第51話 不審者
六限目、林は同僚の男性教員と共に学校を見回っていた。授業に出席していない生徒がいないか見つけるためだ。林にはやる気があったが、隣を歩いている男性教員は欠伸をもらし身が入っていなかった。だらしがない。林が横目で睨みつけると、口を閉じ背筋を正した。
林は三年の学年主任をしている。口うるさいため、生徒からも教師からも疎まれているのは自覚している。怖がられているといっても過言ではない。けれど、それは生徒のことが憎いからではなく、ましてやストレスをぶつけているためでもない。生徒のことを考えるからこそだった。いけないことはちゃんと叱ってあげ、素晴らしいところは褒める。それを徹底しているつもりだ。恥ずかしいので口には出さないが、自分では熱血教師だと思っている。見回りも、授業がないときは積極的に行っている。出席していない生徒を見つけても、ただ怒るだけでなく、なぜ授業に出ないのか理由を聞いてあげ、適切なアドバイスを送り解決するのだ。疎まれても、やはり林はこの行いを続けていこうと決めていた。
下駄箱の前を通り過ぎようとしていると、視界のすみに誰かが立っているのが見えた。確認してみると、体の大きな男性がいた。帽子を目深に被り、丸メガネをつけ、表情は冷たい。保護者の方だろうか? その表情を見る限り、クレームを入れに来たのかも知れない。
「あの、どうなさいました」と林は言った。
男は冷たい眼差しを向けたまま、低く感情のこもった声で言った。「妻と息子を殺したあの女を呼べ」
林は理解できず、一瞬固まった。妻と息子殺した女を呼べ? この男はいったいなにを言っているか。冗談なのか、頭がおかしいのか。
同僚の教員と顔を見合わせ、どう対応しようかとお互いに探りあった。
「だから呼べ言ってんだよ!」と男は突然、大きな声を上げた。鬼気迫る表情をしている。
林は身を竦ませた。同僚の教員は臆することなく、胸を張り男に近づいていった。
「申し訳ない、出ていってもらってよろしいですかね」
その男に近づいてはだめ──林はそう思いながらも声が出なかった。この男に恐れていた。
「この学校にいるんだ、だから呼べ!」
「はぁ、あのねお父さん。わけのわからないことを言ってない──」
同僚の教員がおさめるように両手を上げたところで、男は腰に仕込んでいた包丁を素早く取り出した。同僚はビクリと体を震わし立ち止まった。その隙に、男は同僚の手のひらに切りつけた。ぱっくり開いた傷口から、赤い血が流れ出した。それと同時に同僚は甲高い悲鳴を上げ手を押さえた。男は血走った目で同僚を睨みつけている。林は恐怖で動けなかった。
頭が真っ白になっている。包丁で切りつけ、血が流れている。それはわかる。けれど、なぜ? なぜ包丁で切りつける? わけがわからず、恐怖だけが林を支配していた。
手のひらを押さえ、悲鳴を上げ動き回っている同僚を男は払いのけた。その鋭い視線がこちらに向いた。今すぐ逃げろ、この場から! 脳が命令している。
「家族を殺した、お前のとこの生徒をはやく出せよ!」
男が叫んだのを皮切りに、林は背を向け逃げ出した。後ろを振り返っていられる余裕はなかった。狂った男に殺される。まだ死にたくない。足がもつれても、林は必死に走った。
まさかこんなことが起こるなんて! 不審者が校内に侵入した場合のマニュアルは受けていたが、そんなことが起こるはずがないとたかを括っていた。避難訓練を真剣に受けていない生徒を怒っておきながら、自分はこのざまだった。
林は階段を上っていき、職員室へ向かった。この事態をはやく報告し、対処しなければ生徒にも被害が及んでしまう。一人でも逃げ出したかったが、教師の意地がそうさせなかった。
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