第53話 理由
校内に数台のパトカーが停車している。サイレンは鳴っていないが、赤いランプは回り続け、校舎の白い壁を赤くしていた。記者も野次馬も現れ、外は騒がしい。多田野雅彦は無事連行された。パトカーに乗せられる前も、乗せられてからも抵抗を見せていた。絶対に殺してやるとわめいていた。恐ろしいほどの執着心だった。
内海は頬に大きな絆創膏を貼り、パトカーに背をつけ武藤と古手川のほうへ体を向けていた。
「病院に行かなくても本当にいいのか」と武藤は言った。
「ええ、たいした傷ではありませんので」
「そうか。お前にはなにからなにまで世話になったな。迷惑もかけた」
「多田野を逮捕できたんです、別に構いませんよ」
「だが校舎に侵入を許してしまった。俺たちも多田野を確保に向かったんだが、一歩遅かった。やはり、あいつは復讐のためと?」
「ずっとそう言っていました」
「迷惑だな。犯行を模倣して二人も殺しやがって」
武藤は吐き捨てるように言った。内海はなにも言わず聞いていた。
「とにかくすまなかったな。それとありがとう。またお前には署に来てもらい、話を聞かせてもらうと思うが」
「幾らでも。悪さをして行くわけではないんですからね」
武藤は歯を見せ笑った。犯人を逮捕でき気分が良さそうだった。古手川はそうでもなさそうだった。暗い表情を浮かべていると言ってもよかった。若い彼には、色々思うところがあるのだろう。
武藤は制服警官に呼ばれ、この場から離れていった。古手川もついていくかと思ったが、真剣な表情をしてこちらを見ていた。
内海は首を傾げた。「なに?」
「どうして内海さんは警察を辞めたんですか」と古手川は熱を込めて言った。
「まるで辞めるのがおかしいという言い方だね」
「そういう意味じゃないですけど……」
「辞める理由なんて、幾らでもあると思わない? 君も不満くらいあるだろう、労働時間、休日の日数、人間関係、仕事のハードさ。挙げればきりがない」
「確かに不満もあります。けれど、それ以上にやりがいもあります。内海さんもそうだったはずです」
「否定はしない」
古手川は間をおき、たっぷり見つめた。「じゃあ、半年前の事件でなにかあったんですか?」
内海は思わず顔をしかめた。あまり聞かれたくない質問だったからだ。
「なるほど、それを聞きたかったんだな。事件に興味を持っているとも言っていた」と内海は冷たく言った。「犯人が人を殺し続けているあいだ、まさか君はずっとそんなことを考えていたのか?」
古手川はショックを受けたように口を開け固まった。なにも言い返すことなく、うつむいてしまう。そんな態度を取ってしまうと、認めてしまうことになるぞ、と内海は思った。古手川も多くの犠牲者を出してしまったことに、自責の念を感じているのだろう。犯人を逮捕しても喜びを表さなかったのも、そのためだ。だからこそ、内海の言葉が突き刺さった。
「すまない。私もこんなことを言いたいわけじゃないんだ」
「いえ……」
「ただ言えるのは、私も昔は君みたいに辞めることはないと思っていた。夢を諦めないと、若者が固く信じるのと同じだ。けれど時の流れで考え方は変わってしまうものだ。人間関係の変化、環境の変化、時代の変化。今も日々変わり続けている。もしかすれば、君も警察を辞めるときがくるかも知れない。それは誰にもわからないことだ。それに私は、結局のところ警察には向いていなかったんだよ」
「…………」古手川は顎を引き、上目遣い気味にこちらを見ていた。なにかを言いたそうにしている。どんな内容かは想像に難しくなかった。だが内海はなにも訊かなかった。
「君が警察として上手くいき、辞めることのないように願っておくよ」
内海は古手川の横を通り過ぎていった。背中に古手川の視線を感じる。哀れみを伴ったものか後悔か、若さゆえの熱い想いか。そのどれもが混ざっているのかも知れない。色んな考えを持つのは正しいことだった。
頑張ってほしいと、素直に思った。
校舎に入ると、カバンを持った生徒たちが沢山いた。下駄箱は人で溢れている。授業を中断し生徒たちに状況を説明し、速やかな帰宅を命じていたのだ。
すれ違う生徒に挨拶され、傷は大丈夫なのと声をかけられた。みな羨望の眼差しをしている。不審者と格闘したことが広まっているのだろう。少なくとも、古手川が向けていた視線と、別物だということはわかる。
下駄を出て廊下を歩いていると、前にあおいが歩いていた。顔をうつむかせ、思い悩んだような表情をしている。内海に気がつき顔を上げると、スイッチを押したかのように表情は明るくなり、安堵したような笑みを見せた。
あおいは小走りでそばにやってきた。「凛姉ちゃん、平気なの。不審者と争ったって聞いたから、私心配で……」
「なんとか大丈夫だったよ。頬を少し切られてしまったけどね」
「本当だっ! 病院にいかなくてもいいの」
「たいした傷じゃない」
「そう、なの。良かった……」とあおいは安心して笑みをもらした。
そのあとあおいは口を閉じ、なにか言いたそうに黙り込んだ。言うか言うまいか悩んでいる様子だった。
「どうした」と内海は訊ねた。
「不審者の名前、多田野雅彦っていうんだよね……もしかして、先生のお父さんなの……」
内海は言葉を詰まらせた。少しの沈黙が生まれた。
「──ああ、そうらしい」妙な空気が流れる前に、内海はやっと口を開いた。
「なぜ殺しを?」
「さてな。私も詳しくは知らないんだ。ただあの手の殺人犯は、意味を見出さず人を殺すんだよ」
内海は本当のことを言わなかった。言う必要がなかった。きっとあおいは、莉奈と美希が殺されたのは自分のせいだと責めるだろう。そんな後悔は不要だ。全ては多田野雅彦による凶行なのだから。
「本当なの」とあおいは言った。
「ああ」
「私のせいじゃない?」
そう言うだろうと思っていた。予測していたため、内海は慌てることなく、態度に出さずにすんだ。
「違うよ。言っただろ、殺しに意味を見出さないって。不審者と接した私が言うんだ」
「そう、なんだ……」
「そうさ」と内海は頷いた。
「ちょっと安心したかな……」とあおいはかすかに頬を緩めた。完全に不安が晴れたわけではないだろうが、この表情を見ていると、内海もとりあえず安堵することができた。
あたりには人が少なくなっていた。異常事態のため、みな立ち話することなく大人しく帰路についていた。
「そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか? 犯人は捕まったといっても、みんなと一緒になって帰るに越したことはない」
「そうだね」とあおいは周囲を見ながら言った。「でも最後にいい?」
「なに?」
「凛姉ちゃんが警察を辞めたのって、私のせい……?」
古手川と同様、あおいもそんな質問をした。
内海はあおいの目を見据えた。怯えたような、助けを求めるようなか弱い瞳をしている。訊ねたものの、本当のことを聞くのを恐れていた。
「私の意思で辞めたんだ。あおいは関係ないよ」
「嘘じゃない?」
「もちろん」
あおいは胸に手を置き、ほっと吐息をついた。「良かった……」
「さあ、そろそろ帰るんだ。陽も傾くぞ」
「うん、そうする。また学校で」
「また学校で」
あおいは手を振ると、内海を通り過ぎ歩き出した。下駄箱から靴を取り出し履くと、こちらに振り返りまた手を振った。内海も手を挙げた。あおいはにこっと微笑むと背を向け、校舎を出ていった。外から陽が強く差し込み眩しく、視界は悪かった。あおいの姿は、すぐに見えなくなった。
内海は陽の光に背を向けた。
あおいがちゃんと信じたかはわからないが、想いは届いたはずである。少しでも心の重荷が取れるといいが。
内海は、絆創膏越しに傷口に触れた。傷跡は残ってしまうだろうか。傷を見るたび、あおいは自分を責め悩み、苦しんでしまうかも知れない。こんなことなら、頬ではなく目立たない体にでも受けておくべきだった。
傷口から手を離すと、職員室へ向かい歩き出した。今日はもう、教師陣も帰ることになるだろう。内海もはやく家に帰り、酒を飲みたかった。多田野雅彦の出現や古手川の言葉たちが、昔を思い出させてしまった。少々、酒を飲みたい気分だった。過去を懐かしむのも悪くはないが、まだそれだけの歳を取っていない。回顧するのは、年寄りになってからのお楽しみだと決めていた。
内海は、ゆっくりと階段を上っていた。
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