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女子大生強姦殺人事件の犯人が捕まったのは、私の個人的な強姦未遂事件が起きてから一週間後のことだった。犯人は既婚の男で、まだ乳児の子どもがいた。犯行後も全く変わらない様子で職場へ出勤していたそうだ。
私はニュースで男の顔写真を見たが、その顔はあの日私をレイプしようとした男と同じ物かどうか、判別が出来なかった。あんな顔をしていた気もするし、そうでもなかった気もする。他にも腕の太さや力の強さといった情報も加味した上で検討したかったが、顔写真や、車の中から見える犯人の顔だけではどうにもわからなかった。男が捕まっただけでは、私はまだ安心できない。
私は、あの日起きたことをまだあける以外には言えていない。家族にも言えていないし、ユリにも言えていなかった。私はあのときの気持ちを、いまだ誰かに共有する気持ちにはなれない。共有するとしたら、それは同じ傷口を抱えている、と打ち明けてくれた人だけだ。
そのニュースがあった翌日の朝、ラインに、あけるから「よかったね」と一言だけ届いていた。ほかには何も書いてはいなかったが、これは犯人が逮捕されたことに対してだろうな、と検討をつけ、私は「よかった」とだけ送信した。しばらくしてから既読が付く。
あけるは、もうそれ以上なにも言わなかった。
私は強姦され、殺されてしまった女子大生のことを考える。服を剥かれ、体を蹂躙され、強姦されたあとで、首を切り落とされ、自分の死体が警察と家族の目にさらされ、自分の名前と顔写真が新聞やテレビに映し出された彼女のことを。そして交友関係や生活態度を調べられ、自業自得だ、と、顔も見えない人たちに口々に責められた彼女のことを。
あれは私だったかもしれないのだ。
私は下着だけを身につけ、ベッドの上にX字状に手足を拘束された女性を思い出す。彼女の髪の毛はボブショートヘアをしていて、そのやわらかそうな髪の毛がベッドの上で優しくたわんでいた。彼女は画面外から無数に伸びてくる男の手に弄ばれ、過剰なまでに体を揺らしていた。イヤフォンの向こう側から聞こえてくる彼女の嬌声が、私の耳に残って離れない。
あれは私だったかもしれないのだ。
私はテーブルの上に置かれた、一枚の切り取られたガムテープを眺めている。そのガムテープの上には、背中を貼り付けられたショウジョウバエが寝ていた。彼はここから起き上がろうと足で空中を蹴ってもがいているが、ガムテープの糊の力にはかなわず、徒労と化しているように見えた。私がこのままガムテープを畳めば、このハエは生きたいという気持ちを強く残したまま、ガムテープの中に閉じ込められることになる。私は、ガムテープではなくセロハンテープにすればよかったと思う。透明なほうが、閉じ込められたハエの表情がよくわかるような気がしたから。
あれは私だったかもしれないのだ。
私の中に無数に広がる、私だったかもしれない、という可能性。それはもうどこにもないはずなのに、私の中につきまとって離れていかない。私は誰かを頭の中で蹂躙する様子を思い浮かべるたび、私自身を凌辱しているのだ。
私は身につけている七分丈の白いブラウスの右腕をまくり、その内側を見る。そこには先日の強姦魔に掴まれたときの手の跡は、もう残っていなかった。この跡は、あける以外には見られていなかったし、見せる気もなかった。すぐに治ってよかった、と私は思う。 私に残されたのは、記憶だけだった。それだけは何度も何度もリフレインして離れていかない。むしろ、鉛筆で繰り返しなぞるようにその輪郭が濃くなっていくような気さえする。「ムラサキカガミ」のような、子供だましの呪いではない。これは本物の呪いだ。
刻まれた呪いは、私を痛めつけ、苦しめ続けるのだろう。
きっと死ぬまで。
七月も下旬になると、大学全体が賑やかになる。もうすぐ夏休みに入るから、ありとあらゆる講義がテストを行うためだ。普段講義に出席しない学生も大学に来て、大学内に人が多くなる。学食や図書館はテキストを広げる学生で埋まっていた。
学生達のざわめきの中から聞こえてくる言葉は、強姦殺人事件についてのことばかりだった。
(結局犯人と女の子、なんも関係なかったの?)
(犯人、妻子持ちっていうところが意味分かんないよな。職場に普通に出勤してたっていうのも、マジのサイコパスっていう感じする)
(やっぱ来年、うちの大学志望者減るかもね)
私はそういう雑談をかきわけ、昼休みになるといつもの講義室へ向かった。向かって右側、前から五番目の席でお弁当を広げる。今日は暑くてあまり食欲がないため、冷やし中華を選んだ。私は黄色い麺の上に付属のトマトとキュウリと錦糸卵を並べ、たれが入った小さな袋に切り込みを入れて、中身を麺にまぶす。たちまち酸っぱいにおいが満ちて、食欲が刺激され、食べられるかもしれないな、と私は思う。
この講義室は校舎の隅にあり、暗くて目立たず普段は人があまりいない。しかし、前述の理由でいつもより人が多くいて、賑やかに雑談をしていた。そのなかでいつも通りの席を確保できたのは、幸いだと言えた。
しばらくすると、講義室へあけるが入ってきた。ユリはテストではなく課題のレポートに追われていると話していたから、多分今日は来ないだろう。あけるはコンビニの袋を提げ、私に挨拶をする。
「やあ」
「おはよ」
私は椅子に置いていたリュックサックをどかし、彼のために場所を空ける。暑いね、と分かりきったことを口にしながら、めいめいに昼食を摂り始めた。
あけるは、「もう大丈夫?」も、「犯人が捕まってよかったね」もなく、買ってきたベーグルを頬張りながら、大して重要ではなさそうな内容の話を始めた。
「インスタ見てたらさ、大きなシャコ貝の貝殻にカレー盛るお店があってさ。良いなーって思うんだけど、ちょっとアクセス悪いんだよね」
講義室の窓から、ブラインド越しに陽光が差し込んでいて、私はそれを眩しいと思って目を細めた。強姦未遂事件のときから感じていた手の震えは自然に止まっていて、もう大丈夫なのだろうか、と私は自分に問いかける。
多分もう大丈夫だ。
――ほんとうに?
ほんとうに。
私はふと思い立って、割り箸で冷やし中華をすくう手を止め、あけるの顔をのぞき込んだ。今日もあけるの顔はきちんと化粧がなされている。しっかりと長い睫毛に、陰影をつけられたまぶた。僅かに朱が指した頬、きれいな爪先に、かすかに香る、ヘアシャンプーの香り……。
あける、と私は彼に呼びかける。
「睫毛、ついてるよ」
「え、どこ?」
あけるの右目、下まぶたに長い睫毛が付いていた。抜け落ちた睫毛の先端にはマスカラの染料が付いていて、そのためか瞬き程度では取れそうにない。私は彼に睫毛の場所を伝える。
「右目の下だよ。ちょっとこすってみて」
「うーん?」
しかし、あけるの指は少しずれたところばかり擦る。「取れてない、取れてない」を繰り返す私に焦れたのか、あけるが自分の鞄をまさぐった。
「ちょっと鏡出すね」
あけるはそう言って、鞄の中からポーチを取り出そうとしたが、私はそれを止めた。
「少し触ってもいい? すぐ取れるよ」
「ごめん、お願い」
あけるはそう言って右目だけを閉じ、私にわずかに顔を寄せた。
「うん。触るね」
私はできるだけ彼に触れないようにしながら、人差し指の先で下まぶたをひっかく。睫毛は爪の先に引っかかって肌からずれ、床に落ち、すぐに見えなくなった。
本当は人間がいい トウヤ @m0m0_2018
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