第33話 確かな温もり
車は山の中に入っていた。別段、変わりのない山だった。木が生え、緑の葉がつき、雑草と野の花があたりに咲いている。近くに集落もあるらしいが、とても静かだった。どこにでもあるような自然である。しかしこの緊張感の中にいると、鬱蒼とした木々が気味悪く見えてならなかった。
進んでいくと、左手に小道が伸びていた。この先に中原家の別荘があった。小道の前に一人の刑事が立っており、内海らを認めると敬礼した。
車から下りると、刑事はお疲れ様ですと言った。
「多田野はいましたか」と武藤は訊ねた。
「まだ確認は取れていません。でも黒のカローラはありましたし、確実に多田野はいるはずです。今、三人ほど家の近くにいるんですが、窓から中を覗いてみても姿は見えないようです。物音も聞こえません。しかし裏を返せば、まだ我々のことに気づいていないということでしょう」
「そうですか、それは良かった」
「いつでも踏み込めますよ」
「よし、行きましょうか」
「はい」
武藤は内海の方を見た。内海は頷き、行きましょうと言った。
道を進んでいくと、木で隠れていた別荘が見えてきた。
丸太が積まれてできた壁に窓がはまり、屋根はレンガだった。テラスには二脚の椅子が並んでいる。以前、修繕したらしく汚れは目立たず綺麗だった。
窓のカーテンの隙間から、中を覗こうとしている捜査員がいた。目を細め、難しい顔をしている。先刻、刑事が言ったように、なにも見えないのだろう。
内海たちが来たのを確認すると、残りの捜査員が集まった。内海たちを合わせて六人だった。二人は残ってもらうことにし、中に入ることになった。
ドアノブを捻ってみると、鍵は開いていた。内海は武藤たちと顔を見合わせると頷き、ドアを開けた。音を出さぬようゆっくりと押したが、どうしても軋んだ。静かな家に音が響いている。
隙間から顔を覗かせてみる。廊下が一本伸びており、その奥に階段がある。耳をすませてみても、人の気配は感じなかった。多田野は本当にいるのだろうか? いや、鍵が開いていたということは、何者かがいるのは間違いないのだ。
内海が中に入ると、武藤らも中に入ってきた。
「リビングはどこかわかるか」と武藤は小声で言った。
「私もきたことはないんですが、多分、手前にあるあの扉だと思います」と内海も小声で答えた。「前にそんなことを話したことが」
武藤は頷くと、先頭を切って進んでいった。重心を少し下げ眉間にしわを寄せ、拳を握っている。武藤も緊張していた。
他の面々も、内海も緊張した表情を浮かべていた。
武藤は扉に近づくと、耳をすませた。数秒間、そうしていた。だがなにも聞こえなかったようだ。内海らを見ると、首を振った。そのあと扉を指さした。開けるぞ、と伝えたいのだろう。
武藤はドアノブを掴むと、ゆっくりと回した。扉を少し開け、中をちらりと確認したあと、部屋の中に入っていった。内海もすぐさま中に入る。
武藤は周辺を見渡していた。内海がリビングと言った言葉は当たっていた。床に絨毯がひかれ、木目の机と椅子が並んでいる。食器の入った棚も並び、その横に一年前のカレンダーが飾られていた。
やはり多田野の姿は見当たらない。
そのとき、武藤は声を出した。口を開け驚いている。なにかを発見したのだろう。
武藤の視線の先を内海も見た。カウンターキッチンから顔を出すように、床に倒れているものがいた。うつむけに倒れこちらに後頭部を見せ、右手は助けを求めるように伸ばしている。
あおいではない。あれは男だ。では多田野だろうか?
武藤と内海は顔を見合わせると、近づいていった。その様子に気づいた捜査員は、カウンターキッチンのほうを見て、あっと声を出した。
男に体を向けたまま、ゆっくりと横を通っていく。後頭部からやがておでこが見えはじめ、鼻先も確認できた。首を伸ばし確認してみると、倒れている男は多田野で間違いなかった。苦しそうな顔を浮かべ、目も大きな口も開けている。
「死んでいるのか……?」と武藤は言った。
武藤は人差し指と中指を立て、おそるおそると首に持っていき、脈をはかった。数秒間そうしたあと、指を離し、首を振った。
多田野は死んでいる。目立った外傷はない。病気、それとも自殺か。
多田野のそばにはコーラのペットボトルが倒れていた。キャップが開き、コーラが三分の一ほど入っている。床に染みができている。こぼしたコーラが染み込んだのだろう。
死ぬ前に飲んだのか。とすると、コーラに毒でも入れ飲んだのかも知れない。
逃れることは到底できないし、このまま捕まるだけだ。今までしてきたことも露呈し、すべてが終わってしまう。そう考え、用意していた毒で自殺した──有り得る話だろう。用意していたということは、前から自殺願望があったのかも知れない。
それよりもあおいだ。多田野のが死んだのなら、あおいはどうなっている? まさか──
内海の心臓は全力疾走したように早鐘を打っていた。唾と共に込み上げてくるものをごくりと飲み込んだ。
まさかそんな、道連れに──
内海は大きな声を上げあおいの名を呼んだ。武藤たちは驚いていた。
静寂が訪れ、どこからか反応がないか待った。しかしそんな気配はなかった。ここにはいないのか? それとも……。
もう一度声を出そうとしていると、天井からドンと音が鳴った。内海は天井を見上げた。動物の類ではない。誰かが叩いた。
「二階……」一人の捜査員が言った。
二階……、二階にあおいが──
内海は捜査員を押しのけ走り出した。急いで扉を開け、廊下に出て階段に向かう。床で転びかけたがなんとか体勢を保ち、走った。二段飛ばしで階段を上っていった。必死だった。階段を上がるたびに、鼓動は速くなっていく。
音がした場所の前にきた。武藤らも慌ててあとを追ってきた。
ドアノブを捻ってみると、これも鍵はかかっていなかった。内海は勢い良く扉を開けた。
あおいはぐったりと床に座り込んでいた。床に固定されたベッドに手錠が付けられ、逃げられないように、もう片一方があおいの右手にはめられている。
あおいは動くことはなかった。まるで死んでいるようだった。
「あおい!」
内海が呼ぶと、ぴくりと体に反応があった。あおいは垂れている頭を上げると、内海を見た。垂れた前髪から、疲れた顔が見える。口が少し動くと、薄く笑った。目には涙のあとがある。一晩中、泣いていたのだろうか。
あおいのもとへ駆け寄り、内海は膝をついた。「良かった、良かったあおい! 無事で!」
「うん……」
内海はあおいを抱きしめた。「本当に良かった……あおいにもしものことがあったと考えると……」
「痛いよ、凛姉ちゃん」
「ああ、ごめん」内海は慌てて体を離した。
あおいはくすりと笑った。「やっぱりきてくれたね、凛姉ちゃん……待ってたよ」
「遅くなったね……。でもこれで帰れる」
「ありがとう……」
「手錠の鍵は多田野が持っているのか」
「うん。ポケットに入れるのを見たから」
内海は後ろを振り返ると、鍵を持って来てもらうように頼んだ。一人の捜査員は頷くと急いで部屋を出ていった。武藤はスマートフォンを取り出すと、救急車を呼ぶと言った。
「表情見てたら、わかるよ」とあおいは言った。
内海はあおいを見た。「なにがだ」
「凛姉ちゃん、必死になって私を探してくれたんだね」
「当たり前だろう! 私だけじゃない、香織さんや直哉さん、警察も必死になってくれてたんだぞ」
「嬉しいよ」あおいは左手を上げると、弱々しく内海の手を握った。「迷惑かけちゃったんだね……みんなに」
「ばか、あおいが謝ることじゃない……」
「そう、だね。でも、ごめんなさい……」あおいはまた笑った。哀しみをまとった笑みだった。
助かって良かったという喜びは、あおいにはあまりなかった。後悔に似たなにかを、あおいから感じていた。内海はそれがたまらなく辛かった。まるで道路に落ちた、死にゆく雛を見ているようだ。だが内海にはどうすることもできなかった。
内海は精一杯、愛情を込めあおいを強く抱きしめた。
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