。つるんでるんでしょ」
「別につるんでねぇ」
陽坂が兆川を指差した。
何か言うのかと思ったが、そのまま黙っている。
これには兆川も動揺を隠せないようだ。
「あぁ!?」
「あの、陽坂さん?」
「うるさい、ちょっと黙ってて」
魁児たちの目には何も見えない。
――が、陽坂には見えているものがあったのだ。
兆川の後頭部に喰らい付く、赤色の化け物の姿を、陽坂だけが視認していた。
(今度は的外れな台詞はよせよ、沙耶)
(余計なお世話よ)
二人は。目と目でやりとりをした。
そして、陽坂はついに放つ言葉を心に決めた。
「私の大切なクラスメイトに、変な手出ししないでくれる?」
ひ、陽坂様……!!
魁児と墨花は階下で悶える兆川と陽坂を交互に見ながら、王子様的台詞を言い放った陽坂に感動した。あの容姿で、あの声質で、あの台詞。男子女子問わず、これは全校生徒の星になる。この学校のスターになる。そう確信をした。
(あーあ。なんかまた方向性が……)
陽坂子飼いの嫉妬魔、シイルだけがその違和感に気付き、肩を落としていた。
肩らしい肩など、そのみてくれに存在しないのだが。
「てめぇか、転校生ってのは。初日から随分な馴染み様じゃねぇか」
「なに、わるい?」
陽坂は敬語なんか使わない。今ある構図通りの態度だ。陽坂が上で、兆川が下。見下ろし、軽蔑したような表情で兆川を睨んでいる。
「あなた、要は焚村くんを妬んでいるんでしょう。自分にないものを持っている焚村くんが妬ましくて仕方がないんだわ。それはそれは悔しいでしょうね。まして、焚村くんはあなたよりも後輩なんだもの。後輩が自分よりしゃしゃり出るな、そう言いたいんでしょ?」
「はっ。ずけずけと。でもま、当たってるとこもあるわな」
痛みの元が取れたのか、兆川は頭を押さえて陽坂を睨み上げている。
「そういうこった、魁児。先輩の俺よりしゃしゃり出んな。いつだって目立ちやがっててめぇは。お前さえいなきゃ、白井だってきっと俺とも仲良くしてくれたんだ」
鹿南と仲良くしているところが気に入らないから、からんできたのか。いや、それなら今じゃなくたって別にいいはずだろう。陽坂と歩いてたところを見られたから? そんなの、兆川が気にすることじゃないはずだ。
『そっちが気にしなくてもねぇ。嫉妬してる側にとっては、どんな小さなこともダイナマイト並みの起爆力を持ってたりしてさ。ってやべ』
「あ、なんだ今の」
魁児の頭の中に、この場にいる誰のものでもない声が流れ込んできた。それは墨花も同じだったらしく、困惑した表情を浮かべている。
「見てろよ魁児。俺は今にお前を――」
「おい何やってる?」
兆川がさらに下の階を振り向く。魁児たちがいる三階。兆川がいる二階踊り場。その下ということは、声の主はすぐに理解できる。
一階。つまり職員室から誰か来たのだ。
兆川は相当な声量で叫んでいた。人を呼ばれてもおかしない。むしろ遅いくらいだった。
「なんか揉めてるって聞いたんだけど。お前ら何してんの」
墨花が合図を出した。兆川はともかく、この位置は魁児たち三人の姿はバレていない。逃げるなら今のうちだった。
魁児が陽坂に合図を繋げる。陽坂も頷き、三人は、そのまま廊下の奥へと走り、空き教室の中へ逃げ込んだ。
「ったく、なんなんだよ今日は」
「めっちゃ怒ってたねぇセンパイ」
魁児と墨花が息を整えている間も、陽坂は呼吸一つ乱れずに明後日の方向を見ていた。
「あー、なんつーか、ありがとう。助けに入ってくれて」
あの台詞には、未だに痺れるものがあった。
クラスメイトとして見られている。転校生である陽坂に言われたのも、その余韻を引き延ばしている要因の一つと言えるだろう。
「別に、助けたくて入っていったんじゃない」
陽坂は冷たく言った。
思わず口をつぐんでしまった二人に気付くと、陽坂は改めてこちらに向き直った。
「あの人は、普段からああいう感じなの?」
「うーん、まぁ、やけに絡んでくる先輩ではあったけど。さっきみたいな激昂したところはあんま見たことないな」
そう、と呟くと、陽坂は再び黙り込んでしまった。
何か真剣に考え事をしているように見える。
空き教室、目を伏せた少女。
魁児は、鹿南を思い出さずにはいられなかった。
自分で告白しておいて、そんな鹿南の姿を見て何と言葉をかければいいのか全く分からなかった。困り果てた顔に、告白などしなければよかったと思う自分と、浮かび上がる十日院の顔に、絶対に鹿南を渡さないと思う自分がごちゃまぜになっていた。
あの時、あの瞬間、あの教室は異世界だった。響き渡る部活の音すらスローモーションになり、遠く隔離された場所のようだった。いっそ、あの瞬間だけが永遠に続いていればよかったのかもしれない。それなら、鹿南ちゃんに愛想を尽かされることもなかったのだ。
もう、この教室にはいたくなかった。
告白をした空き教室は別の場所だが、同じだ。
「もう帰ろう、魁児。あ――」
教室の扉を開いた墨花の奥に、見えた。
決して見紛うことのない、絶対にして唯一の存在。
「あの、焚村くんもいますよね」
どうやら墨花の影になって、魁児の存在はバレていないらしい。
墨花がチラリとこっちを振り返る。
その様子を、わけのわからなそうな顔で陽坂が見ていた。
魁児は観念して、墨花の影から出た。
その場だけが、真っ白な光に照らされてるみたいだった。命が喜ぶ光。生命歓喜のあたたかさ。そういうオーラがあるんだ。そんな彼女が、微笑もうものならもうそこは天国といって差し支えない。この世のどこを探しても、それ以上の楽園は存在しないだろう。
鹿南ちゃんとは、そういう存在だった。
「あー、えと。よ、よう」
「こんにちは」
定型文のような挨拶をされた。
別に機嫌が悪そうという訳でもないし、魁児を完全に嫌ったようでもない。
ただ、もはや鹿南ちゃんの目に映る世界において、魁児の存在はモブでしかないのである。
「
魁児を見て、言った。鹿南ちゃんとの間に唯一残ったのは、敬語を使わない関係性のみだった。
そういえばさっき怒っていたのは永磯だったろうな。兆川から魁児たちのことを聞いたのだろう。そして、通りすがりの鹿南ちゃんに、呼んで来いと。
鹿南ちゃんをパシリに使いやがってという怒りと、今の自分が情けないという気持ちが織り交ざって、紡がれた糸が行き場を失っている。鹿南ちゃんへ向かうようでもあり、職員室へと導くようでもあり。
「じゃあ、私は呼んでくるように言われただけだから」
鹿南ちゃんは踵を返して走って行ってしまった。
呼び止めようとしても、声は出なかった。
「今のが焚村くんの好きな人?」
二人を押しのけて、陽坂が廊下に顔を出した。
「ふうん。可愛いのね」
「だろ。あれ以上の女神を俺は知らないね」
小さくなっていく鹿南ちゃんが角を曲がるまで、教室を出るのは待ってもらった。
今の一瞬でも、魁児は自分の気持ちを痛感せざるを得なかった。
やはり、まだ鹿南ちゃんが好きだった。どうしようもなく好きだった。何故か陽坂はそれを良しとしていないけれど。それでもなんでも、好きなのだ。今は未だ遠い蝉の声が鳴り響く夏にだって、鹿南ちゃんの声ならどんなに小さくても聞こえるような気がしていた。
兆川が全面的に悪いと言うことで、魁児ら三人への説教は長引かずに終わった。しかし、休み時間を完全に無駄にし、陽坂は転校初日に最もクラスに馴染むタイミングを逃してしまったことになる。
しかしここにきて思うのは、陽坂本人に馴染む気があるのかという点だ。たしかに出会って間もないが、陽坂の態度はどこかよそよそしいというか、別段言い寄ってくる生徒たちを拒絶している訳でもコミュ障を発揮している訳でもないが、なんとなくそんな気がするのだ。心、ここにあらずというのは、少し違う表現のような気もするが。
上の空で授業を聞いても、思い浮かぶのはどうせ鹿南ちゃんだった。
この際、陽坂を観察してやろうと思った。陽坂は相変わらず、机の下でスマホを確認していた。
サボって友達とやりとりをするキャラにはどうしても見えない。あれはいったい何をしているのだろう。ゲームかなにかの手つきでもないのだが。
陽坂が教室の後ろの扉を見たのは、魁児と同じタイミングだった。何か、例えようのない気配がしたのだ。音のようで音でない、そんな気配が扉にぶつかった。
陽坂の髪が、何故かふわりと揺れたように見えた。
「先生――」
手を挙げたのは陽坂だった。
「お腹が痛くて。お手洗いに行ってもいいですか?」
追わなくてはならない気がした。
陽坂は、決してトイレなどに行きたいわけではない。
根拠はないのに、そう思えてならなかった。
が――。
その衝撃は突然鳴り響いた。
陽坂が扉に手をかけたその瞬間だった。
轟音。雷が落ちたような音。崩れるような音。
体育館からだった。
陽坂が飛び出した。陽坂だけじゃない。なんだなんだと教室から顔を出すクラスメイト達。先生たちが外へ出て、状況を見ている。
「墨花! 陽坂が……」
近づいてきた墨花にだけ聞こえるように、陽坂が抜け出していったことを話す。
「それは、追っかけてみるのもありかも」
しかし、その時校内放送が流れた。
『緊急放送です。体育館で爆発が発生。生徒は至急校庭に集まるように。繰り返します――』
授業担任の先生が、クラスをまとめようと声を張り上げている。
なんとか落ち着きを取り戻し、列になって校庭へ向かおうとした時だった。
第二の轟音。ダン! と巨人の拳骨でも振り下ろされたみたいな、破裂音を限界まで大きく、そして鈍くしたような音だった。
音は近づいていた。そして、さっきよりさらに大きい。
間違いなく校舎へ被害が出た。
パニックは限界に達した。
生徒たちの一部が我先にと走りだし、冷静だった生徒もつられるようにクラスを飛び出し始めた。制止する先生の声が、空しく呑まれていく。
「魁児! 今しかないよ!」
墨花が合図する。
魁児と墨花は、しばらく人の流れに沿って進んだ後、渡り廊下で曲がった。これが、体育館への近道だ。
暁望高校は三つの棟に分かれている。一号棟、二号棟は渡り廊下で繋がれ、一号棟の奥に体育館は位置している。三号棟が最も新しい建物であり、独立した離れのような立ち位置だ。
二人は一号棟を駆け下りる。
一階まで降り、廊下を見ると、壁に穴が開いていた。体育館と面する位置だ。
穴の向こうに、見えた。
体育館にも同じ穴が開いていて、中が見えるのだ。
立っていたのは、陽坂だった。
その奥に、座り込んで怯えている生徒たちが見える。おそらく騒動の最中に、体育館で授業をしていたクラスだろう。
しかしなんだろう。違和感だ。
いや、壁に大穴が開けられている時点で、日常では考えられない出来事が起きているのは当然だ。しかし、奥に見えている光景に違和感を覚えているのだ。
首の、向きが、上だ。
何を見ているんだ?
陽坂も、奥の生徒たちも。
そしてなんだ?
陽坂と生徒たちの間の妙な空間。そこにある圧倒的な気配。
なにかいる。
「墨花。穴から行こう。こっちの方が近道だ」
「ああ、でも……」
墨花も同じ気持ちを抱えているらしい。
体育館に、何かがいて。そいつが校内をぐちゃぐちゃにしようとしている。
穴を潜り抜ける。ビル風のような生暖かい風が吹く。嫌な汗を、嫌な空気が舐めていった。ついに魁児たちの足が、体育館の中に踏み込まれる。
「何をしに来たお前ら! 避難だ、馬鹿がああぁぁぁあ!」
腰を抜かした先生が、奥から叫んでいる。
先生なんてどうでもよかった。
そこにいたのは、怒ったら豹変する先生なんかでは例えようもない、正真正銘の化け物だった。
体育館の天井に届くほどの巨体。そいつに、足のようなものはなかった。仙人のように、ぷかぷかと浮いているのだ。しかし、その体つきは筋骨隆々。オレンジの肌に、青色の筋が走り、形相はまさに鬼の如し。角が見えるから、本当に鬼の類かな。
人間、思考能力の限界を超えるとかえって冷静になるらしい。
大真面目に分析し、そいつを鬼と決めつけてしまった。
「何しに来たの? 関係ない人は下がってて」
鬼巨人は、そこに鎮座するだけで熱風のようなものを放っている。
陽坂の声が、やけに遠くに聞こえた。
「まるでお前は関係あるみたいな言い方だな!」
「そういえば記憶を消す嫉妬魔を携えた仲間がいたかしら。いいわ、あなたたちには教えてあげる」
魁児たちは風に押されながら、少しずつ陽坂の傍まで近づいていく。
「あれは嫉妬魔。人間の嫉妬心から生まれた、嫉妬の化け物よ」
「嫉妬魔? バカげたネーミング……」
「バカげ過ぎて死んじゃうとかやめてよね。後味悪いから。私もこんな強力な個体初めて見るんだしっ――!」
陽坂が何かを投げた――ように見えた。けれど、何も飛んで行ったようには見えない。
「シイル。噛みつけ」
『嫉妬心が足りないよ』
「奪ってでもいいから、やりなさい」
『はぁ、わかったよ』
その瞬間、突然鬼巨人の首元に何か赤くて、ボールのようなものが現れた。かと思えば、そいつが体の半分以上をがばぁっと開いた。鋭い牙が何百と確認できる。空を切る鋭牙の高い音が、体育館を軋ませる。牙は一瞬のうちに、鬼巨人の肩に食い込んだ。
鬼巨人の表情が歪む。
巨大な手で真っ赤なボール状生物を掴み、引っ張っている。
「おいあれなんだよ……」
「あれも嫉妬魔。私の嫉妬心から生まれた、私が使役しているもの」
「そんなことできるの? じゃあ、あの鬼みたいなのを操ってるのも」
墨花の質問を遮って、陽坂は答える。
「無理ね。普通は人が操れるものじゃないから。まぁ、嫉妬心の限界が発現のトリガーみたいなものだから、発生源も嫉妬魔も、どちらも暴走状態であることには変わりないかしら」
赤い生物が引き剥がされた。
鬼巨人の肩にはぽっかりと牙の穴が開いているが、血などは出ていないようだ。
鬼巨人は、その剛腕を振りかぶり、ステージに放り投げた。
「あ、危ないっ!」
ステージ前には生徒たちが避難していた。数がやけに多いのは、三クラス合同で行う授業だからだろう。魁児も一年生の頃に、やった覚えがある。
悲鳴が響き渡った。体育館が壊れる音に混ざって、甲高い。
キン、とした悲鳴の、その奥で。
聞こえた。
「おい、大丈夫かお前ら!!」
先生が叫んだ。うるせぇなおい。
そんなに叫ばれちゃ聞こえねぇだろうが。
たしかに聞こえたんだ。
鹿南ちゃんの声が!
「か、魁児……?」
魁児のただならぬ雰囲気に、墨花が思わず息を飲んだ。
陽坂も同じものを感じたのかもしれない。しかし、鬼巨人から目線を完全に逸らすことができない。
「シイル。これって」
『あぁ、待ってボク、ギブアップ……』
赤い生物の姿は見えなくなった。が、魁児にそんなことはどうでもいい。
あの奥に鹿南ちゃんがいる。鹿南ちゃんを助けなければ。
鹿南ちゃ――。
見つけた。見つけたが。
鹿南ちゃんが、十日院に助けられている。
怯える鹿南ちゃんを、十日院が手を握り、必死で庇っている。
なんだぁこれは? 何を見せられてるんだ?
魁児の頭の中に、そんな言葉がメラメラと湧き立つ。
「くそっ。兆川って奴のせいで油断した! まさかこのクラスの生徒だったなんて!」
陽坂が狼狽え喚いている。
だが、魁児には心底どうでもよかった。
あの二人しか目に入らない。
憎い。憎い、十日院青太。
いや――。
こんな状況を作り出してくれやがったバカがいるのか。
誰だ。……コラ。名乗り出ろ。
そんな魁児に呼応したのか、一人の生徒が叫び声をあげた。
ステージの端で、喉を枯らして叫んでいる。視線は、鹿南ちゃんを向いている。
「なんなんだよおお! お前ら! お前ら! いつもいつもくっつきやがってよ! そもそもなんなんだてめぇは! いきなりしゃしゃり出てきて……白井は俺たちのアイドルだったのに!」
ああ、そうか……こいつか。
こいつも、十日院に嫉妬していたんだ。
可哀相な奴だ。気持ちは痛いほどわかった。痛すぎて、苦しい。
可哀相な、奴だが。
こんなことをして一番可哀相なのは鹿南ちゃんじゃないか。
怖い目に遭って。
そして、仮にも今、鹿南ちゃんが好きなのは十日院なのだ。
もしあの鬼巨人が十日院をぶっ殺したとしても、鹿南ちゃんの気持ちはきっと深く深く沈んでしまうだろう。
そんなことも考えられないバカが、鹿南ちゃんに好意を持つな阿呆。
変に崇拝しやがって。迷惑だろうが。
こんな騒ぎ起こさなければ。
二人が、あんなに密着することも。
まだ先の話だったかもしれないのに。
「ちくしょうが……」
何かが、胸の奥で弾け散る。
バチンと、一度。二度、三度。
気づけば、魁児は鬼巨人に向かって歩き始めていた。
その雰囲気に、墨花も、陽坂も、何も言えない。
この熱気は、鬼巨人によるものなのか。
こころなしか、魁児の周りに陽炎の様なものが立ち上っている。
「てめぇがよぉ」
体育館の床が、ねばりと溶けた。
「余計なことしやがるからよォ」
ぶわりと風が生まれる。
底から湧き立つ風が、魁児の髪を逆立て――。
「鹿南ちゃんとクソ十日院がくっつくイベントができちまったじゃねぇか!!!」
魁児の咆哮。声だけで、鬼巨人の肌に傷が生まれるのではないかと錯覚するほどの咆哮。
同時に、魁児の足元が大爆発した。
それは真っ黒な炎だった。ドス黒く。ぼうぼうと空気を飲み込む、暗黒の炎。
魁児はその真っ黒な爆炎を纏い、鬼巨人へ跳躍した。爆炎がブースターとなり、物凄い速さで顔面へと飛んでいく。
「死ね!! 十日院の分も含めて二回死ねや!!」
鬼巨人の顔面サイズにまで膨れ上がった炎の拳が、鬼巨人の右頬を打ち抜いた。ステージに倒れそうになるところへ、魁児は再び跳躍し、今度は左頬を真横に打ち抜く。鬼巨人は体育館の壁にぶつかった。
重い二撃を食らわせてなお、魁児の炎は収まるところを知らない。
立て、と言わずとも聞こえて来るような、そんな気迫を放つ。
鬼巨人は、それに応えた。
「どうなってるんこれ……」
「嫉妬の、炎」
「え?」
「嫉妬の炎よ。焚村くんの中で、燻っていた嫉妬心が爆発したんでしょうね。こういう体質はレアケース。彼のような人は嫉妬魔を生まないし、その能力を思いのままに使うことができる」
巨体に似合わぬ高速の拳。しかし、魁児はそれらを全て捌き切っている。
「それにしても、すごいポテンシャルね」
「魁児は白井さんたちへの嫉妬のストレスを放課後のゲーセンでパンチングマシンやら音ゲーで晴らしていたからね。魁児の動体視力は並大抵のものじゃないよ」
魁児の炎の拳が鬼巨人の腹を貫通した。
鬼巨人は、ついに身体が崩壊し始める。
次に魁児の視線が射したのは、ステージだった。しかし、それは鹿南に向けられたものではなかった。それは、体育館の端で抜け殻のようになった生徒を貫く視線だった。
魁児の身体から噴き出す炎は収まっていた。しかし、体育館はまだところどころ燃えたままだ。
「おい!!」
うなだれた男子生徒の胸ぐらを掴み、無理やり顔をあげさせた。
「お前、自分がなにやったかわかってんのか」
「わかってるよ。だけどなんだよ。俺は、あの不届き者に罰を……」
「ふざけんじゃねぇ!」
静まり返った体育館に、魁児の声が響く。
声がさらに静けさを呼び、パチパチと、炎が弾ける音だけが聞こえる。
「お前な、仮にも今は、鹿南ちゃんの好きな人は十日院なんだぞ。あいつが死んだら、鹿南ちゃんがどんな思いするのか考えたのか!」
「それは……考えたけど……う、ぐぅ……」
男子生徒は泣き出してしまった。
「いいか。気持ちはものすごくよくわかるよ。だけど俺たちは負けたんだ。十日院のように積極的にいかなった。大きな敗因はそれだけだ。何も文句は言えないんだよ」
学校が嫌になった。部活が嫌になった。アルバイトが嫌になった。人間、精神を病まないためには時には逃げ出すことが肝心だ。しかし、どうしてもそれが通用しない場面が一つある。それが、恋だった。
逃げ出そうと逃げ出さまいと、その人を好きでいる気持ちは消えない。
失恋とは、永遠に付き合わなければならない傷跡なのだ。
「つらいよな。宿題をしてても風呂に入っても寝ようとしてもいつだって頭に浮かぶんだ。でももう、駄目なんだよ。こうなってしまった以上、こういう強引な方法を使っても、鹿南ちゃんが苦しむだけなんだよ。俺たちは、応援する以外できないんだよ」
いつしか涙を流していたのは、魁児も一緒だった。
二人を見つめる生徒たちの中には、確かに白井鹿南の視線があった。
「応援しながら、喧嘩を祈ったりさぁ……、十日院に、もっといい女がすり寄ってきて、目移りするような展開を望む以外、できねぇんだよ。最低だよ。んなことはわかってるよ。でもなぁ。どうしようもなく、好きなんだよ。俺は! 鹿南ちゃんが――」
「あー、そこまで。もういいよキミ。よくできました、と」
体育館の二階部分に、女がいた。
白髪で、トゲトゲとした印象のツインテール。パンクなファッションに身を包んでいるところから見ても、学生ではないだろう。
そして――。
「トネール。喰え」
体育館の天井に、何やら白く、巨大なものが現れた。風船の様であったが、サイズが、桁違いだ。先ほどの鬼巨人を、丸ごと包み込んでしまえそうな。
女の合図で、そいつは動き出した。空気を揺らして吠えるそいつは、クジラの様であった。
空を泳ぐように、巨体をくねらす。
すると一気に方向を定め、まず、ステージ付近の生徒たちを丸のみに――したかに見えたが、クジラは霧のように透けて、生徒たちは飲み込まれたように見えただけだった。
「そいつはいいとして、こっちはどうすんだよ」
女が墨花を指差す。
「校庭の連中はもう全員済んだ。早く決めてくれる?」
陽坂に向かって問いかけている。やはり、嫉妬魔関係の人間だ。
陽坂はしばらく悩んで答えた。
「この人は、とりあえずいいです。理解者がいなくなって、焚村くんにストレスを抱えられても困るので」
「あーそう」
女は柵を軽々と飛び越え、一階に着地した。
「じゃ、あの嫉妬魔出産野郎は回収。暑苦しいのとこいつには状況説明。以上」
「はい。事後処理ありがとうございます、
干時は何も答えずに去っていった。
ふと辺りを見ると、体育館に開いていた穴はすっかり消え去っていた。
先生も、生徒たちも、皆不思議そうな顔で自分が何をしていたのかを思い出そうとしていた。
ただ、魁児の目の前にいた男子生徒は、いなくなっていた。
「お前ら、こんなとこで何してんだ?」
普通なら職員室に連行されていてもおかしくないが、先生も頭が回っていないのだろう。魁児と墨花は、陽坂に連れられて教室へと戻った。「私たち、何故か校庭に」の一言で、三人は許された。やはり他の生徒たちも皆、ここ一時間程度の記憶を失くしているのだ。
そのまま、六限までを終えた。
「聞かなくても察せないの? 恋愛下手はやっぱり鈍感なのかしら」
放課後になり直陽坂に事のいきさつを聞こうとして帰ってきた答えがこれだ。
「察しがついてても! こういうのは秘密組織側の人間が説明してくれた方が面白いと僕たちは考えました!」
「僕は同調しただけだけどねぇ」
陽坂は溜息をついてから、説明を始めた。
さっきも言ったように、体育館に現れたあの鬼巨人は、『嫉妬魔』と呼ばれる人間の嫉妬心の具現化だそうだ。
陽坂は、それを専門に退治する組織のエージェントとして、この学校に潜入して来たらしい。
「前々から噂だったのよ、この付近の嫉妬魔の発生情報は」
「えー。聞いたことないけど」
「さっきの見たでしょ。見たとて、記憶を消されるの」
あのパンクな女は、
「それに、最終的な決定権は私にはないから。これからうちの組織の偉い人に報告がいって、二人を――っていうか、主に焚村くんを、どうするのか決めるんだよ」
「なんで俺だけ?」
「さっきの、やっぱり聞こえてなかったよね。嫉妬魔はね、誰からでも生まれ得るものだけど、ごく稀にそれが生まれない人間がいる。そういう人間は、嫉妬魔とは別の形で嫉妬心を放出するの。それが、焚村くんの嫉妬の炎」
「嫉妬の、炎……」
魁児は拳を見つめた。
さっき感じた熱量を、今も確かに感じている。熱く燃え上がり、思考が、感情が、収集つかなくなるほどの。
鹿南ちゃんを想う力の強さが、形を成して魁児の前に現れた。力を得た、というよりも、思いの強さが目に見えてわかることが、魁児にとっては何よりも嬉しいことなのであった。
嫉妬狂想曲~妬けば妬くほど強くなる~ 狂谷檬檸 @hi-on
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