選ばれた子、選ばれなかった子35

 徐林は出産の無事を喜んだが、その気持ちが落ち着いてくると今度は戸惑った。


 赤子の無力さに対してだ。


「何だこれ……ほっといたら死んじゃうじゃないか」


 雹華は夫の言うことにあきれた。


「当たり前じゃない。赤ちゃんなんだから」


「いや、そりゃそうだけどさ……なんていうか、本当に何もできないなって」


 徐林はまた当たり前のことを口にした。


 赤子なのだから自分の力で出来ることなどほとんどない。


 泣くか、乳を吸うか、排泄するか、それだけだ。


「何もできないから、大人がちゃんと世話してあげないと死んじゃうのよ」


 徐林もそんなことは分かっている。いや、分かっているつもりだった。


 いざ自分が世話しないといけない立場になって初めて、その責任の重さを実感したのだ。


「それにしたって無力すぎだろう。馬とかみたいに、せめて歩けるようになってから産まれてくればいいのに」


 雹華は生まれた直後に歩き出す赤子を想像して、思わず吹き出した。


 それから下腹部の痛みに顔をしかめる。


「ちょっと、笑わせないでよ」


「ご、ごめん……そんなつもりはなかったんだが」


「人間の赤ちゃんはね、きっと親を信じて産まれてくるのよ。だからその信頼に応えてあげないと……ほら、泣いたから抱っこしてあげて」


 急に赤子が泣き出し、徐林は恐る恐る抱き上げた。


 出産で取り上げた時は必死だったが、今は触るのも緊張してしまう。首が座っていないから恐ろしくて仕方ない。


 よく他の母親たちがやっているように抱き、軽く揺らしてみた。しかし泣き止まない。


 親なら赤子の泣き声にはそのうち慣れるし、じきに『いつもの泣き方と違うな』などと気づけるようになるものだ。


 しかし慣れるまではこの声がとにかく辛い。心配だし、泣いている理由が分からないと理不尽にすら思えてくる。


「どうしよう……泣き止まない……どこか悪いのかな」


「いやいや、泣いてるくらいで病気にしないでよ。子守唄でも歌ってあげたら?」


「子守唄?……って言われてもな……」


 徐林には五歳より前の記憶がない。子守唄など覚えているはずもなかった。


 ……はずなのだが、不思議と歌が口をついて出てきた。


「ね……ねんねんころりんねんころりん〜♪」


 歌ってから、自分で自分に首を傾げた。


 即興で作れたのだろうか?しかし、それにしては耳に慣れた歌の気がする。


「……母さんが歌ってくれてたのを、なんとなく覚えてるのかな?」


 徐林はそう思ったが、雹華にはもう少し心当たりがあった。


「お義母様も歌ってらしたかもしれないけど、お義父様じゃないかしら?」


「なんだって?なんでそう思う?」


「だってお義父様がおっしゃってたもの。『ねんころりんころ歌って綝を寝かしつけてた』って。子供が多い家だから、お父様もよく育児をされてたそうよ」


「あぁ……確かに子沢山の家だな」


 一度全員の暗殺計画を立てたほどだから、徐林もそのことはよく知っている。


「林は特に夜泣きがひどかったらしいから、この子もいっぱい泣くかもね」


「それもあいつが言ってたのか」


「そうよ。次の日も仕事があるのに、寝不足で大変だったって」


「…………」


 それは申し訳なかったが、実父の歌っていたものだと思うとなんだか微妙な歌に感じてしまう。


 しかし赤子は泣き続けているし、他の子守唄も知らないから徐林はまた歌ってやった。


「ねんねんころりんねんころりん〜♪ねんころりんころねんころりん〜♪」


 父にとって微妙でも、どうやら赤子は気に入ってくれたらしい。


 歌っているうちに泣き止み、すやすやと寝息を立て始めた。


「よかった……寝てくれた」


 徐林はホッと息を吐いた。


「でも一回寝かしつけるだけでこれか……子育てって大変なんだな」


「そうよ。これから一緒に頑張ろうね、お父さん」


 その呼称に、徐林は強烈な違和感を覚えた。


「お父さん?俺が?」


 思わず聞き返したが、雹華にとっては意味の分からない返しだ。


「ぇえ?ちょっとしっかりしてよ。林がこの子のお父さんじゃなかったら誰がお父さんなのよ」


「あ……いや、そうなんだけどさ……父さんって、父さんだから……」


 徐林にとって父とは徐和で、自分は子供だ。それがこの世の法則のように、当たり前になっている。


 だから自分が父になったということは理屈として分かったとしても、感覚としておかしいと感じてしまうのだった。


 しかし確かに、間違いなく自分は父になった。


「俺が……お前の父さんか……」


 徐林は赤子を見つめながらそう言ったのだが、実際には自分に言い聞かせている。


 その言葉を噛み締めながら、赤子の頬を優しくつついた。


 この世のものとは思えないほど柔らかく、むにゃむにゃと反応して可愛らしい。


 手も足も作り物ではないかと思うほど小さく、それを見ていると胸の奥から何か暖かいものが湧き上がってきた。


(愛おしい)


 徐林は我が子を見つめ、心の底からそう思った。


 しかも、ただ好ましいというだけではない。この子は自分がいないと生きていけず、その人生の大きな部分が自分の肩に乗っている。


 その責任は重く、重いがためにただ自分にとって好ましいだけの存在ではなく、本当に、心の底から愛おしい存在になるのだと思えた。


 それからふと、気がついた。


「俺は……あいつに愛されていたんだな」


 あいつとは、夏侯淵のことだ。


 あの男も今の自分と同じように、父として赤子の自分を抱いたはずだ。


 ということは、今の自分と同じように愛を抱いたのだろう。


 それは徐林にとって驚くほどの発見だったのだが、妻にとっては当たり前だった。今日の夫は当たり前のことばかり言っている。


「今さら何言ってるのよ。お義父様は今だってたくさん愛してくださってるじゃない」


 そうは言われても、徐林の記憶にあったのは自分を置いて逃げる夏侯淵と、養父を殺した夏侯淵だ。


 それに徐林は親の愛が無償だなどと思ったこともなかった。


 しかし今はそれを実感として理解できている。


 それに気がつくと、この数年間で夏侯淵が自分のためにしてくれたことがいくつも頭をよぎった。


 来るたびに必ず何か手土産を用意してくれたし、村の運営にも様々な気遣いをしてくれた。


 季節ごとの食べ物が送り届けられることもあったし、風邪だと言えばすぐに薬が差し入れられた。


 それに思い返すと優しい言葉、優しい助言を多く口にしてくれたのだとよく分かる。


「あいつ……あいつは……あいつ……」


 徐林は赤子を見つめながら、実父のことを考え続けた。


 雹華はそうやって『あいつ』を繰り返す夫へ暖かい眼差しを向けた。どうやら夫は今、色々なことに気づいているらしい。


「お義父様のこと、『父さん』って呼んであげたら?きっと、ものすごく喜ぶわよ」


「…………ふん」


 たとえ夏侯淵のことを認められたとしても、それは気恥ずかしいように思える。


 だからそっぽを向いて窓の方を見たのだが、突然その窓から大きな音が飛び込んできた。


 山が揺れるようなその喚声を、徐林は何度も聞いたことがある。


 五歳の時、一番初めの記憶でもそれが響いていたし、ここしばらくの戦でも耳にした。


 兵たちが突撃の時に上げる雄叫びだ。


「これは……本格的な攻撃だな」


 徐林は赤子を抱いたまま急いで外に出た。おそらく事態は切迫しており、早急に状況を確認せねばならない。


 村が見えるところまで行くと、思った通り劉備軍が突撃をかけてきていた。


 逆茂木は直りきっていない。


 その部分に兵たちが殺到していた。


「あいつは……まだ村にいるのか!!」


 徐林は夏侯淵の姿を見つけ、歯噛みした。


 少し前に総大将本人が逆茂木の補修を手伝っているのを見て、なんて危ないことをする馬鹿なのだと呆れ返った。


 そしてその呆れは今、苛立ちに変わった。いや、苛立ちを通り越して絶望になりかけている。


 それほど危険な状況だ。


 夏侯淵の軍は四百程度、一方の劉備軍はその倍以上いそうだった。


「逃げろ……早く逃げろよ……」


 徐林は祈るような気持ちでつぶやいた。


 いや、実際にそれは祈りだった。祈ることしかできないのだ。


 自分が助けに行くことはできない。赤子と妻を危険に晒すわけにはいかない。


 だから徐林はただ祈りながら、またつぶやいた。


「早く下がれよ……ほら、家と田んぼを使って迂回しろ……」


 徐林の祈りが通じたのか、夏侯淵たちは敵の攻撃をなんとか捌いて迂回し、距離を取れた。


「よし、そこから山に入れば逃げられる……」


 と、徐林も兵たちも思ったのだが、その山から突如として敵兵が飛び出してきた。


 そう動くと読まれていたのだろう。


 完全に狙った包囲で、退路も失われた。もはや逃げることも叶わない。


 そこからは多勢に無勢の乱戦だ。乱れ戦ってはいるが、数が違う。


 夏侯淵自身も槍を振るい、殺到する敵兵を必死に屠った。


 しかし、時間の問題だろう。


「なんでだよ……なんで今なんだよ……俺はようやく、ようやくお前を家族として認めようと思えたんだぞ……」


 徐林は声を震わせ、赤子を抱いた腕も震わせた。


「ほら……お前の孫だぞ……抱いていいんだぞ……たくさん育てたんだろうが……少しくらい子育てを手伝えよ……もっと働いてからいけよ……」


 祈りは恨み節になってくる。


 徐林は実父に今までとは違う恨みを抱きながら、気づけば涙を流していた。


「馬鹿野郎……まだ死なないでくれよ……死ぬんじゃない……死ぬな!!父さん!!」


 徐林がそう叫んだ時、夏侯淵の顔がこちらを向いた。


 声が聞こえるはずもない距離なのに、確かにこちらを見て、しかも笑ったのだ。


 そしてその直後、夏侯淵の背中に一本の矢が突き立った。

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