選ばれた子、選ばれなかった子34

 劉備は見晴らしのいい山腹から敵の陣地を眺め、困惑に眉をひそめた。


 その視線の先に、ちょっと普通ではない光景が見えていたからだ。


「大将が自らの手で逆茂木を補修している……だと?」


 冗談のような話だが、確かにそれが行われているのだ。


 敵陣を監視させていた隊から報告が上がったので、半信半疑でそれを見に来た。


 すると本当に夏侯淵が逆茂木を運んでいた。


 劉備は一時期、曹操の下にいたこともあるから夏侯淵とも面識がある。かなり距離はあるが、確かに夏侯淵に見えた。


「どういうことだ……?何かの罠か……?」


 それを疑うのが普通の感覚だ。極端な無防備は誘いである可能性が高い。


 夏侯淵を追い詰めているという手応えは確かにある。予備兵力も底をついていることだろう。


 しかしこの規模の軍の総指揮官がやるようなことではないし、何より危険だ。


 逆茂木の補修中に全力で襲われれば、まず助からないだろう。今この陣地にいる兵は五百人に満たない。


 攻める側からすれば絶好の機会なのだが、絶好過ぎて恐ろしいのだ。


 劉備は意見を聞きたくて、横目に軍師を見た。


 法正ホウセイという男で、恐ろしいほどに機転の利く切れ者だ。


 しかしその法正も困ったように眉をひそめている。


 眼下の光景に戸惑っているのがすぐ分かった。よく舌の回る男なのに、劉備のつぶやきにも答えず黙り込んでいる。


(頭が良いだけでは手の届かない領域の案件だな)


 劉備はそう思い、法正の反対側へと目を向けた。


 そちらには法正とともに今の主攻を担当させている討虜将軍とうりょしょうぐん黄忠コウチュウがいる。


 老将ではあるが、その分戦場での経験は深い。


 黄忠も敵の総大将を眺めてはいるが、その目には法正と違い困惑は浮かんでいなかった。


 不思議なほど澄んだ瞳で、じっとその様子を見つめている。


「御老体、どう見る?」


 劉備は敬意を込めて尋ねた。


 黄忠は視線を動かさないまま答える。


「……罠を張るには必死過ぎるように見えますな」

 

「ふむ?」


「焦りが滲み出ています。何かあったのでしょう」


 何か、とは人が生きていれば起こる偶発的なこと全てだ。


 そういうことが山ほど起こるから、人の世は合理的に動きはしない。


 劉備もその何かにたくさん出くわしてきたので、黄忠の言わんとすることはよく分かる。


「罠に見せかけた、ただの補修作業か」


「それもあわよくば罠に見せようという、雑なものに見えます」


 もしそうなら、敵将に多少の憐れみを覚えてしまう。


 ただもちろん、そんなことは攻めない理由にはならない。


「御老体、行ってくれるか」


 それに黄忠が返事をする前に、法正が控えめな意見を述べた。


「今はこちらが優勢ですし、危険を冒す必要性は小さいかもしれません」


 もちろん罠である可能性も否定できないから、合理的で賢い男はそう考えてしまう。


 その意見に黄忠は顔のシワを深くし、朗らかな笑顔を向けた。


「なに、もし罠でも老いぼれた将の寿命が少し早まるくらいで済みます。ひとっ走りさせてもらいましょう」


 法正は老人の言う『ひとっ走り』という言葉に胸のすくような清々しさを覚え、抱えていた不安をきれいに拭われてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る