選ばれた子、選ばれなかった子31

「綝!!お前、どういうことだ!!なぜまだ村にいる!?」


 夏侯淵は息子を前にして、これまでないほどに声を荒らげていた。


 五歳まで育てていた時、どんなイタズラをした時でもこれほど激しく叱りつけたことはない。


「村から避難するよう文を出しておいただろうが!!この周辺はもう戦場になるんだぞ!!」


 もし徐林になんの後ろめたさもなかったなら、頭ごなしの叱責に反発もしただろう。


 しかし本人も実父の怒りはもっともだと思っているから、気弱な返事しかできなかった。


「いや……俺もそれは分かってるよ……劉備軍はもう遠くないところまで来てるんだろ?」


「遠くないどころか、やつらはすでに定軍山に陣を張り始めている!!」


 定軍山は徐林の村からほど近い山だ。村人たちにとっては故郷の景色として思い浮かべる山でもある。


 劉備は夏侯淵との決戦に望み、その定軍山に本陣を据える決定をした。


 一方の夏侯淵はこれに応じざるを得ない。籠城しようにも、漢中は曹操からの補給・援軍を極めて受けにくい土地なのだ。


「それにうちの軍の本陣も近い!!この村から北に十五里ほどの所だぞ!?今から場所も変えられん!!」


 夏侯淵は劉備が定軍山に拠ると分かってから、すぐに徐林へ文を出した。


 村がすっぽりと予定戦場に入るため、村ごと避難するよう指示したのだ。


 伝令の兵はそれをちゃんと伝え、言われた通り避難するという返事を徐林から得ている。


 しかも、少し前にこの村へ送った斥候から『村は無人になっている』という報告を受けていた。


 なのに夏侯淵自身が足を運んでみると、なんと徐林がいたのだ。しかも身重の雹華と共に。


「本当にどういうことなんだ?お前たち二人だけで、しかも高台のやしろに」


 徐林たち夫婦がいたのは自宅ではなく、山の神を祀る社だった。


 五斗米道では懺悔や自戒をしたためた紙を山・地・水の神々に捧げる。村にはその社があった。


 山の神は山上でなければならないから、社は村の中心からそれなりの斜面を登ったところではある。


 とはいえ、この周辺一帯が戦場になるのだから安全だなどとは口が裂けても言えない場所だ。


 そんなことは百も承知な徐林はうつむき、横目に妻を見た。雹華は寝間着のままで寝具に横たわっている。


 その様子で、夏侯淵には今こうしている理由が嫁にあることを察した。


 嫁もそれを隠す気はない。すぐに白状した。


「お義父様、私が林に頼んだんです。どうしても避難したくないって」


 それは真実だったのだが、夫からするとその言い方は正確性を欠く。


「いや……頼んだっていうか、ほとんど脅してただろ。避難するなら舌噛んで死ぬって」


 本当に自死するかどうかは別として、そういうことを言われると徐林としては非常に困る。この男は妻に強く出られると、どうしていいか分からなくなる。


 しかも強引に引っ張って避難させることもできない体調なのだ。


「雹華にまた流産の兆候があるんだよ。それで絶対安静を維持したいから、長距離移動になる避難はしたくないって駄々こねられて……」


 雹華はうなずいて夫の言うことを補足した。


「お腹が張って痛みもあって、少しですが出血もあります。一回目、二回目の流産の時と全く同じ症状なんです。どうも私は早く子を出そうとしてしまう体みたいで」


 現代医学で言うところの、切迫流産・早産のおそれがあるということだ。


 雹華の場合は繰り返しているし、子宮頸管無力症など母体側の要因が存在する可能性も否定できない。


「産婆さんにお話を聞いたら、今の妊娠期間だと赤ちゃんが出てきて生きられるかどうか、とても微妙なところらしいんです。だから一日でも長くお腹の中にいてほしい。でもそのためにはとにかく安静にしているしかないらしくて……」


 現代であれば子宮の収縮を抑える薬などもあるが、この時代には当然そんなものはない。


 生薬の中に筋肉の緊張を和らげるものが無いわけではないが、あくまで補助的なものと言えるだろう。だから安静が最も重要な措置になる。


 実際、現代でも切迫早産のおそれがある妊婦は状態に沿った安静の程度を指示される。長期の入院になることも珍しくはない。


「お義父様、三度目の妊娠でようやくここまで来られたんです。自分でもわがままを言っているのは承知していますが、どうかこのままここに居させてください」


 それはお願いの形を取った言葉ではあった。


 しかし夏侯淵から見ると、何を言ったところで雹華の意志は変わらないだろうと感じられた。


 見ていて危うく感じるほど強い気持ちが滲んだ目をしている。もともと気の強い女だとは思っていたが、二度の流産によってさらに精神を追い詰められているようだ。


 徐林もそういう妻を説得しきれず、結局は自分たちだけ村に残ることになった。


「この社に上がるのだってかなり揉めたんだ。なんとか頼み込んで荷車に乗ってもらったんだけど……」


(むしろ家にいた方がよかった。それならうちの兵が早めに見つけて、無理矢理にでも避難させたのに)


 夏侯淵はそう思ったが、それを言っても後の祭りだ。


 だからもう責めるのはやめて、現実的な今後の話をした。


「事情は分かった。ならもう、戦が終わるまでこの社にいろ。今さら避難しようとしたら劉備軍の部隊にぶつかる可能性がある」


 すでに両軍とも陣地を敷き始めている。警戒の斥候は出しているだろうし、伏兵を配置しようとしているかもしれない。


 特に伏兵などと遭遇したら、まず間違いなく口止めに殺されるだろう。


「ここでしばらく過ごすための物品は持ち込んでいるか?」


 徐林は部屋の隅を指さした。


 そこには食料や替えの衣類、生活雑貨などが積まれている。


「一月以上いられるようにしてる。裏には井戸もあるし、煙を出さないで煮炊きできるように炭も大量に用意した」


「それなら当面は放置して大丈夫だな。劉備軍が妙な勘繰りを入れないよう、うちの兵にもここに近寄らないよう言っておくぞ」


「分かった。この村で戦闘は起こりそうなのか?」


「実際に戦闘になるかは分からんが、うちの軍はこの村を防御陣地の一つとして使う。今はそのために逆茂木さかもぎ(木の枝を並べた防柵)を設置しているところだ」


 夏侯淵はそういった事情で徐林の村に足を運んでいた。陣地構築の視察で現場を回っているのだ。


 今いる社は山上なので村の中心からは離れているが、念のため確認しに来た兵が徐林たちを見つけた。


 それが夏侯淵に報告され、今に至る。


「すまんが家や田畑を防御設備として使わせてもらうぞ」


 徐林は無言でうなずいた。


 村を荒らされるのは当然困るが、今から始まるのは殺し合いなのだ。もはや仕方ないと分かっている。


「この社は小さいし、地形的に見ても戦術的な価値はほとんどない。ここで大人しくしていれば、戦が終わるまで何事もなく過ごせるかもしれん」


 この発言にはかなり希望的観測が入っている。


 実際に夏侯淵の兵はこの社に足を伸ばしているし、劉備側の兵が来て乱暴しないとも限らないだろう。


 仮に張飛の関係者だと言ったところで、果たして信じてもらえるか。今は戦の最中で、兵に理性的な反応を期待することはできない。


 夏侯淵は構築中の陣地を見下ろし、決意を新たにした。


「要は、ここを劉備軍に取られなければいいということだ。厳重な陣地設営を改めて指示しておく」


 雹華は寝具の上で、首だけ動かして謝意を示した。


 安静にしないといけないため動きは小さいが、義父へ気持ちを込めて叩頭したつもりだ。


「お義父様、ありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


 夏侯淵は礼と謝罪とを受け、うなずいてから小さなため息をついた。


「今回のことは決して褒められることではないが……気持ちは少し理解できるつもりだ」


 夏侯淵は雹華とよく話をしたから、その苦しみを知っている。だから単純に責める気にはなれない。


 この数年で仲良しと言えるほどの関係になった嫁へ、優しく微笑みかけた。


「子が無事に産まれるかどうかは、ほとんどが天の采配次第だと思う。だからあまり思い詰めず、気持ちを楽に持ちなさい。その方がお腹の子にも良い気がする」


 義父の暖かい眼差しに、雹華の目には涙がたまった。


 再度、心を込めて頭を下げる。


 夏侯淵はそれにうなずき返してから、息子へと向き直った。


 その肩を叩くようにしながら手を置き、将特有のどっしりとした声をかけた。


「雹華さんが心安らかにいられるかどうかはお前次第だ。しっかりと妻に尽くすんだぞ」


 これまでの徐林なら、実父からこんなふうに訓示をされれば怒って腕を払い除けただろう。


 しかし今は不安定な妻の体とお腹の子、そして出産という未知の領域を目の前にしている。正直なところ、不安で押し潰されそうだ。


 そんな中、齢を重ねた実父の重みが頼りにすら思えてしまった。


 ほとんど無意識にうなずいてから、気恥ずかしげに視線をそらした。

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