第30話 父親、母親、息子
門の横にあるチャイムを押すと、多田野の母親らしき人物の声がスピーカーから聞こえた。警察の者だと名乗ると、母親は緊張した様子で、今開けますと言った。
すでに息子がなにをやったのか連絡がいっている。ずっと息子の今を考え、これからのことを考え、世間のことを考え、不安に押し潰されそうになっていたはずだ。とうとう警察がやってきて、緊張が生まれたのだろう。
母親はパートに出ており、父親は小さなタクシー会社を経営していた。警察から連絡がきて、二人とも職場から帰宅し家で待機していた。年齢は五十代半ばであった。
扉が開き、母親が出てきた。表情は強ばり、体も固くなっている。
母親の名前は多田野美智子(みちこ)。髪の毛は茶髪に染めていたが、ところどころに白髪が混じっている。細目なところもそうだが、顔立ちが息子とよく似ていた。初見ではあるが、この数時間でぐんと老け込んだのがわかった。元気のない表情をしている。
「お入りください……」と多田野美智子は門を開けると言った。低い声だった。小さな声だったのでそう感じたのかも知れない。
門を閉め母親のあとに続く。母親は体を小さくし、急ぎ足で中に入っていった。近所のものに見られないようにしているのだろう。
玄関に入ると、芳香剤の匂いがした。靴棚の上に芳香剤が置かれ、その横には家族で撮った写真が並んでいる。多田野が幼かった時分の写真まで置いてある。息子のアパートにも写真があった。息子しかり、家族を重んじているらしい。
写真を見ていると、武藤が鋭い視線を飛ばしてきた。先刻の失態の続きをするわけじゃないだろうな? 武藤はこう言いたいはずだ。
靴を脱ぎ、出されたスリッパに履き替え廊下を歩いていく。奥の扉に向かっているみたいだ。一歩踏み出すたびに芳香剤の匂いが薄れていく。リビングに入ると、部屋の真ん中にあるソファーに座っていた父親が立ち上がった。青い顔を浮かべている。
父親の多田野雅彦(まさひこ)は縁のない丸メガネをかけていた。前髪は後退し、ひたいが目立っており、つぶらな瞳をしている。背は高く体格も香川のように大きい。首も腕も太い。昔、格闘技でもしていたのかも知れない。全体的に、息子とはあまり似ていない。息子は母親似であった。
ソファーに座ると、武藤は言った。「警察から話は聞いていますね?」
「はい……」と父親は答えた。「生徒を誘拐したと」
「そうです」
父親は苦しそうなうめき声をもらし、妻の美智子と顔を見合わせた。目と目でなにかを会話していた。もう一度こちらに向くと、
「しかし信じられません。息子が、まさかそんな……。しかも少女のいかがわしい写真やDVDを持っていたなんて……」
「そうです、あの子はそんな子じゃありません」と母親は強い口調で言った。「学校の成績も良かったし、昔から優等生でした。教師になってからも、なにも問題を起こしませんでした。写真が趣味で、よく風景や自然を撮っていまたしたけど……やっぱり信じられません!」
内海は拳を握り、表情に出ないように努めた。ここで感情をむき出しにしてしまえば、捜査から降ろされてしまう。内海はゆっくりと息を吐き、精神を整えた。
続けざまに母親は言った。「──こう言ってはなんですが、その生徒さんが、息子を誘惑したんじゃないですかぁ? そうとしか考えられません」
その言葉に、整えた精神が乱れてきた。
内海は顔を下げ、歯を噛み締めた。
あおいが誘惑しただと? なにを馬鹿なことを。息子が行った所業を知らないとは言わせない。あおいを襲い、写真を撮り、外国での買春の疑いもあるというのに……。
くそう──
内海は心の中で吐き捨てた。
「いいですか、奥さん」と武藤は怒気の孕んだ低い声で言った。「お気持ちはわかりますがね、その生徒さんにいたずらをしたという証拠もあるんです。ご丁寧に写真におさめ、しかも近所のものが朝早くに、息子さんとその生徒さんを見てるんです。被害に合った子が、確かにいるんです。しかも連れ去られたんだ。それでもまだ、うちの子に限ってと言われるつもりですか?」
「それは」母親はむっとしたように言ったが、返す言葉がなかったのだろう。なにも言わず、肩を落とし大人しくなった。
武藤はちらりと内海のほうを見た。武藤が代わりになって想いを代弁してくれた。積もっていた怒りが引いていくのがわかる。武藤は内海の表情を確認すると頷き、前を向いた。武藤には感謝してもしきれない。あのままでは、どうなっていたかはわからない。
武藤は言った。「最近、息子さんとお会いになりましたか?」
「先日の休みに、夕食を食べに来ました」と父親は言った。
「どのような様子でしたか」
「様子ですか……特に変わりなかったと思いますが……。もともと口数の多いほうではありませんでしたし」
「誘拐が発覚してから連絡はありませんでしたか」
「それはもちろん!」と父親はこくこくと頷いた。「連絡があれば必ずお知らせします」
「お願いします」
「ですが、わたしたちも電話をしてみたんですが、まったく出ないんですよ。メールも送ってみましたが、返信はありませんし」
「電波から場所を特定されると思ったのかも知れませんね。しかし、助けを求めて電話をかけてくることも考えられますので」
「その通りですね。連絡があれば、必ず」
「息子さんは、どこに向かったと思われますか? 闇雲に車を走らせてるわけではないはずなんです。やはり知ってる場所や土地に向かうものですから」
「土地ですか。あの子が小さなころ、北海道の札幌に住んでたことがあるんですがぁ……まさか札幌になんて向かうはずありませんよね」
「百パーセントないとは言いきれません。札幌にはいつからいつまでいたんです?」
「この会社を継ぐ前だから、あの子が小学一年から五年生のあいだでしょうか。前の会社を務めてるときに札幌に転勤になりまして、親父が亡くなりわたしが継ぐことになったんです」
武藤は住んでいた町の名前まで訊ねていたが、父親の言うように札幌に向かうとは思えなかった。札幌に行ったとしても、隠れられる場所はない。それに住んでいたのは小学生のあいだだけだ。二十年も経てば、街の様子ががらりと変わっていることも容易に想像がつくはずだ。
「では、彼の性癖のことを知っていましたか。十歳くらいの女の子にも性的嗜好を持っていたことに」
父親のは母親と目を合わせ、互いに首を傾げた。父親は武藤に顔を向け、
「知りませんでした、まったく。浮いた話がないなとは思ってたんですが……」
「それに関連して事件を起こしたことは?」
「そんなっ、もちろんありませんとも。警察に厄介になったことも、町内で悪い噂が立ったこともありません」
「今回が初めてか……」と武藤は腕を組み呟くように言った。「じゃあどうして誘拐なんて真似をしたと思います? 性的興味から連れ去ることはありますが、その点でいえばすでに成しています。精神的にまいることがあり、ある種の自暴自棄になり、そんな行動に出たとも考えられますが」
「ストレスが溜まって、それが爆発したってことですか? 仕事にストレスは抱えていたようですけど、笑って話してましたし、仕事ならストレスの一つや二つあるものでしょ?」
「親に迷惑をかけないためにと、笑っていたのかも知れません。仮面をつけ、そして限界がきたのかも知れない」
「そう言われるとなんとも……ですが、確かに教師というのはストレスも凄まじいものでしょうね。近年、教員が精神疾患にかかることも増えているようですし……」
「どうして教師の道に?」と内海はどうしても気になり訊ねた。
人との付き合いを得意とせず、内向的で口数も少ない。それに、多田野は教師に憧れるようなタイプではないようにも思う。生徒と接しなければならない教師には、多田野は不向きだ。塾講師のほうが向いているのではないだろうか。なのに何故?
その疑問には、母親があっさりと答えた。「安定の職業だからよ」
内海はなるほどと思った。確かに安定した職業である。父が教師だったため馴染みのある職業であるし、内海自身も教師を真剣に志したことがある。父も内海も安定を求めたわけではないが、教員全員が熱意だけでやっているわけでもないのだ。それを否定するつもりはなかった。そういった思慮深さも必要だ。
内海はそこで思いついたことがあった。
安定という道を選んだとも考えられるが、多田野は教師に不向きである。それは本人も気づいているはずである。安定した職は、他に幾らでもある。多田野にメリットがあるとすれば、“少女の近くにいられる”という点ではないだろうか? その可能性は充分にあるだろう。
それが理由であれば、教師として人として最低としか言えない。
武藤は言った。「息子さんから連絡がありましたら、必ず教えてください。些細なことでもいい、なにかわかったことがあっても頼みますよ」
「はい、もちろんですとも」
匿うような真似はしないだろうが、母親の目には敵意がこもっている。少なからず父親のほうにもあった。念の為、この二人はマークしておいたほうがいいのかも知れない。
子供のためなら、親は世間を敵に回すことができるのだ。内海も、あおいを助けるためならばなんでもするだろう。
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