第52話 相対

 内海が書き物をしていると、校舎の見回りに行っていた林が慌てた様子で職員室へ入ってきた。目は充血しており、顔面は蒼白で恐怖におののいていた。林があれだけ取り乱すのも珍しい。


「ふ、不審者が中に!」と林は言った。

 ざわついていた教師たちが、その一言でより騒ぎ出した。

 林の表情を見ていても性格を考慮しても、そんな嘘はつかないだろう。不審者が校内に侵入しているのだ。内海はふうと息を吐くと立ち上がった。

「先生が襲われて切られたんです、はやく生徒を避難させましょう! 妻と息子を殺したやつがこの学校にいるって、わけのわからないことを言ってるんですよ!」


 内海の手がぴくりと動いた。まさか多田野雅彦が? 模倣していた犯人も捕まり、いずれ自分も捕まると知り、捨て身の覚悟で復讐を果たしにきたのか。あおいを是が非でも殺すために。

 あおいが危ない──。


「林先生、その不審者はどこに?」と内海は言った。

「げ、下駄箱のところにいたわ」

 内海はすぐさま走り出した。立ち上がっている教師たちをかき分け、扉へ向かう。

「内海先生どこへ?」

「警察に電話しておいてください!」


 扉を開け廊下へ出ると、下駄箱へ向かって走り出した。刃物を持ったものに一人で対処するのは得策ではないが、新たな被害者を出すわけにはいかない。これ以上、多田野雅彦に好き勝手させるわけにはいかない。教師の使命と元刑事としてのプライドが、内海をそう駆り立てた。


 全速力で階段を下り、止まることなく下駄箱の前へきた。多田野雅彦の姿は見えない。切りつけられたという教師もおらず、血のあとだけがそこに残っていた。血さえなければ、普段通りの学び舎だった。

 血痕は二つ確認できた。外に向かって点々と続いているものと、別棟に向かっている血痕。外に向かっている血痕は、雅彦に切りつけられた教師が逃げ出したあとだろう。あおいを探しているため、雅彦は校内に侵入したはずである。別棟に続いている血は、雅彦が持つ刃物から垂れたものだろう。


 内海は別棟に向かうと、今度は階段を上っていった。急激な運動のため呼吸が乱れている。たらふくのタバコと、半年間いつも家にいた影響でなまっていた。

 二階につくと、角を曲がり廊下に向かった。

 お目当ての人物がいた。七メートルほど先で大きな背中を見せ、右手には血のついた包丁を握っている。こちらに気がつくと、体をくるりと向けた。

 間違いない。多田野雅彦だ。半年前会った以来だ。あのときとは違い、目は血走り表情は死んだように冷たい。


「お前はあのときの刑事か!」と雅彦は唾を飛ばし叫んだ。歯をむき出し、握っている包丁を向けた。「なぜここにいるう!」

「あんたこそ、ここでなにしてるんだ」

 雅彦はにたりと笑った。その笑みは狂気に呑まれていた。「悪魔を俺の手で殺してやるんだよォ」


 雅彦の後方にある実験室の扉が開いた。数名の生徒が顔を覗かせ、雅彦を確認した。先ほどの殺すという文言と、血がべったりついた包丁を見れば、悲鳴を上げるのも無理はなかった。生徒の悲鳴が廊下に響き渡った。


 雅彦は首を捻り後ろを向いた。「うるせえガキだ」

「残念だが、あんたの探している生徒はいない。襲ってくれるな」

「お前、やっぱり知ってやがるな!」

 悲鳴を存分に上げ顔を引っ込めた生徒が、廊下に不審者がいることを言ったのだろう。実験室で授業を受けていた生徒たちがいっせいに逃げ出した。逃げ惑う生徒に、女性教師が廊下に出て落ち着くように言っていたが、雅彦の姿を見ると、自分自身も悲鳴を上げ走り出した。


 数秒後には静けさがやってきた。パニックなど元からなかったかのようだ。


「刑事を辞めて、教師になったんだな」と雅彦は言った。「あの娘を匿ってやがるんだろ、はやく出せ!」

「どうしてだ。あの子がなにかしたのか」

「息子と妻を殺したからに決まってるだろぉ!」

 内海は怯みかけたが、表情に出すことなく首をゆるりと振った。「馬鹿なことを言ってるんじゃない。あんたの息子は、その悪魔とやらに下劣な行為をしていたんだぞ?」

「だが死んでいない!」雅彦は力強く言い切った。「死んでいないんだ。その卑劣な行為とやらで、息子は死ななければならなかったとでも言うのか」

「なら関係のない子供を殺すのはいいのか? あんたの復讐とやらのために、なぜ死ななければならない」

 雅彦は笑った。「同じ学校に通ってるからさ。それだけで罪なんだよ」

 内海は舌を打った。「狂ってるな」


「ああ、そうだよお、息子が死んで妻までも自殺したんだからな! この痛み、お前にはわかるまい!」雅彦は胸の前で両拳を強く握った。「世間は俺たち家族をくそ扱いし、自殺したことも仕方のないことだとほざきやがる。あいつさえいなければ、俺たちはいつまでも幸せだった!」

 内海はため息をついた。「これ以上、あんたの話は聞きたくない。耳が腐ってしまう」

「なんだと……」

「警察ももうすぐでやってくる。大人しくしておけ」

 その言葉に、雅彦は笑うような怒りの顔を浮かべた。背中がぞくりとした。心臓に悪い顔だ。


「まずはお前から殺してやるッ!!」


 雅彦は包丁を振りかざし向かってきた。内海は両手を胸の前で構えた。刃物を持ったものとの格闘では、頭ではなく心臓を守るのが鉄則だった。

 雅彦は包丁を大きく振りかぶっているため、突きや横切りではなく、そのまま振り下ろそうとしてくるだろう。雅彦は獣のような叫び声を上げながら、予測した通り包丁を振り下ろしてきた。内海は重心を低くし、脇を通り過ぎるようにして体を入れ替えた。空振った雅彦は少しよろめき、大きな背中を見せた。内海は脇を締めると背中に左のハイキックを入れた。ずっしりと重たい感覚だ。雅彦は大きな声をもらしたが、手応えは感じられなかった。女の力では屈強の男には敵わないらしい。

 ぎろりと雅彦はこちらを睨みつけた。まさしく殺人鬼の目だった。莉奈も美希もあの恐ろしい目に睨まれていたのだ。そう思うと怒りが湧いてきた。


 雅彦はまた叫び声を上げ、向かってきた。今度は学習し大振りではなくコンパクトに切りつけてきた。内海は避けるのに精一杯だった。避けた先は壁だった。内海の動きは止まってしまい、壁を背負ってしまった。その隙を逃さない雅彦はではない。内海の顔を目掛け振り下ろしてきた。内海はなんとか顔を反らせかわしたが、頬にかすめてしまい血が流れた。

 内海はまた脇を通り過ぎるように避けると、距離を取った。雅彦は頬の傷を見てにたりと笑っていた。包丁に着いた新鮮な血は、ぽたぽたと床に落ちている。頬には熱い痛みがあった。あれを体にくらっていたらと思うとぞっとした。


「大人しく殺されるんだな」と雅彦は愉快そうに笑いながら言った。「苦しむだけだぞ」

「あいにく殺されるつもりはない」

「俺が殺した二人もそうやって抵抗していたが、目は恐怖でいっぱいだったよ。哀れで愉快だったよ」


 内海は怒りで体が熱くなった。ぞわりと総毛立つ。拳を握り、眉間にしわを集めた。

「クソ野郎お!」

「さあ俺に殺されろ! 家族を殺した悪魔も苦しめて殺してやるよ!」

「させるか!」

 雅彦が走り出したと同時に、内海も床を強く蹴り向かって行った。右からやってくる包丁を、懐に潜り込みながら頭を振り避けると、がら空きになった脇腹に左のフックを二度入れた。雅彦は声をもらすと、左手で腹を押さえ後ずさった。内海を睨みつける目はまだ死んでいなかった。よだれを流しながらも歯を剥き出し、今にも噛み付いてきそうだった。


「刃物を持っていてそれだけか? 女相手にさ」

「舐めんじゃねえ!!」


 雅彦は包丁を大きく振りかぶり走り出した。読み通りだった。煽れば、雅彦は怒りで包丁を大振りにする。この隙をつく。

 包丁が上から迫りくる。内海は雅彦の手首を掴むと、捻り上げながら左に回り込んだ。右手を取られた雅彦は前屈みになり、痛みで唸り声を上げた。素早く左手で肩を押さえつけると、足をかけ体重をかけ雅彦を倒した。大きな体が勢い良く床につき、どしんと鳴った。

 すぐさま起き上がろうとしたが、背中を踏みつけ手首を捻り上げる力をより込めると、抵抗できなくなった。頬すらもべったりと床につけ、浮かすことができないようだった。


 内海は包丁を取り上げ、後ろへほうった。血をぽたぽたとこぼしながら、包丁は音を立て廊下を滑っていく。


「くそおおお!」雅彦は大きな声を上げ体をじたばたさせた。

「もう終わりだ」

「離せえ! 家族の仇を取らせろ!」

「終わりだ」

「殺してやるんだよォ、俺があ!」

「黙れ!」内海は我慢できず声を上げた。「なにが仇を取らせろだ、あんたの息子のせいでどれだけあの子が傷ついたと思う! 誰にも言い出せず、ずっと死にたいくらい悩んでいたんだ! 学校を変えてやっと登校できるようになったのに、まだあの子を傷つけるのか」

「うるせえよ、関係ねえ!」

「あの子のことを想うと、私は心が張り裂けそうだったぞ。捜査していたときもずっとだ。あんたの息子を殺したいほど怨んだよ。あんたの息子は大罪を起こしたんだ! 罪には報いが付き物なんだよ!」


 内海は大きく左の拳を振り上げると、雅彦の後頭部に目掛け殴りつけた。後頭部に強打を受け、衝撃で床に頭をぶつけた雅彦は脳震盪を起こし白目を向いて気絶した。だが凄まじい執念を持っている。すぐに目を覚まし、また暴れだすだろう。内海は上着を脱ぐと、雅彦の両手を背中で縛った。これで一安心だった。


 内海は立ち上がると、傷ついた頬に手を触れた。ずきりと痛む。熱くヒリヒリとする。これくらいの痛み、殺された莉奈と美希を想うと、どうということはなかった。彼女たちの方が痛みを伴っている。

 ただ妙に悲しい気分になっていた。なぜだろう。言葉では言い表せない。二人を救えなかったからか、薄れていたあおいの痛みを思い出したからか。この廊下の静けさが余計に情感を煽るのだろうか。


 内海は窓に映る自分の姿を見た。酷い顔をしていた。人には見せれない顔、半年前にも浮かべていた顔。内海はため息をつき目を瞑った。そうしていると、パトカーのサイレンがかすかに聞こえてきた。やがて大きな音になり、この静けさは消え去った。

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