第29話 怒り……
多田野とあおいが歩いていたのを見たという、おばあさんの家の前に来ていた。多田野のアパートの隣に住んでいた。おばあさんの名前は数川(かずかわ)、歳は七十代前半だった。
チャイムを押すと、中からガラガラと扉が開く音が聞こえ、引き戸の磨りガラスに数川のシルエットが浮かび上がった。
引き戸が開き数川が出てくると、武藤は警察手帳を見せた。たいして驚きもせず、コクコクと二度頷いた。数川の背中は少し曲がり、痩せていて首の骨がくっきりと浮かび上がっていた。髪の毛も薄くなり白髪が混じっていた。目元は鋭く眉間にしわが寄り、威圧感がある。童話に出てくる意地悪なおばあさんのようだ。
「少しいいですか、おばあさん」と武藤は言った。いかめしさなら、武藤もけっして負けてなどいなかった。
「またかい? さっき話したんだけどね」と数川は言った。その言葉とは裏腹に、口は話したそうに揺るんでいた。
「訊ねたいことがあるんですよ。すみませんが、ぼくたちにもう一度」
「まあ別に構わないけど、なにかあったんかい。隣のアパートにも警察が来てるし。あの男がなにかやったんかい」
「そんなところです。おばあさんは多田野清武のことを知ってるの?」
「あの男、多田野っていうんかい。名前はいま知ったよ」数川はふんっと鼻を鳴らした。「ただ希望桜高校で教師をしてるのは知っとるよ」
「おばあさんはその多田野と、女子生徒が歩いてるのを見たんだよね?」
「見たよ。黒い髪を背中まで伸ばしてる、可愛らしい感じの女の子だったよ。希望桜高校の制服も着てたからね」
「どこを歩いていたの?」
数川は身を乗り出すと隣のアパートのほうを向き、指をさした。「アパートの前さ。アパートには車を停めれるスペースはないだろう? 道路を挟んだ先が駐車場になってるんだ。そこに向かってたよ」
武藤もアパートのほうを見ながら言った。「二人の様子はどうだった。焦ってる様子はあった?」
「いや、ないねえ。歩くスピードも普通だったし、焦ってる様子はなかったよ。二人が話してる様子もなかったし、ちょっと暗い雰囲気があったかね、並んで歩いていたわけでもないし。その多田野ってのが前で、すぐ後ろに女子生徒がいたよ」
「車は確か黒のカローラだったよね。スピードは出していた?」
「それも普通だったよ。速くもなかったし、遅くもなかったし」
「そう」
焦っていてもおかしくないが、余裕があったのだろうか? 神経が図太いのか、ただの馬鹿なのか。朝ははやいから誰も見てないと思ったのだろうか。なににしても馬鹿には変わりない。
「前もこんなことあった? 女の子と歩いてるところを見たとか」
「今回が初めてだね。そんなことしてたら、ご近所で噂話が立ってるよ。あの男、暗いし挨拶もしないからね。どんな教育されたんだか、まったく」
多田野は近隣の住民からも、暗いという印象を持たれているらしい。コミュニケーションを取ろうとしないというのも、誇張ではなく事実だろう。そんな人物が、生徒を襲うとは。そんな勇気は持たなくて良いというのに。
数川から話を聞き終えると、礼を言い、アパートへ向かった。すでに他の捜査員が探ってあるが、現場を直に見ておいても損はない。
多田野の部屋は一階にあった。ドアノブを捻ってみると、当然動いた。鍵はかかっていない。
内海はそこで気づいたことがあった。
無断欠勤している多田野の様子を見にきた新田は、鍵もかかっていなかったため部屋に入ることができた。おかけで事件が発覚したわけだが、なぜ多田野は鍵をかけなかったのだろう。焦っていたから? だが数川の証言では焦っている様子はなかったはずだ。たんに忘れていたのだろうか。
まあいい──
内海は部屋に入っていた。部屋は1Kで、八畳ほどあった。ベッドの横にパソコンを置いてあるデスクがあった。部屋は散らかっており、脱ぎ捨てられた服や空のビール缶などがあった。
そのすぐ近くに、少女を撮影した写真が落ちていた。まだ全ての写真を回収できていないみたいだった。こうして隠すことなく置いてあるのは、一人暮らしということもあり感覚が麻痺しているのだろう。この部屋に入るような親しい人物もいないということだ。
写真のそばにくしゃくしゃに丸められた黄ばんだテッシュがあり、内海は思わず舌を打ち顔を背けた。新田が吐きそうになったわけもわかる。
一人の捜査員がやってきて、幾枚のDVDの中身も、少女を撮影したものだと言った。全てを多田野が撮ったわけではなく、インターネットで購入したものもあるだろう。もしくはインターネットに転がってあるのをコピーしたのかも知れない。
足取りを掴めそうなものはまだ見つかっていない。より多田野の変態性が露呈しただけだった。
気分が悪くなってきた。あおいがされたことを考えると、耐えることができなかった。なにも考えたくない。だがこの部屋にいると、多田野への憎悪と共にあおいへの憐憫がより強く、明確になってしまうのだ。
武藤が部屋を出ようと言い、内海は頷いた。願ってもないことだった。
入ってきたときは気づかなかったが、玄関の靴棚の上に、多田野が両親と写ってる写真があった。ガラスの写真立てに飾っており、三人とも笑い、幸せそうにしていた。内海はこの写真で初めて多田野の顔を見た。髪は短く、痩せていて目は細く鼻は高いが、大きな口は魚のように突き出されていた。
内海は湧き上がってくる感情を抑えることができなかった。次の瞬間には写真立てを殴りつけていた。ガラスにヒビが入り音が鳴り、後ろへ飛んだ。写真立ては音を立てながら隙間に落ちていく。
拳に痛みが走った。中指が切れ、少し血が出ていた。内海はすぐさま馬鹿なことをやったと後悔した。
「おい、なにやってんだ」と武藤は言った。「お前の気持ちもわかるが、捜査から外れてもらうぞ」
「……すみません」
「怪我してるじゃねえか、まったく……」武藤は財布を取り出すと、中から絆創膏を出した。「これでも貼っとけ」
「……ありがとうございます」
「家内が持っとけってうるさいんだよ」となにも訊いてのに武藤は言い訳するように言った。「次にいくのはその多田野の両親のところだ、もう激昴するじゃねえぞ。次はない」
「わかりました」
「約束だぞ」
「はい」
「よし、なら行こう」
武藤が扉を開け、外に出ていった。内海は絆創膏を貼ると、中指を見つめた。ゆっくりと赤い血が絆創膏に広がっていく。今もズキズキと指が傷んでいる。そのたびに馬鹿をやったと後悔が押し寄せてくる。内海はため息一つ落とし、外に出た。無性にタバコが吸いたくなっていた。
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