選ばれた子、選ばれなかった子1
人の記憶で最も古いものは、何歳頃のものだろう?
一般に、三〜四歳くらいから成人後も残る記憶が形作られると言われている。
だとすれば、
ただし、その時の記憶は不思議なほど明瞭に思い浮かべることができた。
徐林がいたのはどこかの平原で、背後から恐ろしいものが迫ってくる。
それが本当に恐怖の対象であることは地鳴りのような騒音と、それを見る父の表情でよく分かった。
父はその恐ろしいものから自分を助けるため、こちらに走って来ているのだと思っていた。
しかし父が抱き上げたのは徐林ではなく、そばにいた赤子の方だった。
まだ一歳にもなっておらず、ようやく掴まり立ちが出来たという赤子だ。その子が徐林の腕を掴んで頼りなげに立っていた。
それは自分の妹か、
なんにせよ、父は自分を抱き上げずにその赤子だけを抱き上げた。
そして背を向けて走り出したのだ。
自分は父に向かって手を伸ばした。その手の記憶まである。
しかし父から自分に手が伸ばされることはなかった。赤子を抱えて遠ざかっていく。
その首がこちらを向いて歪んだ顔が見え、赤子のつぶらな瞳が見えた時、徐林はひどい衝撃を受けて意識を失った。
「……またこの夢か」
徐林は暗い面持ちで額を押さえ、寝台から起き上がった。
吐き気がする。
この夢を見た時はいつもそうだった。
今はあの記憶からもう七年が経っていて、徐林は十二歳になっていた。
そして今はあの時迫っていた恐ろしいもの、
「太平道の
黄巾党の信奉する宗教、太平道では懺悔や巫術によって罪を洗い流し、病すら癒やすとされる。
徐林は本心としてそんなものは信じていないが、その集団に寝起きする者としてご利益の一つも願っていいのではないか。
それからこめかみの上を撫でた。
そこの髪の毛は一筋だけが白くなっている。
自分は黄巾軍の馬にはねられ、その部分に大怪我を負ったらしい。今の父がそう言っていた。
それ以来、そこだけ生えてくる髪の毛が白い。
徐林が五歳の時、住んでいた土地が黄巾党に襲われた。
黄巾の乱と呼ばれる大規模な宗教反乱はその前年に一応の終息を見せていたのだが、なんと言っても規模が大きい。
三十六万と言われた反乱勢力はその残党も多く、徐林のいた地もそれらに襲われた。
負けた黄巾の残党は兵糧を失っているし、時悪く飢饉も重なった。それで食料を奪いに来たらしい。
徐林の父はその軍勢から幼子を救うために駆けてきて、赤子の方だけ抱えて去って行った。
(俺は捨てられたんだ。選ばれなかった)
この夢を見るたびにそれを思い知らされて、胸が潰されるような気持ちになった。
五歳よりも前の記憶が無いのも、心がその辛さを軽くしようとした結果なのではないかと思っている。
ただ、あれから今日までずっとこんな気持ちで生きて来たわけではない。
襲撃後、倒れている徐林を今の父が拾ってくれたのだ。
「林、起きてるか?」
その父の声が部屋の外から投げ入れられた。
徐林はその声に潰れた胸を膨らませ、明るい声を返すことができた。
「起きてるよ、父さん」
「そうか。今日の標的は結構な大物だからな。抜かりないよう、早めに準備をしておけ」
「うん、分かった」
素直な返事に父は満足し、部屋から離れて行く。
その足音に安心感を抱きながら、徐林は寝具から抜け出した。
(俺を捨てた父親がなんだ。今の俺には父さんがいて、必要としてくれている。あんな臆病な面をした元父親なんて……)
不必要な罵りを心の中だけで吐き捨てた。
本当にどうでもいい事ならそんな思考を浮かべずともよいのだが、本人に気付けることではない。
父二人にそれぞれ苛立ちと安らぎとを覚えながら身支度を整えた。
服を着替え、荷物を再確認し、最後に銭の束を懐に入れる。
それから食堂へと向かった。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶を返してくれた父の前にはすでに朝食が並んでいる。朝から結構な食卓になっていた。
というのも、徐林の今の父は黄巾党の幹部だから。
住まいも食事もそれなりのものが用意され、食事の準備などは部下の信徒たちが交代でやってくれる。
「
その部下が徐林の父、徐和に一言断ってから部屋の出口に向かった。
徐和はその背中へ労いと励ましの言葉をかけてやる。いつも必ずそうするのだ。
「ご苦労だった。今日の戦もよく働いてくれ。しかし、死ぬな」
部下はその言葉に足を止め、振り返ってから慇懃に頭を下げた。
そして徐林にも同じように会釈をしてから部屋を後にした。
「……俺にまであんなに丁寧にしなくていいのにね」
徐林は自分がまだ十二の若造であるという自覚があるから、そんなつぶやきを漏らしながら席についた。
しかし徐和はそうは思わない。
「私の部下たちは、お前がよく働いてくれていることを分かっているんだよ」
そう言って、どこか苦しそうな笑顔を見せた。
徐林は五歳の時、黄巾軍に巻き込まれて瀕死の重傷を負った。それをこの徐和に助けられた。
徐和は徐林の治療を命じ、一命をとりとめてからは自分の息子として扱った。
名は『リン』という発音だけ覚えていたので、徐林ということにした。
動けるようになった徐林に、徐和はある技術を叩き込んだ。
そして有能な手駒として今日まで多くの仕事を任せてきたのだった。
「そんな大げさな」
徐林は朝から重い話にしたくないと思い、軽く手を振った。
「大げさではない。その歳で辛い任務を与えてしまっているとも思っている」
「俺にとってはこれが日常だよ」
「それが大人に罪の心を抱かせる。私もお前のことで何度懺悔したことか……」
大切な父にそんなことを気に病んで欲しくない。
常に笑顔でいて欲しいのだ。
そう思った徐林は努めて明るい笑顔で、明るい声を発した。
「大丈夫、俺は大丈夫だからさ。今日もちゃんと殺してくるよ」
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