第1話

 暁望あかつきのぞみ高校。県内ではそこそこ優秀で、綺麗な校風が人気の高校である。

 中等部も存在し、俺はその例にあたる生徒だった。

 進学率の高い学校でありながら、過剰な校則も存在しない。まさに学生の楽園。ここを学園と呼称しなかったことが、俺の中の暁望高校七不思議である。


「七不思議て、あと六個一つも考えてないくせに~」


 けらっと笑い飛ばす。

 そういえば、俺が振られた時もこんな風に笑っていやがった。


「ほら魁児かいじ、噂のお二人だよ、見なよ」


 噂のお二人とは間違いなく俺が先日玉砕した白井しらい鹿南かなと、憎きクソ野郎、十日院とおかいん青太しょうたのことだ。校内でも人気者だった二人は、お似合いのカップルとして学校中から盛り上げられている。


「ほんとお似合いだよねぇ。隣が魁児だったら、きっと暴動が起きてたよ」


 十日院は確かに顔立ちの整った生徒だった。ハリウッド俳優を彷彿とさせる、彫の深くすっとした顔立ち。それでいて、日本人らしい親しみやすい瞳と人間柄で、学内ではファンクラブすらできあがっている。

 はにかめばバラの花でも浮き上がりそうな輝かしい笑顔に、鹿南ちゃんも虜になったのだろうか。出会ったのは、きっと俺の方が先なのに。


「でもほら、魁児はさ、万人受けしないっていうか」

「さっきからどっちの味方なんだよ。少しは幼馴染らしく、慰めるとかさ」


 鬼月きづき墨花すみか。十日院に負けず劣らずのルックスではあるが、違いは見た目がほぼ女子だということ。男子特有の背の高さ、程よい筋肉。しかし、全体的に細く、しなやかで、肩まで伸びた髪、化粧をした顔。女子から恨まれるほどの容姿を持った、正真正銘の男子生徒だった。付き合いは長く、かれこれ出会って、十三年である。


「慰めても、いつまでも後引くでしょ魁児は。そういうとこウザイからさ、なんなら、最初からイジる方向でいこうかなって」


 見た目に反して墨花はかなりストレートなタイプだった。

 言葉の棘が刺さる刺さる。それこそ、窓から見える階下のカップルもどき二人の輝かしさのようだ。目にも心にも、もはや六時間の授業を受けることすら困難に思える。


「でもさ、まだカップルじゃないんでしょ。一応」

「まぁ。一応な」


 鹿南ちゃんと出会ったのは、もう三年前のことになる。

 軽音部だった十四歳の俺の前に現れたのは、文字通り女神と見間違える美少女だった。同じことを墨花に言って、ドン引きされたのを覚えている。

 部活見学に来たまだ一年生だった鹿南ちゃんと、いつの間にか連絡先を交換していた。最初の内は、もう、緊張やらなにやらでメールの一つ送れなかった。減っていく形態の充電を、むなしく眺めているだけの日々を、ようやく抜け出した。そんな風に思っていた、今年の夏前のことだ。


 ――実は好きな人がいて。


 ラインを受け取り、頭が真っ白になった。それでも、そのメッセージが来た場所も時間も正確に覚えている五月二十二日金曜日午後八時四十九分湯船に浸かっている最中!


「なんども聞いたわその日付。僕ね、携帯のパスワードそれなんだ」

「うるせぇ! 友人の心が砕けた日の思い出をなんだと……」


 十日院は高等部から入学してきた生徒だった。同じクラスになった二人は、音楽の話題で意気投合したようである。出会ってひと月でこうだ。運命だ。俺に立ち入る隙なんてなかったんだ。

 それでも、鹿南ちゃんだけでなく十日院もそこそこ奥手だったらしく、両思いだと確信していながらも交際関係には至っていなかったようなのである。


 いつしか俺は、鹿南ちゃんの一番の恋愛相談役になっていた。

 落ち込んでる青太くんをどうやって慰めたらいいのかわからなくて。

 出かけるとき、男の子がされて嬉しい髪型とかって何かある?


 あるに決まってる。鹿南ちゃんはハーフアップが良く似合う。だからそれは、そんな奴じゃなくて、俺に見せてほしくて。

 そんな思いが、つい先日、溢れ出た。朝、偶然早く学校に来る予定があった日、同じく早く登校していた鹿南ちゃんと空き教室で会い、相談を受けていた。

 誕生日がね、八月にあるんだけど、何あげたらいいかなぁ。

 その時のことは、今度はあまり覚えていない。最初は、純粋に相談に乗っていたと思う。だんだん、自分の中にあった熱量が抑えきれなくなって、つい、口先から零れた。少し零れたらもう、あとは空っぽになるまで止まらなかった。

 鹿南ちゃんは黙って全部聞いた後、言った。


 ありがとう。でも、ごめんね。


 睫毛の長い目を伏せていた。

 そんな瞬間にさえ、その表情と声色の優しさに、見惚れてしまいそうだった。

 俺は走馬灯のように、出会った日と好きになった日を交互に思い返していた。ただただ、可愛いと夢中になっていた日々が、どうしようもなく好きになってしまったあの日。

 こんなにも、辛く痛い思いで胸がいっぱいなのに。

 俺は。その日がなれければよかったとは思えなかった。




 開け放たれた窓から、夏が天高くこちらを見下ろしている。これから雨が降るかもしれない。そんなことを考えながら、午前の授業を聞き流していた。

 四限。クラス担任が担当の授業の時間のはずだが、教室に現れないまま既に五分が経過していた。

 机の下のスマホの画面には、墨花との会話が映し出されている。


『遅くね』

『ねー、どうしたんだろう』

『何も知らないんかい、情報通』

『さてそれはどうかな』


 窓の外の木に、小さな鳥が止まっている。

 列の一番前に座る墨花は頬杖を突きながら鳥を眺め、時折俺に返事を送っていた。

 なんて絵になる野郎だ、と思った。線の細い顎のラインが横顔をさらに際立たせていた。墨花のような奴なら、もしかしたら、鹿南ちゃんにも振り向いてもらえたかもしれない。


 しかし担任は本当に遅い。

 墨花を情報通と言ったのは、決していい加減なイジりではない。実際に墨花は、教師の恋愛事情から「今、お腹が痛いらしい」といったことまで、何故か知っていることが多い。だから、こんな状況で墨花が何も言わないことに、俺だけじゃなく、クラスメイトすら珍しく思っていた。


 ――その時。


 ガラリと教室の戸が開いた。


「あー悪いな、遅れた」


 背丈は生徒たちの誰よりも高く、隆起した筋肉がワイシャツから浮き出ている。これでも、国語の担当であるクラスの担任、我崎わがさき先生だ。


「実はな、急なんだが転校生が来ることになった」


 廊下を一瞬確認した後、俺はすぐに墨花を見た。墨花はやっぱり、窓から外を眺めていた。

 ざわめき出す教室を、先生が宥めている。

 驚かないということは、やはり墨花は知っていたのだろうか。


「はい、じゃあ、入って来てもらうから」


 ドス、と教卓から降り、そのまま廊下へ顔を出す。

 影が見える。華奢な体付きの――女生徒がすぐに教室に入ってきた。


 クラス中が息を飲むほどに、美人な女子だった。


「じゃあ、自己紹介」

「はい。陽坂ひさか沙耶さやです。よろしくお願いします」


 声にすら背伸びという表現がふさわしいような、凛と立った、透き通った氷のような。百八十を超える担任の隣に立っていて、その存在感が揺るがない。すらっとした、細く背の高い姿。

 やや、明るみがかかった髪は胸元まで伸びていて、僅かに巻かれている。


「一番うしろのどっか、座れるようにするか。――おい焚村。お前、隣の空き教室から机一個持ってこい」


 名指しされたのは俺だった。というかつまり、一番後ろの列ということは遠かれ近かれ俺の隣ということになる。

 これは、その辺の男子から恨まれそうだ。


 机を一式持ってくると、教室の一番後ろに立った陽坂がこっちを向いた。

 顔立ちまで整っている。鹿南ちゃんの存在がなければ、俺だって突然の転校生に恋に落ちると言うラブコメの王道的展開の轍を踏んでいたかもしれない。


「ありがとう。えっと、焚村くんでいいのかな」

「おう。まぁ、好きなように呼んでくれ」


「なにが好きなようにだ魁児てめぇ!」

「かっこつけんなー」

「失恋バカ~」


 クラス中からヤジが飛んできた。


「うるせぇぞお前ら!

 あと失恋って言ったやつ許さねぇからな、墨花お前のことだぞ」


 なんだかよくわかっていなさそうな陽坂の隣を横切って、自分の席に戻った。

 しばらくざわざわしていた教室も、次第に静けさを帯びだす。


 チョークの音を聞きながら、適当に教科書を開く。何の気なしに、隣の席の転校生を覗き見ると、転校初日に机の下でスマホを弄っていた。

 やるなこの転校生。

 そう思い眺めていると、視線に気づいた陽坂と目が合ってしまった。


 陽坂はこちらを向いたまま、瞳だけ前に逸らして、またこちらに視線を戻した。

 そして、そのまま微笑んだ。


 なんだそれは――。

 そんな、そんなのはずるいだろう。

 落ちてしまうぞ、普通の人なら。


 動くな、動くな胸!

 俺には鹿南ちゃんがいるんだ!


 絶対に惑わされたりしないぞ。


 鹿南ちゃんは、鹿南ちゃんも、きっと今は授業中で。

 たしか数学が苦手だって言っていた。俺は勉強は苦手だったけど、鹿南ちゃんが中学三年生だった頃、勉強教えてと言ってきたから。俺は、たしかその年だけやたら成績が良くなった。

 その役割は今年に入ってから完全に十日院に奪われた。あいつは主席の成績で高等部に入学してきた。

 何もかもが俺なんかより優秀で。

 本当はお似合いなことはわかっていて。

 それでもあいつのものにならないでほしくて。


 ああ、授業中だと言うのに腹が立ってきた。

 なんであいつなんだ。


 ――なんであいつなんだ!


「……大丈夫?」


 冴える声は隣からかけられた。

 陽坂からだった。


「具合悪そうだけど」

「いや、別にそんなに」

「汗、すごいよ」

「大丈夫だって」


「どうした」


 黒板を書いていた先生がこっちに気づいた。

 陽坂ではなく、俺を見ていた。純粋に心配しているようだ。


「焚村くん、汗すごくて。具合悪そうだったので」

「だから大丈夫だって」

「いや、でもお前確かにすごいぞ、顔色も。とりあえず窓閉めて、クーラーつけるか」


「あ、そうだ」

 陽坂はそう一言呟き、手を挙げた。


「あの、私が保健室まで連れて行ってもいいですか?」

「え? いやでも」

「私も保健室の場所知りたいし、案内がてら。どうでしょうか」


 先生は少しうなって考えた後、「うん、じゃあ頼む」と俺を陽坂に預けた。

 後ろの戸から教室を出ると、陽坂は迷いなく歩き始めた。


「あれ、保健室の場所……」

「知ってるから大丈夫。それより、ちょっとついてきて」


 知ってる? 俺に案内させたかったんじゃないのか。


 陽坂は保健室のある一階まで降りると、そのまま階段の裏側まで進んで俺と向き直った。さっきより近い位置でみる陽坂は、いっそう強い女性感が現れていた。目線もほとんど俺と変わらず、ただ、睨みつけるように俺を見ている。それだけが問題だ。


「あなた、失恋したんだって?」

「そんなもん転校初日に理解しなくていいよ」

「未練は?」

「俺の話聞いてる?」


 陽坂は一歩俺に詰め寄ると、ワイシャツの裾をつねり上げた。


「私の話だけ聞けばいいわ。早く答えて、未練はあるの?」


 さらに距離が縮まり、こんな綺麗な顔立ちに俺の呼吸など浴びせたくなくて、目を逸らすように顔を横に向ける。

 なんだかわからないが俺は問い詰められているようだ。何故だ。

 陽坂が俺に気が合って、未練があるのかないのか聞き出したいのか。いや、二百パーセントありえないとして、そうだとしても授業中に抜け出してまで聞くことじゃないはずだ。

 それにしても綺麗な目だ。鹿南ちゃんのそれと同じ。長い睫毛が目じりに向けて流れ、優しい印象を醸し出している。しかし、きっ、とした眉がその表情の名前を決定づけている。


 俺はもしかしたら馬鹿なのかもしれない。

 逼迫した場面においても、冷静に相手の顔を評価してしまうような、阿保。

 そんなんだから鹿南ちゃんにも――。


「今。考えてるでしょ、その子の事」


 掴まれた裾がさらに上にひねり上げられる。腹に生暖かい空気が流れ込む。本当に体調が悪くなってきそうだ。


「未練がどの程度のものなんか知らないけど、今後その子の事は出来るだけ考えないで」

「考えないでって、なんでそんなこと転校生に言われなきゃいけない」

「あなたは――」


 陽坂が、俺の頬を手で摘まんだ。


「私のことでも考えてればいいわ」





「なぁ沙耶。なんていうかキミはさ、やりかたが下手というか。別にキミに興味を向けたところで、キミに夢中になり過ぎたら嫉妬魔を生むんだゼ」


 身体のほとんどが口という、パックマンみたいな丸い真っ赤な生物。目はないが見えてはいるらしく、短い手足を揺らつかせて私の肩の横でふわふわと浮いている。


「誰の教育のせいかしら。だいたい、文句言うなら他の人を潜入させればよかったのよ。私に向かないってわかってたんでしょ」


 焚村という男子生徒を保健室に送り届けた私は、教室へ戻る階段をゆっくりと登っていた。無駄な時間だ。授業の内容など、ほとんど幼少期に終わらせてしまった。


「でも、焚村って人は」

「うん。嫉妬心こそ強く出ているけど、嫉妬魔の力は感じない。ただおかしいのは――」

「おかしいのは?」

「測定が不能なんだ。誰しも嫉妬心は持ち合わせていて、これっぽっちの嫉妬魔を生み出す可能性を秘めている。ボクみたいなね」


 嫉妬魔。人の嫉妬心から生まれる、化け物。かくいうこの生物も、私の中から生まれた嫉妬魔なのだ。しかし、私自身の嫉妬心が薄いせいか、強大な力は持ちえない。中には意のままに嫉妬魔を操ることができる人間がいるのだが、私はそれに該当しないのだ。


「彼には嫉妬心はあれど、嫉妬魔の要素が一ミリたりともない。空っぽも空っぽ。嫉妬心が嫉妬魔を育てる養分として流れていかないんだ」

「私でさえ、嫉妬心があなたを生み出しているというのに」

「そういう人間がいるのはよく知ってるだろう。もしかすれば、彼もまた素質を持つ者なのかもしれないね。キミの妹のような――」

「やめて」


 話を無理やり遮ったのは、教室が近づいたからではない。


「おっと。そうだったね」


 わざとらしく口を結んで見せた。


「とにかく、本物のターゲットを早く見つけるわよ、シイル。被害情報はあるんだから、必ずいるはず。この学校に、嫉妬魔を生み出した人間が」


 シイルは肩で一度ぽむ、と跳ねると、消えて見えなくなった。

 教室に入ると、全員と目が合う。

 このクラスには、いない。しかし絶対に存在するはずのそいつを探さなければ。嫉妬魔は容易に人を傷つける能力を持っているのだから。

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