短編 段煨4

 陳範チンハンは高く盛り上げた土のてっぺんをくわで叩き、そこから下に向かって確認した。


段煨ダンワイ様、こんなもんでどうっすか?」


 聞かれた段煨は手元の木簡(紙代わりの木の札)から顔を上げ、陳範の方を見上げた。


「ん?……おお、いい出来だぞ。見事な土塁だ」


「角度もこんなもんで?」


「ああ。角度、高さも問題ない。前面の堀の深さも十分だし、いい防御設備になってる。土仕事はもうお手の物だな」


 今日の陳範たちは珍しく、と言ってはなんだが、軍人としての仕事をしていた。


 城外に陣地を構築するため、防塁を作っているのだ。


 段煨がここ華陰かいんに駐屯してからすでに五年の月日が流れている。


 街の城壁はすでに修復、強化を済ませており、追加の防御設備を要所に作っているのだった。


 こういう防塁の構築には自信がある。地形なども考慮すると、かなりの防御力を見込めるものが出来上がったと思う。


 しかも街道のそばにあるから戦略的な価値も高い。


 段煨としては城に立て籠もるよりも、ここに陣地を敷いた方がいいと考えているほどだ。


「私の部下たちは皆、土仕事が得意だ。やはり田畑に精を出している成果だな」


 段煨の軍は相変わらず農業に勤しんでいる。


 そのおかげで略奪などせずとも戦力を維持できているわけだから、民からも喜ばれていた。


 そして陳範の管理している子供たちの農業教育も順調だ。それなりの収穫も上がっている。


 当然のことながら素行に問題のある子供も多かったが、陳範とその仲間たちが上手くあしらってくれるので大きな問題にはなっていない。


 そういう教育する側に立ったせいか、陳範の仲間たちの素行は見違えて良くなった。


 やはり子供を育てるという作業は、人を大人にするということだろう。


「俺も段煨様のやり方はいいと思うんすけど、たまに自分が兵士だってことを忘れそうになるんすよね」


「そのくらいの方が平和でいい。……と言っても、やはりこんな世の中だ。先日のように賊相手の戦いは今後も頻発するだろうがな」


 華陰は大きな戦に晒されていないが、時代は完全な乱世だ。賊と呼ばれる者たちがはびこるのも仕方ないことだった。


 兵としての実戦経験も積んだ陳範は、自分でも五年前とは別人のようになったと思う。


「乱世っすね、マジで。昔は『戦がたくさんあった方が成り上がれる機会が多くていい』とか思ってたんすけど、今は他所よそから賊が入ってくるからマジ勘弁っすよ」


 華陰は段煨の働きでよく治まっているが、周辺地域はそうではない。


 特に現在の長安周辺は大変なことになっていた。


 董卓は三年前に暗殺されてしまったのだが、その後の戦を経て今は李傕リカク郭汜カクシの二人が長安と朝廷を牛耳っている。


 ただ、この二人には統治能力というものが悲しいほどに無かった。


 民そっちのけで内輪揉めの内戦を繰り広げ、兵たちの横暴を許して略奪が当たり前という状況になったのだ。


 民も奪われれば生きていくために非情にならなければならない。さらに他の民から奪うことになり、結果として賊の発生は頻発する。


 段煨たちには至極迷惑な話だった。


「段煨様、何見てたんすか?」


 土塁から降りてきた陳範が段煨の手元にある木簡に目を落とした。


 普通の倍ほどもある大きな木簡に、二つの文字が力いっぱい大書されていた。


「俺は字読めないんすけど、なんか威張った感じの字っすね」


 段煨はその言葉に吹き出した。


「ふははは!字が読めなくても伝わるか。これはな、『列侯れっこう』という字だ」


「列侯っつーと……ど偉い貴族っすか?」


「まぁそんなものだな。列侯になると侯国という土地が与えられる。その地を治め、税を自分のものにできるんだ」


 列侯というのは爵位の一つだが、これを受けるのはただの官位を受けるのとはわけが違う。


 例えば太守は就任してもその土地の行政官になるだけだが、列侯は土地を所有するような感覚に近いだろう。子に世襲もされる。


 もちろん問題があれば剥奪されることもあるが、中央と上手くやれば侯国の王様のような立場でいられるわけだ。


「へぇ……でもその列侯って字だけ書かれてても、意味分かんないっすね」


「いや、私には分かる。要は『俺は列侯になったぞ!』という自慢だな」


「自慢?」


「そう、自慢だ。楊定ヨウテイという腐れ縁の馬鹿が自慢の文を送ってきたんだよ」


 今現在の楊定は色々あって、侯に列せられるほどの出世をしている。


 董卓が暗殺された時、楊定は董卓の手元戦力として長安の近くにいた。


 そして董卓の死後は長いものに巻かれる形で、最高権力者になった王允オウインという男に従った。


 が、楊定はこの王允をすぐに裏切っている。どうも馬が合わなかったらしい。


 董卓の暗殺後、李傕と郭汜が仇討ちを名目に王允を攻めたのだが、その時に楊定は王允から迎撃を命じられて長安を出陣した。


 そしてそのまま軍ごと寝返り、李傕と郭汜の側についたのだ。


 その選択は結果として大正解だった。李傕と郭汜は戦に勝ち、王允は殺された。


 そして楊定は裏切りの功績を評価され、将軍位を授かった。


 ちなみにその時にも段煨に『将軍』の二文字が大書された木簡が届けれられた。


 それを見た段煨は苦笑いとともに、


『あの馬鹿……』


とつぶやいたのを覚えている。


 ちなみに段煨は董卓の仇討ちには参加せず、日和見の静観を決め込んだ。


 当たり前の話だが、李傕と郭汜からは戦に参加するよう催促の使者が来ていた。段煨も董卓の部下だったのだから、参戦するのが筋と言えば筋とも言える。


(しかし、董卓様の暴政は暗殺されても仕方ないほどのものだった……それに李傕や郭汜も略奪が酷い将だったからな……そんな奴らが勝って政権を握ったところで、果たして上手く世を回せるものか……)


 そういう不安があった。


 それに、もともと野心の少ない段煨には、


(ここ華陰だけでも平穏に治められれば)


という気持ちがある。余計な争いに首を突っ込みたくない。


 さらに言えば、この時点では帝は王允側にいたのだから、参戦すれば『逆賊』になってしまうのだ。


 特にそのことは参戦しないための十分な理由になる。


 段煨は使者を丁重にもてなした上で、帝へ兵を向ける懸念を口にして婉曲えんきょくに断りを入れた。


 ただ、一点だけ気を遣った。


賈詡カクにだけは正直なところを伝えておこう)


 この賈詡というのは李傕と郭汜を勝利に導いた天才軍師だ。


 もともと降伏するつもりだった二人に助言を与え、十万の兵を糾合させた。


 そして賈詡は段煨と同郷で、知らぬ仲ではない。互いに頼れる間柄なのだ。


『私は自分の手の届く華陰さえ平穏無事に治められれば、他には何も望まない。そちらが無茶をしてこなければ敵対することはないから、良いように取り計らって欲しい』


 そんなことを伝えた。


 旧知の賈詡はそれが段煨の本音だと分かるし、実利というものの在処ありかをよく知っている男だ。


 下手に波風を立てて反対勢力を作ることはせず、段煨に将軍位を与えて懐柔させた。その後の華陰の統治もそのままにしてくれている。


(楊定は腹立たしかったろうが……)


 中国では○○将軍という役職がいくつもあり、それぞれ格の違いもあるのだが、それでも楊定と同じように将軍位に昇ったのだ。


 大きく鼻を鳴らす楊定の様子が目に浮かぶようだった。


 が、今の楊定はさらに進み、列侯の爵位を与えられて一歩抜きんじている。


 段煨が今手にしている木簡からは、


『どうだ!!』


という自慢がはっきりと伝わってきた。


「なんか子供みたいな人っすね」


 陳範の言葉を聞き、段煨はまた吹き出した。


「ふははは!確かにそうだ。子供みたいなやつなんだよ」


「うちに働きに来てる子供たちみたいなもんだと思えば、仲良くできるかも知んないっす」


「そうか?じゃあ仲良くしてやってくれ。もうしばらくしたら来るらしいしな」


「え?そうなんすか?」


「あぁ、帝と一緒に華陰を通る予定だ」


「み……帝ぉ!?」


 ほとんどゴロツキのようなものだった陳範でも、さすがに帝というものの大きさは分かる。


 今は力を失っているとはいえ、それでも陳範たちからすれば雲の上の存在だ。


「帝って、あの帝がここに来るんすか!?」


「そうだ。そういう予定だと連絡を受けている。帝は長安でのゴタゴタに嫌気が差していらっしゃるという話でな。洛陽へ帰還されるとのことだ」


 李傕と郭汜は帝を擁することで力を得ていたが、少し前にその帝を巡って二人で大喧嘩をしている。


 一時期は帝を誘拐したり、その使者の公卿を人質にするという蛮行にまで手をつけて殺し合っていた。


(賈詡がいた時には適切な助言を行って内輪揉めを避けられていたという話だが、悪いことに母君の喪でしばらく官を離れていたからな……)


 段煨にはそれが残念でならなかった。


 内輪揉めはその後なんとか和解に漕ぎ着けたのだが、この状況に嫌気が差した帝は過去の首都である洛陽への帰還を希望し始めた。


 そして周囲の様々な思惑も重なって、帰還が実現しそうなのだ。


 その行程でここ華陰を通る予定だった。


 ちなみに楊定は将軍としてその洛陽帰還に随行し、帝を守るという役目を任じられている。


 その前に楊定が列侯に封ぜられたのも、『裏切るなよ』という意味合いが強いだろう。


「帝を目一杯もてなして差し上げるぞ。穫り頃の作物も把握しておいてくれ」


「……え?帝が俺らの作ったもんを食べるんすか?」


「ああ、もちろんそうだ」


「いや、でも、そんな……帝みたいなすげぇ人が俺らの作ったもんを……」


「なんだ、不安か?確かに帝はすげぇ人だが、私は陳範の作った作物もすげぇ美味いと思うぞ」


 段煨は明るく笑ってそう言った。


 それで陳範には自信が出た。この人はいつも自分に自信をくれる。


「そ、そうっすよね。俺たちの作った作物は最高っす!」


「ああ、きっと帝もお喜びになる」


「喜ばせてみせますよ!ついでに段煨様の友達も喜ばせてあげますから!」


 その言い方が段煨には可笑しくて、また吹き出した。


「ふははは!私とあいつとは友達というより、腐れ縁なんだよ」


「ええ?でも腐れ縁って、まんま友達ってことじゃないっすか?俺の腐れ縁はみんな友達っす」


 段煨はいったんキョトンとしたものの、すぐに『なるほど』とうなずいた。


(友達、か……)


 段煨は楊定との関係をただの面倒な腐れ縁だと思っているが、陳範の言う通り、つまりは友達ということなのかもしれない。


 そんなことを考えると、また笑みが浮かんだ。


 が、しばらくして久しぶりに見た楊定の目は、友達と言うにはいささか凄惨なものになっていた。



***************



(なんだ?この楊定の目は……)


 段煨は久方ぶりに見た楊定の目の色に、不気味なものを感じていた。


 自分の知っている楊定ではない。


 自分を見る楊定の目はいつも好戦的だったが、その中にどこかそれを楽しんでいるような色合いがあった。


 だからその目を面倒に思いながらも、嫌いにはなれなかったのだ。


 しかし今の楊定の目はただただ争いを求め、相手を喰らい尽くそうとしているようにすら見える。


 そんな暗い炎が宿っているように見えるのだ。


「楊定……お前……」


 段煨は馬上でそれだけつぶやいて黙り込んでしまった。


 この日の正午、帝と随行する官吏、宮女、官軍らが華陰に到着した。


 段煨は全軍を上げてそれを迎えている。


 数日前から街道沿いに設けた陣地に物資、食料を運び込み、饗応きょうおうの準備を整えてきた。


 段煨は帝の洛陽帰還にはついて行かないが、その分ここで精一杯もてなして送り出すつもりだった。衣服などの物資も提供する用意がある。


 その申し出と挨拶のために帝の行列へとおもむいたのだが、その前に現れた楊定を見て段煨は驚愕していた。


 他の者にはさしたる変化に見えなかったかもしれないが、段煨には衝撃を受けるほどの変わりようだった。


「どうした段煨?鳩が豆でもぶつけられたような顔しやがって」


「いや……」


「あと、『楊定様』って呼んでもいいんたぜ?こないだ知らせたが、俺はもう列侯になったんだからな」


 段煨はそんな戯言ざれごとに答える気にもなれず、また小さくつぶやいた。


「お前、変わったな」


「変わった?そりゃそうだろう。この乱世の地獄を生きてきて、変わらないやつなんているかよ」


 段煨はその一言で、楊定が変わってしまった理由の一端が掴めた気がした。


 楊定の言った通り、ここ数年の長安周辺は地獄と表現してもおかしくないような負の感情で満ち満ちていたからだ。


 己の利を貪るための略奪、怨恨を果たすための裏切り、正義を振りかざした暴力、疑心暗鬼による暗殺、痴情のもつれ、嫉妬心からの糾弾、衝動に身を任せた破壊、承認欲求を満たすための詐略……


 挙げれば切りがないほどで、ここのところの長安におけるいさかいはちょっと書き記す気にもならないほど多い。


 日本史の好きな方なら室町末期から戦国にかけての京周辺を想像していただければ、そう遠くないと思う。


 董卓の旧臣の中でも段煨ほど幸せな者もいないだろう。


 本人が真面目に農業に励んだ結果とはいえ、この乱世でそういういさかいから離れた生活を送れていたのだから。


 もちろん人の世にはいつも負の感情があふれているものの、楊定がいた時代、地域はそれによって簡単に殺し合いが起こったのだ。凄惨さが違う。


 一つ選択を誤れば、明日には息をしていないかもしれない。すぐ隣りにいる人間が、実は自分の命を狙っているかもしれない。


 そんな所で何年も生きてきて、変わるなという方が無理だろう。


(せめて私がいれば……)


 段煨は自分が楊定のそばにいれば、少なくともここまでの目にはなっていなかったのではないかと思った。


 楊定は自分と張り合うことによって精神的な安定を保っていたように思う。しかし自分はそばにいてやれなかった。


「楊定……」


 どうしようもない事とはいえ悔恨を抱いている段煨へ、楊定は挑発的な笑みを飛ばした。


「なぁ段煨、華陰をくれよ」


「……なに?」


 突然の発言の意味が分からず、段煨は聞き返した。


「どういう意味だ?」


「そのままの意味だよ。華陰を俺に譲って、その富を渡せ。ここはこの乱世でも食料が豊富で、しかも平和だそうじゃないか」


「他所に比べればそうかもしれんが……」


「その富を俺が有効活用してやる。帝はこれからも物入りだからな。忠臣として、俺のものにした華陰を使って帝に尽くすんだ」


「…………」


 今の楊定はどう見ても忠臣の目などしていない。


 争い、奪い、それで強大になろうとする者の目だ。そういえば生前の董卓がこんな目をしていたような気がする。


 段煨はその目を見ていられなくて、視線をそらして馬を進めた。


「冗談はまた後で聞く。とりあえず帝へ挨拶だ」


 とは言ったものの、段煨には楊定が冗談を言っているとは思えなかった。


(こいつ、本気で華陰を奪う気でいるのか……)


 段煨は自分の右手を左手で押さえた。そこには楊定を守るために受けた矢の傷痕が残っている。


 そして楊定の手のひらにも自分を守るために負った傷痕が残っている。


 もはや痛むはずもない手の甲が、針に刺されたようにチクリと痛んだ。


(そういえば、周囲の兵たちからも殺気を感じる気がするな)


 ここは危険だ。


 そう思った段煨は、無礼を承知で帝の御前でも下馬せずに挨拶を済ました。


 そして自分の陣地への行幸を願い、早々にその場を切り上げた。

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