4人目
『みんなでピクニックをする』
うーん、と僕は頭を掻く。ピクニックをするのは構わない。場所も指定されていないし、なんなら自分の部屋で済ませることができる。しかし、『みんなで』と指名されているのだ。面倒だけどそうしなければならない。さっさと済ませて次のページにいこう。僕は大きな欠伸をして本を閉じ、台所へ向かった。
「少年、何をしているの」
花の子が入ってくる。水を取りに……いや、違うな。窓辺に植木鉢がある。今回はここに根付いていたのか。
「弁当を作っているんだ。ピクニックをしなきゃいけないから」
比較的綺麗なバスケットを出してチーズとパンをあるだけ詰める。そうだ、ゆで卵も作っていこう。棚の隅にあった鍋の埃を払い、火にかける。お湯が沸くまで少し放置だ。
「誰を誘うの?」
「君以外の動ける人」
「人を誘うの?」
「言葉の綾だよ」
「そうなんだ?」
花の子は空のコップを日にかざして遠くを見つめてくすくすと笑っている。全部知っている、と言うようなその顔は苦手だ。
「誰とピクニックに行くとしても、そのお弁当じゃ喜ばれないわ」
ガタンと大きな音を立てて窓を開ける。窓の外は空、ではなく隣の部屋だ。といっても、三つ下の階から吹き抜けているため床は遠く見える。僕は背伸びをして、植木鉢を窓の外へ押しだした。そして花の子を見る。ぽかんとしてはいるけど、驚いただけみたいだ。
「そうするの」
何の感情もない声で窓に向かう。そして彼女は身を乗り出して窓の下を覗き、そのまま飛び降りた。
花の子は床に叩きつけられるのだろうか。それとも綿毛のように柔らかく着地するのかな。彼女がどうなっているか気にならないわけではないけど、
フシュー
鍋が吹きこぼれた音に引き留められる。うん、ゆで卵が優先だ。早く弁当を作ってピクニックをしよう。
誰も居ない廊下に出る。弁当、本、それとレモネードの瓶が数本入ったバスケットは重たく、少しよろけた。一度床に降ろし、この後を考える。誰を誘おう。なるべく話が通じるタイプがいいな。
「今日はいい天気だ。他者と交流するにはもってこいの日だとは思わんかね」
突然聞こえた声に横を向くと、老人が立っていた。白髪が交じった頭を揺らしながら僕を見下ろしている。彼が過した歳月を表した顔中の深い皺に、たった今仕立てたばかりのような新しい帽子とスーツ、そしてそれらの雰囲気を攪拌させるようにゆらゆらと揺れ続ける頭はとても異様で、不気味な空気を出していた。
この老人はなにものだ。
耐えきれずに老人から逃げようと僕は駆け出しても、数メートルと進まないうちに体勢を崩して転んでしまった。やっぱりバスケットを抱えたまま逃げるなんて無理だったのだ。レモネードの瓶が割れたのか、この場に酷く不釣り合いな香りが漂って気持ちが悪い。痛みを堪えながら頭を上げると、老人がすぐ目の前に立っていた。慌てて離れようとして、そこで僕は体が動かないことに気付いた。老人に視線を掴まれているかのように、彼の頭から目が離せなくなっているのだ。老人はゆっくりと僕に手を伸ばす。壊される。その言葉が脳を埋め尽くし、僕の意識が追いやられそうになる直前で、老人は口を開いて引き留めた。
「おいで。ぴったりな場所に連れて行ってあげよう」
老人に体を起こされて気付く。ここはさっきまでいた廊下ではない。右も左も分からない、どこまでも暗い空間だった。僕と老人の姿だけが、ここでただかすかに形を保って見えた。
「おいで」
どのくらいの時間が経ったのか。急に歩き出した老人に慌ててついて行く。どれだけこの老人が異様であっても、この空間に一人で残されるよりはずっといい。それに僕はここから帰る方法が分からない。
「どうして植木鉢を落とした?」
老人はそんなことを聞いてきた。なぜそれを知っているんだろう。
「腹が立ったのか。花の子を壊したいと思ったのか」
「わからない」
「本に書かれていたわけでもないだろう」
本。そうだ、本がない。完全に忘れていたなんて、これまで一度もなかったのに。やっぱりこの空間、この老人は僕をおかしくしている。それでも僕は足を止めることができない。
「意味も無く傷つけようとするなんて、物であるならできないことだ」
急に立ち止まった老人の腰に顔をぶつけてしまう。振り返る老人の手には、置いてきたはずのバスケットと本があった。暗くてよく見えないからか、どこか形がおかしい。
「今日のお前はまるで人間だ」
目を凝らして見ようとする前に、老人は本をバスケットに入れた。そしてそれを僕に持たせると、いつのまにか横に現れた白い光の輪を指した。
「読み終わらせてきなさい」
その強い口調に押されるように僕は輪をくぐった。
辿り着いた先の温室は、日だまりを濃縮したかのような暖かさに満ちていた。あまりにも明度の違う空間に、僕は夢だったのかと疑う。バスケットを覗くと、瓶が一本割れている。夢じゃない。僕は震える手で本を取る。そしてあの暗闇で覚えた違和感の正体に気付いた。
本は最初と最後のページ以外、すべて破られていた。そのため隙間ができて、おかしな形に見えたのか。
『読み終わらせる』ために、僕は最初のページを開いたまま、温室の中心に向かう。そこにはマザーと木作のおじさん、花の子がいた。なるほど。確かにここはぴったりだ。花の子は僕に気がつくと、ぱっと笑みを浮かべた。
「少年、久しぶりね。ピクニックは終わったの?」
「これから、ここで、始めるんだ。木作のおじさんにはレモネードあげる。マザーはゆで卵をどうぞ」
二人が口に入れたのを確認してから、僕もチーズを食べる。
「私の分はないの?」
わざとらしく頬を膨らませて花の子が聞いてくる。まるでこれから僕がやりたいことを知っているみたいだ。彼女の発言に感謝しながら、それを無視してパンを口に詰め込む。そしてそのまま椅子ごと後ろを向く。バスケットには何も残っていない。これでピクニックは終わりだ。
「坊や、意地悪をしては駄目よ」
僕を咎めるマザーの声。彼女の鎌と、パンに挟んだ瓶の破片。はたしてどちらが先に僕の喉を貫くだろうか。
妙な人々 蓑浦鉄鼠 @minoura-tesso
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