選ばれた子、選ばれなかった子36
『父さん』と、そう呼ばれた気がした。
だから夏侯淵はその声がした方を向いた。
向いてから、そことは距離があったから幻聴だったのだろうと思った。
しかし息子の腕に赤子が抱かれているのが目に入り、幻聴ではなかったのだと思い直した。
なぜかは分からないが、あれは息子の肉声だったと確信できたのだ。
「無事産まれたのか……良かった……」
夏侯淵が安堵の笑みをこぼした直後、その背中を矢が貫いた。
甲冑を容易に突き抜けたから、かなりの剛弓だったのだろう。
振り向くと、そこには一人の老将がいた。弓を片手にきれいな残心をとり、澄んだ瞳でこちらを見据えている。
この男が黄忠だと、ひと目見ただけで分かった。
「……都護将軍、夏侯淵だっ!!」
夏侯淵は声を張り上げ、そう叫んだ。
矢が肺に刺さっているから血を吐きながら叫んだ。
黄忠はそれを全身で受け、周囲の兵たちを手で制してから朗々とした声で応えた。
「討虜将軍、黄忠である!!老いたる身には過分な手柄だが、その首もらい受けよう!!」
良い将だ。武人に対する礼を知っている。
少なくとも自分の最期をあずけるに、これ以上の将はいないだろう。
夏侯淵はそう思い、槍を構えて駆け出した。
(良い気分だ)
爽やかな将に巡り会えたことだけではない。最期に綝が孫を抱く姿を見ることができた。
夏侯淵には子が多く、必然的に孫も多い。たくさん見てきたし、たくさん抱いてきた。
しかし綝が孫を抱く姿だけは特別だ。
この子だけは短い時間しか愛してやれなかったから、その分だけ幸せを願う気持ちが強い。
その大切な子が孫を抱く幸せな姿を冥土の土産にできるのだ。良い気分にしかなりようがないだろう。
(男の子かな?女の子かな?)
夏侯淵が最期の最期に考えたのは、そんな幸せなことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます