選ばれた子、選ばれなかった子33

「どんな……様子……?」


 雹華は寝台に横たわったまま、部屋に戻ってきた夫に尋ねた。


 その額には脂汗が浮いている。


 徐林は少し前に戦況を確認すると言ってやしろを出て行ったが、すぐに帰ってきた。妻の体が心配だったから急いだのだ。


「大丈夫。心配なさそうだから、安心してていいよ」


 それは何の具体性もない回答で、雹華にはすぐ嘘だと分かった。


「変に誤魔化さなくていいわよ……どうせもう……出ちゃうから……」


 徐林は苦しそうな妻の横に座り、腰から背中をさすってやった。陣痛を少しでも楽にするためだ。


 雹華は本格的なお産に入っていた。


 昨夜まではなんとか無事に過ごせていたのだが、今朝になって煙の匂いが漂ってきた。


 それを嗅いだ途端、陣痛が始まってしまったのだ。


 徐林は慌てながらも、産婆から言われていた通りまず湯を沸かした。


 どうするかは聞いている。すべきことはちゃんと書き記しているし、何度も頭の中で繰り返した。準備も万全だ。


 しかし、それでも気が焦るのは止められなかった。


 苦しむ妻の手を握り、少しでも痛みを分けられたらいいのになどと無駄なことを考えた。


 水が欲しいと言われれば急いで持ってきて、陣痛の波の合間にはつまめるものなど手渡した。


 そしてまた陣痛が再開すれば、今のように腰をさすったり手を握ったりする。せわしなく動きながら、自分ができることの少なさを呪うしかない。


「本当のことを言うと、逆茂木が全部燃えてた」


 徐林は真実の戦況を伝えた。


 確かにもう赤子が出てきてしまうのは避けられなさそうだ。


 それにキツイ陣痛が始まっているのに心安らかも何もないだろう。


「そう……村は……燃えてなかった?」


「王さんちがボヤになってたくらいだな」


「あはは……あの人の家ボロすぎだし……いっそ全焼して……建て替えになった方が良かったのにね……」


「ハハ、確かにな」


 雹華が苦しみながらも冗談を言ったのは、不安から気を紛らわせるためだ。


 と言っても、戦への不安ではない。それも無いわけではないが、二度の流産を経た雹華にはお腹の子に対する不安の方が圧倒的に大きい。


 だから避難を拒み、こうして村に残ったのだ。


「二十日か……」


 陣痛による呻きの合間、雹華はそうつぶやいた。


 その日数が何なのか、徐林にはよく分かる。一日一日、数えながら過ごしたからだ。


 徐林はつい神経質な声になりそうなのをグッと抑え、明るい声を出した。


「……きっと、大丈夫じゃないか?『今産んで生きられるか微妙』って言われてから二十日も経ったんだ」


 二十日前、産婆からそう言われた。


 それに加え、『次の満月までお腹にいれば、まず大丈夫』とも言われた。


 その時がちょうど満月だったから、次の満月は約三十日後ということになる。


「目標より十日も早くなっちゃった……私、煙の匂いが嫌いになりそう……」


「無事に産まれたらむしろ好きになるよ」


 別に煙が好きで良いことなどないが、夫としては前向きなことを口にして励ますしかない。


 もちろんどんなに励まされたところで、陣痛の痛みは減るわけもないが。


 その辛い波が来るたびに雹華はうめき声を上げて苦しんだが、お産は少しずつ、少しずつ進んでいった。


 徐林が股の間から覗くと、口が開いて頭が出てこようとしているのも見えてきた。


「す……すごい!出てきてるぞ!」


「ほ、本当?」


「本当だよ!髪の毛が見える!」


「そう……あと……どれくらいなのかしら……」


「産婆さんから聞いてた全開にはまだ全然だけど……」


「ぜ、全然?」


 雹華は信じられないような気持ちで聞き返した。


 できるだけお腹にいて欲しかったわけだが、陣痛が始まってそれが長続きしてほしい妊婦などいるわけがない。


 徐林は慌てて言い直した。


「いや、でもどんどん開いていってるから!そんなに長くはないって!」


 赤子を取り上げた経験などないくせに、断言してしまった。


 徐林の言葉が適当であったことの証拠に、それから全開になるまでは結構な時間がかかった。


 しかも、全開になってからなかなか出てこないのだ。


「おかしいな……産婆さんから聞いてた話だと、そろそろ出てきても良さそうなのに……」


 徐林は首を傾げて妻の股を凝視した。


 頭が出そうになっては引っ込み、出そうになっては引っ込みを繰り返している。


「お……おかしいの?」


 妻が息も絶え絶えに聞いてきた。


 が、徐林も経験がないのだからはっきりしたことは分からない。


 ただ、一つだけ出来る処置を産婆から教わってはいる。


「これもう、押した方がいいのかも」


「え?押す?」


「ほら、お腹を押して赤ちゃんを出すやり方を習ったろ?」


 現代で言うところの『子宮底圧迫法』だ。腹を娩出方向に向けて押し、赤子が出てくるのを手助けする。


「あれをやった方がいいのかな……どう思う?」


 徐林は妻に尋ねた。


 習ったとはいえ妊婦の腹を押すのは恐ろしい。それに今やるべき時なのかもはっきり分からない。


 ただこの時の妊婦はもう悩めるような状態ではない。とにかくこの苦しみから一刻も早く開放されたいのだ。


「何でもいいからもぅ……やって!!」


 なんだか投げやりではあったが、妻の承認を得られた徐林はそれを実行することにした。


 産婆から言われた通りの場所を、言われた通り強めに、言われた通りいきみに合わせ、押した。


 すると、赤子の頭がほとんど出てきた。


「や、やった!!出たぞ!!支えるからいきむのちょっと待って!!」


 徐林は慌てて股の下に入った。


「いいぞ!!」


 雹華が再度いきむと、赤子はずるりと出てきた。頭があれほど大変だったのに、体はあっけないほど簡単に現れてくれた。 


 しかし、泣かない。


「お、おい……おい!!」


 徐林が呼びかけながら体を擦ると、赤子は一つ咳をした。その咳と一緒に羊水が吐き出される。


 どうやらそれで息をし始めたようだ。


 何度か咳を繰り返し、大声で泣き出した。


 泣き始めは羊水が喉に絡んだ声で、徐林は少し心配になった。


 しかしそれもすぐに吐き切ったようで、よく聞く赤子の声になってくる。


「雹華……だ、大丈夫だったよ!!やっぱりこの子は大丈夫だった!!」


 へその緒がついたままの赤子を抱き上げ、雹華に見えるようにしてやった。


「ほら、こんなに元気に泣いてる!!しかも結構大きいぞ!!これなら絶対に生きられるよ!!」


 村に産まれた赤子の中には、この子よりも小さなものもいた。その子はちゃんと元気に育っている。


 それを考えると、きっと大丈夫だろうと思えた。


 雹華も一生懸命泣く我が子を見て、長い長い安堵の息を吐いた。


 体中の筋肉を弛緩させ、寝ている時でもこれほどではないというほど脱力する。


 二度の悲しみを乗り越えた先の命、そして陣痛からの開放で、言葉すら上手く出てこなかった。


「……よかった……」


 かろうじてそれだけ言い、ほとんど放心するようにただ赤子の声を聞いた。


 徐林も安堵の余韻に浸りたかったが、産婆から産まれた後どうしないといけないか言われている。


 へその緒を処理し、産湯につけて産着を着せる。


 そして綺麗になった赤子を母のそばに寝かせ、妻の方の体を拭いてやった。


 雹華は夫のなすがままに任せながら、我が子を見つめた。産湯につけてからは泣き止んでいる。


 まだしわくちゃで猿のようだが、それでも分かる顔形もあった。


「目は林に似てるわね。林みたいな男の子になるかしら」


 徐林は言われて初めて気がついた。


「え?……あぁ、そういえば男の子だったな」


 その反応に妻は笑った。


「そういえばって何よ。出てきた瞬間に分かったでしょ」


「いや……なんていうか……余裕がなくてさ」


「男の人は陣痛ないじゃない」


「それでもいっぱいいっぱいになるんだよ。命かかってるし」


「そう……そうよね。ありがとう。林がいなかったら、きっと無事に産むことはできなかったわ。あなたのおかげよ」


「いいや、雹華が頑張ったおかげだよ。朝に陣痛が始まって、もうすぐ夕方になるからな」


 窓からの陽の入り方からすると、もうそういう時刻のようだ。


 お産というものは大変だ。もっと長時間に及ぶこともあるし、最後はもはや体力勝負になってくる。


 ただし勝負とは言っても、一方的に引きずり回されるばかりの勝負ではあるが。


「そういえば、外は大丈夫からしら」


 雹華が思い出したようにそう言った。状況を最後に見たのは昼前だった。


「そうだ、ちゃんと確認しておかないとな」


 劉備軍がこの陣地を取れば、兵の暴力に晒される可能性もある。


 戦場での略奪、虐待など珍しくもない。


 徐林は社を出て、村を見下ろせるところへ来た。


 すると、昼前に燃やされていた逆茂木がかなり修復されているのが見えた。何百人も兵がいて、今も補修作業は続いている。


(この人数……ここの陣地の人間だけじゃないな。本陣の予備兵力が回されたのか)


 パッと見でそう察せられた。四百人ほどはいるだろうか。


(全体の戦況は分からないけど……こういうふうに手当ができるってことは、そんなに負けてるわけじゃないってことだよな)


 徐林はいったんそう思ったが、すぐにその推察を自分で否定した。


 なぜなら逆茂木を運ぶ人員の中に、大将である夏侯淵の姿が見えたからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る