深海の空で

転寝 紗夜

それは、とても暑い日のこと。

 水中でゆらゆらと漂うような感覚。ゆっくり目を開けると、少女と目が合った。

 宇宙みたいに黒くて、吸い込まれそうな目。


 …ってあれ?なんか、本当に吸い込まれて……うわあああ!!


 ゴン!


 頭に強い衝撃。


「ああぁ…ぁ…」


 気がつくと、視界いっぱいに天井が広がっていた。


「…は?」


 どうやら僕はベッドから落ちたらしい。


 ❖


 あの少女は一体誰なんだろう。

 あの宇宙を流し込んだみたいな目。

 知り合いじゃないな…

 朝食を食べながら考える。


 ニュースは、今日からお盆休みが始まったことを伝えている。


 お盆…今年は13日からなんだ…


 13日…?


「んぐっ、今日ペルセウス座流星群の日じゃん!」


 危うく朝食を喉に詰まらせるところだった。


 宇宙好きな僕にとって、ペルセウス座流星群は待ちに待った一大イベント!


 2020年8月13日


 僕の忘れがたい夏が始まる。


 ❖


 蝉の声が止んで、少し涼しくなった真夜中。僕はベランダに出て、椅子に座る。

 あとは待つだけ。


「あ!見えた!」


 ペルセウス座流星群。


 無数の星が筋を残しながら流れていく。

 音もなく、消えていく。


「うわぁ、綺麗…!!」


 それ以上の言葉が出てこない。

 すごい!


 でも、なんだか……


「「空が泣いているみたい」」


「だね」


 誰かと声が重なった。


「へっ?!」


 声のした方を見ると、ベランダの柵に少女が座っていた。吸い込まれそうな目の…


「き、君はっ…今朝の……」


「私のこと覚えてるの?嬉しいな」


 君は僕の目の前に足音も立てずに飛び降りてくると、とても魅力的な提案をした。


「ねぇ、私と一緒に宇宙に行かない?」


 心臓の音が、ドク、ドク、と脳に響く。

 宇宙に…行ける…?


「もちろん!!行けるんなら行くに決まってる!!」


「ふふ、そうと決まれば…早速行こう!」


「早速って、今から?!僕、宇宙飛行士じゃないよ?!」


「大丈夫!おいで!」


 少女は僕の家の中に上がり込んだ。


「えっ、ちょっと待って!ねぇ、どこに行くの?!」


「だーかーら、宇宙だよ!」


 少女はずんずん家の中を進み、お風呂場に向かった。バスタブには、水が張ってある。


「私に、ついてきてね」


 そう言うと少女はバスタブに足をかける。

 窓から差し込んだ月明かりが、途切れた。


 少女は、バスタブの中に倒れ込む。


 バシャン!!と音をたてて水中に沈んだ。


 やがて、水面の波が止む。


「…えっ?!」


 バスタブの底に、少女はいなかった。


「嘘…なんで!?」


 まさか、本当に…宇宙に?

 これ頭打ったら絶対痛いよね…

 バスタブの底を覗き込む。


 …行くしかない!

 大きく息を吸って、思い切り飛び込んだ。



 バシャン!!


 ゴボゴボ………



 どこまでも沈んでいく感覚。バスタブじゃ有り得ない。僕は息を止めて、目を固く瞑り、時が過ぎるのを待った。



 …ぴちゃんっ



 …水の感覚が無くなった。

 息も、ちゃんと吸える。


 僕はゆっくりと、目を開けた。


 自分の目の前に広がる景色に、目を見張る。

 だって…これは、どう見ても…


「本当に、宇宙だ…」


「あ、いた!こっちだよー!」


 少女が僕に向かって手を振る。星の光が少女を照らして、より一層綺麗に見える。



 少女は僕の元までやってきた。


「ねぇ、すごいでしょ?綺麗でしょ?」


 僕は声も出せずに頷く。

 瞬きすることも忘れて、その景色に魅入った。


「あれは金星、こっちは夏の大三角!!

 すごい、本当にすごい!!」


 いつもよりも大きく見える!いつもよりも輝いて見える!手を伸ばしたら届きそうなくらい!すごい、すごいすごい!!


 痛いくらいに心臓が早鐘を打つ。


「宇宙ってさ……」


 少女がふと、つぶやく。


「なんだか、海と似てない?」


「海…なんで?」


 僕は少女の方を見る。


「だって…海も宇宙も、いつも見えているのに届かないし、分からないことだらけよ。

 それに…」


「どちらもすごく綺麗でしょ?」


 僕に向かって微笑んだ。


「…うん」


 心臓が、また早くなる。


「私ね、宇宙と海には、深い関係があると思うの。水葬って知ってる?人が死んだら、海にお骨を撒くの。そして、死んだ人は星になるのよ!」


 少女は僕の周りをくるくると回りながら、歌うように話す。



「海と宇宙は、きっと繋がってる」


 何故だか、少女が少し寂しそうに見えた。



「さぁ、そろそろ帰ろっか。あまり長居は出来ないの。何かお土産持って帰ろうよ」


「え?!いいの、そんなことして!!」


「大丈〜夫!早く早く!」


 僕は慌てて、近くにあった隕石の欠片を握る。


「よし、準備いいね!目を閉じて」





 …ぴちゃんっ



「はっ…!」



 …どうなってるんだ?


 目を開けると、そこは僕の部屋だった。ベッドの上に寝転がっている。


 …すべて、夢だった?


 僕は慌てて上半身を起こす。


「あ…」


 自分の足元に、あの隕石の欠片が転がっていた。


 ❖


 テレビの隅の日付は8月14日。


 僕は、眠ったことになっていたみたいだ。


 あの少女は、いったい何者?あの宇宙は?

 疑問が頭の中に渦巻いて溢れそうだ。


 …また今日も、会えるかな。


 ❖


 日差しが照りつける中、僕は海に出かけた。


 今思えば、ほとんど来たことなかったな…


 靴を脱いで波に足を浸し、水面を眺めた。


 真っ青な波の中に、太陽に反射してキラキラと無数の光が現れる。


 確かにその光は、星のようだった。


 ❖


「こんばんは!」


 窓の外から声が聞こえる。


「あ、今日も来てくれたんだね!」


「うん、また遊びに来ちゃった」


 少女は悪戯っぽく笑う。


「あのさ、ひとつ聞きたいんだけど…」


 少女は、ゆらゆらと目を泳がせながら、口を開く。


「…もし宇宙に行けなくなったら、私のこと嫌いになる…?」


「へ?」


 何かの冗談かと思ったが、少女の目は真剣だった。


「嫌いにならないよ。君に会えてよかったから」


 僕は笑ってみせる。


「ありがとう…あのね私、明日でお別れなの…」


 少女は眉を寄せて、下を向く。


「え…?」


「本当は、もっと君と居たかったけど…それは出来ないのっ…」


 少女は肩を震わせる。

 ぽた、ぽた、と涙が落ちていく。


 僕は涙を拭おうと、少女に手を伸ばす。



 思わず、息を呑んだ。



 僕の指が、少女に刺さっている。


 …いや、これは、透けてるんだ。


「君は、一体…?」


 少女は水分を纏った目で僕を見る。


「私は、幽霊なの…」


「ゆ、幽霊…?」


「そう、幽霊。私は3年前に、海で死んだの」


 とても、信じられる話じゃなかった。でも、少女を突き抜ける僕の手が、それが事実であることを伝える。


「今はお盆だから、ここにいられるの。

 もう、戻されちゃう…」



 少女はどんどん涙をこぼしていく。この涙も、拭いてあげられないんだ…

 もう一度、何となく手を伸ばす。


 部屋に差し込んでいた月明かりが、途切れた。


「…あれ?」


 僕の手に、少女の涙が伝っていく。


「触れる…」


「月明かりが雲に隠れた真夜中だけ、この世に実体を持つことができるの…」


 僕の手に少女の手が重なる。


 ああ、僕も泣きそうだ。


 だって、既に死んでいるのに、こんなにも暖かいんだもの。



「明日、真夜中の十二時を過ぎたら、私は消えちゃう。だからそれまで、一緒にいていいかな…?」


 少女は涙でいっぱいの顔で、僕を見つめる。


「うん…うん。一緒にいよう…」






 僕達は今日、宇宙に行かなかった。


 ❖


 8月15日 昼


「どこか出かける?」


 僕は少女に訪ねる。


 少女は少し考えて、口を開く。


「じゃあ、海に行かない?」


 ❖


「ああ〜やっぱり海っていいね!」


 少女は波打ち際を駆け回ったり、波に足を浸したりしている。きっと、水にも触れられないんだろうけど。


「私ね、海が大好きだったの」


 少女はこちらを振り返る。


「…そうなんだ」


「ここでよく泳いでたんだけどね、よそ見した船に巻き込まれて、そのまま…」


「そっ…か」


「えへっ、こんな暗い話してもしょうがないよ!遊ぼ!」


 少女は僕に満開の笑顔を向ける。


「…うん!」


 僕は靴を脱ぎ捨てて、水しぶきを上げながら駆け出した。


 ❖


「あ〜、楽しかった〜!」


 僕達は浜辺に寝そべる。

 僕の服はぐっしょりと濡れて、風が吹く度にひんやりとする。


「私も久しぶりに来れて楽しかったよ〜」


 幽霊だから当たり前だけど、少女が全く濡れていないのがなんだか不思議だった。


 日はすっかり傾いて、海は茜色に染まる。


「…そういえば宇宙に行った時、人は死んだら星になるって言ってたよね。あれって本当なの?」


「本当だよ!君も来たでしょ?」


 少女は、にやりと笑う。


 もしかして、あの宇宙…


「私は、海は地上と宇宙を繋ぐ出入口だと思ってる。生者と死者は、いつも反対側にいるの」


 そう言った少女は、少し悲しそうに笑った。


 ❖


 遂に、空と海の境目が消えた。


 もうすぐ、お別れ。


 僕は口を開く。


「君は、宇宙と海が似てるって言ってたけど、案外そうかもね」


「え?」


「ほら見て。海に星が反射してる。もうひとつの宇宙だよ!」


 僕は膝ぐらいの高さまで、海の中を歩く。

 少女も僕の所までやってきた。


「本当だ、また2人で宇宙に来れたみたい」


「…そうだね」


「海は宇宙、宇宙は海…君は私、私は君…」


「え?」


「宇宙と海が似てるみたいに、宇宙が好きな君と海が好きな私は、似た者同士だなって」


「ふふ、そうだね」



「あ…」


 少女の体が、光り始める。


 星になるんだ。


「そろそろ、お別れかぁ…」


 少女は寂しそうに微笑む。

 …僕は、かける言葉を探す。


「ほら、月が出てないよ!」


 少女は僕の手を握る。


「ふふ、あったかいね」


「…うん」


「そんなに暗い顔しないで、ね?」


 少女は、涙で潤んだ目で僕を覗き込む。


「笑顔でお別れしよう?」


 僕は何も言えずに、縦に首を振る。



「本当に、君に会えてよかった…」



 段々と少女が透けて、後ろの海が見える。


 まるで、少女の体を


 宇宙が満たしていくようだった。




「…大好きだよ」




 そう言い残して、


 少女は消えた。



 するりと手が透けて、僕の手は重力に従って下がる。


「…」



 何事も無かったみたいに、僕だけが海の中に突っ立っている。



 君は僕、僕は君。

 似た者同士の僕達は、いつも反対側にいる。

 交わることは無い…はずだった。



 会えて、良かった。



「僕も…君のこと、大好きだよ…」




 僕の目から



 小さな宇宙が



 零れ落ちた。


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