選ばれた子、選ばれなかった子29
声は自宅の客間から聞こえてくる。
夏侯淵はたまに家へ来るようになっていた。別に暇というわけではないのだが、どこかに行くついでがあるとこの村に寄る。
(
徐林は心の中で毒づいた。
本人にはすでに口に出して言ってやったのだが、効果はなかった。だから心の中だけだ。
この男が漢中を治め始めてから四半世紀近く経っていたが、乱世の中でこれだけの期間安定させていたのは評価されていいだろう。
地形などの諸条件が良かったとしても、善政を敷いて漢中をよくまとめ上げていたのは確からしい。
しかし時代は群雄割拠から天下三分へと移りつつある。その中で国教でもない宗教勢力が独立を保ち続けるのは無理があったようだ。
張魯の降伏後、夏侯淵は
漢中は益州を獲った劉備との最前線になるため、立場的にかなりの重役だ。
そういうお偉いさんではあるのだが、夏侯淵は徐林の望むように治所に引っ込んで指示だけ出すような男ではない。
現場に自ら足を運び、自らの目で見て、自らの体を動かして、その上で他人を動かそうとした。
(出来る管理者なのは認めてやるけど、なんでいちいちうちに寄るかね)
徐林にはそれが鬱陶しくてしょうがない。
仇と一緒になどいたくないから、来ればどこかに引っ込まなくてはならなくなる。
今も夏侯淵のいる客間から一番遠くなる部屋に行き、そこで次に卸す商品の確認をしていた。
いまだに商売は続けているが、不思議と夏侯淵は徐林が家にいる時に来ることが多い。
そんな時は耳を塞ぐつもりで仕事に集中し、ただ時が過ぎるのを待っていた。
「林、そろそろご飯だから来て」
雹華が部屋に来て、そう告げた。
そういえば、少し前から声が聞こえなくなっていた。どうやら夏侯淵は帰ったらしい。
(ようやく落ち着ける)
そう思って食卓へ顔を出した徐林だったが、すぐに落ち着きは取っ払われた。
夏侯淵がまだいたからだ。食事は三人分用意されている。
「……おい、なんでまだ帰ってないんだよ」
徐林は一切の感情を隠そうとせず、不快という気持ちをぶつけてやった。
一方の夏侯淵はそれをのらりくらりとかわして見せる。
「ちょうど夕飯時だからだな。腹が減ったところに飯もできている」
しれっと当たり前のことだけ言ってきた。
(相変わらずまともに相手をしてられないやつだな)
徐林はそう思い、妻の方を向いた。
「こんなやつとは食卓を囲めない。雹華、俺は別の部屋で食べるから持ってきてくれ」
そう言って踵を返そうとすると、雹華がその肩を押さえてきた。
「嫌よ。それにあれを見て」
雹華は徐林の食卓のところを指さした。
そこには折りたたまれた手紙が置いてある。
「何だあれ?」
「お義母様からの手紙よ。お義父様が持ってきてくださったわ」
徐林はさすがにそれを無視する気にはなれなかった。
仕方ないのでいったん座って手に取り、すぐに立ち上がろうとする。
が、その肩を妻がまた押さえてきた。
「おい雹華、やめモゴッ……」
喋るために開いた口へ、雹華が食べ物を突っ込んできた。徐林の好きな肉団子だ。
「ングング……何するんだ」
「もうお義父様と一緒に食事をしてしまったわよ。一口も二口も変わらないから、ここで食べて」
徐林は目で拒否を伝えようとしたが、妻からも目で『言うことを聞きなさい』という命令が送られてくる。
夫は妻のこの目に弱い。三十半ばまで女を持たなかったから、女に強く出られた時の扱いがよく分からないのだ。
それでも徐林は不服を意思表示しようと、口をへの字に曲げて箸へ手を伸ばさなかった。
自分は母の手紙を読むためにここに座っているのだ。それを表現しようと、過剰なまでに大げさな動作で手紙を開いた。
「えーっと、なになに……」
母からの手紙の内容は、息子が里正というきちんとした立場の人間になっていることの喜び、一度とはいえ会いに来てくれたことへの礼、体の心配などだった。
徐林は読みながら、夏侯淵にぶっきらぼうな口調で尋ねた。
「母さんに俺のこと伝えたのか。っていうか、前に会った時には伝えてなかったんだよな?」
「黄巾党の暗殺者をやってる時は話すのをためらってしまってな。だから今もそのことは伏せて、漢中で里正をやってることだけ文で伝えている」
「そのままにしといてくれ。母さんを無駄に苦しめたくはない」
夏侯淵は少し複雑な気持ちでうなずいた。
徐林は母のことを『母さん』と呼ぶくせに、自分のことは『お前』もしくは『おい』だ。
とはいえ徐林が妻に対して優しくしてくれたことで、夏侯淵も大いに助かっている。
「お前が母に会ってくれてから、あれは随分と丸くなった。それで周りも楽になったし、本人も楽になったように思う」
「別に……会いたくて会ったわけじゃないんだけどな」
徐林はそう言って立ち上がった。
その手を雹華が掴む。
「林」
「すぐ戻るよ」
そう言われ、別に嘘をついているわけではなさそうなので雹華は手を離した。
そして徐林は言葉通り、いったん部屋を出たがすぐに戻ってきた。その手に木箱が一つ握られている。
夏侯淵にそれを渡した。
「これ、母さんに送っといてくれ」
「なんだ?」
「髪飾りだよ。前にあげた指輪は急いで適当になっちゃったから、今度はちゃんと似合いそうなのを選んだんだ」
徐林はそれをずっと後悔していて、良さそうな髪飾りを見つけてからずっと確保していた。村の借銭を返す時にもこれだけは手を付けなかった。
夏侯淵は妻と指輪を思い出して、つい笑ってしまった。
「適当と言う割にはえらく気に入っていたがな。あのつましい女が『私が死んだらこの指輪も一緒に埋葬してください』とまで言っていたぞ」
「そうか」
と、徐林はそっけない返事を返したが、実際のところ嬉しかった。
実父は徐林のことを置き去りにしたわけだが、実母はそれを怒っていたと桃花が言っていた。
つまり母は自分のことを捨てておらず、実際に会った時にも何か暖かいものをくれた。
だから徐林は母に対しては良い印象しかなく、喜んでくれたと聞けば素直に嬉しかった。
「私への文には漢中まで会いに来たいとまで書かれていたが、さすがにそれは止めたよ」
「ああ、その方がいいだろう。まだまだ情勢は不安定だろうからな」
今の漢中は曹操の支配地になっているが、益州を治める劉備にとってはとても無視できない状況だ。
抜き身の剣を持った敵が間合いにいるようなものだろう。
「俺としてはお前らじゃなくて、劉備に漢中を獲ってもらいたかったんだがな。漢中はその方が平和だ」
徐林の言う通り、その方が安定するのは間違いない。地形的には劉備の本拠地である成都の方が繋がりやすい。
曹操の方からだと険しい山岳地帯に阻まれて補給や援軍が難しいのだ。結果として漢中は『つけ入りやすい土地』になってしまう。
実際に曹操軍と劉備軍とは、張魯が降伏したその年から交戦を開始した。
漢中の南隣りにある
その後は両軍侵攻を控えてしばらく落ち着くのだが、劉備はもちろん漢中を狙っているだろう。
夏侯淵はその侵攻を防ぐのが仕事だ。
「それは申し訳なかったが、今さら劉備に投げ与えてやるわけにもいかないからな。私は私の任務をしっかりと果たすだけだよ」
「だったらいちいちこの家に寄らないで真っ直ぐ仕事場に行けよ」
そんな文句を言いながらも、徐林は自分の食卓についた。
そして箸を取って肉団子を口に放り込む。
「……勘違いするなよ。今日の肉団子が特に美味かったから、早く食べようと思っただけだ」
どうやら一緒に食卓を囲んでくれるらしい。
それが分かった雹華は夏侯淵と顔を見合わせ、徐林に分からないように隠れ笑った。
そして今日の肉団子が夏侯淵からのおもたせであることは言うまいと、目だけで了解し合った。
***************
「うちの村から徴兵されてた人たちが帰ってくるそうよ」
夕食が済み、夏侯淵が帰ってから雹華がそう教えてくれた。
それはつまり、村人が戦で死ぬ可能性が減るということだ。
本来なら喜ばしいことなのだが、徐林は理由が分からず眉をひそめた。
「なんでだ?曹操の支配地になった後も兵はそのまま使われるって話だったと思うが」
漢中は曹操の本拠地から遠く離れているから、出来るだけ現地の兵力を使いたい。
それに劉備との戦はいつ始まってもおかしくないのだ。その状況で兵を故郷に帰す理由などないだろう。
「うちの村は規定より多く納税するから、兵役を免除してもらえるらしいわ」
『らしい』ということは、夏侯淵がそういう話をしていったということだろう。
しかし村長の徐林は規定より多く納税するなどという話は聞いていない。
「うちにはそんな余裕なんかないぞ」
「お義父様がそういうことにしてくださるのよ」
夏侯淵は曹操から漢中の守備を一任されている。その夏侯淵がいいと言えば、それだけで通るだろう。
「なんだよ、権力者はやりたい放題だな」
村にとってありがたい話なのに徐林は反発してみせた。憎い仇に感謝する気になれない。
「そういうやつが漢中を治めてて、住人が幸せになれるわけがないよ」
「でもこの村を半分騙してた
句質は司馬倶の働きもあり力を削がれていたのだが、夏侯淵は完全に潰してしまった。
裁けるかギリギリの悪事をはっきりと糾弾し、土地財産を没収した上で農奴を開放した。侵略のどさくさで処理した形だ。
「小作農だった人たちはとても喜んでいたそうよ。住民もちゃんと幸せになってるわ」
「それは句質の罪をちゃんと調べ上げてた司馬倶様の功績だよ」
司馬倶は張魯とともに降伏したのだが、協力を条件に過去の罪を不問とされることになった。
ただ協力とは言っても、夏侯淵の仕事を手伝って生活しているわけではない。初めに統治の引き継ぎをきちんと済ましてからは、放浪するように各地を渡り歩いている。
苦しむ人々の話を聞き、太平道や五斗米道の教えで罪のあり方を説き、人の心を救おうとしているのだ。雹華のところにそんな活動の文が届く。
武力革命という夢は諦めたわけだが、ある意味で悠々自適に暮らせているのだろう。
妻は
「あのね……お義父様のことを認められない気持ちは理解できるけど、現実も見ないと駄目よ」
「現実って言われてもな」
「お義父様は真面目な働き者で、自分の苦労や損を顧みない人。それはもう分かるでしょ?うちの村の納税だって、多分だけどお義父様の私財から補填されるはずよ」
「そんなこと……」
「そんな人です。私はお義父様とたくさんお話してそれが分かったわ」
雹華は夫の目を見つめた。
大好きなその目を義父も持っているから、義父と話すのは楽しかった。
「林の気持ちも理解できるし、過去のこと全部を水に流せなんて無茶は言わないわよ。でもせめて、お義父様にも色々と仕方ない事情があったってことだけは理屈として了解してちょうだい」
「…………」
徐林は仏頂面でそっぽを向いた。そして部屋を出ていこうとする。
雹華はそれ以上同じ要望を重ねようとしなかった。
夫が反論してこないのは、理屈としてはいくらか了解してくれたということだ。
とはいえ感情は簡単ではない。そこまで理屈で片付くなら、人は生き物ではなくなってしまう。
だから雹華は夫に対する要望ではなく、未来に対する希望だけ口にした。
「最近ね、林と私とお腹の子の三人で幸せに暮らしてる光景を夢に見るのよ。二人で子供を抱きしめて、子供は笑ってるの」
「……そうか」
「でもその後ろにお義父様がいる光景っていうのも、そんなに悪くないんじゃない?」
林はその光景を想像して、少しだけ悪くないかもしれないと思ってしまった。
そんな自分を否定して思い切り首を振る。
「あんなやついなくても、俺たち三人だけでちゃんと幸せになれるさ」
そう言い残して部屋を出ていった。
徐林は自分の今言ったことを、当然にできると思っていた。
自分と妻とまだ見ぬ子供。
自分の子というのはまだ上手く想像できないが、この三人がいればきっと幸せになれる。そう信じて疑わなかった。
が、悲しいことにそれは叶わなかった。
雹華のお腹の子はこの後しばらくして、流れてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます