選ばれた子、選ばれなかった子17
とにかく限界まで速い行軍速度を維持する。それは周辺地域の軍を吸収しても同じだった。
休憩を最低限にし、ついて来られない者は置いていく。日が落ちても行軍を止めない。
黄巾軍は自分たちが明朝に着くと思っただろう。
しかし実際に着いたのは深夜で、しかも夜明けを待たずに攻撃を開始した。
ただし、攻撃していた時間はごく短い。
目標は決まっていたし、その目標はすぐに達せたのだ。
「あの城壁、本当にボロだったのだな。不意を突けたとはいえ、ここまであっさり崩せるとは思わなかった」
夏侯淵は崩れた城壁を遠目に眺めながら、正直な感想を漏らした。
城壁を崩した時点で攻撃の手を止め、今は街を遠巻きに包囲している。
もはや籠城は不可能だ。勝敗は決した。
だから互いに無駄な被害を出さぬよう、降伏を勧告している。
その返事待ちをしている状況なのだが、相手は宗教勢力だ。徹底抗戦を選択されると厄介なので、夏侯淵の方から破格の条件を提示した。
『首謀者および不服従者以外の生命は保証する』
つまり、首謀者一人の首で済ましてやろうというのだ。
もちろん始末した方が良さそうな人間がいれば不服従ということで殺そうと思っているが、ほとんどの幹部は助かる。
(これなら綝に手をかけなくて済むしな)
夏侯淵にとってはそれも大きい。
城壁だけ壊してすぐに手を引いたのも、綝が戦死する可能性を減らしたいというのが正直なところだ。
ただし、さすがに首謀者である徐和までは助命できない。
曹操が夏侯淵に一任してくれたと言っても、徐和たちは地方の高官を殺害しているのだ。そこまでして蜂起した武装勢力を全員助けてやれるわけがない。
(徐和に対して個人的な含みがないわけではないが……)
自分でもそれは分かっているが、あえて目を向けていない気持ちで処置を命じた。
「あそこまで城壁が壊れてたら、さすがに降伏だろうなぁ」
と、供回りの一人がつぶやいた。
(そう願いたいが……)
夏侯淵が心の中でそう祈っていると、城門が開き始めた。
「全軍、警戒体制を取れ!!」
夏侯淵は念のため声を張り上げたが、城門から出てきたのは一騎だけだった。
騎馬がまっすぐ夏侯淵の本陣へと向かってくる。
遠目にも、夏侯淵はそれが誰かすぐに分かった。たった一度しか面識がないにも関わらずだ。
そして目の前まで来たその男に対し、第一声で確認する。
「徐和、だな?」
徐和は目だけでうなずき、自分からも確認した。
「そちらがこの軍の大将、夏侯淵殿で間違いないかな?」
「ああ、そうだ」
「では早速返答をさせていただこう。そちらの降伏勧告を受け入れる。私の命一つで他の信者たちを助けてくれ」
夏侯淵はその返答に内心安堵したものの、厳しい顔は崩さなかった。
「使者も立てずに本人が来たか」
「誰も使者になりたがらなかったのだ。私一人を死なすのに遠慮があったのだろう」
「随分と慕われたものだな。しかし念押しだが、お前以外でもこちらの指示に従わない者や反抗的な者の命までは保証できんぞ」
「分かっている。部下たちには私が処刑されようとも、処刑前後でどんな扱いを受けようとも、服従を貫き通すよう言い聞かせてある」
「お前の言うことを聞くのだな?」
「十四年も組織を引っ張ってきた。そういう自負はある」
「ならばとりあえずの降伏処理が終わるまでは生かしておいてやる。こちらの要求を元にお前が指示し、武装解除しろ」
「承知した」
この男は仲間の命を助けるため、死にに来たのだ。
ならば死ぬまで服従を通してくれるだろうと夏侯淵は判断した。ならば面倒なゴタゴタが起きないよう、任せた方がいいように思える。
(綝のことを聞きたいが……)
さすがにそれは将として、公人として控えた。私情よりも先に公務を果たさなければならない。
「では、頼んだぞ」
徐和は夏侯淵に頼まれた通り、滞りなく武装解除を進めてくれた。
武具は没収され、兵たちは少人数に分けられていったん拘束される。
不満な者もいたはずだが、音頭を取ったのが徐和だから表立った抵抗も見られなかった。
それらの処置が一段落つき、街の支配者が完全に入れ替わってから、夏侯淵は徐和とあらためて対面した。
普段は行政官の執務室として使われている一室だ。高官の居住空間でもあるためか、結構な広さがあった。
しかし今その大部屋に今いるのは夏侯淵と徐和の二人だけだ。夏侯淵が望んでそうした。
すでに夜が更けており、外は闇に閉ざされている。しかし部屋にはいくつもの灯火があって、互いの顔はよく見えた。
「十四年ぶり、か」
まずそう口を開いたのは徐和の方だった。
十四年前、この男は『林を返せ』と言っていた。そして自分の顔を見てすぐに徐和だと分かった。
おそらく十四年前の邂逅を覚えているのだろう。
(ひと目見ただけの私の顔を、よく覚えているものだ)
それは徐和も同じだったのだが、夏侯淵からはどことなく執念のようなものが感じられる。
今の今まで林のことを口にしなかったことで逆にその印象は強まった。
そして夏侯淵はもうその執念を抑えるつもりはない。徐和の言葉は無視し、剥き出しの感情のまま問いたいことを問うた。
「綝は、私の息子はどこだ?」
その言い方に、徐和は意地悪を返してやりたい気分になった。
「この部屋の、そこの床を見ろ」
徐和の指さした先を見ると、床板がドス黒く汚れている。
軍人である夏侯淵には、それが血痕であるとすぐに分かった。
「それは林が流したものだ」
「ま、まさか……蜂起の際に死んだのか!?」
想像以上に想像通りな反応で、徐和は鼻から息を吹き出した。
「いや、林がここで敵の指揮官を暗殺した時に流した血だな」
(なんだ、良かった……)
と、夏侯淵は思ってからすぐに思い直した。
だから良いなどということは決してない。
「……人の息子を暗殺者に仕立て上げて、それをからかって楽しいか」
そう言われては、徐和の方もただ笑っているわけにはいかない。
真顔になってから目を伏せた。
「それに関しては私としても自らの罪だと認識している。幼い子に無理をさせ、今日に至るまで非情なことをさせてしまった」
素直な懺悔ではあったが、夏侯淵はそれで満足などしない。
むしろ厳しい目で徐和を睨みつけた。
「太平道ではそうやって懺悔して
「そういうわけではない。ただ、罪の呪縛を少し緩めてはくれるな」
徐和はそれこそが人を救うと思っているのだが、夏侯淵にとってはどうでもいい話だった。
「御託はやめよう。綝はどこにいる?早く息子を返せ」
「私は自分の罪を認めるが、それに関しては認識の相違がある」
「なに?」
「林は私の息子であって、貴様のではない」
夏侯淵は目を細くして徐和の瞳を見返した。
「暗殺者として育てた子を自らの子だと言うか」
「貴様こそ、子を見殺しにしたくせにその親だと言う気か。私は見ていたぞ」
「……っ!!見ていたなら分かるだろう!!やりたくてやったことではない!!」
「だとしても、それは貴様が選択したことなのだ。そして貴様自身が罪だと思っている」
「……」
「顔を見れば分かるのだよ。罪というものについて考え続けた半生だったからな。もし貴様がその苦しみから救われたいと願うなら、罪を自ら懺悔し……」
「黙れぇ!!」
夏侯淵は腰の剣を抜いて空を斬った。
その風音が徐和の鼓膜を打つ。
「それを引き起こした人間が言えたことか!!あの時、お前たちさえ街を襲ってこなければと、私がどれだけ恨んだか……」
「それこそ軍人である貴様の言えたことか。貴様らが軍を進めたところの幾人が似たような恨みを持ったと思う?」
夏侯淵は徐和の喉元に剣を突きつけた。
「……もういい、下らん言い合いはやめだ。綝がどこでどうしているのかを吐け。正直に言えば、せめて楽に殺してやるぞ」
徐和はゆっくりと息を吸い、その倍の時間かけて吐き切った。
その一呼吸の間に自省したのだ。罪で人の世を救おうとした自分は感情を御しきれず、目の前の男をただ激高させてしまった。
息子に対する愛が、その実父への憎しみへと変わってしまったのだ。
(つくづく人というものは罪な生き物だな)
そんなことを思いながら答えた。
「別に楽に殺してくれんでも答えるさ。林は楽安へ逃がした」
「そうか……楽安にいるんだな?」
「いや、そこからも離れて身を隠すよう指示を出している」
「なんだと!?なら、今はどこにいる!?」
「私にも分からん。どこか戦から遠い地へ移り、そこで静かに暮らすよう伝えたのだ」
「なぜそんなことをした?私に綝を渡すのが気に食わなかったのか」
そういう気持ちもないではなかったが、それでも徐和は明確に否定した。
それが息子のためであると確信していたからだ。
「違う。五歳までの林しか知らない貴様には分からないだろうが、林は私や貴様とは違うのだ」
「……?どういう意味で言っている?」
「大義や夢のため戦うことに、意味を見出せる人間ではないということだ。貴様も将をやっているからには、そういうものの一つくらいあるだろう?」
夏侯淵はその言葉で、息子のことをなんとなくだが一つ理解できた。
自分は曹操という子供のような天才が創る世を夢見て戦っているし、徐和も太平道の世を創るという大義を掲げて戦っている。
ただ、そういったことに価値を見いだせる人間ばかりではないことを夏侯淵はよく知っていた。
兵の中には仕方なく戦っている者や流されて戦っている者も多くいて、そういった人間とは戦う意味を語らっても曖昧にうなずかれるだけで終わる。
「……今後の綝が必ずしも戦うことになるとは限らんだろう」
「そうかもしれんが、林は強い。それにこれまでも意味を見いだせずとも疑問なく戦ってきた。この戦乱の時代、結局は戦に巻き込まれる可能性が高いと私は判断した。そして、それは林の幸せにならない」
夏侯淵はそう言われ、胸に針を刺されたような気分になった。
確かに自分は賊の暗殺者であった綝に罪を
賊を二つ三つ潰させれば、夏侯家の人間としても大手を振って生きられるようになるだろう。
しかし息子と長く過ごした養父はそれが息子の幸せにならないと言う。
痛いところを突かれたような気分になり、それ以上は徐和を責めるのをやめた。
「……分かった。どこにいそうかはお前にも分からんということだな?」
「貴様の労力を減らすために伝えておくと、曹操の勢力圏は避けるよう書き添えておいた。曹操は今後も戦い続けるだろうからな。だから少なくとも、今の貴様が探せる範囲を探しても無駄だ」
「その助言に感謝し、最期に言い遺しておきたいことがあれば聞いてやろう」
夏侯淵は突きつけていた剣を上げ、八相に構えた。
もとより今夜徐和を斬るつもりで対面しているのだ。武装解除は済んだし、聞くべきことも聞けた。
普通なら賊の長は公開処刑した上で見せしめに首を晒すが、相手は宗教勢力だ。
聖人のようになられても困るので、『いつの間にか処刑が済んでいた』くらいがちょうど良いだろう。
それに処刑人が狂信者に狙われても不憫だから、夏侯淵が直々に手をかけることにした。
徐和も蜂起した時からいつ殺されるとも知れぬと覚悟している。うろたえなど微塵も見られなかった。
「貴様に言い遺したいことといったら、貴様を罪の苦しみから救う術に関してだが……」
「いらん」
「……そう言うだろうな。ならば代わりに、一つ伝言を頼めるか?」
「誰にだ?」
「我が愛する息子にだ。どうせ今後も探すのだろう?」
夏侯淵にはやはりその言い方が腹立たしかったものの、相手は死を目の前にした一人の人間だ。
そこはきちんと感情を抑えてうなずいてやった。
「もし会えたら、伝えてやろう」
「助かる。あの子には文を書き遺しておいたのだが、後から書き足しておけば良かったと後悔していたことがあるのだ」
徐和は夏侯淵の目をじっと見つめながらそれを伝えた。
息子によく似た目だった。
それを羨ましいとは思わない。そんな類似点がなくとも、自分と林とは間違いなく親子だった。
ただ一つ、たとえ本物ではなくとも、最期に見るのがこの目で良かったとは思った。
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