怪盗と女傑 芽衣の場合
↓挿絵です↓
https://kakuyomu.jp/users/bokushou/news/16817139555266474348
時は遡り、許靖たちが会稽郡の王朗のもとで暮らしていた頃。
***************
(揚州という土地は、意外にも悪くない)
揚州という土地は首都たる洛陽から見れば完全に僻地だ。田舎も田舎で、人口の半数以上が異民族と言われている。
もちろん郡治所の山陰県はそれなりの街ではあるのだが、都のような雅さは当然ない。
(しかし異民族、異文化の雰囲気や意匠は悪くないな。漢民族にとっての宝物を見飽きた私には心地良い刺激だ)
怪盗 龍として第一級の美術品ばかりを
異民族の素朴な工芸品など見ると、心が和やかな踊り方をするのだ。
「あるせいぬ師匠が異国の宝を求めて旅をされている理由がよく分かるな……」
そうつぶやいた解登も、ここしばらくはずっと旅をして過ごしている。
ただし旅の目的としては師と違い、脱獄犯の逃亡でもあるわけだが。
(まぁ華麗なる怪盗 龍の変装技術をもってすれば、捕縛されることなどそうそうないが)
解登は今日も別人に変装して街を歩いている。
そして脱獄もその他人になりきる技で成し遂げた。
番兵やその上役の声を全て覚え、それで翻弄してやったのだ。
『おい、こっちだ。こっちに怪盗 龍を連れてこい』
牢からの尋問室までの移送中に上役の声でつぶやき、まず番兵を混乱させた。
『え?こっちって?』
確かに上役の声はしたのだが、こっちと言われても声はすぐ近くから聞こえたように思う。
『……あっちでしょう』
解登は誰もいなさそうな部屋を顎で示しながら、今度は地声で兵にそう言ってやった。
兵は首を傾げながらそこへ連れて行く。
そして部屋に入ると同時に解登から強烈な蹴りを食らい、さらに絞め落とされた上で衣服を奪われた。
あとはそう難しくない。
様々な人間の声で、
『怪盗 龍があっちに逃げた』
『追え、この廊下から先を封鎖しろ』
などと叫び、兵たちがまるで見当違いの方向を警戒しているうちに逃げおおせた。
(官兵は腐っているとは聞いていたが、本当に質が悪かったな。あれならあのまま洛陽にも住み続けられたかもしれないが……)
初めはそうも考えたのだが、自宅に帰ってみると大切にしていた薔薇が一本残らず切られていた。
『…………』
解登は言葉も出せないほど物悲しい気持ちになり、それで洛陽を離れて放浪することにした。
とはいえ、その後の洛陽は董卓という暴政者に焼かれたので、選択としては正解だったかもしれないが。
(ただ、師匠からいただいた銀器だけは取り戻したかったが……)
捕縛された際、当然ながら自宅にあった宝物の数々は没収されたのだが、その中にはあるせいぬ師匠が餞別として置いていってくれた銀の食器たちもあった。
もちろん解登はその行方を探った。しかしどうやら腐敗役人が横流ししたようで、誰の手に渡ったか敢えて分からなくされていた。
そしてその発見は乱世という今の世相のせいで、より絶望的になっている。
(本当に嫌な世になったものだ)
世は乱世になっている。民の生活は厳しくて、飢える者すら珍しくはない状況だ。
しかし不思議なことに、それでも富める者は相変わらず富んでいる。
だから解登は行く先々で怪盗 龍としての活動を続けていた。
富豪が宝物を抱えるという話を聞いては予告状を出し、警備の目をかいくぐって鮮やかに盗んでやった。
(次は何か、漢民族ではない人々が作り出した宝を得たいな)
そんなことを思いながら店の並ぶ通りを歩いていると、人だかりができていた。
覗いてみると、酒や穀物を売る店のようだ。
「へぇ、あれが西域から来た葡萄酒かい」
一人の客がそう言ったのを聞き、解登の耳はピクリと動いた。
(葡萄酒?)
後漢末期の中国では、葡萄酒はあまり一般的なものではない。
この頃の書物にも『西の国には葡萄で作る酒がある』というようなことがわざわざ紹介されている。
少し後の時代になると魏の皇帝
「でも西域から来たってことは、運ぶのにどえらい日数がかかってるだろう。酒としちゃもう駄目なんじゃないか?」
一人がそう言ったのを聞いて、他の一人が首を横に振った。
「いや。葡萄酒ってのは長もちで、十年経っても酔えるらしいぜ」
「本当か、そりゃすげぇな」
そこで店の人間が出て来て説明を加えた。
「おっしゃられている通り、葡萄酒は飲める期間がとても長い上、熟成で味が良くなることも多いのです。そのため良くできた『当たり年』の葡萄酒は時と共にとんでもない価格が付くことがあります。ここにあるものもそうなんですよ」
「それじゃこの葡萄酒はただ珍しいってだけじゃなくて、さらに特別な価値があるってことか。いくらくらいするんだい?」
店員はその質問に頭をかき、少しもったいぶって答えた。
「……実はこれ、話題作りの展示用に仕入れたので価格を決めていないのですが……もし売るとしたら、私の給金十年分を超えると思いますよ」
「じゅ、十年!?そりゃもう酒っていうより財宝じゃないか!」
そこまで聞いて、解登は人だかりの後ろから首を伸ばして話題の葡萄酒を見た。
こちらではあまり見ない形の
甕の表面に描かれた模様もやはり見たことがないものだが、その洗練された美しさから確かに結構な価値の酒が入っているのだろうと感じられた。
「さすが
人だかりの中からそんな声が聞こえ、解登は頭の中からその人物の情報を引っ張り出した。
(謝煚というと……揚州でも有数の豪族、謝氏の当主だな。確かに結構な富豪のようだ)
富める者から盗む。
それこそが怪盗 龍の華麗なる所以だと解登は思っている。
(正直、酒はあまり好きではないが……)
そう思いつつも、解登は次なる標的を決定した。
***************
「ええっ!?幻のお酒が盗まれる!?」
もうそろそろ寝ようかという時間になり、ゴロゴロしながら雑談していたらそんな話が出たのだ。
「いや、まだ盗まれるって決まったわけじゃないよ。怪盗 龍っていう泥棒から予告状が届いたらしい」
芽衣の夫、
「
「謝煚様の……ってことは、あの酒屋だよね?もしかして話題になってた、西域から来たっていう葡萄酒?」
芽衣もその話は聞いていたが、売り物ではないとも聞いている。
飲めない酒に興味はないので見には行っていない。
「そうそう。謝煚様はそんな高級酒には興味ない方だけど、付き合いと研究とで買うことになったそうだよ」
「付き合いと、研究?」
「なんでも揚州の有力者で資金難に頭を悩ましている人がいたらしくて、その援助も兼ねて購入してあげたんだって」
援助といっても、ただ銭を渡すだけだと色々と問題になることもある。
特に有力者同士だとどんなやり取りも『外交』のようなものになってしまうから、回りくどい援助というのもよくある話だ。
芽衣にはその辺りのことはよく分からないが、分からないなりに相槌を打った。
「へぇ……そうなんだ。それで、研究っていうのは?」
「実は漢の国にも葡萄酒を作れる人は少数いるらしくて、謝煚様がそれを新たな産業にできないか考えていらっしゃるんだ。本場の最高級品ならその研究材料になるだろう?」
中国で葡萄酒が本格的に生産されるようになるのは時代が下った唐代からだが、それ以前に全く作られていなかったわけではないようだ。
はるか昔、九千年前の河南省の遺跡からは葡萄酒由来と見られるタンニンが検出されているし、唐代の記述にも過去には作り方を知っている人もいたが忘れ去られたようなことが書かれている。
「えっ!?じゃあ葡萄酒って普通に飲めるの!?」
「いや、普通には出回ってないからやろうとしてるんだよ」
「そっか……それは謝煚様に頑張ってほしいところだね。でも私は店の展示用って聞いてたんだけど、違うんだ」
「もちろん話題作りと客寄せに使う気もあったんだよ。でもまさか、それが怪盗を呼び寄せてしまうなんてね」
芽衣は怪盗という単語をあらためて聞き、その妙な語感に首を傾げた。
「っていうかさ、そもそも怪盗って何?なんで盗むのにわざわざ予告なんてするの?」
そう聞かれても、許欽にだって分かるはずがない。
ただ実は、怪盗 龍のことなら少しだけ知っていた。帰宅してから母にその話を聞いたのだ。
「さぁ……?よく分からないけど、母上は『色々と
その妙な評に芽衣は吹き出した。
「ええ?何それ?なんだか妙にはっきりした人物像が浮かび上がっちゃうんだけど……もしかして花琳ちゃんはその怪盗と知り合いなの?」
「知り合いっていうか、怪盗 龍を初めて捕縛したのが母上なんだよ。洛陽にいた頃の話だけどね」
その話なら芽衣も少し聞き覚えがあった。
「あ、花琳ちゃんが大泥棒を捕まえて有名になったって話、それなんだ。でもまだ泥棒やってるってことは脱獄したのかな?」
「そうみたいだね。今もあちこちで富豪からお宝を盗んでるらしくて、金持ちの間ではよく知られた人物らしいよ」
「それで今回は幻のお酒が狙われちゃったわけか……」
芽衣はまだ味を知らぬ葡萄酒なるものに思いを馳せた。聞くところによると、それは米を発酵させた酒よりも甘美で芳しいという。
しかも狙われているのはただの葡萄酒ではなく、財宝と言えるほどの価値がある最高等級の一品なのだ。
当然のことながら、盗まれた後には怪盗 龍に楽しまれるのだろう。
(怪盗ってどんな酒飲みなんだろう?)
何日にも分けてちびちび飲む方だろうか?それと一気にパァーっと飲んでしまう方だろうか?
「どっちにしても、うらやまけしからんね……」
そうつぶやく芽衣の瞳に、夫はなんとなく嫌な予感がした。
(よく分からないけどこれ、あんまり機嫌が良くないなよな)
妻は機嫌が悪いと、飲む。
そして酔いにまかせて夫のことを玩具のように弄ぶ。そうなると夫は寝不足で翌日の仕事に差し支えるのだ。
(こんな時は酒から遠ざけて、さっさと寝るにかぎる)
許欽はさり気なく部屋の隅にある酒を手に取り、自分の部屋へと逃げようとした。
「よし、じゃあそろそろ寝ようか。お休み……」
「待って」
そう止められた許欽の嫌な予感は増した。
が、意外にも妻は酒のことには触れず、別の願いを夫に申し出た。
「あのさ、何日か外泊してきていい?」
「……外泊?」
その意図は分からなかったものの、夫としてはそれはそれで
***************
(謝氏といえば
細く光る三日月の下、解登は
富豪たちを恐れさせる怪盗 龍から予告状が届いたというのに、この屋敷は警備を増やした様子がない。
夜間の守衛が幾人かいるものの、特別に警戒している雰囲気も感じられないのだ。
(大人数の兵と昼のような明るさの篝火を想像していたのだが)
そのつもりであれこれと対策してきた解登ではあったが、その多くは不要だったかもしれない。
ただし、予告状を無視しているわけではないようだ。
予告の翌日から葡萄酒は店に展示されなくなり、この屋敷に移されてもいる。不特定多数の出入りがない所へ移動させたということだろう。
それに世間では予告状のことが結構な話題になっているから、洛陽で捕まった時のように半ば無視されたとも思えない。
(この屋敷に移してさえいれば大丈夫と思ったか?もしそうなら、怪盗 龍も舐められたものだな)
洛陽で一度捕まったとはいえ、その前も後も富豪から華麗に盗み回っているのだ。謝氏も知らぬはずはないだろうに。
(まぁ、どれだけ警戒しても今日の変装は見破れないだろうが)
解登は今日の変装に関してはかなりの自信がある。
対象を観察する時間を長く持てたから、相当な精度で化けられていると思うのだ。
(謝煚の息子、
同じ飲み屋で飲んでいれば、何の不自然さもなく同じ空間にいられる男だったのだ。
だから容姿はもちろんのこと、声や仕草、喋ることまでしっかりと頭に入っている。
先ほど屋敷の門を通る時でも一切の疑いを受けず、謝倹として通ることができた。本人は今日も街で飲んでいるので、まだまだ帰りはしないだろう。
このまま葡萄酒の所まで行き、何か店に戻すとか適当なことを言って持ち出せばいい。
(ちょろい)
解登は早くも成功を確信しながら、葡萄酒の置いてある離れの前まで来た。
謝倹として屋敷の人間に聞いたから、この中にあるのは間違いない。
ただあらためて離れの中の気配を探ると、もう一山は越えないといけないことが分かった。
人がいるのだ。よく見ると、灯火の明かりも漏れている。
(離れに誰か寝泊まりさせて、葡萄酒を見張らせているのか)
厄介ではあったが、当然これくらいのことは想定の範囲内だ。
別に焦ることもなく、まずは中の様子を確認しようと思った。
(もし持ち出しを止められるようなら、絞め落とすなりなんなりして無力化しないといけない)
怪盗 龍は相変わらず人を傷つけずに盗む華麗なる泥棒なのだが、大きな怪我にはならない範囲で意識を失わせるくらいはする。
そういった対応を決めるために玄関の戸を薄く開けて中を覗いた。
すると、女が一人いる。若い女だ。
(まさか、怪盗 龍の警備に女一人を当てているのか)
解登は以前、女一人に捕まった自分を棚に上げてそう思った。
しかし葡萄酒のある離れにいるのがこの女一人な以上、これが警備だと思うしかない。
(いや、そもそも葡萄酒は本当にここにあるのか?)
その事自体が疑わしく感じ始めたものの、よく目を凝らすと店先で見た異国の酒甕がある。
女はそれを卓の上に置き、腕を組んでじっと睨んでいた。
(やはりここで間違いないか。しかしこの女、えらく厳しい顔で酒甕を凝視しているが……)
それで警備のつもりだろうか。
ならばやっていることがあまりに幼稚で、解登は少し可笑しくなってしまった。
まるで子供が頑張ってお手伝いでもしているようだ。そんな可愛らしささえ感じてしまう。
思わず微笑ましい視線を送ってしまう中、女はその形相のまま酒甕へと手を伸ばした。
しかし、それをすぐに引っ込める。
かと思ったらまた手を伸ばし、その手をもう片方の手で慌てて掴んで止めた。そんなことを繰り返している。
(……?何をしているんだ?)
解登は意味が分からず小首を傾げた。
女の顔はよりいっそう厳しいものになっており、それが苦悩というほどになった時、手がついに酒甕に触れた。
そしてその封印をスルスルと解き、蓋を開けて柄杓を手にする。
解登がまさかの展開に唖然とする中、女は葡萄酒を汲んで卓上の酒器へと移し、あれよあれよと言う間に飲んでしまった。
盗難から守るべき葡萄酒を、自らつまみ飲みしてしまったのだ。
「んっ……んくっ……んくっ……ん〜美味し〜♪」
「美味しいじゃない!!」
満面の笑みを見せる女を前に、解登は思わず叫びながら戸を開け放ってしまった。
ただし、声はちゃんと謝倹の声だ。ほとんど無意識にそうしたのは流石といったところだろう。
とはいえ、不用意なツッコミに自身も後悔している。ついやってしまったとはいえ、これは華麗なる怪盗に必要な一手ではなかったと思う。
(しかし誘惑に負けて守るべき酒を飲んでしまうなんて、どんな馬鹿だ!!)
先ほどは子供のようだと思って微笑ましく感じていたが、こうなると子供の行動が可愛いなどと思えなくなる。
女は悪戯が見つかってしまった子供のような顔を解登へと向けた。
「あっ……謝倹さん……いや、これはね、違うの。えーっと……ほら、怪盗 龍に盗まれた後にさ、もし取り返せたら本物かどうか味で確認できるでしょ?味を知ってたら、ね?」
しどろもどろな上に目が泳ぎまくっているが、本人はこれでごまかせるとでも思っているのだろうか。
ただ解登からすると、この女が自分のことをちゃんと謝倹だと認識してくれていることの方が重要だ。今の発言からそれが確認できた。
ならば謝倹として上手く話をして、葡萄酒を持ち出すことを方が重要だと思い直した。
(一杯飲まれてしまったことが気に障るが……)
宝物を汚されてしまったような気分にはなる。
しかしもうそれは諦めるしかないだろうと割り切り、あらためて謝倹の声を発した。
「……まったく、仕方のないやつだな。まぁ誰に言っても特はねぇし、黙っといてやるよ」
酒場で会話を聞いていると、謝倹はそういう人情の男なのだとよく分かった。
それに騒ぎになって困るのはこちらなので、とりあえず咎めずにおいておく。
女はその言葉に表情を明るくした。
「ありがとう!さすがは謝倹さん、心が広いねぇ」
と、そこまでは良かったのだが、女は何を思ったか柄杓をまた酒甕に突っ込んだ。
そして別の酒器に注ぎ、解登へと差し出してくる。
「それじゃ、謝倹さんも一杯」
さすがにその展開は予想していなかった解登は頬をひくつかせた。
「いや、一杯ってお前……」
「なに?まさか芽衣さんのお酒が飲めないって言うの?」
そこで初めて女の名前を知った解登だったが、そういえば酒場でそんな名前を聞いた気もする。
しかし芽衣と謝倹との関係まで分からないから、曖昧な返事をした。
「あー……」
「謝倹さんはうちの旦那を半殺しにしてくれたんだからね。これくらいの言うことは聞いて、しっかり共犯になってもらわないと」
(半殺し?……よく分からないが、何か貸し借りのある関係か。そしてこの女は自分を共犯にして確実に口を塞ごうとしている)
芽衣の意図は分かったので、この場を穏便に済ますためにも解登は一杯付き合ってやることにした。
それに、この葡萄酒はどちらにせよ自分のものになるのだ。
「じゃあ、一杯だけ」
それだけ答え、酒器を受け取った。
(酒はあまり好きではないのだがな……)
そんな気乗りしないことを思いながら口をつけた解登だったが、その目は爆ぜるように大きく見開かれることになった。
変装者としては失格なほど、驚きの表情を出してしまったのだ。
「な、何だこれは!?これが酒か!?」
それは解登の知っている酒とはまるで違うものだった。
「香りが普通の酒とはまるで違う……爽やかで、芳しい……胸を突くような不快感がまるでないぞ」
解登は米などで作った酒の香りが苦手だった。しかし葡萄酒の香りにはむしろ、胸を洗われるような爽快感があるのだ。
「それにこの強い渋みが舌に残る感じ……淡い甘みが広がる感じ……嫌いじゃない……いや、好きだな」
「アッハッハ、謝倹さんは相変わらず酒になると語るんだねぇ」
言われても解登はドキリとした。
初体験の葡萄酒に感動し、つい謝倹であることを忘れて素の感想を述べてしまったのだ。
(しかし、どうやら謝倹の言いそうなことを言えたようだ。声は……大丈夫だったよな?)
おそらく謝倹の声を出せていたと思う。笑う芽衣の様子にもおかしなところはない。
解登は少し安堵しながら、さらに葡萄酒を口に含んだ。
(美味い)
そう思いながら飲み下す。
財宝のような扱いを受けているのも全くの納得だ。そしてこれを標的に選んだ自身の勘に酔った。
(やはり華麗なる怪盗は、華麗なる宝を引き寄せる)
そのことに満足感を覚えながら口をつけるうちに、酒器は空になってしまった。
が、そこへすかさず芽衣が二杯目を注ぐ。
「おいおい……」
「このくらいの量ならまだバレないって。それに謝倹さん、葡萄酒が気に入ったんでしょ?」
解登はこの芽衣という女に呆れたが、確かに体は葡萄酒を求めていた。
仕方ないな、という顔だけして見せてから、また酒器に口をつけた。
ただ、その間に芽衣は自分の酒器にも注いでいる。
「お、お前もまだ飲む気か?」
「だって謝倹さんが美味しそうに飲むんだもん。これは私が悪いんじゃなくて、謝倹さんが飲ませた一杯だよ」
などと言い、嬉しそうに口へ運んだ。
「ん〜、異国情緒あふれるお味だねぇ〜」
(本当に仕方のない女だ)
やれやれと思いながら、もう一杯だけ付き合ってやることにした。
のだが。
どういう拍子か、芽衣は解登の酒器にさらなる三杯目、四杯目を入れることに成功した。不思議と制止する間が無い。
そしてその後には当たり前という顔で自分の酒器にも葡萄酒を注ぐ。気づけば結構な量を飲んでいた。
「それにしても本当に美味い酒だな。酒の概念が覆る」
「おー、そこまで言いますか。まぁ好みは分かれるだろうけどね。でもさすがはお宝級の価値があるお酒ってことかな?」
「あぁ、そうだな。酒の方が飲むべき人間を選ぶような酒だ。こういう本物はものの価値が分からない馬鹿に飲ませちゃいけない」
「…………あー、そうだねぇ。じゃあ選ばれた人間として、しっかり飲んであげましょうか」
芽衣はそう言いながら、五杯目を注ごうとする。
解登はようやくその腕を押さえることに成功した。
「おい、いくらなんでも飲み過ぎだろう」
「えー?まだ大丈夫でしょ?」
「よく見ろ、明らかに減ってる。馬鹿でも気づくぞ」
実際のところ気づく気づかないはどうでもいいのだが、芽衣が飲めば飲むほど解登自身が自宅で飲める量は減るのだ。いい加減もう終わりにしてほしい。
しかし芽衣は酒甕を離すどころか、むしろ抱きついた。
「ああ、今の私には呪いがかかっている!砂漠の妖怪の呪いが!」
「……はぁ?砂漠の妖怪?」
「そう!乾きを与える砂漠の妖怪が私に『飲めぇ〜飲めぇ〜』って囁いているの!」
(なんて無茶苦茶な話をしてるんだ)
解登はもはや呆れを通り越して、可笑しさすらこみ上げてきた。
ちなみにこの時代、葡萄酒といえば砂漠を越えたオアシス国家の酒という印象を持つ者が多い。芽衣の感じる異国情緒とはそういうものだ。
現代であればフランスなどヨーロッパの産地を思い浮かべる人が多いだろうが、この頃の輸入元は中央アジアになる。
「もし砂漠に妖怪がいたとしても、お前みたいな厄介なのには取り憑かないだろうよ」
「でも現に体が酒甕から離れない。不思議だねぇ」
「馬鹿やってないで、もうお開きだ。かさ増しに何か沈めてごまかすから、持って出るぞ」
解登はそれを理由に酒甕を持ち出すことにした。
現実問題として、飲んでしまったのをごまかすとしたらそれくらいの方法しかないだろう。
しかし芽衣は離さない。酒甕に抱きついたまま、上目に解登を見た。
「じゃあさ、怪盗 龍がこの状態からどうやって盗むのか教えてよ」
いきなりその名を出された解登は一瞬固まった。
しかし、すぐにまた謝倹の顔で笑う。
「何言ってんだ。ちょっと酔いすぎ……」
「謝倹さんはね、『ものの価値が分からない馬鹿』とか絶対に言わない人なんだよ。むしろそういう上から目線で人を馬鹿にするの、すごく嫌いなんだから」
言われて解登も己の過ちに気がついた。
確かに謝倹と酒場で飲んでいたのは街のゴロツキなどと呼ばれてもおかしくないような連中で、高級品よりも馬鹿騒ぎを喜ぶような者の方が多かったように思う。
「……フッ、怪盗 龍としたことがとんだ失策だったな」
そう言う解登の声はすでに地声で、化けるという点においては目の前の女に完敗したことを認めていた。
しかしだからといって葡萄酒を諦める理由にはならない。
「お嬢さん、すまないが少し寝ていてくれ」
その言葉が終わる前に解登の体は低く沈んでおり、足が芽衣の後頭部へ向け振られていた。
延髄蹴りだ。
女性に向ける技として荒っぽ過ぎることは重々理解しているが、叫ばれたりする前に仕留めなければならない。それに解登の足技は確かなもので、怪我させずに意識だけ奪える自信がある。
が、蹴りが届く前に芽衣の体はその放物線上から消えた。
パタリと床に倒れ込んだのだ。
「っ!!……とと」
あわや酒甕を蹴り割ってしまうところだったが、解登はなんとか足を止めることができた。
芽衣の方は無防備にぼおっと天井を見上げている。
「うぃ〜♪いい気分〜♪」
その様子はどこからどう見てもご機嫌な酔態であり、解登は困惑してしまった。
蹴りをかわされたわけだが、ただの偶然か。
(……というか、何なんだこの女は?葡萄酒を守るためにいるのではないのか?それが一緒になってつまみ飲みして、いざ正体を明かしてもこの体たらく。叫んで誰かを呼ぶことすらしない)
全くもって理解不能だが、無防備に寝転ぶ姿は警戒すべき相手には見えない。
(ただそれでも、縛って猿ぐつわを噛ませるくらいはせねばならないだろうな)
立ち上がった解登は懐から縄を取り出し、まだ横たわったままの芽衣のそばに一歩踏み出した。
そしてその足が着くかどうかというところで、下腹部にひどく重い衝撃を受けた。
下を見ると、芽衣の足が自分の股間を蹴り上げている。
「お……お……おぉぅ……」
解登は呻きながらヨロヨロと後ろに下がった。
今、自分の体に大変なことが起こっている。その事実が鈍痛となって解登の脳髄を襲った。
一方の芽衣は相変わらず酔態で、多少よろけながら立ち上がった。
「怪盗 龍さんって普通にやったら結構強い人なんだねぇ。でも普通にやらないのが私の戦い方だから」
「ふ、ふん……結構強い、か……結構程度の強さかどうか、分からせてやる」
そう強がって構え直したが、その構えはやや内股でどうにも情けない見てくれになっている。華麗さとはかけ離れた姿だ。
しかし、あまりの衝撃に体が言うことを聞かない。そんな動きの鈍った解登へと芽衣は進んでくる。
ただしその足取りは覚束なく、完全な千鳥足だった。
(フ、フラフラじゃないか。これなら……)
解登はそう思いながら、大振りの上段蹴りを放った。
しかし股間の痛みのせいで切れが悪く、速度が乗り切らない。
芽衣はその動きに合わせて倒れ込み、狙われていた頭部は蹴りの軌道上から外れた。
しかも同時に床を蹴って足を振り上げており、その先は飛び込むような形で解登の後頭部を襲っていた。
お返しの延髄蹴りだ。
「がっ……!!」
解登は自身が攻撃直後であったこともあり、まともに防御できない。ほとんど無防備にそれを食らってしまった。
その後しばらくはきれいに意識を失っていたらしい。
気がつくと手を後ろに回されて縛られていた。
しかも芽衣の他にも屋敷の人間たちが集まっている。
(くそっ……二度目の捕縛か)
解登は自身の状況を理解し、小さく歯噛みした。
(しかし……以前捕まった時よりも縛り方が緩いな)
それに縛られているのは手首だけだ。足は自由だし、これなら縄抜けで逃げられるかもしれないと思った。
(部屋の中には三、四、五人……外に何人いるか分からないが、上手くやればまだ希望はあるぞ)
しかも、解登が起きたことにはまだ誰も気づいていない。その隙を突いて逃げられないだろうか。
そんなことを考えていると、誰かが芽衣に話しかけているのが聞こえた。
「つまり、芽衣が居眠りしてる間に怪盗 龍が葡萄酒をだいぶ飲んでしまった、というわけだね?」
そう確認したのは屋敷の人間ではなく、芽衣の夫である許欽だ。
芽衣だけを泊まらせるのは色々と心配だったので、頼んで別棟で寝起きさせてもらっていたのだ。
そこへ怪盗 龍捕縛の報が入り、慌てて出てきたところだった。
芽衣は夫の確認に肩を落とし、少しうつむいて答えた。
「そうなの……ついウトウトしてたら、その間にお酒がかなり減ってて……この人が飲んじゃったみたいで……」
しおらしい声でそうのたまった。
(……は?)
解登は耳を疑った。
減った酒を、まるで解登一人で飲んでしまったかのような話になっている。
しかし半分は芽衣の喉に流し込まれたのだ。なんなら芽衣の方がなみなみと注いでいたようにも思う。
「ごめんなさい、私の不注意で全部は守れませんでした」
そう言う芽衣へ注がれた許欽の目には、
『芽衣が無事で良かった』
という安堵以外にも、多分に言いようのない感情が浮かんでいる。
妻が産まれた時からよく知っている夫なのだ。言葉と態度の裏にある何かを感じているのだろう。
しかし他の屋敷の人間たちは芽衣を疑わなかった。それどころか怪盗捕縛の快挙に舞い上がっている。
「いえいえ!怪盗 龍を捕まえただけでも十分過ぎるお手柄ですよ!さすがは芽衣さんです!」
「そうですよ!また芽衣さんの伝説が増えましたね!」
そんな風に褒めちぎった。
一方の芽衣は相変わらずしおしおとしている。
「でも貴重なお酒なのに」
「あ、それなんですが……」
「ちょっと待てぇ!!」
と、解登は諸々のことを忘れて思わず突っ込んでしまった。
しかし、この女の態度がどうにも我慢ならなかったのだ。自分で主導してつまみ飲みしておいて、全て解登のせいにしようとしている。
「貴様!よくそんなことが言えるな!半分以上は貴様が飲んだんだろうが!」
そう訴えた解登だったが、芽衣はまったく動じた様子もなく歩み寄ってきた。
「あ、怪盗 龍さん起きたんだ」
そう言って、床に転がったままの解登のそばにしゃがみ込んだ。
「でもさぁ、それは言うことが小さくない?」
「な、なんだと?」
「だってお酒を丸々盗みに来ておいて、その少し減った分の罪を人になすりつけようとするなんて」
しれっとそんなことを言ってくる。
解登はその言葉に
ただ、言われてみれば確かに程度の低い話ではある。腹は立つが、怪盗 龍の犯してきた業は今さらこの程度で何が変わるようなものではないのだ。
(しかし……腹が立つのは腹が立つ!!)
この女が得をするのがどうにも許せない。
あの美味なる葡萄酒をかすめ盗り、人の股間を激しく蹴り上げた挙げ句、華麗なる怪盗 龍に二度目の縄をかけたのだ。その憎い相手が完全に英雄扱いされている。
それらを思うと頭に血が上り、言葉すら上手く出てこなかった。
「ううぅ……」
悔しげに唸る解登へ、許欽がすまなそうに声をかけてきた。
「あの、ちょっと申し訳ない気持ちもあるんですが……お酒を飲んでしまったこと自体は大きな罪にならないと思いますので……」
「……何だと?しかし少量とはいえ、これは途方も無い値の付けられた葡萄酒だろう」
「実はそれがそうじゃないんですよ。あなたに盗まれてもいいように、中身をすり替えておいたんです」
解登と芽衣は驚き、思わず顔を見合わせた。芽衣にも知らされていないことだった。
許欽はそんな妻を複雑な心境でチラリと見てから言葉を継ぎ足した。
「まぁ、それ以外の保険の意味もあって私からお願いしたんですが……」
そこはさすが幼なじみ夫というところだが、そう言われても解登は納得しきれない。
「すり替えと言っても、味や香りには確かに葡萄の……」
「ごく少数ですが、この国にも葡萄酒を作れる人はいるんですよ。その国産品を西域の酒甕に入れておいただけです。もちろん珍しいものだから普通の酒よりも値は張りますが、西域の最高級品とは比べ物になりません」
まさかの事実に、解登は唖然としてしまった。
ただ考えてもみれば、異国の酒甕を見ただけで中身も西域産だと思ってしまった自分が
「くっ、あんなに美味かったのにか……しかしそうなると、本物の西域産葡萄酒というのは……」
「こういうのは好みがあるからなんとも言えませんが、多分もっと美味しいんでしょうね」
許欽も飲んだことはないので推測でしか言えなかったが、仮に価格通りだするとそういうことになる。
その味に思いを巡らすと、解登の胸には悔しさがいっそうこみ上げてきた。
(くそっ……くそっ……くそっ……)
歯ぎしりする解登の耳元へ、芽衣がそっと囁きを落とした。
「怪盗 龍さん、もし脱獄できたらまた来なよ。今度も私が見張りをするから」
つまり、今度こそ本物の最高級品をつまみ飲むつもりなのだろう。
それが分かる解登は、華麗さの欠片もない叫び声を上げた。
「……誰が来るかぁ!!」
いくら葡萄酒が飲みたくても、この女とだけは絶対に嫌だと思った。
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