短編 ポルチーニ
時は遡り、許靖が蜀郡太守となって間もない頃。
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軽く力を加えると、目的のものは可愛らしい抵抗を残して摘み上げられる。
「キノコキノコ、私の可愛いキノコさん」
まるで小唄でも口ずさむように、そんなつぶやきを漏らした。
劉璋は今、成都近郊の山に入ってキノコ狩りを楽しんでいる。
ここは先代の父が狩りのために確保していた山なので、余人が先に収穫しているということもない。豊富に実ったキノコが取り放題だった。
季節は秋だ。紅葉の明るさが目に心地よい刺激をもたらしてくれる。
「今年の秋もまた美しい。まるで錦のようですね」
そうは言ったものの、本心としては美しさよりも美味しさへの期待で胸はいっぱいだった。
今採ったキノコはどうやって食べようか。
焼くのが良いか、煮るのが良いか、それとも油で揚げてみるのもいいかもしれない。
そんなことを思うと、自然と唾があふれてくるのだった。
「劉璋様、足元にはお気をつけください」
嬉しげな劉璋に、護衛の一人が注意を促してきた。
劉璋はここ益州の
(本心としては一人でゆっくり楽しみたいのですが……)
そう思いながらも、自分の立場も分かっているから護衛を拒否はしない。
ただし、人数は極力絞って来た。
「分かっていますよ。そんなに心配しなくとも、子供じゃないんですからね」
「ですが、去年もそう言われて崖から落ちそうになりましたよね?崖のそばに見事なシイタケがあったとかで……」
劉璋にもその記憶はあるものの、小うるさい護衛をうっとおしく思ったりはする。
「……結局落ちなかったのだからいいでしょう。それに、あのシイタケは去年一番の美味だったのですよ。焼いて塩を振っただけで
「はぁ……まぁ……お気をつけください」
護衛としては『玉にも勝る』と言われても共感などできなかったが、こういう劉璋には慣れている。
適当に相槌を打って、なるたけ主君の好きにさせてやろうと思った。
劉璋も可能な限り好きにする。
(なぜ自分で採った食材はこうも美味しいのでしょうか?城で出される高品質なものより、自分で採った普通のものの方が味わい深い)
劉璋はその不思議について考えながら、キノコをまた一つ摘んだ。
(結局の所、『味わう』という行為が大切なのでしょうね。人は食事に慣れ過ぎて、味わうことをつい忘れてしまうのです)
そこをいくと、自分で採った食材はどうしても味わって食べようとする。だから美味いのだと思った。
食の好きな自分ですらそうなのだから、多くの人は『味わう』ということをあまりせずに食べているのだろう。
世の人間がいかに喜びを放棄しているか。
それを考えると、とてももったいないことが頻発している気がした。
「食に感謝し、よく味わいながら食べましょう」
もちろんこのキノコもだ、と思いながらまた一つ摘み上げる。
気づけば籠には結構な量が入っていた。至福の重みだ。
劉璋は新しい籠に変えようと思い、中腰から体を起こした。
と、その動作の途中、視界の中をひどく強い存在感が流れた気がした。
一度上がった視線を再び下げると、川沿いに見たことがないほど見事なキノコがある。
(な、なんと立派なポルチーニ……!!)
『ポルチーニ』といえばパスタやスープによく入っているキノコなので、西洋食材というイメージが強いだろう。
実際にポルチーニという呼称はイタリア語であり、イタリア料理では『キノコの王様』とも言われるほど重要な地位にあるという。
しかし、実際には中国産のものもかなり量が流通している。
もともと中国でもポルチーニの近縁種はいくつも自生しており、古くから人気の食用キノコとして親しまれてきた。
ちなみに中国語で書くと『牛肝菌』なのだが、いまいち馴染みにくいのでポルチーニと記載させていただく。
(あの肉厚な威容……まさに菌肉質と称えていいほどの存在感!!)
劉璋は魅入られるようにフラフラと川沿いへの歩みを進めた。
それに気づいた護衛の一人が制止の声を上げる。
「劉璋様、いけません。そちらは危険です」
川まではかなりの急斜面になっているし、流れも早い。
劉璋が足を踏み入れようとしている所は、
しかし、言われた劉璋の方は軽い
自分は今、最高のポルチーニとの邂逅を楽しもうとしているのだ。誰にも邪魔されたくはない。
「これくらい大丈夫ですよ。ほら、この
劉璋の足元には蔓が伸びていて、その先はポルチーニのそばの木に巻き付いている。
劉璋はそれを掴んで進んでいった。
「蔓から手を離さなければ落ちませんから」
「いえ、それでも……」
「いいから」
劉璋は護衛の制止を聞かず、どんどん進んでいく。
そして目的のポルチーニを採ることに成功した。
やはり見るからに素晴らしい逸品だ。
「どうです、ほら……」
と、自慢げにポルチーニを掲げた瞬間、劉璋の足が滑った。
あわや川へと転落しそうになる。
が、なんとか蔓に助けられてその場に踏みとどまった。
「うわっとと……」
「劉璋様!!」
「だ、大丈夫ですよ。蔓から手を離さなければ落ちないと言ったでしょう」
劉璋はそう断言したが、それでも護衛は心配だった。
というのも、劉璋は結構なふくよか体型であり、一方の蔓はそれほど太くないのだ。
案の定、蔓が耐えられたのはほんの十を数えるほどの時間だった。
ブチッ
と不吉な音が鳴り、劉璋の体は川へと滑り落ちていく。
劉璋は護衛たちの絶叫と大きな水音を同時に耳にしながら、ポルチーニをしっかりと懐へしまい込んだ。
***************
「……ポルチーニ!!」
劉璋はそんな叫び声を上げながら目を覚ました。
勢いよく上半身を起こすと、自分の髪からいくつもの水滴が飛んだのが目に入る。
全身びしょ濡れのようだが、劉璋はまず懐に手を伸ばしてポルチーニの無事を確認した。
幸い、しっかりとした膨らみを感じる。
「良かった、無事でしたか……」
「あ、ああ……無事で良かったな」
と、自分のすぐそばから声が返ってきた。
そちらに顔を向けると、驚いた男の顔がある。
劉璋が突然起きたのでびっくりしたのだろう。
「あ……あなたは?私は……川から落ちて……」
「そうだ、あんたは川で溺れてた。お頭が流されてるあんたを見つけて、俺らが引き上げたんだ」
周りをグルリと見回すと、周囲には数人の男たちがいた。
この男たちが自分を救ってくれたようだ。
川岸に
「そうですか……助けていただいてありがとうございます」
劉璋は頭を下げながら、男の言葉に引っかかる部分を感じていた。
(お頭?まるで山賊のような呼び方ですが……)
そう思いながら尋ねる。
「あなた方はこの辺りの村の方々ですか?」
「いや、最近こっちに移ってきたんだ。今はこの山が今後の根城にできそうか調べてる」
「根城……」
「俺らは
(甜恭団……聞いたことはありませんが、やはり山賊なのでしょうか)
男たちに目をやると、手に槍や弓などを持っている者もいる。
劉璋は益州の長なのだから、この辺りの賊の名前なら耳にしたことがあるはずだ。
しかし最近移ってきたような新興の山賊ならば知らないこともあるだろう。
(助けてもらったのはありがたいのですが、さすがに山賊はマズイですね……)
大群雄の一人である益州刺史、劉璋の身柄が山賊のもとにあるのだ。
害されるにしろ身代金を要求されるにしろ、大変な事態であることは間違いない。
(落ちた時には剣をはいていたはずですが……)
さり気なくそれを探すと、焚き火のそばにある。
手を伸ばせば届くところにはあるが、剣一本でこの窮地を脱せるか。
表情を固くした劉璋へ、男は明るく笑いかけた。
「しかしあんた、本当に運が良かったよ。引き上げた時には心臓が止まってたんだからな」
「し、心臓が!?」
「ああ、
さすがにそこまでの臨死体験をしているとは思わなかった劉璋は、驚きに目を丸くした。
これは例え極悪人の山賊たちが相手でも、よくよく感謝せねばならないと思った。
(とはいえ、山賊に先生扱いされる人間となると……用心棒のようなものかもしれませんね)
劉璋は壮年の剣客を思い浮かべながら尋ねた。
「そうですか……あの……その先生というのはどちらで?」
「ああ。あんたの様子が落ち着いてきたから、お頭たちと薬草を探しに行ったんだよ。もうすぐ帰って……お、ちょうど帰ってきた」
男が向いた方を見ると、確かに一人の男がこちらに歩いてきていた。
ただし、その男は男と呼ぶにはあまりに幼い外見をしている。
壮年の剣客どころか、まるっきり少年だ。
「
少年は劉璋が起きていることに気がつくと、駆け足でそばまで来た。
そして自然な動作で劉璋の脈を取りながら顔を覗き込んでくる。
「良かった。体調はいかがです?気分が悪かったり、胸が痛かったり、どこか痺れたりはしていませんか?」
「いえ、大丈夫ですが……馬恭……先生?」
「先生と呼ばれるほど大した人間ではありませんが、ここの方々は皆さんそう呼んでくださいます」
そう答える馬恭の肩を弘林が軽く叩いた。
「大したことないこたないだろ。馬恭先生は三年前にも俺らの仲間をたくさん救ってくれた。そんで今日もまた一人救ったんだからな」
にわかには信じられなかったが、どうやらこの少年のおかげで自分は助かったようだ。
そう理解した劉璋は慇懃に頭を下げた。
「あなたが私を蘇生してくれたと伺いました」
「正確には僕の指示でこの弘林さんが蘇生してくれたのです。僕の体重では胸を十分に圧迫できませんから」
「そうですか。なんにせよ、お陰様で命が続いています。ありがとうございました」
「いえ、そもそもは
「その甜、という方が皆さんのお頭なのですか?」
問われた馬恭は少し困ったような苦笑を浮かべた。
「ええ……まぁ、一応そういうことになってます」
曖昧なその言葉を、男たちの一人が自慢げに繋ぐ。
「お頭はすげぇんだぜ!俺らを率いて、虎みたいな強敵だって仕留めちまうんだからな!」
(それは……どんな精強な州兵でも一網打尽ということでしょうか?)
劉璋は脳内で屈強な山賊のお頭を思い浮かべ、軽く身震いした。
(きっと筋骨隆々とした大男に違いない)
少なくとも劉璋の脳内では恐ろしげなお頭像が出来上がった。
本来ならそのお頭にも感謝せねばならない立場ではあるが、帰ってくる前になんとかしてお
「あの……申し訳ありませんが、急ぎの用があるので私はこれで……」
劉璋はそう言って立ち上がろうとした。
が、その腕を馬恭が掴む。
「お待ち下さい。体温もだいぶ下がっていましたし、もうしばらく休まれた方がいいと思います。いま体を温める生姜湯を作りますから」
「いえ、どうしても急ぐので」
劉璋は幼い手から逃れようとしたが、そうする前に弘林が声を上げた。
「おう、お頭も帰ってきたみたいだぜ」
(しまった、遅かったか!!)
劉璋は顔をこわばらせてそちらを向いた。
どんな
そんなことを考えた劉璋だったが、視線の先には誰もいない。
ただし、少し視線を下げると可愛らしい少女が目に入った。
「あー!おじさん起きたの!?良かったね、生き返って!」
甜は劉璋の様子を目にすると、笑顔で小走りに駆けてきた。
「いやー、最初は私も死体を見つけちゃったと思って気味が悪かったんだけどさぁ。心臓って止まってもすぐなら動き出すこともあるんだね」
そう言ってペタペタと劉璋の胸を触ってくる。
本当に心臓が動いているか確認しているようだ。
「あ……あなたがお頭の甜さん?」
「うん。私がお頭の甜だよ。甜恭団のお頭」
「そう……ですか。あの、いくつです?」
「齢?八歳だよ。私も恭も」
馬恭は甜の隣りでうなずいた。
「僕らは今年で八つなりました。まだまだ若輩者なのに、先生だのお頭だのと呼ばれて恥ずかしい限りですが……」
(八歳にしてはやけにしっかりとしたことを言う子ですね)
劉璋はそれが気にはなったものの、今はそれよりも確認せねばならないことがある。
「皆さんは……甜恭団というのは、一体どういった組織なのでしょうか?山賊ではないのですよね?」
さすがに八歳をお頭にする山賊はいないだろう。
そうは思ったが、弘林は劉璋の推測を否定してきた。
「いや、俺らは山賊『甜恭団』を名乗ってる」
「ええ!?」
「といっても、ノリでそう言ってるだけで別に悪事を働いたりはしねぇよ。何ていうか……まぁ山で色々やってんだ」
「色々、ですか」
いまいち釈然としない劉璋の顔を見て、馬恭が補足してくれた。
「主に山の恵みを得る組織だと思っていただければ、それほど間違いはないと思います。鳥獣や山菜、木の実、薬用植物などを取って加工し、売っています。甜の父上が商人で、私の父が医師なので、そちらに卸しながらその手伝いもしつつ、といった生活を送っている方がほとんどです」
八歳らしからぬ的確な説明に、劉璋はようやく安心と納得とをすることが出来た。
ホッと息を吐きながら笑顔になる。
「なるほど。それで子供たちもお手伝いをしてるわけですね」
誰が聞いてもそういう状況なのだが、甜は大きく首を横に振った。
「違うよ。さっきおじさんも言ってたじゃない。私がお頭。分かる?お頭は一番偉い人」
そう言いながら、自分の胸をドンと叩く。
それは大人から見れば少女の微笑ましい光景だったのだが、そんな表情をしたのは劉璋ただ一人だった。
周りの男たちはみんな大真面目な顔でうなずいている。
弘林もそうしながら、劉璋に教えてやった。
「お頭はマジでお頭だぜ?一番貢献してるから一番偉いんだ。お頭さえいれば収穫にはほぼ困らねぇ」
「はぁ、そうですか」
「それによ、商品作物としちゃ薬用植物が一番デカいんだが、馬恭先生がいたらその辺の知識は完璧だしな」
「はぁ」
と、やはり知らない者からしたらその程度の返事にはなる。
しかし弘林たちは実際に、この二人のお陰で生活の糧を得られていた。
三年前、巴郡にたどり着いた甜恭団は許靖から未開発の山一つを与えられた。
郡でその山の開発を検討しており、ちょうど人員を探していたのだ。
もちろんすぐに十分な稼ぎが得られずとも、郡がある程度の生活を保障してくれるという話にはなっていた。
が、結果として郡からの補助はほぼ要らなかった。
甜と馬恭の助言によって、十二分の生産量が上がったからだ。先ほど弘林が言っていた通り、二人がいれば山のあらゆる恵みが微笑みかけてくれた。
それに加え、二人の父親たちの仕事がすこぶる上手くいったということも大きい。取れた分はすぐに捌けた。
許靖としてはもっと耕作を進めて欲しかったのだが、結構な収入があると聞いて入植者も入ったので、結果として耕作も進んだ。
弘林たちが去った今も『甜恭村』として小さいながらも栄えている。
「聞けば、この山には人っ子一人住んでないらしいじゃねぇか。そんならうちら甜恭団が根城にして、この山の恵みを世間にまいてやれないかと思ってな」
弘林たちは山のもたらすものによって生きられたという自覚があるから、山の産物についてそういう認識を持っていた。
しかしその言葉に劉璋の眉は曇った。
(この山に誰も住んでいないのは、父の代から狩りなどに使うため州の所有としているからですが……)
そういう山なのだ。
だから今日も思う存分キノコ狩りを楽しめたのだが、山の恵みを独占しているという認識が劉璋を苦しめた。
暗くなった劉璋を見て、甜が顔を覗き込んできた。
「おじさんどうしたの?あっ……もしかして、そのキノコ食べちゃった?」
言われて劉璋は自分の手にポルチーニが握られていることに気がついた。無意識に懐から取り出していたようだ。
いったん気持ちの沈んだ劉璋だったが、この一級品を思えば顔がほころんでしまう。
「いえ、まだですよ。ですがどうです?この見事なポルチーニ。肉厚で、いかにも香り高そうな姿をしているでしょう?」
嬉しそうにポルチーニを鼻に近づける劉璋だったが、甜はニコリともせず横目に馬恭を見た。
「恭……あれって……」
医療知識豊富な従兄は同じような表情でうなずいた。
「うん。そうだね」
その返事を聞いた甜はポルチーニに手を伸ばした。
それを無造作に奪い取ると、ゴミでも捨てるように焚き火の中へ投げ入れる。
当然のことながら、劉璋はその凶行に目を剥いた。
「な、何てことをぉおお!!子供とはいえやって良いことと悪いことがありますよぉぉお!!」
「いや、だってこれ毒キノコだもん」
「…………は?」
「毒キノコ。食べられるやつによく似てるけど、絶対毒だよ」
甜の言うことに、馬恭も同意した。
「私の目から見ても毒キノコで間違いないと思います。ポルチーニの仲間は食べられるものが多いですが、一部は胃腸障害や幻覚などを引き起こします」
「私、前にこれ食べた人がふらふら歩き出して川に落ちちゃったのを見たことあるもん。なんか小人が見えて、追いかけたんだって」
二人に重ねてそう言われ、劉璋は自分の記憶を漁った。
キノコ狩りに入る前に、専門家から注意すべき毒キノコをいくつか見せられていたのだ。
言われてみれば、確かに火にくべられてしまったポルチーニによく似た色合いのキノコがあった。
「そ、そうですか……毒キノコ……」
呆然と火を見つめる劉璋の背中を弘林がバンバンと叩いた。
「あんた良かったな!もう一回川に落ちたらさすがに次は死ぬぜ!?」
周りの男たちと一緒に笑い声を上げる。
劉璋はその声の中、ようやく衝撃から立ち直れた。
「ど……どうやらお頭と先生のお陰でまた命拾いしたようですね。ありがとうございます」
「お、ようやく二人のすごさが分かったか」
「ええ、一度ならず二度までも。お二人は私の命の恩人です」
甜はそんな劉璋に対して胸を張った。
「ふふん、分かればよろしい。何ならおじさんも甜恭団の団員にしてあげてもいいよ」
「ははは、団員ですか」
「ちなみに団員の特典は山の幸食べ放題」
「入団します」
いったんは笑った劉璋だったが、急に真顔になって即答した。
「おーい、応援はまだかー?」
と、そこへ他の団員たちが現れた。
甜たちと一緒に薬草を採っていた連中だ。
なかなか応援の人間が来ないので、全員が両手に薬草を抱えて帰って来たのだ。
弘林がそちらに手を振って謝った。
「ああ、すまねぇ。そうだったな。じゃあ何人かは向こうに……」
人員を分けようとした弘林だったが、その服を甜が素早く掴んだ。
それを引きながら、人差し指を一本立てる。
甜の表情は先ほどまでとは一変して、眉が厳しく寄せられていた。
「…………?」
劉璋にはその顔の意味が分からなかったが、甜恭団の男たちは皆一様に真剣な顔になった。
甜は川上の方を指さして、小さく口を開く。
「川上、熊」
その一言で、男たちは一斉に得物に手を伸ばした。全員が槍や弓を持つ。
さらに甜は短い言葉を続けた。
「一班から四班までは鶴翼。五、六班は魚鱗になって大きく回り込む」
男たちは甜を中心として、大きく翼を開いたような陣形を取った。
そして三人二組だけが音もなく真横の林に入って行く。
男たちの流れるような動きに劉璋は目を見張った。
(さっきまで気のいい村人のようだったのに、まるで熟練した兵のようですね。しかもあんな少女の指示でここまで機敏に動いて……)
本物の山賊のお頭のようだ。
劉璋がそう思いながら驚いていると、川上から土を蹴る音が聞こえてきた。
見ると、甜が言っていた通り本当に熊が現れた。
(
劉璋は緊張に体を固くしながら、焚き火のそばに置いてあった自分の剣を慌てて取り上げた。
大きさからすると、恐らく雄の成獣だ。野生で会えば死を覚悟せねばならない危険な生き物だろう。
とはいえ、大型の熊も十数人の人間が待ち構えているのを見て思わず足を止めた。
自分よりずっと小さな生物でもこの人数はさすがに警戒するようだ。
グルルル……
と喉を低く鳴らして威嚇の声を上げ、こちらの様子をじっとうかがっている。
が、結局は後ずさって戻ろうとし始めた。
しかしその直後、背後に男たちが現れた。前もって回り込ませていた六人だ。
男たちは得物をぶつけて大きな音を立て、下がらせないよう牽制した。
そこで鶴翼の甜たちは前進し始め、距離を詰めていく。
「両翼端、弓用意。射線に気をつけて」
甜の号令で端の四人が弓を構えた。射線上に仲間がいないかよく注意する。
「射て」
短い弦音と高い風切り音が鳴り、四本中三本の矢が熊の体へと突き刺さった。
が、よほどいいところに当たらない限り、この程度で熊を仕留められはしない。
むしろ怒った熊は右翼へと突っ込んできた。
「二班下がる。残りは横撃」
熊に狙われた男たちは指示通り無理せず下がり、それを追う熊の横合いから槍が繰り出された。
刺さった槍も矢と同じように三本だったが、傷は矢よりもよほど大きい。熊は前足を折って倒れた。
「斜め後ろからとどめ。前には出ないで」
倒れたとはいえ、急に動き出して噛み付いてくるかもしれない。
そこまで考慮した甜の指示通り、男たちは斜め後ろから殺到して熊を串刺しにした。
熊は為すすべもなく絶命し、ぐったりと脱力した体を地面に横たえる。
完全に動かなくなったのを確認してから、男たちは歓声を上げた。
「……っしゃあ!やったぜ!」
「調査だけのつもりが、思わぬ大収穫だ!」
「幸先がいいな!この山とは相性がいいのかもしれねぇ!」
そんなことを言いながら皆はしゃいでいたが、甜だけは一人首を傾げていた。
「おっかしいなぁ……」
「……?お頭、どうかしたんですか?」
と、尋ねたのは劉璋だ。
今の一連の指揮を見て、ごく自然に甜をお頭と呼ぶようになってしまった。
(私を蘇生してくれた馬恭先生もそうですが、この娘も普通の子供ではありませんね)
そのことを体で感じることができた。
甜は劉璋の方を見ず、辺りをキョロキョロと見回しながら答える。
「なんか……もう一匹分の臭いがした気がしたんだけど」
「臭いで熊の接近が分かったのですか?」
「川の近くだから分かりにくいけどねー。向こうもそれで気づかずに近づいて来たんじゃないかな?でも……やっぱり今ももう一匹分の臭いがする……」
甜は一生懸命首を回していたが、やはり見つからない。
(お頭がこう言うからには、確かにいそうな気がしますが……)
そう思えるほどの体験だったから、劉璋も同じようにして他に熊がいないかを探した。
そうしていると、急に視界の隅で黒くて大きなものが膨れ上がった。
そこに焦点を合わせると、低木の茂みから大きな熊がヌッと体を起こしている。
しかもその前には狩りの現場から距離を取っていた馬恭がいた。熊はその背後に突然現れたのだ。
馬恭は自分にかかる大きな影で背後を振り返り、そして驚きに目を見開いた。
「……先生っ!!」
劉璋がそう叫ぶ直前には、すでに甜が走り出している。
熊の右手が上がり、そして下がるのと、甜が馬恭に飛びつくのがほぼ同時だっただろう。
熊の爪で甜の着物が裂け、花びらが散るように宙を舞った。
しかしギリギリ体には当たらなかったようで、甜の体は飛びついた慣性通りの動きで馬恭と共に地面を転がっている。
弘林を始め、甜恭団の男たちは突然の危機に色めき立った。
全員が獲物を握り直して熊へ向かう。
が、男たちと熊とは少々離れ過ぎていた。
しかも甜と馬恭は次の爪なり牙なりが、どう考えてもよけられない位置にいるのだ。
弘林は自分と熊との距離に絶望しながら叫び声を上げた。
「お頭っ!!先生っ!!」
(間に合わねぇ!!)
そう思った瞬間、弘林と熊との間を何か鞠のようなものが飛んだ。
それはどこが丸みを帯びているので鞠を連想したのだが、実際には鞠などよりもずっと大きい。
劉璋だ。
放られた鞠のように跳ねて熊へと迫る。
「……フンッ!!」
という鼻息とともに気合を吹き出し、熊の首めがけて剣を一閃した。
熊の太い首はさすがに一振りで刎ねられるようなことはなかったが、それでも鋭い斬撃は首の半ばまで届いた。
頸動脈を斬られた熊は見るも鮮やかな血を吹き出す。
そして甜と馬恭の隣りに倒れ伏し、絶命した。
「二人とも、怪我はありませんか!?」
劉璋は必死の形相で子供たちのそばにしゃがみこんだ。
すぐに弘林たちも駆け寄ってくる。
甜は自分の背中に手を回し、裂かれた着物を撫でながら小さくうなずいた。
「うん。服が破れただけで体には当たってないみたい」
馬恭も起き上がりながら自分の体を確認した。
「僕も大丈夫です。助けていただいて、本当にありがとうございました。甜もありがとう」
「いーよ。私が怪我したときにはいつも恭が助けてくれてるんだから。でも……おじさん強いんだね。びっくりしちゃった」
甜は劉璋を上から下までまじまじと見直した。
優しそうな顔つきだし、ふくよかな体つきをしているので全く強そうに見えない。
弘林も意外そうに劉璋を眺めながら同意した。
「俺もびっくりだぜ。あんた、かなり剣が使えるんだな」
「いえ、大した腕ではありません。首を一刀で刎ねられる程度の剣技が身に着けたくて習っていたのですが……結局は無理でしたしね」
劉璋は熊を見下ろしながら少し悲しげに笑った。
「首を?はっはっは!そりゃ熊の首を一刀は無理だろう。でも一撃で仕留められたんだから大したもんだよ。本気で甜恭団に入るってんなら心強い。歓迎するぜ」
「ええ。参加できる頻度は高くないでしょうが、来られる時だけでもよければ是非入団させてください」
その返事を受け、ちょうど血抜きも出来ている熊を前にした甜はお頭として号令した。
「よーし!じゃあ全員、新入りの歓迎会準備!」
***************
劉璋と甜は焚き火にかけられた鉄板の前で、肉が焼かれていくという絶景に魅入っていた。
桜色の生肉がだんだんと色づいていく瞬間は、この世のどんな娯楽にも勝る至福の時だ。
ジュウジュウと弾けるような音が心を
「ほっほぅ!熊の肉を熊の脂で焼きますか!」
「そうそう、こうすると風味が強くなって美味しいんだよ〜。獣肉はやみつきになる風味が魅力だよね」
「さすがお頭、よく分かってらっしゃる」
「ちょっとつまみ食いしてみる?」
「いいのですか!?」
「食べ切れないくらいあるんだから、ちょっとくらいいいよ。はい、どうぞ」
「ありがとうございます!……はふっはふっ……うん、これは美味しい!最高です!」
「でしょう?でもほら、この実をすり潰したのをかけると……」
「……ん?んぐんぐ……こ、これは!旨味が増しました!」
「いいでしょ。後はほら、大人はこういうのも好きだよね?」
「これは……ピリッとして良い!最高です!」
「アハハ、最高が多くない?でもピリピリは私と恭が苦手だから全体にはかけないでね」
二人はそうやって楽しげに熊肉が調理されるの眺めている。
いや、眺めているというよりも、すでに食べ始めてしまっている。
主役がすでに結構な量を食べているのだから、歓迎会はもう始まっているようなものだ。
そう思った弘林は団員たちに向って声をかけた。
「おい皆、もう焼きながら食おうぜ。完全に始まっちまってるし、俺もすげぇ腹減った」
その提案に全員が賛成し、各々好きに食べたり焼いたりを始める。
形式張らず、自由にやるのが甜恭団の基本方針なのだ。
その中で先ほどの狩りのように締める時は締め、今のように緩める時は緩めるのが大切なのだと誰もが分かっている。
甜は小さな口いっぱいに肉を頬張りながら、周囲を見渡した。
「それにしても……モグモグ……もったいない山だよね」
劉璋はその意味が分からず問い返した。
「もったいない、とは?」
「だってさ、ほったらかしになってるから山の恵みが少なくなっちゃってる」
「……そうなのですか?しかし人が何も取らなければ、山はその資源を失うこともないと思いますが」
「鉄とかはそうかもしれないけどさぁ、動物とか木の実とか薬草とかは、人が山に入って色々した方がよくできるんだよ?甜恭団は山の恵みをもらうだけじゃなくて、上手くいくようにあげるのもお仕事なの」
甜が言うのは最近よく言われる『里山』という概念だ。
山は放置する方が自然で良い、などということはなく、例えば伐採によって風通しや日射を調整してやることで植生に良い影響が出る。
もちろん人の手が一切入っていない自然というのもそれはそれで貴重なものだろう。
しかし人と山が『共生』することを考えた時、何もしない方が自然で良いという認識は少々問題がある。
馬恭も甜の言うことにうなずいた。
「僕たちは薬用植物がよく育つように、群生地には手を入れることが多いんです。それをやるかやらないかで収穫は全然違いますよ」
そう言ってから馬恭も熊肉を頬張り、よく噛んでから飲み込んだ。
そしてふと、当たり前のことに気がついてそれを口にする。
「そういえば……あの……今さらなのですが、新入団員の方のお名前をまだお聞きしてないと思うのですが……」
言われて劉璋を含め、全員がハッとした。
そういえば、自己紹介すらまだしてないのだ。
「あぁ、これは失礼しました。私はここ益州の刺史、劉しょ……」
「劉璋様ー!!」
と、少し離れたところで大声が上げられた。
そちらを向くと、劉璋の護衛たちが大股に駆けてくる。
その顔は険しく歪められ、額には汗の玉が浮かんでいる。
劉璋はそれを見て、さすがに申し訳ない気持ちになった。
(あらら……そう言えば彼らのことを忘れていましたね。早く知らせてあげれば良かったのに、悪いことをしました)
そんなことを思いながら手を振ってやった。
「こっちです。心配させてしまいましたが、私はこの通り全くの無事ですよ」
一度は心臓が止まったわけだから全くの無事というわけでもないのだが、護衛たちは劉璋の笑顔を見てようやく安堵した。
「劉璋様……良かった……私たちは生きた心地がしませんでしたよ」
「すいませんでした。この方々に助けられて、何とか死なずに済みましたよ」
「そうですか。しかし……もしかして彼らは、山泥棒で?」
ここは益州所有の山ということになっており、一般人の入山は原則として許されていない。
そして甜たちの周りにはその山で得られた収穫がずらりと並べられているのだ。山泥棒と言われても仕方ない状況ではあるだろう。
しかし劉璋はそんな護衛のことを叱りつけた。
「こら、何てことを言うのです。彼らは私の命の恩人ですよ。むしろ、この山は彼らに差し上げしようと考えています」
劉璋は本気でそれを検討しているのだが、護衛の一人は首を何度も横に振った。
「いえいえいえ、それはさすがに……先代
そう言われ、劉璋も確かに反対はされるだろうと思い直した。
「では、山の管理をこの方々に任せることにします。それなら問題もないでしょう」
「管理を……まぁそういうことでしたら、恐らく」
所有権さえ移らないのであれば文句を言う輩も少ないだろう。
それに、先ほどの話だと甜恭団に管理してもらった方が山のためにも、民のためにもなると劉璋は思った。
「そういうわけで皆さん、この山をよろしくお願いします。得られた山の恵みは甜恭団で捌いてもらって結構ですから」
それはありがたい話なのだが、劉璋の正体が薄っすらと理解できた弘林は声を震わせて尋ねた。
「あんた、劉璋様って……それに先代劉焉様って……もしかして……」
「名乗りが遅れましたが、私は益州の刺史をやっている劉璋といいます。先ほどのお話通り、たまに甜恭団の活動にも参加しますから仲良くしてやってください」
仲良くと言われても、弘林たち一般人からすると刺史など雲の上のような存在だ。
誰もが言葉を失い、口があんぐりと開きっぱなしになってしまった。
ただし甜だけはよく理解できていないので、周りの反応を不思議そうに眺めている。
「ねぇ恭、刺史って偉いの?」
「え、偉いも何も、ここ益州で一番偉い人だよ!」
「ふーん……」
そう言われても甜は大した感動を見せず、気楽に劉璋の丸い腹を突っついた。
「でもさ、甜恭団にいる時には私の方が偉いんだからね?なんたって、お頭だもん」
周りの男たちはその言動にヒヤヒヤしたが、劉璋だけは嬉しそうに笑って腹を揺らした。
「ええ、もちろんですよ。ちゃんと子分として働きますから、これからもたくさん楽しませて下さいね、お頭」
「いいよ。お頭は団員を喜ばせるのも仕事だもん。劉璋おじさんを喜ばせるには……あっ!」
甜は小さな声を上げて、茂みの方へ走って行く。
そして帰ってくると、その手には確かに劉璋を喜ばせてくれるものがあった。
ポルチーニだ。
大きくて肉厚で、まさに菌肉質と称えていいほどの存在感を放っている。
劉璋が見つけていた毒キノコよりもさらに立派なキノコだった。
その威容を前にした劉璋は、喜びのあまり無意識に叫んでいた。
「……ポルチーーーッニ!!」
その後、熊の脂でソテーされたポルチーニは劉璋の記憶に生涯残るほどの美味になった。
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