選ばれた子、選ばれなかった子30

 流産というのは悲しい。


 これは夫婦として体験してみなければ分からないことだ。


 もちろん誰でも『悲しいのだろう』と想像することはできる。しかし分かるのは難しい。


 幸せという道を歩いていたら、突然地面が消え失せて奈落に落ちるようなものだろう。特に一度目はその落差が大きい。


 雹華の落ち込みようも激しく、徐林は見ているのも辛いほどだった。


「何が悪かったのかしら……無理して動き過ぎた?……ううん、適度に動かないといけないらしいし、逆に運動が足らなかったとか?……それともあれを食べたのが悪かったのかしら……」


 流産後はそんなふうに自分の行動を責めてしまうことも多い。


 現代医学において、流産の原因として最も多いのは染色体異常、つまり受精卵自体の異常だとされている。


 要は妊娠が成立しても、その子には産まれて生きるだけの力がそもそも無いことがとても多いわけだ。


 しかし、この時代にはそんなことは分からない。雹華は自分に否があったのではないかと考え、床を爪で引っ掻きながらブツブツとつぶやくことが多くなった。


 ある日徐林が帰宅すると、雹華が暗い部屋の隅で一人そうしていてギョッとした。さすがに心配になる。


「雹華、そんなに気にしても仕方ないって。村のおばさんたちも言ってたろ?何してても流れる時は流れるからどうしようもないって」


 徐林は思い詰めた顔で自分を責め続ける妻に、そう声をかけた。


 流産の頻度は非常に高く、統計にもよるが一〜二割程度とされる。村人の中にも流産経験者は多く、皆あまり気にしないようにと言ってくれていた。


 しかし流産を経験した当の本人は簡単に割り切れないことも多い。


「でも、妊婦の生活だって無関係じゃないんだから」


 それが流産の原因になる可能性が低かったとしても、そう思ってしまう。


 そんな思考におちいってしまうのは、雹華の年齢と無関係ではないだろう。三十半ばを過ぎ、出産できる機会が多いとは言えない。


 徐林はどうしたら妻を慰められるか考えたが、なかなか難しい。最近はそればかりを考え、思い悩んでいる。


 そんな時、夏侯淵が来た後は雹華の表情が少し明るくなることに気がついた。


 夏侯淵は義理の娘を気遣い、様々な差し入れを持ってきた。流産後の体調を整える薬や精のつく食べ物、お守りなどだ。


 出産をあきらめたわけではない雹華はそれを喜び、夏侯淵が来るのを楽しみにしている。


「すまないな……」


 徐林はある日、夏侯淵の前でそうつぶやいた。


 それまでずっと憎まれ口しか叩かなかったのに、初めて礼を伝えたのだ。


 夏侯淵はそのことに少し驚いていた。


「いや……雹華さんは私にとって大切な嫁だからな。自分のやりたいことをやってるだけだから、礼など不要だ」


 夏侯淵は徐林にとって父ではないのに、徐林の妻は夏侯淵の嫁である。


 妙な家族関係ではあったが、徐林が認めようが認めまいが現実はそうなっている。


 そしてそれで妻が笑うなら、徐林もそれでいい気がしてきた。


(夏侯淵を許すことなんてできないけど、だからってこの現実を受け入れられないわけじゃない)


 徐林はそう考え、夏侯淵が家に来ることを拒まなくなった。


 食事をしていくと言われれば、文句を言わずに食卓に同席する。


 思いやりのある言葉など絶対にかけてやらなかったが、それでも夏侯淵は嬉しそうだった。


(こんな妙な家族の中に、子供が一人増えるのか)


 徐林がそんなことを考えたのは、雹華が二度目の妊娠をしたからだ。


 三人の中に一人が増えた光景を想像して、少し笑った。そんな家族も悪くない気がする。


 が、結局お腹の子はまた流れてしまった。二度目の流産だ。


 雹華はまた落ち込み、今度はさらに焦った。


 時はどんどん過ぎてゆき、自分は齢を重ねてしまう。そして出産の機会は減っていく。


 しかも二度繰り返したのだ。もしかしたら何か体に原因があるのかもしれない。


 そう思うと落ち込むだけでなく、焦るのも当たり前だった。


「お義父様、もしよろしければ良いお医者様など紹介してくださらないでしょうか?」


 ある日、雹華は夏侯淵にそう頼んだ。


 医者と言われた夏侯淵は嫁の体を心配した。


「どこか悪いのか?」


「いえ、体は元気です。この前、人から妊娠しやすくなる生薬や妊娠を安定させる生薬があると聞いたんです。どこまで効果があるかはっきりしないようですが、試せるものは試してみたくて」


 嫁の希望通り、夏侯淵はその次に来た際に漢中で名医と評判の医者を連れてきてくれた。


 その診察中、夏侯淵は徐林を別室へと引っ張ってきた。


 それから普段はしないような険しい顔を向けてくる。


「綝、雹華さんにあまり無理をさせるんじゃないぞ」


 少しつり上がった眉根を見て、徐林は幼い日のことを思い出していた。養父に叱られた時のことだ。


 どうやら夏侯淵は徐林を叱っているらしい。


 しかし、何に関して叱られているのかは分からない。


「無理?どういう意味だ?」


「子供のことだ。二度流産を繰り返してるだろう?それなのにまたすぐに妊娠しようとしている。無理に子供を作ろうとして、雹華さんを苦しめてるんじゃないのか?」


「お……俺は別にそういうつもりはないよ。雹華自身が欲しいって言うんだから」


「それならいいが、子供を産むかどうかを決める権利は基本的に女性側が持っていると認識しておくんだぞ。そこを間違えると支え合うべき夫婦が一方を苦しめることになる。私も今回は希望に応えたが、雹華さんのためにならないようなら協力できないからな」


 思わぬ叱責と説諭に、徐林の心は動揺してしまった。


 実際に子供を熱望しているのは雹華の方なのだが、それでも少し考えようと思った。


「ま、また後で雹華とちゃんと話し合っておく」


 徐林は久方ぶりに親に叱られる子の気持ちになってから、


(こいつは親でもないのに)


と、心の中で毒づいた。


 その夜、徐林は宣言通り雹華と子作りについて話し合ったのだが、やはり雹華の希望は変わらなかった。


「私は子供が欲しいわよ。お母様が私を愛してくれたみたいに、私も子供を愛してみたい」


 徐林もその気持ちは尊重してやりたいと思う。


 ただし、少しだけ妻と認識が違った。


「親子ってのはさ、血が繋がってることでなるもんじゃないと思うんだよ」


 自分と養父のことを考えると、そういう結論に至る。


 自分たちは血は繋がっていなくても間違いなく親子だった。徐林の胸にはその絆が刻み込まれており、もはや疑いようもない。


 雹華もそれは言葉の端々から感じるから、夫の言う通りなのだとは思う。


「林の言ってること、分かるつもりよ。要は養子を取るってことよね?」


「ああ」


「そうね……私もそれで全然いいと思う。私は徐和様のことをあまり知らないけど、林の話を聞いてたら養子でもちゃんと親子になれるんだって分かるわ」


「それなら」


「それでも、まだ産めるかもしれないのに諦める理由にはならないでしょ?私が大丈夫って思う間は付き合って欲しい」


 徐林としては妻の身を案じただけで、本人が大丈夫と言うなら協力しないつもりはない。


「もちろんだ。でも無理はせず、辛かったら言ってくれよ」


「うん、ありがとう」


 妻は礼を言ってから、クスリと笑った。


「でも意外」


「何がだ?」


「林がそういうことまで気にかけてくれたことがよ。そこまで気の利く人だと思ってなかったから。嬉しかった」


 徐林は夏侯淵に言われたと白状しようか迷ったが、結局言わなかった。


 ただそれで一つ貸しを作ってしまった気分になってしまう。


 その後も二人は子作りに励みつつ、村を上手く切り盛りして少しずつ豊かにしていった。


 村人の和を取り持ちつつ、開墾を進め、徐林の商売も一部村人に回した。


 それで村人の生活、村の運営にも余裕が出てきて、笑顔も増えたように思える。


 ただ雹華にとって残念なことに、夏侯淵が来る頻度は少しずつ減っていった。


 南鄭なんていから出ることは多いのだが、寄るだけの余裕がなくなってきたのだ。


「本心としてはもっと来たいが……私の立場がそれを許さない」


 夏侯淵も心底残念そうにぼやいた。


 この男の立場とは漢中守備の長であり、都護将軍として劉備からの侵攻を防ぐのが使命だ。


 その劉備の動きが活発になっている。だから忙しい。


 曹操軍と劉備軍とは漢中周辺の土地を巡って争ったり、糧道を遮断しようとしたりと、あちこちでぶつかっている。


 今のところ徐林の村は幸いそういったことに巻き込まれず、地道に発展してきた。


 しかし戦はどちらかといえば劉備が優勢だ。前述の通り漢中は曹操にとって補給や援軍が難しい土地で、その不利は如何ともしがたい。


 劉備は時とともに少しずつ食い込んでくる。


 そして雹華が四十になる年、三度目の妊娠が叶ってしばらくした頃、徐林の村にも戦の足音が明確に近づいてきた。

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