選ばれた子、選ばれなかった子15

 その朝、徐和と徐林が自宅で朝食を摂っていると、急に廊下から慌てた足音が響いてきた。


 そして断りもなく扉が開け放たれ、部下の一人が叫ぶような注進を入れた。


「曹操の派遣した軍が近づいています!明朝にはこの街に着く模様!」


 徐和は信じ難い気持ちでその言葉を聞いた。


 早過ぎるのだ。厳しく見積もった到着予定より三日も早い。


(まさかこの早さで……城壁はまだ直っていないぞ)


 我が耳を疑うのと同時に、軽い既視感に襲われた。


(そういえば曹操との初戦でもこんな気持ちで奇襲の注進を受けたな)


 そう思い、反射的に問うた。


「敵将は?」


「夏侯淵とのことです!!」


 徐和と徐林の親子はグッと言葉に詰まった。


 二人とも徐林の実父が夏侯淵であることを確信しているわけではないのだが、もしかしたらと思っている。


 少なくとも十四年前の戦では夏侯淵の部隊に所属していた。それははっきりと分かっているのだ。


 だが徐林にとって実父は思い出したくない傷でもある。それを無視する形で将についての話は避けた。


「……ありえない、こんなに早く来るなんて。何かの間違いか、近場の軍が曹操の本軍に擬態してるんじゃないの?」


「おっしゃる通り泰山・斉・平原(済南の隣接地)の兵も多いようですが、中心になっているのはぎょう(曹操の本拠地)から来た軍とのことです」


「鄴からって、鄴からここまでどれだけ……」


「いや」


 と、徐和は首を横に振って息子の言葉を否定し、将に関する話に戻した。


「夏侯淵のことは私も少し調べたことがある。六日で千里を征くと言われているそうだ」


「六日で千里?まさか、そんな」


 徐林はまだ信じられなかったが、そのまさかが史書に記されている。


典軍校尉てんぐんこういの夏侯淵、三日で五百里、六日で千里』


 この男は雷槌いかづちのような速度で行軍して敵の不意を突くことから、軍中でそう讃えられていた。


 これを現代の単位に直すと一日あたり約七十キロ強になるが、自動車などのない時代の行軍速度としては異常だ。


 もちろん諸条件にもよるが、歩兵を含む通常の軍ならこの半分も進めればかなり早い方らしい。


(軽騎兵のみの強行軍で先行し、周辺地域の兵を吸収して一軍となしたか)


 徐和はおそらくそういうことだろうと推察した。


(ただ、それにしても早いが……)


 騎兵だけで動いたとしても早過ぎる。


 しかし、そこはそれが出来る将なのだと納得するしかない。現に夏侯淵は来ているのだ。


 こちらとしてはかなり痛い状況にある。


『兵は神速を尊ぶ』


 とは同じ曹操の臣下である郭嘉カクカの言だが、それがまさに顕現しようとしていた。


 城壁の補修はまだ不十分で、そこを攻められれば守り切るのは難しいだろう。


 そもそも籠城による長期戦に持ち込むのが基本方針なのに、これでは根本から瓦解してしまう。


 眉間に深いシワを寄せた徐和を見て、徐林は勢いよく立ち上がった。父を勇気づけるつもりで床板を踏み鳴らす。


「俺は城壁の補修現場に走るよ。完璧じゃなくても、明朝までになんとか形にするよう指示しとく」


 徐和も動き出した息子を見て、自分のすべきことを理解した。


 悩んでいても仕方ない。現実に対処するためには動くしかないのだ。


「そうしてくれ。私は明日開戦のつもりで準備を進める」


 徐和も息子に倣って勢いよく立ち上がった。


 徐林はその様子に少しだけ安心し、一度うなずいてから部屋を飛び出した。


 廊下を風のように走り、道を雷槌のように走る。


 街の中央にある屋敷から城壁まであっという間に着いた。


 そして工事の責任者に事情を説明すると、予想通りの返事が返ってきた。


「む、無理ですよ!明日の朝までになんて!」


「完璧に直すのが無理なのは分かってます。とりあえず戦えるようにしてもらえたら」


「とりあえずって……見た目は完全に直ってるようにするんですか?」


「いや、さすがに城壁のことはもう知られてると思います。それで落とされたわけですから。むしろ見た目は捨てて、少しでも強くしてください」


「でも目立つと集中して攻められませんかね?」


「それならそれで、こっちも戦力を集中できますし。戦いながらでも補修を続けてもらうからそのつもりでいてください」


 工兵であれば当然そういうことも覚悟しているだろうが、それでもこの責任者は青い顔をした。


 今までだって大急ぎで直しているのだ。これからどうしようが、かなりの高確率で破られるであろうことが誰の目にも明らかだった。


(なんとかしないと……)


 徐林は細かい話を詰めてから、硬い表情で役所へ向かった。


 そこで父が開戦の準備をしているはずだ。


 しかし、このまま普通に戦ったのでは勝てない。何か打開策を考えねば。


(例えば、敵将を殺せれば)


 暗殺者として育てられた徐林はまずそれを考えた。


 組織は頭を潰されれば混乱に陥る。それは軍とて例外ではない。


 その間に城壁を修復し、守備体制を固められないだろうか。


(でも平時ならともかく、戦時下の将を暗殺することなんて出来るか?)


 徐林の暗殺知識を総動員したが、さすがに難しそうだ。


 それでも何とかならないかと頭を捻りながら徐和の元へ着いた。


 父は卓に座っていくつかの書状を読んでいた。片手に筆を持っているので、自分で書いたものを読み返しているようだ。


 部屋に入ってきた徐林を一瞥すると、それをバサリと上げた。丁寧に折りたたんだ上で複数枚をまとめ、板で挟んで紐で縛る。


 それを徐林に差し出した。


「その文をどこかに届ければいいの?」


 どう考えてもそういう指示が出る格好だったが、父はそれを部分的に否定した。


「そうなのだが、一番頼みたいのはそれではない。夏侯淵の暗殺だ」


 言われた徐林の目はスッと暗くなった。自然と全身が脱力し、気配が薄くなる。


 父から暗殺を命じられた時、条件反射でこうなるのだ。幼い頃から刻み込まれた癖のようなものだった。


(実の父かもしれない男の暗殺命令でもこうなるか)


 徐和は夏侯淵に同情するとともに、己の罪を思った。


 この暗殺人形を作り上げてしまったのは自分なのだ。親が子をこのようにして良い道理などない。


「手立ては?」


 徐林は短く聞いた。


 父がこう言っているということは、成功させるための糸口があるということだ。


「夏侯淵はここ済南を通り過ぎ、楽安へ向かうという情報が入った」


「先に楽安を攻めるってこと?」


「いや、正確には同時だ。夏侯淵が楽安に着く頃、済南に後続部隊が着くらしい。楽安と済南の連携を警戒し、同時攻撃にこだわっているとのことだ」


「なるほど……確かにもともとそのつもりではあったけど、今そこに警戒してもらえるのは助かるね」


「それで、だ。楽安の城外には手頃な位置に手頃な村があるだろう」


 そこまで聞いた徐林には、その先がもう分かった。


 攻める軍にとって陣地にするのにもってこいな村があるのだ。


 楽安を包囲するのに程良い距離な上、高台にあるから防御力もある。攻城戦において村ごと接収しない理由がない。


「そこに俺が潜んでおけばいいんだね」


「そうだ。住民はあらかじめ避難させるよう司馬倶シバグに依頼しておく。そのための文を届けてくれ」


 人がいなければ、夏侯淵の軍はより入りやすくなるだろう。


 そこに徐林が潜んでおき、暗殺を遂行する。


 待ち伏せできるなら成功の目があると徐林も納得した。


「分かった。すぐに出るよ」


 なんの迷いもなく書状を受け取った息子に、父は苦笑した。


 成功の目があっても、とんでもなく危険な任務であることは間違いないのだ。


 暗殺は軍の真っ只中で行わなければならない。生きて帰れる可能性は低いだろう。


 それを命じた徐和は矛盾した行動を取った。


 書状を持った徐林の腕を掴み、引き寄せて抱きしめる。


 それから愛おしげに息子の頭を撫で、深い息を吐いた。


「私は大義のために生きてきたつもりなのだがな。実は今さらだが大義よりも大切だと思うものがある」


「……?それは何?」


「お前だよ、林。正直に言うと、私は大義よりもお前の方が大切だ」


 徐和の言動はやはり矛盾している。


 大義のため、息子を死地に送り込む命令を出しておきながら、息子の方が大切だと言うのだ。


 しかし徐林は矛盾しているとは感じない。


 幼子が親の言うことを無条件に受け入れてしまうように、父の命令と言葉をそのまま受け入れた。


「ありがとう。俺、出来るだけ生きて帰れるようにするよ。でも任務はちゃんと果たすから」


 徐和はそう言う息子を離し、名残惜しそうに頬を撫でた。


(この顔を、この頬の感触を、私の魂に刻み込もう)


 そうすれば、きっと自分たちはずっと一緒にいられる。


 そんなことを思いながら、最後の命令を下した。


「詳細は司馬倶への文に書いてある。あいつからしっかりと話を聞き、任務に望むように」

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