選ばれた子、選ばれなかった子11
その後嫁入りまでの間、結局桃花は張飛に会えなかった。
なにか理由をつけて外出しようとすると、必ず使用人が付くのだ。
「花嫁の身に何かあったら大変ですから」
そのように言われたが、要は夏侯博からそういう命令が出ているのだろう。政略結婚が決まった途端にこれだ。
(何よ、ついこの間まで一人で山に入らせてたくせに)
そんな悪態を心中でついたが、現実は何も変わらない。
十日の間、酒が飲めなくて残念そうな顔をしている超飛を想像して、胸を締め付けられるような気分がした。
ただし、そんな風になるのは残念そうな顔を思い浮かべた時だけではない。
ふとした拍子に楽しそうな超飛の笑顔が浮かび、その時も同じように胸が締め付けられるのだ。
(会いたい……張飛さんに、会いたい……)
毎日そう思いながら、あの山小屋に行けないまま嫁入りの当日になってしまった。
「桃花様はもともと少食でいらしたのですね。好きなだけ食べていいと言われても、あんまり召し上がらないから」
使用人が花嫁衣装への着替えを手伝いながら、そんなことを言ってきた。
この十日間、胸が苦しくて食事が喉を通らなかったのだ。それで少し痩せてしまった。
(張飛さんの焼いたお肉が食べたい)
帯を締められる桃花がそう思った時、部屋の外から声がかかった。
夏侯博の声だ。
「花嫁の準備は順調かな?」
それには使用人が答えた。
「はい、もうほとんど終わりました」
「そうか。窮屈な格好をしたところですまないが、顔見せの時刻が予定より少し遅くなる。新郎が遅れているらしくてな」
「そうですか……どうしましょう?一度脱いで楽なようにしましょうか?」
「いや……それほど遅くはならないと思うのだが……多分……」
どうやら夏侯博の方でも事情を把握していないらしい。
よくは分からないが、桃花は新郎が来るまでの間一人になりたいと思った。
というか、夏侯家の人間と一緒にいたくなかったのだ。
(政略結婚が重要なことくらい、分かるつもりだけど……)
桃花はそれを理解できる程度の頭は持ち合わせている。
しかし自分は家の人間たちにとって道具のようなものなのだと思うと、良い感情など抱きようがなかった。
「先方の準備ができるまで、一人にさせていただいてもいいですか?」
断る理由のない夏侯博は了承した。
この男なりに、養女が突然の縁談に戸惑っているだろうという気遣いもある。
「ああ。緊張もしているだろうし、一人になって少し落ち着くといい。だが、そもそもあまり気を張る必要などないからな。新郎は至極気さくな方で、肩肘張る必要は全くない」
(とんでもない荒くれ者だって話じゃない!!)
心の中だけでそう言ってやり、口では礼を言って新婦の控室に入った。
一人になって、青いため息を吐く。
そうして部屋の窓から外を見つめていると、一羽の鳥が庭木の枝に降り立った。
名の知らぬ鳥だったが、尾羽根が鮮やかで美しい。
その鳥が可愛らしくさえずっていると、また別の鳥が現れた。
どうやら雄と雌のようだ。二羽はしばらくお互いを探り合うようにしていたが、やがて雌が雄に引っ張られるようにして飛び立った。
どこかで
(いいな)
これから番になるはずの桃花はそう思った。おかしな話だが、羨ましいと思ったのだ。
(私もさっきの鳥みたいに飛び立ちたい)
そう思った時には窓枠に足をかけ、身を乗り出していた。
不思議なほど何の迷いもなく地面に降り立つ。それから走り出した。
お世辞にも動きやすい格好ではないのだが、気にならなかった。
そんなことよりも、今から自分が行く場所のことばかりを考えて胸が弾んだ。
(早くこうすれば良かった)
桃花は大汗をかきながら走った。
化粧が落ち、袖で汗を拭ったから花嫁衣装の袖も汚れた。足元は走り始めてすぐに土まみれだ。
そして息を切らしながら、張飛と会っていた山小屋にたどり着いた。
その扉をくぐり、食べ物が山積みになっているのを見た桃花は胸が熱くなった。
張飛は自分が十日も来ていないのに、どうやら毎日食べ物を持って来てくれているようだった。どう考えても一日二日で運べる量ではない。
すぐに来ないかもしれないと思ったからか、内容は干した肉や魚、キノコなどの保存食が多くなっている。
(張飛さん、私がいつ来てもいいようにしてくれてるんだ)
そう思うと、桃花の目には涙が浮かんできた。
そして浮かんだ涙は張飛の残した書き置きを見ると、すぐにあふれてポロポロとこぼれてきた。
張飛は桃花の身を心配してくれていた。
『体は大丈夫か?病なら腕のいい軍医に診せてやれるから連絡をよこせ』
『面倒ごとに巻き込まれているなら俺が何とかしてやる。力づくでも助けてやるから、何でも言え』
そんなことが、あまり上手くもない字で心を込めて書いてあった。
桃花はそれを握り締め、胸に強く抱きながら泣いた。
泣きながら、自分はこの人のことを愛しているのだと自覚した。
(張飛さん……張飛さん……張飛さん……)
心の中で呼び続けると、突然応えが帰ってきた。
「桃花?」
振り返ると、張飛がいる。
ずっと会いたかった張飛が立っているのだ。
「張飛さん!!」
桃花は張飛に抱きつき、胸に顔を埋めてまた泣いた。
張飛はその様子に狼狽しながらも、どこかホッとした様子で背中を撫でてやった。
「どうしたんだよ?まぁとりあえず体は無事そうで安心したが……」
大きな手の感触が、とても愛おしく感じられる。
桃花は身を預けるようにしばらく泣き続け、張飛の服に大きなシミができた頃に顔を離した。
それから事情を話すことにした。
「……私、結婚することになったの」
「なに?……ああ、そりゃ花嫁衣装なんだな。えらく汚れちまってるが」
「汚れてたっていいよ。結婚したくないの。相手がとんでもない荒くれ者だって話で、それなのに家の都合で無理やり結婚させられるだから」
「そうか……そりゃ辛いな。なんとかできるもんならしてやりたいが」
「じゃあ私を
「さらっ……!?」
さすがにその解決法は念頭になかった張飛は驚いた。
やったとしても新郎をぶっ飛ばし、『桃花にひどいことをしやがったらタダじゃおかねぇぞ』と脅すくらいのことを考えていた。
それがまさか花嫁を攫えとは。
ただ、張飛も桃花のことをかなり気に入っている。
いや、気に入っているという程度では済まないような感情があるから、こうして毎日山小屋まで通っているのだ。
「……それが本当に桃花のためになるなら、攫ってやらんこともないが」
「本当!?」
「いや、でもちょっと待て。実は俺の方も面倒なことになっててな」
「面倒なこと?」
「お前と同じ結婚だよ。兄貴に言われて、俺の方も結婚することになっちまったんだ」
「…………」
桃花の頭は、養父から縁談の話を聞いた時のように真っ白になった。
せっかく自分の恋を自覚できたのに、その途端相手が他の誰かと結ばれるのだ。
「まぁ俺の方は相手が良いとか悪いとか知らねぇんだけどよ、兄貴のためを考えたらどっちにしろ断るわけにはいかねぇ」
「……じゃあ、お
「何?」
「そっちが正妻で私はお妾でもいいから、攫ってそばに置いて!!お願い!!」
「…………」
今度は張飛の頭の中が真っ白になった。
冷静に考えれば正妻との結婚と同時に
しかし、張飛はこの桃花を離したくないと思った。
この娘が持ってきた酒は美味かった。
酒が良いのではない。桃花と話しながら、桃花が食べるのを見ながら飲む酒がすこぶる良いのだ。
(この娘を逃したら、俺は一生不味い酒を飲むことになりそうな気がする)
そう思った張飛は、自分にとって最も大切な筋だけ通すことにした。
そこさえきちんとしていれば、この男にとって他は
「……よし。二人だけ断りを入れなきゃならん人たちがいるから、そこに行こう」
桃花は自分でも無茶を言っていると分かっていたので、その返事に驚いた。
大きな目をパチクリと
「……え?じゃあその二人がいいって言ったら、そばにいさせてくれるの?」
張飛にはその言い方がくすぐったいほど愛おしく感じられる。
「ああ、桃花が嫌じゃなけりゃそうしな」
そう言いながら、むしろ絶対に離すまいという気持ちを込めて抱きしめた。
桃花も同じ気持ちで抱き返す。
少しの間そうしてから、張飛は桃花を抱え上げて背におぶった。
「実はその二人を待たせてるんだ。走るぞ」
「きゃっ」
と、桃花が可愛い悲鳴を上げるほど張飛は急加速した。
山道を岩が転がるような速度で下っていく。
「しっかり捕まってな」
桃花は言われた通りそうした。言われなくとも、この広い背中にずっと抱きついていたいと思った。
「断りを入れないといけない二人って、張飛さんのお兄さんたち?」
この二ヶ月の会話で張飛は義兄たちの話をよくした。
それもやたらと嬉しそうに話すものだから、張飛にとってとても大切な人たちなのだと桃花にもよく分かっている。
「そうだ。あの二人にだけは筋を通しとかなきゃならねぇ」
「私とのこと、許してくれるかな?」
「上の兄貴はともかく、下の兄貴は頭が固ぇから叱られるだろうな」
「そんな……」
「でも心配すんな。上の兄貴がきちんと話してくれるだろうし、二人とも人の幸せってものをきちんと考えてくれる人たちだ」
その言葉には張飛の愛情が詰まっていたから、桃花も自然と安心することができた。
「それにな、二人とも桃花のことを気に入ってくれると思うぜ」
「そうかな?そうだといいけど」
「兄貴たちは桃花みたいな根が朗らかな娘が好きだからな。妹として可愛がってくれるさ」
そう言われ、桃花は張飛がそうしているように義兄二人を大切にしようと思った。
(家族が増えるって、なんかいいな)
これまでの家ではあまり感じられなかった感情に、桃花は心を暖かくした。
が、その心も張飛が道を進むにつれて冷えてきた。
というのも、張飛が行く道は桃花が先ほど走ってきた道の完全な逆走だったからだ。
このまま行くと、元いた式場に戻ってしまう。
「張飛さん、あの……こっちなの?」
「ああ、二人ともこっちで俺が来るのを待ってんだ。っつーか、完全に遅刻だから出会い頭に怒られるな。ちょいと覚悟しとかねぇと」
覚悟も何も、式場の人間に自分を見られたら大変なことになる。
そこを通る時、桃花は頭を伏せて顔を隠そうとした。
(どうかバレませんように!!)
と、思いながらの通過のはずだったのだが、張飛はなんとその式場に入ってしまった。
しかも入り口からすぐの所にいた男に捕まった。
「張飛!!お前、今の今までどこに行っていた!?今日がどんな日か分かっているのか!?」
張飛を叱りつけたのは、美しく長い髭をたくわえた美丈夫だった。
思わず頭を下げてしまうような威厳ある顔を怒らせ、張飛の前に立ちはだかる。
張飛は足を止め、傲岸不遜なこの男にしては珍しく素直に謝った。
「すまねぇ、関羽の兄貴。だがどうしても結婚前に会いたいと思った女がいたんだよ」
関羽はその申し開きに眉をさらに吊り上げた。
「お前、自分が何を言ってるか……」
「まぁ待て、関羽」
と、奥から現れた男が関羽を止めた。
一度見たら忘れられないような特徴的な容姿をした男だ。
驚くほどに見事な福耳で、腕が膝まで届きそうなほどに長い。
「劉備の兄貴……」
張飛はその男、劉備に向かって『すまねぇ』という顔つきをした。
自分のやったことに対する謝罪だけでなく、関羽をなんとかなだめてくれというお願いだ。
劉備は軽くうなずきながら関羽の肩に手を置いた。
「今回の縁談はあまりに唐突だったからな。張飛にだって色々あるだろう」
「兄者、そうは言っても先方がある話だ。やって良いことと悪いことがある」
「まぁ確かに新郎の張飛がこうでは、新婦が不憫ではあるが……」
「し、新郎!?張飛さんが!?」
と、派手に裏返った声を上げたのは新婦の桃花だ。
まさかの展開に、もともと大きな目が真ん丸になっている。
劉備と関羽はその桃花を訝しげな目で見た。
桃花の見た目はかなり怪しい。乱れた上に汚れた花嫁衣装で、化粧も完全に落ちてしまっている。
それをなぜか張飛がおぶっているのだ。そんな目でも見られるだろう。
「張飛、こちらは?」
劉備の質問に張飛が答える前に、別の声が届けられた。
「あの……劉備殿……」
見ると、可哀想なほど青い顔をした夏侯博が歩いてくる。
怯えるように背を
「ほ、本当に申し訳ないのですが……なぜか新婦がいなく……ん?」
そこでようやく夏侯博は桃花に気がついた。
しかもなぜか張飛の背に乗っている。
「桃花!……に、張飛殿?これは一体……」
その場にいた全員が妙な顔をしている。
状況が掴みきれず、誰もが困惑しているのだ。
そこでいち早く事情を理解できた桃花がまず張飛に説明した。
「あのね、張飛さん。新婦って私なの」
「……は?」
「だからね、今日あなたと結婚するの、私」
「……はぁ!?」
張飛は先ほど桃花がそうだったように、派手に声を裏返らせた。
口をあんぐり開けながら桃花を地面に下ろす。それから困惑の表情のまま尋ねた。
「いや、でもお前……結婚相手の名前くらい聞かなかったのかよ?」
「んー……なんかそういう感じじゃなくて。っていうか、張飛さんだって私の名前すら聞かなかったんでしょ?」
「俺は兄貴が言うんならどんな相手でも構やしねぇって思ってたんだが……」
「じゃあ……まぁ……ほら、どっちもどっちってことで」
桃花はそう言って、朗らかに笑った。
見ている誰もが心を暖かくするような笑顔だ。
張飛はその笑顔を見ると、もう何が何でも良いような気がしてきた。
新婦の脱走で妙な展開になってしまったわけだが、きれいサッパリ忘れたくなる。
「ああ、じゃあもうそれでいいよ。とんでもない荒くれ者だが、末永くよろしくな」
そう言って笑う張飛に、桃花の方も心の底から可笑しくなった。
「アハハハハ!そうだね、末永くよろしく。私って結構食べる方だから、覚悟しといて」
「俺だって結構飲む方だから覚悟してくれよ」
周囲には二人の関係がまだ分からなかったものの、関羽はその会話に義兄として然るべき教訓を挟んだ。
「二人ともそれは結構だが、食も酒もあくまで健康でいられる範囲に留めること。何事もほどほどが大切だ。いいな?」
「おうよ」
「はい。私も気をつけますし、張飛さんも見張っておきます」
関羽は二人の素直な返事に満足し、長い髭を揺らしてうなずいた。
しかも新婦は手のかかる義弟を見張ってくれるとまで言った。
(こういう返事をできる娘なら、私も義妹として可愛がれるというもの)
そこまで思った。
そして長兄の劉備も同じように好感を持ったらしく、二人にとって嬉しいことを言ってくれた。
「ただまぁ、今から祝の宴だからな。今日くらいは羽目を外して好きなだけ飲み食いするといい」
夫婦というものは結婚生活を送っていく過程で、自然と互いの顔まで似てくるのだという。
ただこの二人は長兄のありがたい言葉を受け、挙式前からよく似た笑顔を輝かせていた。
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