怪盗と女傑 花琳の場合

↓挿絵です↓

https://kakuyomu.jp/users/bokushou/news/16817139555058736287


 時は遡り、許靖たちがまだ洛陽で暮らしていた頃。


***************


「怪盗からの予告状?」


 花琳カリンは冗談のような言葉を聞いて、そのままオウム返しにした。


 今日はちょっとした用事があり、花琳の父が経営する店に来ている。


 しかしその用事を果たす前に、店にいた小芳ショウホウに捕まってそんなことを言われたのだ。


「そうです。怪盗からの予告状です」


 繰り返す小芳の手には一枚の紙が握られていた。


 眉をひそめる花琳にそれを手渡すと、その眉はさらに寄せられることになった。


「なんというか……あまり趣味のいい書状ではないわね」


 花琳は内容よりも、まずそこを指摘した。


 紙には全体を囲むように薔薇の絵が描かれている。


 もちろん書状に花をあしらうこと自体は悪くない。


 ただその薔薇はくどいほどびっしりと描かれていて、主役であるはずの文字よりもずっと主張が激しくなっている。


 しかも変に優美過ぎる姿で描かれている上に、紙からは薔薇の香りまでした。どこか『素敵でしょう?』とでも言いたげな雰囲気を感じるのだ。


 言ってみれば、キザな書状だ。


「……ですよね。私もパッと見でそう思いました」


 小芳は花琳の言うことに同意した。


 この娘は美的感覚が優れているし、花琳も大商人の娘として良いものを見て育った。その二人がそう思ったということは、趣味の悪い書状と断言して間違いない。


 ただし、書かれている内容はそんなふうに一刀両断できるものではなかった。


「えーっと……次の新月までに『ぎょくの白菜』をいただきに参ります……怪盗 龍?」


 詰まるところ、冒頭にあった通り怪盗からの予告状だ。


 花琳がもう少し話を聞くと、今朝出勤した従業員が店内にこの予告状が置かれているのを発見したらしい。


 しっかり戸締りしていた店の中、しかも銭箱の上に置かれていたという。中の銭には手が付けられておらず、店の商品も盗まれていない。


 つまり怪盗はただ予告するためだけに店に忍び入ったというわけだ。


「怪盗 龍のことはお嬢様も聞いたことがありますよね?」


 小芳の確認に、花琳は曖昧にうなずいた。


「まぁ街で結構な噂になってるから、知ってはいるけど……」


 怪盗 龍はしばらく前から首都洛陽らくようを騒がしている泥棒だ。


 泥棒とはいっても怪盗を自称するだけあって、普通ではない。


 狙うのは宝物と言えるほどの名品、珍品、高級品で、しかも今回のように必ず予告をした上で盗む。


 そんな高価な品を所持できる富豪の家に犯行予告を行うのだ。当然のことながら、富豪は銭やコネを使って警備を厚くした。


 にも関わらず、今のところ失敗したという話を聞かない。むしろ警備を厚くすれば厚くするほどその鮮やかな犯行が喧伝され、口さがない都の住民たちを喜ばせる結果となっているのだった。


「なんだかちょっとした人気者みたいになってるのが納得いかないのよね。やってることは窃盗で、しかも愉快犯のようなのに」


 富豪の娘として育った花琳はそこに対して疑問というか、ちょっとした不満のようなものを感じてしまう。


 小芳もそれはそうだと思うが、世間の感覚も理解できた。


「でも金持ちが痛い目を見てると、一般人は気分がいいものなんですよ」


「金持ちだって一般人の一人よ」


「金持ちじゃない人からしたら、そうじゃないってことですよ。それよりもこの店の話です」


 やはり納得はできないものの、花琳は予告状に再度目を落とした。


 そこには『玉の白菜』とある。


「玉の白菜って、アレのことよね?」


 花琳は店の中央にある一段高い台座を指さした。


 その上に、玉を彫って作られた白菜の彫刻が据えてある。


 翠玉すいぎょくの緑をうまく使い、本物と見紛うばかり色合いが表現された見事なものだった。


 しかもその上には精巧なバッタとキリギリスが併せ彫られており、美しいばかりでなく愛らしくもある。


 小芳はその名品を見ながらうなずいた。


「この店にある玉の白菜はあれだけですからね。うちの人も『国宝級』なんて言って絶賛してましたけど、実際に怪盗から狙われるほどの一品ということでしょう」


 玉の白菜はもともとはただの一商品だった。作者も不明で、雑多に仕入れた玉の置物の一つだったのだ。


 それが小芳の夫である陶深トウシンの目に止まった。


 陶深は宝飾品の職人で、当然そのあたりの鑑定眼は確かだ。


『これは……銭でいくらと価値を決められるような一品じゃないぞ。売るよりも、鑑賞台でも用意して展示しておくといい。それだけで店に箔が付く』


 深刻なほどの顔つきで、そんな事を言ってきた。


 その助言に従い店に展示してみると、たちまち街の噂になった。


 タダで見られる至高の美術品という評判で、陶深の言った通り店の箔になったし、客もかなり増えている。


 店は許靖たちが越して来てから開業したので洛陽では比較的新顔なのだが、このことですっかり認知してもらえた。


「お店にとっては崇めたいほどありがたい置物だって聞いてたけど、まさか怪盗を引き寄せてしまうだなんて……」


 花琳は複雑な心境で名品を眺めた。


 間違いなく良いものなのだろうが、良いものだからといって良いことばかりを引き寄せるわけではないらしい。


「それで、警護の方はもう頼んだの?軍にお願いするのよね?」


 怪盗 龍は首都洛陽を騒がす大泥棒だ。軍は面子もかかっているし、躍起になって捕まえようとしている。


 予告状が来たと伝えれば、すぐに兵を派遣してくれるだろう。


 花琳は当然肯定の返事を想定していたわけだが、小芳は『はい』とも『ええ』とも言わなかった。


 その上、なぜか花琳に微妙な顔を向けてくる。


「それなんですけど……」


 その微妙な顔の中にどこか申し訳無さを感じた花琳は、すぐに面倒事を押し付けられるのだと察した。



***************



 解登カイトウは二十歳になったばかりの青年だ。


 見た目も二十歳の青年で、仮に誰かに『こいつ、いくつだと思う?』と聞けば、『二十歳くらいじゃない?』という答えがほとんどになるだろう。


 が、今は五十前の壮年男性の見た目をしている。これも誰に聞いても、そう遠くない年齢の答えが返ってくるはずだ。


「この薔薇を、十本ほど包んでくれ」


 花屋の店先でそう言った解登の声も、完全に五十前の重みがある声だった。


 言われた店員の娘も特に違和感を感じず、普通の客に対する笑顔を向けた。


「かしこまりました。奥様への贈り物ですか?」


 そういうことをしそうな品の良い紳士に見えたから、聞いてみたのだ。


 しかし解登は品良く首を横に振った。


「いや、ただ家に飾るんだよ。薔薇が好きでね。すぐ花瓶に活けるから簡単に包んでくれればいい」


 解登は薔薇を受け取ると、そのまま真っすぐ家路についた。


 自宅に帰ると、これまたたくさんの薔薇が迎えてくれる。庭一面に植えられており、春の盛りを歌うように咲き競っていた。


 薔薇は西洋の花であるような印象を持たれがちだが、意外にも最古の栽培記録は古代中国にある。紀元前五百年頃、周王朝の庭園で育てられていたらしい。


 後漢末期はそれから七百年ほど経っているから、薔薇というのはこの頃の中国人にとっても馴染みある花の一つになっている。


「嫉妬するなよ。差し色があった方がお前たちも映えるんだ」


 解登は薔薇たちにそう語りかけ、買ってきた切り花を花瓶に活けた。


 植えてある薔薇とは異なる色合いで、だから買ってきたのだ。


 その香りを嗅ぎ、やはり自分に最も似合う花だと再認識する。


「華麗なる怪盗には、華麗なる薔薇がよく似合う」


 そんなことをつぶやいてから、思い出したように顔の周りを擦った。


 すると、面の皮がズルリと剥けた。


 もちろんそれが生身の面の皮であるはずはない。特別な粘土や顔料などを混ぜた作り物の皮膚だ。


「フッフッフッ……今日も完璧な変装だった」


 解登は本物の自分の顔を撫で、悦に浸っていた。


 この男はいくつか変わった癖を持っている。


 その一つが変装で、他人になりきることに不思議なよろこびを感じてしまうのだ。


 もともとのきっかけは、反乱で戦災孤児になっていたところを怪盗と呼ぶべき男に拾われたことだった。


師匠、お元気だろうか?」


 解登はふと師のことを思い出し、そうつぶやいた。


 解登を拾った男は『あるせいぬ』という、聞いたこともない名を名乗っていた。


 どんな字を書くのかも知らないが、おそらく当てられる字はないのではないかと思う。


 というのも、あるせいぬ師匠は漢人ではなかったからだ。


 顔つきが解登たちとは随分と違ったし、本人も遥か西方からやって来たと言っていた。東方の宝を求めての旅ということだ。


 このあるせいぬ師匠は変装の達人で、異国人でありながら街を歩く時には漢人の容姿をしていた。それも気分次第で日々違う顔になる。


 解登は十歳から十五歳までの五年間をあるせいぬ師匠と共に過ごした。


 その間に変装を初めとした様々な技術を教わり、その技術で十分自活していけるほどになった頃、あるせいぬ師匠は漢を後にした。


『アデュー、少年よ!まだ見ぬ異国の宝が私を呼んでいるのだ!』


 そう言って去っていくとする師の背中に解登はついて行きたかったが、超人と言えるほどの怪盗にとって自分が足手まといなことはよく分かっていた。


 だから泣く泣く別れを受け入れ、代わりに師への憧れを強く心に残した。


 それが今の怪盗 龍を形作っている。


(自分も師匠のような、華麗なる怪盗になりたい。あるせいぬ師匠になりたいのだ)


 解登は己の望みを再確認しながら、棚に飾ってある銀の食器に目を向けた。


 異国の彫刻がなされた杯、皿、匙の三点一組の銀器で、あるせいぬ師匠が去る時に餞別の品として置いていってくれたものだ。


(美しく華やかな銀器たち……まるで師匠のようだ)


 あるせいぬ師匠は一言で言えば、華麗な人だった。何をやっても様になる。


 だから解登もそうあるべく意識して生きてきた。


 とはいえ、華麗さというものは目指してしまった時点で遠のいてしまうものだろう。


(薔薇を愛でる私……華麗)


 もし心の声が聞かれたら阿呆丸出しである。こじらせているにも程がある。


 しかしあるせいぬ師匠直伝の技に限っては本物で、今の解登が恐るべき怪盗 龍として世間を騒がせているのもまた真実だ。


(豊かな者から鮮やかに盗む私……華麗)


 やはり阿呆丸出しだが、富豪から奪うことは人並みに爽快でもあった。そこに悦びを見出してしまうのも、この男の一つの癖だ。


 そして最近はさらにもう一つ癖が加わった。怪盗として注目を浴びることだ。


 街で自分のことが噂されているのを聞くと、背筋がゾクゾクしてしまう。


「もう何日かしたら、あの店への予告状でまた都が賑わってしまうな」


 口では困ってしまうようなことを言っているが、その顔は明らかにまんざらでもない。


 それから解登は部屋の奥に並べられた品々を眺め、また悦に浸った。


 金の腕輪に白磁の壺、迫るような山水画に、見るも美しい裸婦像。どれも怪盗 龍として働いた成果物だ。


 金持ちが抱えていた宝物を華麗に奪ってやった。


 それらを蒐集物しゅうしゅうぶつのように並べて悦ぶのもこの男の癖の一つと言えるだろう。


「ちょうど緑の差し色が欲しかったんだ。玉の白菜はピッタリだな」


 すでに現物は店頭で見ているが、良いものだと思う。それに何より、世間の評判になっている。


 世間の評判になっていれば、盗もうとする自分のことも評判になるはずだ。


 その盛り上がりを想像することは、大変に気分の良いものだった。


「フッフッフッ……フッフッフッフッフッ……」


 明日には聞けるであろう人々の声を思い浮かべ、嬉しげに肩を揺らした。



***************



「なぜだ……なぜ全く噂になっていない!?」


 予告状を出してから十日経ち、解登は自室の卓を強く叩いていた。


 卓に乗せていた銀の置物が倒れたが、全く気にならない。盗み終わった宝物よりも、得られるはずだった注目の方がよほど気になる。


「……くそっ、無視されたということか?」


 酒場や店先、井戸端会議にまで耳を澄ましてみたが、予告状のことを話題にしている人間が誰一人としていないのだ。


 恥を忍んで怪盗 龍の話を振ってみたりしたが、新たな犯行予告を知っている人間はいなかった。


「予告状を見つけられなかった……?いや、そんなことはないはずだ」


 これみよがしに銭箱の上に置いてやったのだ。それを報告もせずに捨てる馬鹿な従業員はいないだろう。


「それに……一応、警備体制は強化されたようだし……」


 十日前から店内に人が寝泊まりし始めたという情報を得られている。


 ただし、それは女一人だけという話だった。


 先日他の店に犯行予告を出した時には軍の一部隊丸々が警備に来たのに、それが今回は女一人とは。


「女一人を泊まらせて怪盗 龍への備えだというのか?……ふざけるな!!」


 解登は再び卓を叩いた。今度は銀の置物が床へと落ちた。


 要するに、まともに相手にされていないようなのだ。それは怪盗 龍の自尊心をひどく傷つけている。


「くそっ……くそっ……どうしたらいい?どうしたら……」


 解登はもう一度予告状を出すことを検討した。いたずらだと思われたのかもしれない。


 しかし無視されたから再度予告するなど、滑稽もいいところだ。恥ずかしくすらある。


「くそっ……くそっ……くそっ……」


 解登は悪態を繰り返しながら庭へと出た。


 そして薔薇の花を一つ千切り、顔に覆いかぶせるようにしてその匂いを嗅ぐ。


「すぅー……ふぅー……」


 大きく息を吸ってから吐き、薔薇の花で額を擦った。甘い香りで鼻腔が満たされ、すこしずつ落ち着いてくる。


「……いいだろう。その無防備さをただただ後悔させてやる」



***************



「はぁ……」


 と、花琳はため息をついて玉の白菜を眺めた。


 もう十日以上、この置物とにらめっこしている。


 確かに素晴らしい品だとは思うが、ここまで長時間付きっきりでは感動も衰えるというものだ。


(警備員って、結構しんどい仕事だったのね)


 花琳はその警備員をやってみて、初めてそのことを知った。


 対象のそばでただボーッとしていればいいわけではなく、警備であるからには人が来るたびに集中しなくてはならない。


 そして残念なことに、この店は繁盛しているから玉の白菜を見に来る客も多い。


 必然的に花琳は気疲れすることになった。


習平シュウヘイさんも小芳も、『二十日間ここでのんびりしてればいいから』とか言ってたけど……のんびりなんて出来ないし。それに例えのんびり出来たとしても、二十日ののんびりはただの退屈だわ)


 また玉の白菜を見に来た客に目をやりながら、心の中で愚痴った。


 花琳は十日ほど前、小芳とこの店の店長である習平に怪盗 龍からの警備を頼まれたのだ。


 なぜそんな話になるのか理解できない花琳は当然聞き返した。


『え?軍に報告して兵を派遣してもらうんじゃないんですか?』


 習平は申し訳無さそうに頭をかいた。


『それが普通の対応だと思いますが、諸々考えるとそうしない方がいいように思えて……』


『どういうことです?』


『これまでの犯行はその多くが警備の兵に化けて行われたものなんだそうです。だから兵にいられると逆に危険は増すのではないかと』


『なるほど……確かに変装されるなら、普段いない人が店に常駐する方が危なそうですね』


『そうなんですよ。それに今朝も盗めるのに盗まず、予告状だけ置いて帰っているでしょう?こういう愉快犯はむしろ騒がないようにした方がやる気を削げる気がします』


 そう、予告状が置かれた時も玉の白菜は店内にあったのだ。


 それを盗まずにキザな手紙だけ残したことを考慮すると、完全な愉快犯と考えて間違いない。


 愉快犯は無視するに限る。騒いでも喜ばれるだけだ。


 そしてそれは実際に、怪盗 龍をひどく苛立たせることになっていた。


『ですが、さすがに今のまま放置というわけにもいきません。それで犯行予告にある次の新月、二十日後までで結構なので、お嬢様に見張っていただけないかと……』


 花琳はこの店の実質的な経営者の娘で、習平はその雇われ店長のような立場だ。だから花琳のことを敬って『お嬢様』と呼ぶ。


 ただもう長い付き合いだから、こんな無理を頼めるくらいにはお互いに慣れていた。


『話は分かりましたけど……二十日はそれなりに長いですし、とりあえず夫に相談してみますね』


 花琳はそう言っていったん帰宅し、許靖に話してみた。


 許靖は初め、反対した。


『見張るだけとはいっても相手は犯罪者なんだ。そんな危険なことには賛成できない』


 妻であれば大抵の危険は排除できると知っていても、夫としての思いはそうだった。


 ただ、花琳自身は夫が思うほどの危険はそもそもないと思っている。


『怪盗 龍はこれまでの犯行で、一度も人を傷つけたことがないそうです。怪盗なりの美学のようですよ』


『今まで無かったからと言って……』


『これを』


 と、花琳は怪盗 龍の予告状を許靖に手渡した。


 許靖はそれを見るなり、花琳がそうしたように眉をひそめた。


『これは……なんというか……』


『そうなんです。こういう自意識の強い書状を書く人は、美学に固執しそうでしょう?』


 キザったらしい予告状にそれを感じた許靖は渋々だが、花琳の警備を了承してくれた。


 それに、確かに怪盗 龍が人を傷つけたという話は聞かない。


 ただ中央政府の官僚らしく、軍の信頼できる人間に話をして周辺の巡回は密にしてもらった。


 そんなこんなで花琳はここ十日ほど店に寝泊まりし、ずっと玉の白菜に張り付いている。


(でも……やっぱり断ればよかったかしら)


 花琳は少なからぬ後悔とともに、またため息をついた。


 あと十日もこうしていないといけないと思うと憂鬱な気分になってしまう。


(習平さんに頼んで、せめて何日か他に人に代わってもらおう)


 花琳がそう思った時、ちょうどその習平が店に入ってきた。


 今日は商談があるということで店を留守にしていたのだが、それが終わったのだろう。


 習平に気づいた従業員たちが挨拶の言葉をかけた。


「お疲れ様です」


「ああ、お疲れ」


 習平も挨拶を返しながら、いつも通りぐるりと店内を回った。店に入った時には必ずそうやってまず見回り、商品の不足や問題がないかを確認するのだ。


 そして最後に玉の白菜のところにいる花琳のところへと来た。


「お嬢様、お疲れ様です。しばらく代わりますので休んでください」


 これまでも日に何度かそうしている。花琳も食事や厠を済ませなければならないし、片時も離れない、というのは無理だ。


「ありがとうございます。それであの……習平さん、あともう十日もあるわけですけど……」


 と、何日かの交代要員確保をお願いしようと思った時、花琳は習平に対して強い違和感を覚えた。


 見た目はいつもの習平で間違いない。声も、仕草も同じだと思う。


 ただし、匂いが違うように思えた。


 習平は妻と夫婦仲が良く、いつも少し妻の匂いがする。その妻はこの店の隣りで飲食店を経営しているので、料理の匂いがする。


 しかし今の習平からはそういう匂いが全くしない。なぜか強い薔薇の匂いだけがするのだ。


「習平……さん?」


 軽く疑問形でそう呼びかけた直後、習平は素早く背を向けて駆け出した。



***************



(なぜだ!?なぜバレた!?)


 解登は全速力で店を出ながら、その疑問で頭を満たしていた。


 変装は完璧だったと思う。声もきれいに真似られていたはずだ。


 しかし見破られた。軽い一言ではあったが、あの女は見破っていたのだと解登は判断した。


『逃げる機を逸すること。これが一番やってはならないことだ』


 あるせいぬ師匠から口を酸っぱくして言われたことだ。


 欲をかいてしまうとそれが出来ない。欲とは本能だ。


 だから神経に刻みつけるように、何度も何度も繰り返し言われた。


 それで解登は反射的に今日の盗みを諦め、逃走に全力を傾けることが出来た。


 当たり前だが逃走路については事前によく検討している。加えて解登の逃げ際があまりに鮮やかだったことで、花琳も追って捕まえることはできなかった。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 解登は無事に逃げおおせて自宅まで帰ることができた。


 しかしその胸には重い敗北感がのしかかっている。


(きっと師匠なら、こんなヘマはしなかったはずだ)


 師と別れてから五年になるが、その間ずっと腕を磨いてきたつもりだ。


 しかしまだまだその域に達していないという自覚があるから、解登の頭は冷静さを取り戻すことができた。


「どうしてバレたのかは分からないが……今回はもう変装を主軸に置くのは控えるべきだな」


 悔しいと思いながらも、そういう判断を下した。


 こだわるのは良いことだが、執着するのは悪いことだ。それも師から教わった。


 もちろんより完璧な変装によってあの女を打ち負かしてやりたい気持ちはある。しかしその執着で捕まっては元も子もない。


 それに、あるせいぬ師匠から教わった技術は変装だけではないのだ。


 解登は次なる手を頭の中でまず組み立て、それにかかる日数を検討した。


「……よし、十日あれば十分仕込めるだろう」


 予告した次の新月までそれだけしか残っていないが、慎重にやっても間に合いそうだと思える。


 そしてその日の夜から、解登は習平の店の床下に忍び込んだ。


 夜もあの女が泊まっているはずなので油断はできない。音を立てないよう細心の注意を払いながら、少しずつ必要な物を運び込んだ。


 そして七日後、店の床下は完全に解登の望む通りの状況になった。


 運び込まれたのは青杉やヨモギ、乾燥させた動物の糞などを混ぜた物で、火を点けるとひどく煙が出る。


 炎は小さいのに、とにかく煙が大きいのだ。


(よしよし。これだけあれば店内はすぐに煙まみれだ)


 床下から煙を上げて視界を奪い、火事が起きたと思わせて混乱を誘う作戦だった。


 本当に火事になる可能性がないわけではないが、おそらく大丈夫だろう。そういう燃料を使った。


(できるだけ人を傷つけずに盗むのも、華麗なる怪盗の条件だからな)


 解登は常々そう心がけて働いている。


 人を傷つけて奪うのなら、それは怪盗ではなく強盗だ。品がないことこの上ない。


 万端の準備を整えた解登は翌日の昼、二度目の盗みに入ることにした。



***************



 その日も店は通常通り営業しており、玉の白菜もいつも通り展示されていた。


 警備は相変わらずあの女一人だ。


 店内には客が多いので、火事になったらすぐに大騒ぎになるだろう。


(煙が充満して視界がなくなればそのまま盗む。その前にあの女が玉の白菜を持って外に出るなら、そこをくすね盗る)


 解登はそういう想定でいる。頭の中で何度も試行した。


 店内は目を閉じてでも動けるほどに把握しているし、火事から逃げる混乱の中なら鍛え上げた盗技でれるだろう。


(よし、やるぞ)


 最終確認を兼ねて店の周りをぐるりと回り、それから裏口へと回った。そこに油を染み込ませた縄を忍ばせてある。


 その端に隠し持っていた火種を当て、素早く離れた。


 縄は床下中に張り巡らせてある。煙の出る素材は火が点きにくいが、そこは油漬けの縄が助けてくれるのだ。


 しばらくすれば盛大な煙を吐き出してくれるだろう。


(それまで少し店の周りを歩いていよう)


 そうやって状況を確認しながら、今という時を見計らって入店しなければならない。


(そうだな……あと五百から六百を数えた頃かな?)


 そのくらいから煙が出始めるはずだ。その前に入店し、入店中に煙まみれになるのが理想だろう。


 解登がそう考えた時、店から思わぬ人間が出てきた。


 花琳だ。先日この女に変装を見破られている解登は思わず緊張した。


 が、今日は店の誰かに変装しているわけでもない。なんの違和感も感じられないはずだ。


(何かを疑われる理由はないんだから、大丈夫だ)


 そう自分に言い聞かせた。


 実際に花琳の目は解登の方を見ず、別の方へと向いている。


 ただそれはそれで解登にとっては大問題だった。


 というのも、花琳がじっと見つめているのは店の床下の方だったからだ。


(ど、どういうことだ……まさか、バレたのか?)


 花琳は一度店に戻ると、従業員たちを連れてすぐにまた出てきた。


 そしてその全員で床下に潜り、解登が仕込んでいた燃料や火縄を引っ張り出し始めた。


(なぜだ!?なぜあの女には分かる!?しかも煙はまだほとんど出ていないのに!!)


 解登は歯ぎしりしながらも、ゆっくり、落ち着いて店を後にした。


 先日は一刻も早く立ち去るべきだったから全速力で駆けたが、今日はそんなことをするとかえって怪しい。


 だから道行く人々と変わらない歩速でゆったりと歩いた。


(まずいぞ……予告の日まであと三日しかない)


 解登はこれまでになく焦っていた。


 仕込みに費やせる時間が短い上、さすがに今度は警備を増やされるだろう。


 下手をすれば火事になっていたのだ。このまま女一人に守らせるというのはありえない。


「くそっ……このままでは怪盗 龍が盗みそこねたと、都中の笑いものになってしまう……!!」


 その悪態が口から出てしまったのは焦りだけでなく、多少の安堵が原因だ。


 解登は自宅まで帰ることができた。その敷地に入った瞬間、少しだけ気と口が緩んで要らぬことを言ってしまった。


「どうやらあなたが怪盗 龍で間違いないようですね」


 背後からかけられた声に振り向くと、解登が今一番憎いと思っている人間がいた。


 その女は二度も自分の仕事を邪魔してくれたのだ。


「今の台詞、もはや言い逃れはできませんよ」


 花琳が屋敷の入り口に立ち、厳しい目で解登を見据えていた。


 その視線に全身を刺されても、解登はまだ現実を信じる気になれなかった。


(つ、尾けられていたのか!?しかし……今回はこの女に見られていないはずだぞ!!)


 解登は花琳が床下の燃料へ向かっている間に店から離れている。


 それによしんば見られていたとして、今はどこにでもいそうな中年男性に化けているのだ。ただの通行人にしか見えなかったはずだ。


 だから解登はまず、ただの通行人の振りをしようとした。


「ご婦人、何のお話ですかな?私は怪盗 龍に関する噂話を思い出して独り言をつぶやいただけですが」


「言い逃れは出来ないといったはずですよ。噂話で出るようなつぶやきではありませんでした」


「よく分かりませんが、お聞き間違いでは?」


「しらばっくれても時間の無駄にしかなりませんよ。それにもし聞き間違いだったとしても、あなたから香る薔薇の匂いは習平さんに変装した怪盗 龍と全く同じですし」 


「……薔薇の……匂い?」


 解登は花琳の言葉にまさかと思いながらも、驚愕のあまりつい聞き返した。


「そんなまさか、匂いだけで……」


「私はかなり鼻がいい方なので、匂いだけでも確信できるんです。それに先ほどの火も匂いですぐに気づきましたよ」


「馬鹿な、まだほとんど煙も出ていなかったのに」


「油を染み込ませた縄は燃えていました。それに、七日ほど前から変な匂いがしてると思っていたんです。おそらく少量ずつ運び込んだのでしょう?それで徐々に慣らされて、すぐには気づけませんでしたが」


 どうやらこの女は異常な嗅覚を持っているらしい。


 現に二度も怪盗 龍を退けているのだから、そう理解せざるを得ない。


 そしてそれが理解できると、今こうして見つかっていることの理由も類推することができた。


「まさか尾けられたのも……」


「ええ、匂いです。火を点けたのが怪盗 龍の仕業なら、間違いなく近くにいるはずだと思いました。それですぐに店の周りを回って、薔薇の匂いを追って来ました」


(……犬か?)


 解登は呆れるような思いで花琳のことを眺めた。


 見た目は別に犬っぽくなどないが、犬が妖術で化けていると言われれば信じたかもしれない。


「……事情は分かった。では仕方ないから、私が怪盗 龍だと認めさせてもらおう」


「潔くて結構です」


「しかし当たり前だが、『ではお縄を頂戴』などということにはならないよ。あなたはどうやら一人で来ているようだし、軽く縛らせてもらってから退散するとしよう」


 周囲には兵たちがいる気配はない。どうやら応援を引き連れて来たわけではないようだ。 


(洛陽は気に入っていたのだが……)


 こうなれば、しばらくは街を出て身を隠さなければならないだろう。


 解登は少し残念に思いながら花琳へと手を伸ばした。


 格闘術にはそれなりに自信がある。師から戦い方も教わっているのだ。


 だから女一人なんなく拘束できると思って手を伸ばしたのだが、その手は雷にでも打たれたかのように弾かれた。


 それと同時に花琳の拳が顔面めがけて飛んでくる。


「……っ!?」


 解登はそれを紙一重でかわしたが、肌にはプツプツと粟が立った。


 ただの女が繰り出せるような突きではない。


「ご、ご婦人は……どうやらかなり鍛えてらっしゃるようだ」


 余裕ぶった言葉遣いをしてはいるが、解登の頬は引きつっていた。


 しかし花琳の方も意外に感じている。


「そちらこそ、結構な心得があるようですね。かわされるとは思いませんでした」


「師匠から紳士の護身術を習っているのでね。しかしそれは本来身を護るためのものだし、何より女性を傷つけてはならないというのが師の教えなのだが……」


「構いませんよ。そんな手加減で倒せる女ではないと分かったでしょう?恨みませんから本気でいらっしゃい」


 解登は不本意ながらその覚悟を決めた。


 あるせいぬ師匠は女とあらばとにかく優しい人で、手を上げるなどもってのほかだった。


 しかしそんな事を言っていてはこの女に昏倒させられた上、捕縛されてしまうだろう。


 解登はまず顔の周りを擦り、変装用の面の皮を剥いだ。こういうものを付けていては動きにも支障が出る。


「それが怪盗 龍の素顔ですか」


 花琳の声には大した感慨も現れていなかったのだが、解登の方はこれみよがしな笑みを浮かべた。


「ああ、謎に包まれた怪盗に素顔を晒させたのだ。誇るといい」


 花琳はその言葉を無視するように、力を抜いて半身で構えた。


 対する解登は軽く跳ね、


 トンッ、トンッ、トンッ


と足で拍子をとり間合いを測った。


 そしてやや遠いところから回し蹴りを放つ。


 ビュッ


 という鋭い風切り音から、当たれば相当な威力であることが察せられた。


 しかし遠い。花琳は軽く体をそらして蹴りを避けた。


(かなり良い蹴りだけど、かわせないほどではないわね)


 そうは思ったが、これが連続で来るとさすがに下がらざるを得なかった。


 続けざまに放たれた連続蹴りに一歩、二歩、三歩と引きながら、花琳は相手の型を推測した。


(この感じだと、蹴りを主体とする戦い方……遠目の間合いから強力な蹴りで相手の戦闘能力を奪う)


 人間は腕力よりも脚力の方がだいぶ強い。もしこの蹴りが首から上に決まれば、即座に意識を奪われるだろう。


(しかも虚実を織り混ぜてるわね……)


 蹴りの中には誘いがある。


 連撃の合間に距離を詰めようとすると、本命の蹴りが飛んでくるであろうものがいくつか見えた。


 しかし、花琳にはそれが見えているのだ。


(……ここ!!)


 そう判断したところで大きく踏み込んだ。


 どうやっても迎撃の蹴りを繰り出せない機を見計らっており、花琳と解登の距離は胴体が触れるほど近づいた。


(このまま投げて押さえ込む!!)


 花琳はそのつもりだったが、そうはならなかった。


 気づけば花琳の方が投げられていたのだ。


 蹴り主体と思っていた怪盗 龍は、どうやら組打ちの方も得手としているらしい。


 花琳は袖と襟を掴まれ、さらに足を払われてきれいに倒された。


 解登はその片腕を掴み、足の間に挟んで伸ばそうとした。


「腕ひしぎ、と師匠はおっしゃっていた。そういう技で、まれば絶対に抜け出せないよ」


 古流柔術を発祥とする腕挫十字固うでひしぎじゅうじがためは非常に強力な関節技だ。完全に極まれば筋力差があろうが体格差があろうが、まず外せない。


 ただし、肘関節の柔らかい女性などはやや極まりづらい傾向にある。


 花琳はまさにそれで、加えて反射的に解登の服を掴んだから肘が完全に伸び切らなかった。


 解登はその反応に感心した。


「本当に大したご婦人だ。しかし、このまま力を加え続ければそのうち極まるのは明白……」


 と、解登はそこで言葉を途切らせた。


 そして直後に苦悶の声を上げながら花琳の上から飛び退いた。


「……っゔぁぁ!!か、噛み付いたのか!?」


 足に強い痛みを感じた。その部位と花琳の顔の位置からして、おそらく噛みつかれたのだろうと察せられたのだ。


 解登の油断といえば油断だろう。足の位置や体勢に気をつけていれば防げたかもしれない。


 しかし目の前の女はどう見てもまともな武術をやってきたようだった。それがいきなり噛みついてくるとは。


(あと少しで肉を食い千切られていた!)


 その恐怖に身震いしてしまう。


 花琳はつばを吐き、それから構え直した。


「そうそう、実戦とはこういうものでした。ここのところ本気でり合うことがなかったから忘れかけていましたよ。少し勘が戻ってきたようです」


 花琳は本気で怪盗 龍に感謝しながら再度踏み込んだ。小細工などない、真っ直ぐな踏み込みだ。


 解登はその動きに合わせて足を振り上げ、上段蹴りで迎え撃った。


 強烈な反撃を花琳は両腕で受け止める。足を地面に擦らせながらも、なんとか防ぐことができた。


 そして犬が相手を威嚇するように、大きく口を開いた。


 唇から覗く犬歯を見た解登は反射的に身を引いた。先ほど噛まれた恐怖が体をそう動かしてしまったのだ。


 花琳はそれを追うようにして、さらに踏み込んだ。


 片足で下がろうとした解登よりも花琳の方が圧倒的に速い。


 手で喉を押さえられ、足をかけられた解登は地面に叩きつけられるように倒された。


「ぐっ……!!」


 後頭部を強打し目から火花が飛んだ。意識が朦朧としてしてしまう。


 そしてその意識が完全に戻った時には、すでに縛られてしまっていた。


「怪盗を名乗るからには簡単な縄抜けくらいできるのでしょう?痛いかもしれませんが、逃げられないようきつく縛っておきました」


 花琳の言葉通り、縄はかなりきつい上に何重にも巻かれている。ほとんど身動きが取れなかった。


 解登はそれでもしばらくもがいていたが、やがて観念するしかないと悟った。


 うなだれて地面を見つめる。


「うぅぅ……まさかこの怪盗 龍が……女一人に取り押さえられるとは……」


 と、そう言ってから己の言葉をかえりみた。


 今のは華麗なる怪盗の台詞として相応しいものだっただろうか。しかも捕縛されるという大舞台における台詞だ。


 ここは何か、華麗な言葉を残さなければならないと思った。


「ゴホンッ……いや、私を捕らえたのがご婦人のような美しい女性で良かった。もし差し支えなければ、お名前を聞かせていただけるかな?」


 花琳は急に気取り始めた縄ぐるぐる巻きの男を気味悪く感じたが、拳を交えた者として一応名乗ってやることにした。


「花琳といいます」


「花琳さんか。花の付いた名前は素敵だ」


 そう言ってから、解登はふと思いついた。


「そうだ、この屋敷の薔薇のことを花琳さんに任せよう」


 唐突な話に花琳は困惑し、眉をひそめた。


「はい?薔薇を?」


「私がいなくなったら放置されてしまうだろう?我が子とも言えるほど大切な薔薇なんだよ。それを任せたい」


 言われて花琳は周囲を見回した。旬を迎えた薔薇たちが庭を埋め尽くすほどに咲き狂っている。


 見事といえば見事だが、この香りのせいで怪盗 龍はお縄になったのだ。


 それにあのキザな予告状を思い出すと、花琳にはいまいち感動しきれなかった。


「あの……どうして怪盗なんてことをやっていたんですか?」


 花琳は薔薇に関しての返事はせず、そこを尋ねた。


 その質問を耳にして、解登は目をキラキラと輝かせた。


(いつか誰かに聞かれたら、こう言おう)


 そう思っていた答えをずっと温めていたのだ。


「それは……まだ見ぬ宝が私を呼んでいるからだ」


 まんま、あるせいぬ師匠の台詞の盗用だ。解登との別れ際にほぼ同じことを言っていた。


 言葉というのは不思議なもので、口にする人間によってまるで印象が変わる。


 しかもこの男は絶対にドヤ顔では言ってはいけない台詞を、これ以上ないほどのドヤ顔で言ってしまった。


 解登をいたく感動させ、憧れを植え付けた言葉は陳腐なまでに馬鹿馬鹿しい印象しか与えられなかった。


(付き合っていられない)


 そう思った花琳は話をさっさと切り上げるため、解登の望みを受け入れてやることにした。


「では、この薔薇たちのことは私に一任してもらいましょうか」


「引き受けてくれるのか。ありがとう」


 解登は縛られたまま顔だけ決めて、というか決めた気になって礼を述べた。


 そしてその顔のまま兵へと引き渡されていった。


 それから数日後。


 習平の店の店頭には大量の薔薇の切り花が並べられていた。しかも、ほとんど投げ売りのような価格だ。


 それを見た小芳は、なんともいえない微妙な顔を花琳へと向けた。


「お嬢様……この薔薇って、もしかして……?」


 問われた花琳の方は当たり前の顔をして答えた。


「私に一任されたわけだし、これくらいの迷惑料はもらってもいいでしょう?それにね……」


 花琳はひときわ鮮やかな一本を手に取り、その優美な花びらを指先で撫でた。


「この子たちは育てた人とは正反対に、とても華麗に咲いているから。せっかくだし心を潤わせてもらいましょう」


 どんな人間に育てられようと、花はただ美しく咲くということを知った。

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