選ばれた子、選ばれなかった子16
この少し前、曹操の討伐軍が予想外の早さで来たという情報が入ったのだ。
徐林もそれを聞いてさしたる時間も空けずに出発しているから、第一報が届いてほどなく来たことになる。
ちょうど対応に追われている所だったらしく、あちこちで怒号が上がっていた。
「矢がまだ十分用意できてないってどういうことだ!?」
「こんなに早く来るなんて思ってなかったんだよ!文句があるなら曹操に言え!」
「おい、武器庫の鍵がねぇぞ!」
「壊しゃいいだろ!とにかく急ぐんだよ!」
皆、慌てふためいていた。
ただその中で一人、落ち着いた様子で指示を出している男がいた。
「落ち着け、楽安の城壁は高く固い。城門を閉じるだけでしばらくは保つのだから焦る必要はないのだ」
そういう立場ある男らしく、どっしりと構えていた。
徐林はその司馬倶の前へ走り出た。
「むっ……誰かと思ったら徐林ではないか。
徐林は徐和の側近として組織運営に関わっていたから、当然司馬倶とも顔馴染みだ。
互いのこともよく知っている。
(この人がいれば楽安の方もいい戦いをしてくれるはずだ)
司馬倶は骨のある男だから、そんな信頼まであった。
「これを」
徐林は挨拶も抜きに、すぐ書状を差し出した。
司馬倶も即座に受け取り、機敏な動作で踵を返して奥の部屋へと入っていった。
おそらく書状の中身を部下たちに見られることを避けたのだろう。内容によっては秘すべきこともある。
徐林がしばらく部屋の外で待っていると、
「入れ」
と声がかかった。
言われた通り入ると、司馬倶はまだ書状に目を落としていた。
徐林が前に立って、ようやく顔を上げた。
「すまんが、私は逃げるぞ」
徐林は耳を疑った。
この男なら敵の大将を殺す効果をよく理解し、すぐにでも動いてくれると思っていたのだ。
それがまさか逃げるとは。
「司馬倶様、ここで敵将をやれれば時間稼ぎになるだけでなく全土の黄巾勢力を引き込むきっかけにも……」
「そんなことは分かっている。というか、それは徐和の方便だ」
「……方便?」
徐林は意味が分からずオウム返しにした。
それを司馬倶の方も繰り返す。
「方便だ。徐和はお前を逃がすため、嘘をついて済南から出した」
「そんな」
「私への書状にそう書いてあるのだから間違いない。何なら読むか?」
徐和はそれを広げ、徐林に手渡した。そして一文を指差す。
そこには確かに『暗殺任務の方便で息子を逃がす』と書いてあった。
「敵が楽安と済南を同時攻撃するというのは嘘で、夏侯淵はまっすぐ済南を攻めるだろう。私も城壁の状態は聞いているが、長くは保たないのだな?」
その確認に対する徐林の答えは肯定なのだが、そもそもの話が受け入れられない。
書状を床に投げつけた。
「冗談じゃない!!じゃあ、父さんは俺だけ逃がして自分は死ぬつもりだって言うんですか!?」
「そういうことだな。お前はよく愛された息子だよ」
司馬倶は本心から、そして優しさから言ってやったつもりだが、徐林がそれで満足できるはずなどない。
司馬倶に詰め寄って袖を掴んだ。
「今からでも遅くありません!済南へ応援の軍を送ってください!」
「遅いさ。徐和も不用意な出兵で無駄に兵を損なわないよう書いてくれている」
「だからって逃げるなんて」
「私の中では楽安と済南の連携が蜂起の大前提だった。もはやこの戦に勝ち目はない。無駄死にするくらいなら逃げた方がいいだろう」
無駄死にと言われ、徐林は腹が立った。
掴んだ袖を強く引く。
「父さんを見捨てて、無駄死にさせようとしているのはあなたでしょう」
言われた司馬倶の方も腹を立てた。
苛立ちもあらわに徐林の腕を振り払う。
「知ったふうな口を利くな!私と徐和はそのような軽い関係ではない!お前には響かなかったようだがな、私たちは罪の認識が人の世を変えるという点で分かり合えた同志だったのだ!私は生きて徐和の分まで働かねばならんし、徐和もそれを望んでいる!」
司馬倶は毅然と言い放ってから、書状の一枚を掴んだ。
それを徐林の胸に押し付けてくる。
「お前も自分の気持ちばかりを押し付けず、父の気持ちを汲んでやれ。徐和はお前の幸せをよく考えているのだぞ。この文はお前宛てで、読めばそれが……」
「うるさいっ!!」
徐林は腕を振ってそれを弾き飛ばした。
書状が宙で広がり、ゆっくりと落ちていく。
「何が俺の幸せだ!!父さんが死んで、俺が一人になって、それで幸せなわけないだろう!!」
それだけ言うと、すぐに振り返って走り出した。
いかに司馬倶がこの場の実力者であっても、父を助けてくれないなら意味はない。話している価値などないのだ。
(時間の無駄だ)
そう思い、父の元へ向かう。
その背中へ司馬倶から制止の言葉が投げられたのだが、もはや聞こえてなどいない。
今の徐林には父を助けること以外に意味も価値も見いだせなかった。
全速力で厩舎へと向かい、馬を二頭引いた。一頭は替え馬だ。
「済南まで大至急の伝令だ」
それだけ言うと、馬を管理していた兵は一切の疑いなく送り出してくれた。
状況が状況だったし、徐林の形相を見てよほどの急ぎなのだと思ってくれたようだ。
実際、徐林はこれ以上ないほどに急いでいた。焦っていた。
父が死んでしまう。自分は一人残されてしまう。
「なんで、なんで一人でいくんだよ……なんで俺を置いていくんだよ……」
徐林は疾走する馬に揺られながら、幼い日の幻影を見ていた。実の父が自分一人を置いていく幻影だ。
幻の中で、実父の顔と養父の顔が重なる。
あれがまた再現されるのかと思うと、徐林の唇は鮮やかなほどに青ざめた。
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