選ばれた子、選ばれなかった子2

 劉岱リュウタイ兗州えんしゅう刺史しし(長官)として責任感の強い男だ。


 もともとその人柄には定評があり、皇族である上に清廉な人物として声望があった。いわゆる名士だ。


 だから董卓の名士優遇政策の一環として兗州刺史に任じられ、謙虚に仕事に取り組んできた。


 そういう劉岱だったから、兗州に青州の黄巾軍が流れ込んでくると聞いて、すぐに出陣を決意した。


 劉岱の感覚では黄巾は賊と同義だ。賊から領民を守るために戦わねばならない。


 部下の中には籠城を主張する者もいたが、それを押し切って野戦で迎え撃った。その方が民の被害が少ないと思ったからだ。


(しかし、籠城が正解だったな……)


 劉岱は卓に肘をつき、頭を抱えながら今日の戦を思い出していた。


 青州黄巾党は数が多く、勢いもあった。そして兵の練度も高い。


 黄巾の乱から八年経っているが、その間貪欲に牙を磨いていたのだろう。そういう精強な兵たちだった。


 劉岱は野戦で散々に敗れ、近くの街に逃れてきた。


 今はその街の庁舎で一人休んでいるところだ。


 ひどく疲れているので本当は寝たいのだが、今日の敗戦が脳裏に浮かんでとても寝付けない。


 それで卓の上の灯火を睨みながら頭を抱えていた。


 そこへ、廊下から従者の声がかけられた。


「劉岱様、起きておいででしょうか?」


 劉岱は頭を上げないまま、暗い声を返した。


「起きているが、どうした?」


「黄巾党からやって来たという人間が劉岱様に会いたがっています。なんでも、裏切りの申し出を伝えたいとかで」


「裏切り?」


 その単語を耳にして、劉岱の頭はようやく上がった。


 戦において、裏切りは相手の心臓を一突きにできる可能性すらある強力な短刀だ。


 こと劣勢時にはこれほどありがたい話もない。


「それは黄巾軍のどの武将からだ?」


「まだ不明です」


「不明?」


「使者の人間の話によると、我が軍に黄巾の間者が紛れ込んでいるとのことでして……劉岱様ご本人にしか話さないと申しております」


「なるほどな……」


「通してよろしいでしょうか?」


「もちろんだ。この部屋に連れて来い」


 ここは劉岱が寝起きするつもりで用意された部屋だから、誰かに聞かれることもないだろう。


 従者もそれを理解しているから言われた通りに使者を連れてきた。


 劉岱は灯火に照らされた使者の顔を見て、少し驚いた。


「若いな」


 使者はどう見てもまだ少年だ。


 なぜか灯火に照らされた髪が一筋だけ白かったものの、背丈も顔つきもまだ子供と言っていいほどだった。


 裏切りという重大な要件を伝えるには若すぎるように思える。


 その使者、今年で十二の徐林ジョリンうやうやしく頭を下げた。


「味方に警戒心を抱かせぬよう、私のような若造が使者に選ばれております」


「そうか。まぁそれはいい。裏切りの詳細を聞かせてくれ」


 劉岱は先を急いだ。


 それはそうだろう。今日の敗戦を覆せるなら使者の年齢などどうでも良かった。


 だが徐林の方はすぐに答えない。


「お人払いを。劉岱様お一人とお話しとうございます」


 それを要求した。


 部屋には従者の男がいるし、廊下にはそれほど離れていない所に護衛の兵が数人いる。


 早く話を聞きたい劉岱はすぐに全員を遠ざけようかとも思ったが、そこは戦時中だ。


 了の返事をぐっと堪えた。


「……この従者だけは部屋にいさせる。私と付き合いの長い者で、太平道の信者でもないし間者である可能性は皆無だ」


 その返事に徐林の方は大した抵抗を見せなかった。


「了解いたしました。では外の護衛だけでも声が聞こえない程度に遠ざけてください」


「分かった」


 劉岱はそれを命じ、実行されてから先を促した。


「で、仔細はどのような?」


「帯の中に密書を縫い付けております。少々お待ちを」


 徐林は腰に巻いた紐をほどき始めた。


 異様に長い。帯にしては長すぎる紐だった。


 それを片手で輪にしながら懐に手を伸ばす。


 そこから銭の束を取り出した。銭は穴に紐を通されており、その紐に腰の紐を結び付けた。


「……?」


 劉岱も従者も不思議そうにそれを見ている。


 予想外の物を取り出してはいるのだが、当然この部屋に入れる前に刃物などの武器を所持していないかは確認している。


 だから不思議には思っても、危険は感じていなかった。


 それに徐林はごく落ち着いた様子でいる。密書を取り出すのに何か必要な作業なのだと思った。


 徐林はなんの説明もせず、ただ淡々と紐の先に銭の束を結び付け、手から垂らした。


 そしてその紐を振って回し、銭の束を回転させる。


 銭の回転音が高くなる頃、ようやく従者の方が危機感の混じった声を上げた。


「……っ流星錘りゅうせいすい!?」


 流星錘とは紐や鎖の先にすい(重り)をつけた武器の一種だ。暗器に分類されることもある。


 日本人であれば鎖鎌の分銅の方を思っていただければほぼ間違いない。


 もちろん錘の部分は多種多様あり、今の徐林は銭の束を錘にしていた。


 この時代の銭は五銖銭ごしゅせんという銅銭なのだが、『五銖』とは重さのことで、約三グラムに相当する。


 つまり三百五十枚ほどの五銖銭があれば、およそ一キログラムの金属塊になるわけだ。


 徐林は一列五十枚の五銖銭を七列用意し、それを束ねて錘として使いやすい格好にしていた。


 その金属塊が円運動から外れ、放り出されるように直線運動に移った。


 錘が向かう先は従者の頭部だ。高速の金属塊が人の急所を襲った。


「くっ……!!」


 従者は流星錘をすぐに見抜いただけあって、それなりの心得があるようだった。不意打ちにかろうじて反応する。


 が、避け切れはしない。


 流星錘の利点は遠心力で攻撃を繰り出すから、徐林のような年少者でも十分すぎるほどの威力が出ることだ。


 恐るべき速度で迫った五銖銭は従者の目の上に当たり、その身をグラリと揺らした。


(今の手応えだと死んではいないな)


 徐林は冷静にそう判断したが、追撃はしない。


 脳震盪が起こる程度には当たっているからしばらく動けないし、本命はそちらではないのだ。


「あっ!?」


 と、本命の劉岱が喉を鳴らした時には錘が手元に戻されており、また高速回転を始めている。


 そして劉岱が次の声を出そうとした時には再び飛ばされていた。


 ゴッ


 と重い音がして、劉岱の首が後ろに曲がった。


 額を撃ち抜かれたのだ。


(このままでも死ぬかもしれないけど……)


 徐林はこの齢にして、仕事というものに厳しい認識を持っている。『かも』などという曖昧な状態で終わりにはしなかった。


 劉岱の方へ踏み込み、仰向けに倒れた頭部へ向けて錘を振り下ろす。


 宙で弧を描いた五銖銭が再び同じ場所に当たり、より重い低音を鳴らした。


 その結果として頭蓋がはっきりとへこみ、確実に命の火が消えたことを確認できた。


 しかし徐林は気を抜かない。振り向きざまに従者へ向けて錘を放つ。


 意識を朦朧とさせた従者は今度は反応できなかった。


 錘はこめかみに当たり、完全に意識を消失させることが出来た。


「ふぅぅぅ……」


 徐林は出来るだけ静かに息を吐き、耳を澄ませた。


 廊下から人が近づいてくる気配はない。


 どうやら護衛たちは主君の危機、というか、死に気づいていないようだ。


 二人が倒れた物音くらい聞こえていそうなものだが、徐林があまりに年若だったのでそもそも警戒心が薄いのかもしれない。


(子供ってのは、つくづく暗殺向きの存在なんだろうな)


 徐林はそんなことを考えながら灯火を手に取った。


 その火を燃えやすそうなものに移していく。


 徐林は今日まで何度も同じようなことをしながら生きてきた。生粋の暗殺者として生きてきたのだ。


 五歳で徐和ジョカに拾われ、流星錘の技術を叩き込まれた。


 徐和はこの武器の名手で、錘も二つ同時に使う。そもそも扱いの難しい武器なので神がかった器用さだ。


 徐林は練習中に何度も自身を打った。骨を折ったことも一度や二度ではない。


 そうやって傷つきながらも、必死になって技術を磨こうとした。


 もう捨てられたくはなかったからだ。


(ちゃんと言われた通りにできたら、きっと捨てられない)


 そう思い、鍛錬の意味すら分からないまま懸命に努力した。


(もう捨てられるのは嫌だ。選ばれなかった方になるのは嫌だ)


 一番古い記憶、父が自分ではなく隣りの赤子だけを抱いて逃げていく光景を思い出すたび、徐林は震えるような気持ちで錘を回した。


 そんな苦しみに押されて技は向上し、八歳の時点で並の兵では勝てないほどになった。


 そして初めて人を殺めたのも八歳の時だ。


 相手は死刑が確定している罪人だった。


『まずは人を殺すことに慣れさせねば、暗殺という仕事を任せるのは無理だ。初めは誰もがためらうからな』


 徐和がそう判断してのことだった。


 が、徐林は一切のためらいを見せずにその罪人を殺した。


 今日のように、二撃で罪人の命を絶った。


 迷いがなかった理由は明快だ。


(ちゃんと言われた通りにできたら、きっと捨てられない)


 それだけを思い、言われた通りに殺した。


 その様子にさすがの徐和も困惑したのだが、暗殺者に仕立てようとしているのだからむしろ適性は高いと言える。


 実際、その後の徐林はほとんど失敗らしい失敗をせずに幾人もの暗殺をこなしてきた。


 標的にされたのは太平道の敵対勢力や、内部の裏切り者などだ。


 黄巾残党の中でも徐和たちは青州に基盤を持ったが、この地に根を下ろすのに邪魔な有力者なども標的にした。


 もちろん暗殺だけで青州黄巾党が今の勢力を得られたわけではないが、徐林の働きは決して小さくはなかった。


 そして今日もきっちり仕事をこなしている。


(今日の月明かりなら煙も十分見えるだろう)


 徐林は窓の外に目を走らせながら寝具に火を点けた。


 この時代は木製の家具だらけなので着火には困らないが、劉岱の近くだけは避けた。


 このあと味方が街に夜襲をかける予定なのだが、ここの兵たちには劉岱の死を確認して士気を下げてもらわねばならない。


 そして火を放つのが暗殺完了の合図ということにしてある。


「……おい、なんか焦げ臭くないか!?」


 かなり火の手が回ったところで離れていた護衛が大きな声を上げた。


 その直後には徐林は窓から脱出している。


 すでに最も大切な暗殺は果たしているのだ。無理をして捕まる必要はない。


 どこか適当なところに隠れ、火事と夜襲の混乱に紛れて抜け出せばいい。


(ちゃんと無事に帰らなきゃ。父さんにもそう言われた)


 徐和は徐林を暗殺者として育てはしたが、息子として愛してくれた。


 仕事には厳しいし、鍛錬の時には鬼のようになる。しかしそれ以外の時には常に穏やかで、本当の息子のように接してくれた。


 今朝も徐林のことを抱きしめて、無事に帰ってくるよう命じたのだ。


 ただし、一度捨てられている徐林はそれを手放しに喜ぶことなど出来はしない。


 親の愛情が無条件だなどと、夢にも思えないのだった。


(この人は俺のことを捨てない。少なくとも、俺が言われた通りに殺せてる間は)


 そんなふうに考えてしまう。


 だから抱きしめられながらも、安らぎの中に焦燥を滲ませて任務の成功を誓った。


 そして今日もそれを果たせたのだ。


「父さん、俺ちゃんとやったよ。ちゃんと殺せた。だからさ、捨てないでね父さん……」


 徐林は物陰に身を滑らせながら、小さく、小さくつぶやいた。

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