短編 段煨5
陳範は土塁の上から
礫は真っ直ぐに敵兵の顔面へ飛んでいき、その鼻を潰す。
「くそっ!!帝をもてなすどころか戦になってんじゃねぇか!!」
そのことに強い憤りを覚えているが、相手が一方的に攻めて来ているのだからどうしようもない。
昨日到着した帝は、陳範たちの陣地には来てくれなかった。道を挟んで北側に段煨の陣地があり、南側に帝たちは野営した。
来てくれなかったどころか、今朝からは段煨の陣地を包囲し始め、夕方には攻めてきたのだ。
「昨日話を聞いた時は、まさかって思ったが……」
段煨から全軍にこういう可能性があるから厳戒態勢を敷くよう言われてはいた。
こちらはただただ帝をもてなすつもりでいたのに、まさか攻撃されるとは。
陳範はまた礫を握り、敵へと投げつけた。
投石技術には自信がある。軍に入る前から、これで数多くの喧嘩を制してきたのだ。
礫は寸分違わず敵の膝頭ど真ん中を打ち砕いた。これで土塁を上がってくることはできないだろう。
この兵を下げるために、他の兵も手間を取るはずだ。
防衛戦は今のところ大きな問題なく運んでいる。段煨の築いた防御陣地は堅牢で、そう簡単に破れるものではない。
だからまだまだ余裕はあるし、今日一日だけでなく何日でも耐えられる自信があった。
ただ、それとは関係なく陳範の心には暗い雲がかかっている。
「美味い食いもん、いっぱい用意したのに……」
それを帝に食べてもらえることをずっと心待ちにしていたのだ。想像するだけで心躍るほど、楽しみにしていた。
それなのに、まさか戦になるとは。
「あんまりだ……」
つぶやきながら、陳範はまた礫を投げた。
***************
「段煨様、連れて来ました。隊長級の捕虜っす」
陳範は捕虜を本陣の幔幕まで引っ張って来た。
本陣では段煨と上級将校たちが軍議中だ。
中央に卓が据えられ、そこに周辺地図を開いて話し合いをしている。
「ご苦労だったな。お前のところの連中は大丈夫だったか?」
段煨はまず陳範の隊の被害を聞いた。
相変わらず優しい将だと思いながら陳範は答える。
「怪我人はいても死人はいないっす」
「そうか、それは何よりだ。それにお手柄だな。お前が捕らえたこの兵から色々事情が聞けるだろう」
連れて来られた兵は陳範の投石によって脳震盪を起こし、倒れているところを捕獲された。
これからその尋問が行われるのだ。
段煨の軍は今朝いきなり官軍に攻められ始めたのだが、そうなるに至った官軍側の事情などさっぱり分からない。まずはそれを知ることが必要だ。
しかしその捕虜は明後日の方を向き、吐き捨てるような声を出した。
「俺は何も喋らんからな!仲間を裏切ることなどできん!」
段煨はそんな捕虜にゆっくりと歩み寄りながら、無表情に問うた。
「お前のその態度は立派だが、それなら拷問で聞き出すしかなくなるぞ?いいのか?」
『拷問』という単語を聞き、捕虜の体は一瞬こわばった。
が、すぐに口元に薄ら笑いを浮かべる。
「……好きにすればいい」
この捕虜は段煨の性格を聞いている。
優しくてごく穏やかな男だという話だから、多少殴られて終わりだろうと思った。
「仕方ないな」
段煨は小さなため息を吐き、それから捕虜の胸ぐらを掴んだ。
それを強く引きながら足をかけ、卓の上に転倒させる。
「うぉっ……」
と捕虜が言う間に段煨の副官が押さえつけ、周りの将校たちも手伝ってすぐに捕虜の腕が卓に縛り付けられた。
その前に立った段煨は、手に鉄製の道具を持っていた。
鋏のような形状だが切るための刃はついておらず、先端で物を掴めるようになっている。『やっとこ』という道具だ。
「お前、利き腕はどっちだ?」
「……?み、右だが」
「じゃあ左手からだな」
段煨は左手の小指の爪をやっとこで挟み、無造作に引いた。
爪は簡単に剥がれ、その内の赤い肉が露出する。
全身の毛が逆立つような痛みが走り、捕虜は高い悲鳴を上げた。
「……ぎゃああぁああ!!」
その様子を見ていた陳範は我が目を疑った。
こういう拷問は軍という組織では珍しくもないのだろうが、段煨がそれを平然とするとは思わなかった。
「あ……あ……あ……」
捕虜は信じられないというような目で自分の小指を見つめ、小さな声を漏らしている。
そんな捕虜へ、段煨は相変わらずの無表情で告げた。
「早く喋った方がいいぞ。左手が終わったら次は右手で、その後は足にいくからな」
「え……」
「ちなみにその後は指の骨を一本一本折っていき、さらにその後は腕の骨、足の骨、それから耳を削いで目を潰すという順になる。どうせ耐えられん」
「…………」
初めにそう言われても想像などできなかっただろうが、今は指先の痛みとによってその光景を明確に思い浮かべられる。
捕虜は震えることすらできなかった。
「たまにお前のように兵としての私を舐めている人間がいるが、よく考えてみろ。私は
警告だけはしてやりながら、今度は薬指の爪を挟む。
捕虜は暴れようとしたが、すぐに段煨の副官が押さえつけた。
この副官にも容赦や迷いはない。
というのも、段煨は『絶対に片手の爪だけで終わらせる』ということをよく知っているからだ。
しかもきちんと手当もしてやる。
しばらくは痛いし不便なことも多いが生きるのには支障ないし、時が経てば治る。
が、この捕虜にそんなことが分かるはずもない。
恐怖に顔を引きつらせて叫んだ。
「は、話す!話します!なんでも話しますから、勘弁してください!」
段煨はその様子からもう大丈夫そうだとは思ったが、念のため警告だけは挟んだ。
「後で嘘だと分かったら続きをするからな」
捕虜は涙目で首を縦に振った。
「よし。ではまず何よりもこれを確認したいのだが、どういった経緯で私たちは攻められている?帝もその周辺も、私たちが帝を饗応するつもりだということは了解していたはずだ」
「よ、楊定様が帝へ『段煨、
段煨は唇を噛んだ。
予想していたとはいえ、やはり辛い。
「……帝はお信じになったのか?」
「いえ……というか、帝の周りの臣下もほとんどが信じなかったそうです。ですが楊定様と仲の良い将の口添えがあり、さらにこの辺りを役人を捕まえて謀反の兆候を証言させまして……」
「それで段煨を討つべしという
「実はそれも出ていません。楊定様は帝に近い臣を通じて説得させましたが、それでも詔勅は出ず……」
「……しびれを切らした楊定が独断で攻撃を始めた、ということか」
「はい」
帝は力を失って傀儡になっているとはいえ、そもそも幼い頃からその利発さを讃えられていたような人だ。
道義をわきまえているということだろう。
これを聞いた段煨の将校たちはさすがに呆れた。楊定は帝の臣下でありながら、その意志を無視して勝手に戦を始めたのだ。
ただ、段煨一人だけは楊定のことを心配した。
(あの馬鹿……朝廷の中でも立場を失うぞ)
朝廷の百官は本来ならここ華陰で一休みできて、しかも物資の補給まで受けられたのだ。
にも関わらず、楊定はそれを勝手に拒否したどころか理不尽かつ一方的に攻め始めてしまった。
口に出すかどうかはともかくとして、皆かなりの苛立ちを抱えていることだろう。
おそらく帝自身もそうなはずだ。だから迫られても詔勅を出していない。
「じゃ、じゃあ帝は……!」
と、陳範が叫ぶような声を上げた。
「本当は俺たちの飯を食いに来たいのに、邪魔されて来れてないってことっすか!?」
視点が多少ズレているようではあるが、陳範の言うことに間違いはない。
段煨は首肯した。
「そういうことだな」
「そんな……そんなのってないっすよ……せっかく帝のために最高の食いもん用意したのに……」
やはり視点がズレているとは思ったものの、段煨には陳範の悔しさがよく理解できた。
帝に喜んでもらうため、今日まで本当によく頑張ってきたのだ。
穀物も野菜もよく厳選し、最高のものを用意した。
この時期に穫れたものがどのような料理に合うかを料理人と相談し、新たな料理まで創っていた。
職人肌の料理人に無茶な素材の注文を受け、それを実現するために畑中を歩き回っている陳範は、不思議ととても嬉しそうだった。
「すまんな……」
段煨は己の力不足を詫びた。
この若者の努力を成果に昇華させてやれなかった自分を、本当に悔しいと感じた。
***************
陽が傾き、夕刻が近づいていた。
この時間帯になると敵の攻撃はやや緩くなる。もうすぐ今日の終業時間だと誰もが知っているのだ。
しかも段煨の陣地は守りが固く、まだまだ抜けそうにない。どうせ今日はもう無理なのだから、危険を冒してまで力押しすることもないだろう。
陳範はそんな様子を眺めながら、少し距離を置いた兵たちに土塁の上から声をかけた。
「お疲れさん!今日はもうそろそろ店じまいだな!」
兵たちはいきなり普通に話しかけられて驚いていたが、その中の一人が声を返してきた。
どうやら陳範のところを攻めている部隊の長らしい。
「おう、そっちもお疲れさんだったな!だがもうお互いしんどいし、そろそろ落ちてくれねぇかな!?」
「あっはっは!そういうわけにもいかねぇだろう!それにもう分かっただろうが、こっちにはそっちを攻める気はねぇんだよ!自分たちの身を守るために戦っちゃいるが、好き好んで帝の官軍を傷つける気はねぇんだ!そろそろ勘弁してほしいんだが!」
「まぁそうなんだろうとは思うけどな!こっちも命令だ!そっちもそうだろうし、仕方ねぇよ!」
「んじゃせめて、帝への献上品くらい運び込ませてくれねぇか!?」
「なに!?」
「俺ら頑張って帝のための飯とか用意したんだよ!攻撃が終わった後でいいから、それだけでも持って行かせてくれ!」
「…………」
話をしてくれていた兵は妙なことを言い出した陳範に戸惑ったが、よく考えてみて、やはり無理な話だと思う。
「……そりゃお前、本当に帝のためにやるってんなら許すべきだろうがな!そう見せかけての奇襲かもしれねぇだろ!」
「そんなことしねぇよ!」
「だから、それが証明できなきゃ無理だって言ってんだよ!」
「武器を持たずに行けばいいか!?」
「武器なんて防具の下にでも隠せるだろうが!」
「じゃあ防具を脱げば……いや、もうこのさい素っ裸ならどうだ!?」
その段になって、兵は冗談を言われていると思ったらしい。よく響く笑い声を上げた。
「ははは!そうだな、素っ裸で来りゃ入れてやるよ!」
兵がそう答えたところで、今日の攻撃終了を告げる伝令が来た。
「お、今日はもう終わりだとよ!じゃあまたな!」
片手を上げ、陳範に背を向けて自陣へと帰って行く。
当たり前の話だが、この兵は今の『またな』を『また明日な』という意味で言った。
しかし陳範はその日のうちに来た。
先ほどの話通り、素っ裸でだ。
「お、おいおい……お前正気かよ……?」
件の兵は帰陣して休んでいたのだが、急に守備兵から呼び出された。
そして陣の端まで行ってみると、まごうことなき全裸の陳範が立っていた。
服どころか下帯もつけていない。股間から見事な男のものがぶらぶらと下がっている。
「正気も正気よ。だがさすがに裸足は痛ぇから
足元を見ると、確かに草鞋は履いている。全裸に草鞋一丁だ。
むしろ草鞋だけは履いているのが妙に滑稽に感じられた。
そしてこの妙な男を守備兵たちも攻撃する気になれず、とりあえず陣の手前で止めてどうしたものかと悩んでいるのだ。
「まぁ……確かにそれ見りゃ正気なんだって分かるがな」
兵は陳範の後ろにある荷車に目を向けた。陳範が一人で引いてきたものだ。
荷台には野菜や穀物が満載されている。
「本当に帝へ献上するためだけに来たのか……」
「ああ、そうだ。どれも今日を過ぎると最高の食べ頃を逃しちまうものばかりだからな。俺はどうしても今日帝に食べてもらいたい」
「毒は入ってねぇだろうな?」
「当たり前だ。っていうか、お前ら兵士に食べさせるならともかく、帝に食べてもらうものに毒入れても意味ねぇだろ」
「まぁそうか。それに毒殺目的ならこんな風には来ねぇんだろうな。これ、お前の独断だろ?段煨の命令じゃないな?」
「もちろんだ」
「……だよな。やり方が馬鹿馬鹿し過ぎる」
変な話だが、馬鹿馬鹿しいという一点でこの兵は陳範のことを信頼する気になった。
それに、陳範の持って来た野菜はどれも思わず手が伸びそうになるほど極上なのだ。
「分かった。とりあえずこれは受け取っておくから、お前は帰れ。食料事情を考えると上も捨てはしねぇだろう」
「ちゃんと帝に届けてくれよ」
「約束はできねぇよ。上の判断次第だ。だが帝への献上品だってことはちゃんと報告するからよ」
陳範は少し考えたが、それだけでも十分だと思うしかないという結論に至った。
というか、そもそもちゃんと受け取ってもらえて、しかも無事に帰してもらえるだけでも幸運だろう。問答無用で殺されていてもおかしくない。
「じゃあ頼む。ありがとな」
陳範は礼を言ってから踵を返した。
が、一つ思い出して肩ごしに振り返り、確認する。
「そうだ。今日は俺一人で来たが、本当はうちの隊の連中も来たがってたんだ。明日は人数が増えてもいいか?その分、献上品も増えるからよ」
「隊の全員が、お前みたいに全裸で来るのか?」
「そうだよ。まぁ俺みたいに伸び切ってるのも、ビビって縮こまってるのもいるだろうがな」
「ははっ!んじゃ今日上に聞いてみて、明日の攻撃前に返事してやるよ」
「頼む」
陳範は片手を上げ、伸び切ったものをぶらぶらさせながら帰って行く。
兵はその引き締まった尻を眺めながら、苦笑混じりにつぶやいた。
「あの野郎……明日から攻めにくくなっちまったじゃねぇか」
***************
「まったく、無茶苦茶なやつだな」
話を聞いた段煨は陳範の隊に駆けつけ、陳範が帰ってくるの土塁の上から眺めていた。
全裸に草鞋一丁の陳範が夕日に照らされて歩いて来る。笑うなというのが無理な光景だった。
「遠慮なく罰してください。自分でも軍規違反は分かってますし」
帰陣して段煨を前にした陳範の第一声はそれだった。
ただし、一点付け加えた。
「でも明日も献上品は持っていけそうな雰囲気だったんで、その時だけは許して欲しいっす。お願いします」
段煨はため息をついた。
陳範は明日が食べ頃の野菜も把握しているのだろう。
「……今回のことは軍規違反ではあるが、私としても非常に罰しづらい。勤皇的な行動だからな」
そういうことになると、どうにも責めにくい時代なのだ。
向こうの軍も帝への献上品だと言われ、対応に苦慮しているはずだ。勝手に処分もできないし、持って来られるのも拒みづらい。
段煨はまたため息をついた。今度は先ほどよりもずっと長いため息だった。
「はぁ……あのな陳範。今度からこういうことをする前にちゃんと私に相談しろ」
「すいません。勝手に物資を持っていかれたら、そりゃ困るっすね」
「そうじゃない。というか、それは構わん」
「え?」
「お前、今日は野菜をそのまま持って行ったんだろう?しかし野菜にはその状態に合わせた最適な食べ方というものがある。料理したものをお持ちした方が親切だ」
「段煨様……」
「それに帝だけでなく、その周りの百官にも食べてもらう予定で用意したんだ。明日からはその分も搬入して、たくさんの人間を私たちの作物で感動させてやろう」
陳範は段煨について一つ失念していた。
段煨の方が、陳範以上に根が農家なのだ。
だから段煨の方が自分たちの作物を食べて欲しいと思っているに決まっている。
そして翌日の夕、全裸の一隊が段煨の陣から官軍の陣へと出発した。
荷車に美しいほど見事な野菜、穀物、料理、そして衣服なども満載して送り届けた。
その翌日も、さらにその翌日も同じことが行われた。
段煨は理不尽に攻められているにも関わらず、毎日物資の提供を怠らなかった。
当たり前の話だが、官軍の側では多くの官吏から段煨への攻撃を止めるべきだという意見が上がった。
しかし楊定は応じない。反対派の官吏の暗殺を
だがそれでも段煨の陣は固く、落ちない。攻め始めて十日経ってなお、段煨とその軍は健在だった。
百官の間では、段煨への同情が申し訳なさに変わっていった。
攻められてなお尽くし続け、しかもその提供する食材は驚くほど美味い。野菜とはこれほど美味いものだったのかと、心から驚くことが多かった。
そしてそれは帝も同じだったらしい。
攻撃開始から十数日経ったある日、ついに帝から楊定へ戦をやめて帰陣するよう明確な命令が下った。
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