選ばれた子、選ばれなかった子12

(久しぶりの暗殺任務は失敗か……)


 徐林ジョリンは星空の下、屋根の上から室内に聞き耳を立てていた。


 静かな夜で、そよ風に葉が小さく擦れる音まで聞こえる。しかも暗殺者として耳の訓練も受けている徐林には、足元の窓から漏れてくる会話がはっきりと聞き取れた。


 その内容から、自分の任務は失敗であることが分かったのだ。


(標的はこの屋敷どころか、すでにこの街にいない)


 そういうことが分かる会話がなされていた。


 どうやら逃げたらしい。黄巾軍が攻めてくると聞き、仕事を放棄して遁走したとのことだ。


(俺の任務は失敗だけど、指揮官が逃げるくらいなら戦には勝てるかな)


 今日の自分に与えられている任務は、ここ青州済南せいなんの地における行政長官の暗殺だった。


 黄巾軍の侵攻に先立って頭を潰そうとしたわけだが、それが叶わずとも敵は脆いかもしれない。


 保身のみしか考えていない人間の治める地なら、兵の士気も高くはないだろう。


(そういうクズが行政機関の長をやってるくらいなら、黄巾党が治めた方がまだマシだな)


 さして信仰心の篤くない徐林はそんな考え方をしてしまう。


 黄巾の世が良いかどうかなど分からない。


 父の前ではできるだけ敬虔けいけんな振りをしているものの、自分はその組織の暗殺者として育てられたのだ。


 それで黄巾を倫理的に肯定しろと言われても、なかなか難しいことだった。


(でも、任務はちゃんと果たしたかったんだけどな)


 そう思ったが、標的がいないのでは果たしようがない。しかも去ったのは昨日という話だったから、そもそも成功の目がない任務だったわけだ。


 足元の部屋では役人が同僚と話をしていた。


 先ほどから半ば罵るような言葉が繰り返されている。


「ったく、冗談じゃない。自分だけ安全なところへ逃げて、黄巾賊との戦いは俺たちに丸投げとは」


「愚痴っても仕方なかろう。我々は正式に防衛の指揮を執るよう命令を受けたのだ。必ずしも長が軍事的な指揮を行うとは限らん」


「だとしても、自分だけ逃げていいという理屈にはならんだろう」


「それはそうだが……」


「そもそもなんで今さら黄巾の連中が攻めてくるんだ。青州黄巾党はもう十四年も前に曹操様の軍門に降ったはずだろう」


 この男の言った通り、青州黄巾党は十四年前に曹操と激戦を繰り広げた末、降伏した。


 つまり、徐林が実父である夏侯淵と相見えた戦からすでに十四年が経っている。当時十二だった徐林は今年で二十六だ。


 この十四年、徐林は大半の青州黄巾党とは全く違う立場で生きてきた。養父である徐和が降伏を是とせず、独立勢力であることを貫いているからだ。


「確かに降伏した黄巾軍は『青州兵』として曹操様の軍に組み込まれたがな。青州黄巾党はとにかく数が多かった。百万人とも言われた集団が一枚岩ということはなかっただろうし、今回攻めてくる連中のように世の中を黄色一色にしたい人間もいたのだろう」


 徐和はまさにそういう男だった。


 青州黄巾党の多くは安定と安寧を得るため、世を太平道に染めることを諦めたのだ。


 降伏によって自らの信仰や安全は守られたものの、初めに掲げられた、


『黃天當立(黄天まさに立つべし)』


という題目は放棄したも同然だった。


 もちろん布教によって信者を増やしていくことは今後もあるだろう。しかし、少なくとも一気呵成に世の中を塗り替えるのは諦めたということになる。


『私は急ぎたいわけではない。降伏が緩やかな衰退を意味することを知っているだけだ』


 徐和はそう言って降伏を拒絶した。


 そして、これに賛同する者も少なからずいた。そういう連中が十四年の時を経て蜂起し、ここ済南の地を占拠しようとしているのだ。


 ちなみに済南の東隣りに位置する楽安らくあんでも黄巾党が蜂起することになっている。


 こちらは司馬倶シバグという男が軍を率い、徐和と連携して青州の中に黄巾の天地を作るつもりだ。


 この地に掲げられた黄色の旗へ、全土の信者たちが集まってくればいいと思っている。


(父さんがそうするって言うんなら、俺は従うだけさ)


 徐林の行動原理は成人してなお、こうだった。父に言われた通りをちゃんとできるよう励んでいる。


 ただし、大きく変わったところもあった。


 最近になってだが、


(父さんはきっと、ずっと俺のそばにいてくれる)


そう思えるようになってきたのだ。


 いまだに親の愛が無償だなどとは夢にも思えない徐林だったが、父とはすでに二十年以上を共に過ごしている。


 その時間が少しずつ心の傷を覆い、大切な人に捨てられるのではないかという恐怖を和らげてくれた。


 とはいえ、それでも父の期待に応えることが徐林にとって何より重要であることは変わらない。


(久しぶりの暗殺任務、ちゃんとやり遂げたかったんだけどな)


 そもそも不可能だったとはいえ、残念に思う。


(本当に久しぶりだったし)


 十四年前の降伏以来、徐林が父から暗殺を命じられることは少なくなった。


 初めこそ降伏派の間者を処理するために随分と働いたが、その後は頻度が減っている。


 そうなったのは、徐和が黄巾残党を率いる頭目になったからだ。司馬倶と並んで双頭として組織を引っ張ってきた。


 神輿みこしに乗るような人間が暗殺という暗い手段を頻用するわけにはいかない。


 それで徐林の暗殺任務は減り、普段は頭目の護衛兼側近として父の仕事を手伝う日々を送ってきた。


 もともと暗殺者としてどこにでも潜り込めるよう、一端の教育は受けていたのだ。組織運営の事務仕事などもそつなくこなしている。


 そんなふうに平和な時間も多かったのだが、戦を前にした今日ばかりは別だ。


 暗殺で敵の指揮官を討てればかなり有利になる。


(本来の標的はいなかったけど、防衛の指揮官はこいつらってことだよな。じゃあ、やっぱり殺しとくべきか)


 徐林は屋根の端から体の半分以上を乗り出して下を見た。


 それでも落ちないのは片腕に縄を握っているからだ。その先は屋根の高いところに結び付けられている。


 その体勢のまま、流星錘りゅうせいすいをゆっくり回し始めた。


 部屋へ突入する前からそうしたのは、二人のうち一人が窓の近くまで来る気配を感じ取れたからだ。


 上手くやればここからでも仕留めることができるかもしれない。


「ボロになってた城壁の修理は間に合うだろうか?確かこっちの方角だったな」


 そう言って、男は窓枠にもたれかかるようにしながら遠くを見やった。


 徐林からはその頭がしっかりと見える。


(城壁?ボロになってた?)


 心の中でその言葉を繰り返し、いったん錘を放つのを止めた。得ておいた方が良さそうな情報だ。


「そちらだが、情報が漏れないよう明かりを極力抑えろと言ってある。多分見えんぞ」


「そうか。かなりマズい状態だったんだよな」


「見た目はそうでもないのだがな。過去に中を掘って何か細工しようとした形跡があった。通路でも作ろうとしたのだろう。しかし強度が足りずに途中で断念したらしい」


「それで戻したはいいが、きちんと直さなかったってわけか」


「瓦礫などが適当に詰めてあるだけで、きちんと突き固められていなかった。事前に調べておいて良かったよ。あそこに破城槌はじょうつい(城壁や城門を壊すための丸太状の兵器)でもぶつけられたら簡単に大穴が開く」


「本気で急がせてくれよ。城壁に大穴が開いてちゃ籠城なんか不可能だぞ」


「ああ、だからこうして昼夜兼行でやらせている」


 そこまで聞いた徐林はさらに身を乗り出し、相手の体全体を視界に納めた。


 そして間髪入れず錘を投げ、ほぼ同時に自分の体も宙に投げた。


 ただし片手は屋根に結び付けられた縄を握っている。それで徐林の体は空中で弧を描き、きれいに窓の中へと飛び込んでいった。


 その窓には男が一人いるわけだが、侵入してきた徐林に一切の反応を示さなかった。


 流星錘が脳天に当たり、すでに絶命していたからだ。


「なっ……!?」


と、もう一人の男が声を上げた。


 突然現れた侵入者に驚きながらも、腰にはいた剣に手をやっている。


 室内でもこうして武器を手放していないあたり、戦時中であるというしっかりした自覚のある男なのだろう。


 しかし徐林の方が圧倒的に練り上げてある。暗殺の仕事が減ったとはいえ無いわけではないし、流星錘の腕は磨き続けてきたのだ。


 その結果、徐林は父と同じ様に双流星が使えるようになっていた。


 一人を殺した錘は手元に帰っていないが、まだもう一つ得物がある。


った)


 徐林は確信を持ちつつ、男が剣を抜く前にそれを放った。


 ただし応援を呼ばれる前に片付けなければならないので、紐で回転はさせずに遠心力無しで投げた。


 もちろん威力は抑えられるが、それで十分なのだ。


 トッ


 という小さな音がした一瞬の後、男の喉から霧のような血が吹き上がった。


 ただのすい(重り)ではこうはならない。


 徐林は紐の先に付ける武器として、ひょう(短剣)を選択していた。それが頸動脈に刺さったのだ。


 鏢ならば刃があるので勢いが小さくとも致命傷を与えられる。暗器であることにこだわらなければ、より暗殺向きと言えるだろう。


 とはいえ、流星錘は扱いが非常に難しい武器だ。自分や味方を打ってしまうことも多いので、鏢は相当な技術がないと選べない。


 徐和ですら避けているその選択ができるほど、徐林の腕は練り上げられていた。


(良し)


 血しぶきに満足しながら紐を引いて鏢を手元に戻す。


 男が倒れたのはそれから二、三拍も置いてからだった。


 その時にはもう徐林は背を向けており、倒れる様子を見もしない。


 暗殺者が対象に関心を持っているのは殺すまでだ。死んでしまえばもう興味はない。


 徐林は窓のところへと戻ると、ぐったりと窓枠に寄りかかる男を無造作にどけた。


 そして来た時と逆に縄を伝って屋根へと上がって行く。


 徐林が屋根から飛び降り、また屋根まで戻って来るのに一体何秒かかっただろう?


 暗殺者として一つの完成形がここにあった。


(あとは城壁の修理箇所を確認して帰ればいい)


 意識して城壁のそばを回ればすぐに分かるだろう。


 この街の長官は逃亡した。軍の指揮権を持つ高官も殺害した。城壁の弱点も把握できる。


(父さん、今回の戦は勝てそうだよ)


 そのことに安堵しながら屋根から屋根へと跳び渡った。


 戦勝の結果として何が起こるのか。


 そういう普通ならば考えるであろうことが、徐林の頭には上手く浮かばない。ただ嬉しかった。


 父が嬉しかろうと思うと、自分も嬉しいのだ。


 二十年以上父と生きられた結果、また大切な人に捨てられるのではないかという恐怖はだいぶ薄まっている。


 完全に消えないのは傷のある場所が心なのだから仕方ない。


 ただそれでも、自分に家族がいることの幸せに浸ることはできるようになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る