短編 段煨3

「あっちぃな……」


 陳範チンハンは汗を滝のように流しながら、何度つぶやいたか知れないその台詞を再び口にした。


 暑い。季節は夏だ。


 なぜこのような時期に炎天下で畑仕事をしなければならないのか。


 そういう不満は持ちつつも、右手で雑草を引きながら左手で芋虫を取った。どちらも農作物に被害を与えるものだ。


「マジでやってらんねぇ」


 その愚痴は仲間の新兵が発したものだが、その男もしっかりと作業は続けつつ愚痴っている。


 ここ何ヶ月かで段煨に鍛えられ、体が無意識に動くようになっているからだ。


 段煨の農業指導は熱かった。


 それはもう、ウザいほどに熱かった。


『そうだ!その腰の入れ方だ!いいぞぉ!』


『ほら見ろ!苗が喜んでるのが分かるだろう!?』


『害虫を見逃してるぞ!そこだ!』


『やれば出来るじゃないか!なぜやらない!?お前なら出来る!』


 陳範たちはそんな熱血指導を受けても正直なところ、


(ぶん殴りてぇ)


としか思わなかった。


 元はゴロツキと呼ばれていたような男たちだ。実際に殴らなかっただけでも良くやったというところだろう。


(まぁ本当に殴っちまったらマジで殺されるだろうからな)


 そんなことをしてしまえば、段煨を慕う兵たちは今度こそ許さないだろう。


 それが分かっているから新兵たちは渋々ながらも段煨の指導に従った。


 そしてその結果として、すでに全員が無意識に理想的な農作業の動きを出来るようになっている。


 それに、軍にいるにあたって一つ良いこともあった。一部の兵たちとの距離が縮まったのだ。


 陳範たちが熱血指導を受けていると、その横を通り過ぎる兵たちが、


(お、やってんなぁ。俺もそんな風に指導されたわ。お前らも頑張れよ……)


的な視線を送りつつ、笑いながら去っていくのだ。


 どうやら段煨と付き合いの長い兵たちは、似たような境遇にいた者が多いようだった。


 妙な仲間意識のせいか、そういった連中は陳範たちに少し優しくなってくれた。


(つっても、このクソ暑いのに農作業はやっぱやってらんねぇな)


 本当にクソ暑いのだからその思いは変わらない。


 陳範は陽を避けるように背を向けてしゃがんだ。


 その太陽はすでにある程度傾いてはいる。


『夏場は暑さで体調を崩さぬよう、一番暑い時間帯は避けて作業する。真っ昼間は昼寝だ』


 そういう段煨の指導の元、先ほどまでは寝苦しいながらも日陰で昼寝していた。


 そして少し暑さが和らいでから働いているのだが、それでも暑い。


 正直に言うと休みたくてしゃがんだのだが、手は勝手に雑草を引き抜いた。


(……完全に身についてやがる。毒されちまったな)


 陳範は幼い頃に両親を失い、頼れる大人もいなかったため浮浪児として暮らしてきた。


 道行く人間に鼻をつままれ、蔑まれて生きてきたのだ。仲間たちも似たような境遇の者が多い。


 親のいない陳範たちが生きるための手段といえば、盗むことだった。奪うことだった。


 その正邪を疑ったことなどない。


 そんな自分たちが地道に農作業をしているのだ。毒されたとしか思えなかった。


 そんなことを考えながらまた雑草に手を伸ばすと、そこに人の影がかかった。


 顔を上げると、段煨がこちらを見下ろしている。


「陳範、ちょっと来いよ。いいものがある」


 そう言う段煨の顔は、やけに嬉しそうだった。農業が絡む時の顔だ。


「……なんすか?」


 ややウザったく感じながら、重い腰を上げる。


 立ち上がりつつ、また葉についた虫を取った。


「いいものだよ。来てからのお楽しみだ」


 目的地への道すがら、段煨は陳範を褒めた。


「お前たちは本当によく頑張ってるな。正直に言うと、早々に脱走でもするんじゃないかと思ってた」


「脱走が重罪なことくらい俺らも分かってるんで。ってか、世間じゃ物不足がヤバいらしいじゃないっすか。軍にいれば、とりあえずは食えますし」


 陳範は丸っきりの本音を口にした。


 実際に脱走は仲間たちと何度も検討したのだが、時が経てば経つほど民の生活状況は悪くなっている。


 しかも華陰を出ると、兵たちの略奪もあるらしいのだ。


 逃げれば奪われる側に立つことになってしまう。それは避けたいから、仕方なく熱血指導に従った。


「だとしても立派なものだよ。かなり働けるようになったし、もう一人前の農家としてどこに出しても恥ずかしくないほどだ」


「いやいやいや、農家やりに来たわけじゃねぇし。ってか、まだ育てるばっかで収穫してないじゃないっすか」


「そう、その収穫だ」


 段煨が足を止めたのは井戸の前だった。


 地中深く伸びた穴の周りに石垣が組まれ、そこから縄が降ろされている。


 その縄を引き上げると、先に結ばれたかごに瓜がいくつも入っていた。


「実は今朝、食べ頃になった瓜があったから収穫して冷やしておいたんだ。お前はよく仲間をまとめてくれていたからな。今年の一番槍はお前だ」


「いや、一番槍って……」


 自分の夢見ていた一番槍とはこういうものではない。


 そうは思ったものの、収穫の第一号を食べられるというのは誇らしい気もした。


 というのも、段煨は収穫に関して部下たちを厳に戒めていたからだ。


『どんな作物にも最適な収穫時期がある。許可なく穫った者は厳罰に処すからな』


 そう言う段煨の顔は、軍規について説く時よりもよほど厳しいものになっていた。


 だから陳範も仲間たちも、


(もう食えそうだが)


と思いながらも、つまみ食いを我慢してきたのだ。


 段煨は包丁を取り出すと、慣れた手付きで瓜を切っていった。


 その一番瑞々みずみずしいところを陳範に手渡す。


「食え」


 指先に心地良い冷たさが触れた。よく冷えている。


 かぶりつくと、舌に沁み渡るような水分とともに爽やかな甘みが口の中に広がった。


 口中から体中へと震えが伝わり、全身に鳥肌が立つ。神経の一本一本に浸透していくような味わいだった。


「……うっま」


 思わず声が漏れ出てしまう。


 むしゃぶりつくようにひと切れ目を食べた。


 段煨はふた切れ目を渡しながら満足げに笑った。


「美味いだろう。その美味いのはお前が作ったんだ」


「俺が……作った……?」


「そうだ。お前が毎日毎日世話をしてやったことで、こんなに美味い瓜が出来た。お前が頑張った成果だよ」


 陳範はふた切れ目を口にした。


 やはり美味い。


 それを自分自身が作ったのだということ、そして辛かった今日までの農作業の重みが陳範の心を震わせ、今までに感じたことのない感動を覚えた。


 陳範は無言で食べた。


 一個丸々を食べ終わった時、後ろから声をかけられた。


「おお、今年の初収穫ですか。これは美味そうだ」


 振り返ると、段煨の副官がいた。


 陳範はこの副官が好きではない。一度は自分に剣まで向けたわけだし、その後も厳しかった。


 その副官は段煨の手元に腕を伸ばし、瓜をひと切れ取った。


「あっ!」


 と陳範が声を上げる間に、口へと放り込む。


(この野郎、俺が作った瓜を!)


 そう陳範は思ったが、そんな腹立ちは副官の次の表情で吹き飛んだ。


 目を丸くし、それから至極満足げな笑顔を見せたのだ。


「……美味い!!こりゃ極上の瓜だ!!よくできてる!!」


 陳範は言葉でくすぐられたのではないかと思った。それくらいこそばゆい。


 そしてやたらと嬉しくなり、先ほどまでとは一転、


(もう一個食いな)


という気分になった。


「段煨様、これは陳範たちの畑でできたものですか?」


 副官の質問に段煨は大きくうなずいた。


「ああ、陳範たちが作ったものだ。農作業が初めての者もいたのに、本当によくできている。本職だって敵わないほどの出来だ」


 上官二人から手放しに褒められて、陳範は胸を張った。


「そ、そりゃそうでしょう。俺らがここ何ヶ月かどんだけ頑張ったかって話で……」


 そこで陳範はふと気づき、畑の方を向いた。


 そして大声で叫ぶ。


「おい!みんな来てみろ!いいもんがあるぞ!」


 そう、この瓜は仲間たちと一緒に作ったのだ。食べるのも一緒でなくてはならない。


 呼ばれた新兵たちがゾロゾロと集まってきた。


 この暑さだ。誰もが目を輝かせて瓜に飛びついた。


 そして口々に感動を漏らす。


「うめぇ!!」


「なんだこれ!こんなに美味い瓜初めて食べたぜ!」


「なんか沁みるな。体中に沁みる感じだ」


「くぅー……うめぇー……」


 そんな仲間たちに、陳範は段煨からかけられた言葉をそのまま伝えた。


「これは俺たちが作った瓜だからな。この美味いのは、俺たちが作ったんだ」


 陳範と同じように、そのことに感動している者も多かった。


 段煨は瓜を全て切り、新兵たちが全て食べ終わってから話しかけた。


「どうだ?同じ食べるのでも、奪って食べるよりも生み出して食べる方がずっと美味いだろう」


 その言葉に答える者はいなかった。


 ただ、全く響いていない者もいないようだった。


 皆それぞれ思うところがあるようで、一様にうつむいて何事かを考えている。


「噂には聞いていると思うが、ここ華陰かいんを出たら兵による略奪も多く発生している。それで脱走を思いとどまった人間もいるだろうな。しかし華陰では略奪などせずともやっていけそうな量の収穫が見込めている。全てお前たちが頑張ってくれたおかげだ。ありがとう」


 段煨の素直な感謝もまた、新兵たちに響いた。


 それに、脱走して奪われる側に立ちかねない状況だった新兵たちは、略奪というものに良くない感情を抱けている。


 だから自分たちの頑張りでそれを避けられたということは、とても良いことだと感じられた。


「ただな……ちょっと頑張ってもらい過ぎたせいで少々の余分が発生しそうなんだ。腐らせるのももったいないし、明日は瓜を持って街へ行くぞ」



***************



 翌日、早朝から収穫を済ませた段煨と新兵たちは大量の瓜を荷車に載せて華陰の街へ出た。


 段煨は昨日あんなことを言っていたが、瓜はまだでき始めで腐るほどの余りなどない。


(本当は誰か食べさせたいやつがいるんだろう)


 陳範はそう思って尋ねたが、段煨は笑うだけで答えてくれなかった。


(どっかのお偉いさんか?街の有力者に媚でも売るんじゃねぇかな)


 そんな検討をつけていたが、段煨の足はなぜか貧民街へと向かって行った。有力者のいるような場所ではない。


 そこには陳範たちにとって見慣れた光景が広がっている。


 自分たちも幼い頃、こういう路地や家とも呼べないようなあばら家で生活していた。


 段煨はその奥まで来ると、荷車を止めさせて鐘を取り出した。それをカンカンと打ち鳴らす。


「子供たち出て来い!!瓜をやるぞ!!甘くて美味い瓜だぞ!!タダで食えるぞ!!」


 貧民街の子供たちにそう呼びかけた。


 周りの大人たちはいきなり入って来た兵たちをいぶかしげに見ていたが、幼い子供たちは怖いもの知らずだ。


 瓜がタダで食べられると聞き、すぐにたくさん集まって来た。


「おっさん瓜くれんの!?」


「本当にタダなんだろうね!?」


「後で銭払えって言ったって、俺ら持ってないよ!」


 ボロをまとった子供たちがそんなことを言ってくる。


「ああ、本当にタダだ。たんと食え。友達も連れて来い」


 段煨は卓を並べさせ、瓜を切って置いていった。


 子供たちは我先にと掴み取り、口いっぱいに頬張る。段煨が切る端から瓜は奪われていった。


「ほら陳範、お前も手伝え。どんどん切らんと追いつかん」


「あ、ああ……」


 こんな展開を予想していなかった陳範は呆然としていたが、上司から命じられ慌てて包丁を取った。


 色良い瓜を掴み、切ってから目の前の少年に渡してやった。


 少年は目を輝かせてそれを受け取る。


「ありがとう兄ちゃん!」


 眩しいほどの笑顔でそう言われ、陳範はなぜかたじろいでしまった。


「お、おう……」


 少年はそんな反応に構わず、瓜へとかぶりつく。


 そしてよりいっそうの笑顔を輝かせ、元気いっぱいに叫んだ。


「うまーい!!」


 その声があまりに大きくて、他の子供たちもその少年の方を向いた。


 それから誰が始めるでもなく、自然とその少年の真似をした。


「うまーい!!」


「うまーい!!」


「うまーい!!」


 皆ケラケラと笑いながらそれを連呼する。


 そしてまた瓜にむしゃぶりついた。


 呆気にとられてそれを見ていた陳範だったが、


「……ハハッ」


と笑ってから、また瓜を切り始めた。


 たくさん、たくさん切ってやり、たくさん、たくさん食べてもらった。


 嬉しかった。


 これまでの人生でこれほど嬉しいことなどなかったと思い、笑いながらふと涙がこぼれ出た。



***************



「段煨様……なんでこんなことしたんすか?」


 貧民街で瓜を振る舞った帰り道、陳範は段煨に尋ねた。


 あんな所で人気を得たところで大した得はないように思える。


 それとも華陰の統治に何かしらの利益があるのだろうか。


 しかし段煨はそんな利益など小事だと言わんばかりに、吹き飛ばすような笑い声を上げた。


「はっはっは!おかしなことを聞く。そんなもの、お前自身も分かっているだろう?」


「……え?いや、分かんねぇっすけど」


「そんな訳はない。だってお前、自分の作った瓜を美味そうに食べてもらえて嬉しかっただろう?」


「は?」


 段煨の言葉で陳範の脳裏には様々な感情がよぎった。


 が、最終的には『呆れる』ということに落ちついた。


「じゃあ……段煨様は美味そうに瓜が食べられるのを見たくて、あそこに持って行ったってことっすか?」


「それが本音だな。もちろん中郎将としての建前もあるぞ?貧困地域の子供たちへ食料を振る舞うのは福祉政策の一環だし、そういう徳行を成す為政者だと内外に思われれば、いざという時に得することも多い」


「いやいやいや、そんな堂々と建前とか言われても……ってか……うーん……マジか……」


「俺は農業が好きだがな、農業というのは作るだけで終わりではない。できたものを食べてもらってようやく完成するんだ」


「そりゃまぁ、そうかも知れねぇっすけど」


「そしてどうせ食べてもらうなら、喜んで食べてもらう方がいいだろう?腹を空かしてる子供ほど美味そうに食べてくれる生き物もいないからな」


 その様子を思い出し、段煨は笑った。


 笑ってから、急に悲しそうな目で遠くを見つめた。


「……随分と痩せてる子も多かった。また持って行ってやりたいな」


 ポツリとしたそのつぶやきに、陳範の胸は熱くなった。


 その痩せた子は自分だ。幼い日の自分だ。


 だからそれを少しでも助けようとしてくれた段煨に感謝した。


 それから憧れた。


 憧れたから、自分も段煨のようにあの子たちを助けてやりたいと思った。


「あの……段煨様。街の浮浪児とか貧乏な子供とかを集めて、俺らの畑で働かせたらどうっすかね?」


「何?子供を労働力にするのか」


「いやいや、そういうコキ使ってやろうって感じじゃなくて……なんていうか……」


 陳範は頭を掻きながら説明するための言葉を探した。


「俺も浮浪児だったから分かるんすけど、ちゃんと生きていく方法って子供じゃなかなか分かんねぇんすよ。それを教えてやりながら、食わせてやれたらいいなって」


 段煨は陳範の言うことを頭の中でよく噛み砕いてみた。


「……つまり労働自体ではなく農業教育を主軸にして、働いた日には軍で十分食わせてやるというわけだな」


「多分そんな感じっす。あんまり厳しくしないで、小さい子は遊びながらにさせてやって、そんで飯が食えれば来ると思うんすよね。親もその日の飯代が浮くなら来させるでしょうし」


「ふむ……」


 段煨は己の農業知識を総動員して陳範の提案を検討した。


 子供の労働力、広げられる耕地、増える収穫、増える食費、次の収穫までの期間、軍の蓄え……


「……福祉政策と捉えてその分の予算供出を覚悟するなら……何とかやれんことはなさそうだ」


「マジっすか!?じゃあ……」


「ただし!!」


 段煨は足を止め、陳範へと向き直った。


「そういう子供たちの気持ちが分かる人間が世話してやる必要がある。陳範、お前が中心になってそれをやれ」


「え?俺?いや……でも俺はまだ農業のことも十分じゃないし……」


「その辺りは俺がちゃんと助けてやるから心配するな。お前には子供たちの心に配慮した管理を頼みたい」


「心に配慮?俺に……できますかね?」


「できるさ。お前はこういう提案をすることができる男だ。簡単ではないだろうが、間違いなくできる」


 憧れすら抱いてしまった上官からそう言われ、陳範は自信に心を燃やした。


「やります。やってみせますから、子供たちに食わせてやってください」


 その言葉に今度は段煨が感動した。


 どう見てもただのゴロツキでしかなかった男が、この数ヶ月で立派になったものだと思った。


 感動に腕を振るわせながら陳範の肩に置く。


「お前は本当に成長したな……食を司る農家にとって、人に『食わせる』という事がどれだけ大切かを理解できている。特に若者や子供に十分食わせてやるのは、本当に大切だからな」


「段煨様……」


 陳範は尊敬する上官に褒められて嬉しかった。


 嬉しかったが、指摘すべきことはきちんと指摘せねばとも思った。


「いや、だから農家じゃなくて軍人っす。俺も、段煨様も」

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