短編 段煨1

↓挿絵です↓

https://kakuyomu.jp/users/bokushou/news/16818093073884686568


「お、そんな所にいやがったのか。おい段煨ダンワイ、降りてこいよ!」


 足元からそう声をかけられ、段煨は下を向いた。


 下から名を呼ばれたのは、自分が今高いところにいるからだ。土を盛り上げた防塁の上にいる。


楊定ヨウテイか。どうした?」


「いいから降りてこい」


「ここでも話はできるだろう。見ての通り、防塁作りで忙しいんだ」


「俺はお前に見下ろされてんのが嫌なんだよ。降りてこいって」


 やれやれ、と思いながら額の汗を拭う。


 土の汚れを払いながら、希望通り防塁を降りてやった。


 楊定は段煨のことを上から下まで眺めてから、鼻で笑った。


「相変わらず泥まみれで仕事してんな。まぁお前にはお似合いだよ」


「そうだな、私もこれが私らしいと思うよ」


「……非肉の通じねぇやつだな」


「通じてるさ。しかし戦で首を上げるよりも、こうやって土をいじってる方が性に合ってる」


「そんなんだから出世しねぇんだよ。俺はな、曲(二百五十人程度の部隊)を預かる身になったぜ。さっきそれを伝えられたんだ」


「部曲将か。すごいじゃないか」


 驚きながら、昨日の戦で将が一人死んだことを段煨は思い出していた。


 そういえば楊定はその曲内の一部隊長だった。上がいなくなって繰り上がったのだ。


「ああ、俺は昨日一番多く首を上げてるからな。それを評価してもらえたらしい」


「おめでとう」


 段煨は同僚の出世を素直に祝ったが、その功績については大して羨ましくもなかった。


(たくさん殺したら評価される組織、か)


 段煨は己も兵でありながら、そのことに疑問を抱いていた。


 誰もがそれを当たり前だと思っているが、段煨は異常だと思う。


(いや、多くの人間が当たり前だと思ってることに疑問を持ってるのだから、異常なのはむしろ私の方か)


 そういう感覚もあるから兵としてきちんと働いてはいる。


 ただし、今そうしていたように土塁を築いたり堀を掘ったりする仕事を率先して行った。


 所属も輜重隊しちょうたいだ。


 希望してそうなり、真面目な仕事ぶりを認められて一隊五十人ほどを率いている。


 逆に楊定は戦で貪欲に戦果を求め、昨日までは同じように五十人の長だった。


「今日からは俺の方が格上だ。楊定『様』って呼びな」


「…………」


 段煨は閉口しながら楊定の態度に思いを巡らせた。


(なぜこいつはいつも突っかかってくるんだ?出会った頃はこうではなかったように思うが……)


 楊定はやたらと段煨に張り合ってくることが多かった。


 軍に入ったのも同時期だし、出世速度も同じくらいだったから好敵手といえば好敵手だ。


 しかし、それにしてもあからさまに自身の優越性を誇示してこようとする。


(何か恨みを受けるようなことをしたか?……いや、こいつの態度は恨みとはまた別物のような気がする)


 とはいえ、考えたところで何かした記憶もないのだからどうしようもない。


 それに、段煨は楊定のことが嫌いではなかった。その勇猛さで戦場では幾度となく助けられたのだ。


 自分が上だと示したくてやったことかもしれないが。


「まぁ……軍の規律を保つためには呼び方を変える必要があるかもしれんな」


 軍とはそういう所だ。上からの命令が絶対でなければならない。


 それに、そうでなくとも同期が上司になって立てなければならない状況というのは普通によくあるだろう。


「お、物分かりがいいじゃねぇか。それじゃ呼んでみろよ、楊定様って」


「楊定さ……」


 多少の呆れと共にそう呼ぼうしとした段煨の背中へ、野太い声がかけられた。


「ここの防塁構築の責任者は誰だ?」


 それが耳に入った瞬間、段煨と楊定は背筋を伸ばして気をつけの姿勢を取った。


 緊張に顔を固くしながら、機敏な動作でそちらを向く。


「はっ、自分が指揮をとりました!董卓トウタク様!」


 前触れもなく現れたのはこの軍の総大将、董卓だった。


 ここは董卓の率いる官軍であり、段煨と楊定はその配下だ。


 今は涼州りょうしゅうの反乱勢力と、それに協力している羌族きょうぞくを相手にしている。


「段煨か。見事な防塁だ。良くできている」


「ありがとうございます!」


「相変わらずの真面目な仕事ぶりだな。こういうのは手柄になりにくいから手を抜く輩も多いが、お前のは手本にしたいほどの出来栄えだ」


 董卓はそう言って褒めてくれたが、それで段煨の心が浮き立つことはなかった。


 正直なところ、このやや肥満した将軍が苦手なのだ。


 兵からは人気の高い董卓だが、それは略奪を許すこともあるからだ。そして段煨はその略奪を嫌悪している。


(精魂込めて作った作物を奪うなど、許せん)


 口には出せないが、ずっとそう思っていた。


 段煨は農業が好きだ。


 本当なら故郷でそれだけをやって暮らしたかったが、諸々の事情で自分が軍に出るしかなかった。だから仕方なくここにいる。


 略奪時には必ず輜重の守役などを申し出た。もちろん守役にも後である程度の鹵獲品が回されるのだが、それを受け取る時も吐き気がした。


 そんな男だから土仕事のほうが性に合っており、陣地の設営などには嬉々として取り組んだ。


「新しく回していただいた部下たちが良くやってくれるのです」


 段煨は謙遜してそう言ったが、全てが謙遜ではない。確かに新しい兵は頑張ってくれている。


 つい先日、羌族の騎馬隊に輜重隊が襲われて隊の半数近くの被害が出た。それで兵が補充されたのだ。


 董卓もそれは覚えていたのだが、怪訝そうに眉をひそめた。


「補充された兵たちが、か?しかし配属前にも言ったが、奴らは各隊でまともな戦力にならんと見切りをつけられた連中だぞ。使い物にならんと半ば諦めて引き渡したものが役に立っているのか?」


 段煨は確かにそう言われて兵を預けられた。


 そういう人間たちだから輜重隊に回されたのだ。


「確かに臆病な人間が多いように思いますが、その分真面目で働き者です。輜重隊や防衛施設の設営には、むしろうってつけの人材たちでした。それによく見ると皆どこかに光るものがあり、それを褒めてやると俄然やる気を出すのです」


「ふむ……?そうか……」


 董卓は口元に手を置いて、地面へと視線を落とした。


 しばらく黙考してから、盛り上げられた土塁をあらためて見回す。


「……よし、段煨。お前に二百五十人ほどを預けるから、良いように使ってみろ」


「は?」


「ええっ!?」


 と、そばで聞いていた楊定の方が大きな声を上げた。


 しかし董卓はそんな楊定のことを無視して話を進める。


「実は同じように『役立たず』の烙印を押された者たちが結構な数いるのだ。この際まとめて管理した方がいいのではないかという話になってな」


「はぁ……役立たず……」


「どうやらお前はそういう連中を使うのが上手そうだ。もちろん戦闘で役に立たなかったわけだから前面に出て戦えとは言わん。輜重周りを基本として、こういった防塁構築などを中心に仕事を回す」


「は、はい。そういう事でしたら、やれそうな気がします」


 それは段煨にとっても願ったり叶ったりだ。


 人よりも土を相手に奮闘する方がよほどいい。


 董卓は安堵の顔を浮かべた段煨に鋭い目を向けた。


「ここは軍だぞ。『やれそうな気がします』ではない。やれ。絶対にやり切れ」


「はいっ!絶対にやり切ります!」


「そうだ。直接の殺し合いではないが、これも戦だ。そして勝てば、それなりのものが手に入る。そうして人は大きくなるのだ」


 そう言って董卓は大きな手を段煨の肩に置いた。


「俺の部下には勇猛で強い人間は多いが、お前のようなのはそういない。期待しているぞ」


「必ずやご期待に応えてみせます!」


 その返事に満足した董卓はうなずいて踵を返した。


 そして去りながら、振り向かないまま片手を上げて一言だけ言い残す。


「……まぁ面倒ごとを押し付けられる形にはなったが、それでも部曲将だからな」


 確かに大きな出世ではある。喜ぶべきことなのだろう。


(それよりも、土いじりが増えそうなことの方が嬉しいが)


 そんなことを思いながら董卓の背中を眺めていると、ギリッという音が背後から聞こえてきた。


 振り向くと、楊定が歯ぎしりしてこちらを睨んでいた。


 自分の出世を自慢しに来たのに、一瞬で並ばれてしまったのだ。


「……あー……呼び方はこれまで通り『楊定』のままでいいか?」


「フンッ!!」


 楊定は大きく鼻を鳴らしてそっぽを向き、荒々しい足音を残して去っていった。



***************



 遠くで馬蹄の轟く音が聞こえる。


 それだけで段煨ダンワイの部下たちは唇まで真っ青にした。


(確かに殺し合いで役に立つ連中ではないな)


 段煨はそのことを再認識した。


 この部隊を率いるようになってからそれなりの日数が経過しているが、あらためて戦闘向きでないと思う。


 ただ、段煨自身もその恐怖心は理解できた。自分たちの軍は今まさに全滅の憂き目に遭おうとしているのだ。


(数万の敵に包囲されているのだ。普通にやっても勝てるはずがない)


 董卓軍の現状はそういうものだった。


 敵は羌族きょうぞくの兵数万であり、川を背にして完全に包囲されている。


 川は水深が深くて普通には渡れない。当然のことながらいかだを作って順次渡れるほど悠長な時間的余裕もない。


 羌族はあちこちで戦闘を仕掛けながら包囲を縮めてきている。


 一点突破の反撃に備えているようで、やや慎重な攻め方ではあったが確実に死は近づいていた。


 そんな状況で怯えるなという方が無理だろう。


 しかし、段煨はあえて明るい声を出した。


「おい皆、そんな顔をしなくていいぞ!俺たちは助かる!」


 部下たち全員が仕事の手を止め、段煨の方を向いた。


 こんな極限状態だ。どんな小さな光明でもあれば目を向けてしまうだろう。


「さっきせきが出来上がるまでの時間を計算したが、十分間に合う!だから大丈夫だ!」


 段煨たちは今、川に堰を築こうとしている。


 水を堰き止めて水深を浅くし、川を渡って包囲を抜けようとしているのだ。


 戦闘部隊が敵兵を止めている間にそれを完成させなければならない。間に合わなければ、死ぬ。


 段煨の部隊は普段から土木作業に慣れているから、期待を込めて作業の中心になるよう命じられた。


(確かにこの手の仕事ならどの部隊よりも上手くやれる自信がある)


 が、いつもより作業速度が遅い。どうやら恐怖心の鎖が部下たちの手を縛っているようだ。


 だから嘘をついた。


(いつ味方の防衛線が破られてもおかしくないのだ。間に合うかどうかなど分かったものではない)


 そう思いながらも、堂々とした笑顔を続けた。


「うちには怪力の趙さんもいるし、韋駄天の周さんもいる。川を堰き止められるくらいの岩や土嚢どのうはすぐに運べるさ。器用な黄さんがいれば、土嚢なんてあっという間にできるしな」


 皆、どうしても敵を斬れなくて段煨の部隊に回された者だ。


 名を挙げられた人間たちは自信を取り戻したのか、それとも使命感に燃えたのか、一様に目の色が変わった。


「見事に堰を完成させて、我が物顔の戦闘部隊を救ってやろう。やつら、いつもは自分たちのおかげで輜重隊が生きていられるような態度でいるが、今回だけは逆だ。連中をひざまずかせて礼を言わせてやるぞ」


 部下たちの多くは『役立たず』の烙印を押されてここにいる。


 そう罵ってきた連中の鼻を明かすのを想像をすることは、すこぶる気持ちの良いことだった。


 それから段煨は自ら土嚢を運びつつ、他の部下たちにも一人一人に声をかけていった。


 今日まで共に土を掘りながら、その人間がどんなふうに頑張ってきたかを見ている。


 だからどんな言葉が自信に繋がるかもよく知っていた。


 恐怖で鈍っていた集中力が戻り、作業速度が上がっていく。


 次々と岩や土嚢が投げ込まれ、見る間に堰は完成されていった。


「よし、水門も問題なさそうか!?」


 段煨はあらかた完成した堰の前に立ち、そこに取り付いた一人に確認した。


 その兵では州の治水工事に就いていた経験もある男で、堰や水門の作り方もよく知っている。


「はい!完璧です!水門としちゃ失敗ですがね!」


 笑いながらそう答えた。


 水門は開け閉めしても堰が壊れないように出来ていなければならないが、今回は開けると同時に堰全体が壊れるように作っている。


 というか、つっかえ棒が支えているだけで、それに結ばれた縄を引いて抜けば簡単に破壊できるようにしたのだ。


 自分たちが渡った後は川を戻して追撃を妨がなければならない。


「董卓様!お待たせしました!行けます!」


 段煨は川岸に控える董卓の本陣を見上げ、そう叫んだ。


 馬上の董卓から声が返ってくる。


「ご苦労だった!全軍渡れ!」


 伝令が口伝いに下流へ流れ、董卓軍は一斉に川を渡り始めた。


 堰から下流は全て水深が浅くなっているわけだから、渡れる箇所はかなり広い。


 足止め部隊以外はあらかじめ川沿いに線になるように並んでいる。すぐに渡り切れるはずだ。


 董卓は段煨の前を横切りながら、馬上から声を落とした。


「この短時間で良くやった。お前たちには後でいい思いをさせてやるからな」


 段煨にはその言い方が引っかかった。


 次の村で優先的に略奪をさせてやる、という意味かもしれないと思ったのだ。


「うちの部隊は大人しい者が多いので……」


 董卓は董卓で、その言い方だけで段煨の意図を正確に理解した。


「そうだったな。考えて報いてやる」


 そう答えて通り過ぎて行く。


 それに続いて多くの兵が渡り切り、そして川から離れていった。


 段煨も岸へ上がったが、その先へは進まず川べりで足を止めた。


 全ての隊が渡り終えたら水門に繋がれた縄を引き、堰を切らなければならないからだ。川を戻して敵を阻む必要がある。


「段煨様、もう堰を切っても良いのではないでしょうか?」


 しばらく待ってから、部下の一人がそう尋ねてきた。


 確かに足止め部隊もほぼ渡ったように思う。


 予定では大攻勢をかけると見せかけ、急速反転して後退してくるということになっていた。


 そしてその作戦は上手くいったようで、ほとんどの味方が渡ったにもかかわらず敵の追撃はまだ来ていない。


「お前たちは先に行け。縄を引くのは私一人で十分だ」


「しかし……」


「いいから行け。命令だ」


 段煨がそう命じてまで残ったのは、ただ一人だけ来るはずの男が来ていないからだ。


楊定ヨウテイ……どうした?こんな所で野垂れ死ぬようなタマじゃないだろう)


 楊定の部隊は殿しんがりだったのだが、実はすでに通っている。


 その兵たちに楊定がいないことを聞くと、


『部局将は囮として一人残られました。将がわざと姿を見せておくことで、敵に罠を疑わせるとおっしゃって……』


という答えが帰ってきた。


(楊定は自己犠牲で残るようなやつじゃない……あの馬鹿、欲に目がくらんだな)


 殿軍というのは非常に危険だから、それをやり切れば当然大きな武功になる。


 しかも自らの身を危険に晒してまで軍を救ったとなれば、その評価はだだ上がりだろう。


「早く来い楊定……俺が縄を引いてお前に死なれたんじゃ、目覚めが悪くて仕方ないだろうが」


 段煨は川べりで一人縄を握りながら楊定を待った。


 変に突っかかってくる嫌なやつだが、いなくなることを想像するとやけに寂しく感じてしまう。


 それに、共に戦ってきた戦友であることは間違いない。簡単には見殺しにできなかった。


 縄が手の汗でふやけてきた頃、馬蹄の音が響いてきた。


「……楊定!!」


 楊定は馬を疾駆させて川岸を下ってきた。


「段煨か!水が残ってんじゃねぇか!もうちょっと丁寧な仕事をしろよ!」


 堰を築いたとはいえ、多少の水は流れていて膝下程度の水位はある。楊定はそれに文句をつけてきた。


「この野郎め……」


 段煨はやけに愉快な気分で悪態をつきながら、楊定の上げる水しぶきを眺めた。


 そして渡り切って岸に上がったのを確認すると、すぐに縄を引いた。


 まだ遠いが、楊定を追って来たのであろう敵騎兵の馬蹄が聞こえてきている。早く堰を切らなければならない。


 が、堰は切れはなかった。


 全力で縄を引いてもつっかえ棒が外れない。


「……しまった!!」


 どうやら思った以上の力がかかっているらしい。


 人力で十分外せるようにしているという話を聞いていたが、びくともしなかった。


 段煨の叫びを聞いて、楊定も馬を降りた。


「何!?動かないのか!?」


 すぐにそれを察して一緒に縄を引く。


 しかし二人がかりで引いてもやはり動かなかった。


「くそっ、まずいぞ」


 舌打ちする楊定を置いて、段煨は岸を下って行った。手にはくわを握っている。


「おい、どうする気だ!?」


「つっかえ棒の根元の地面を掘って外れやすくする!お前は馬に縄を繋いでくれ!」


 引っかかる地面をほぐした上で、馬力を使う。これなら動かないことはないだろう。


 段煨はつっかえ棒の所に行くと、思い切り鍬を振った。


 土を相手にした仕事には自信がある。固い川底の砂利でもすぐに掘れる自信があった。


 が、この時はそれが裏目に出た。


 鍬のたった一振りでつっかえ棒が外れてしまったのだ。どうやら地中の石が絶妙な具合で引っかかっていたらしい。


 棒が外れて壊れた水門を中心に、堰が崩れて鉄砲水が起こる。


 段煨はその激流を正面から浴びた。


 全身を潰されるほどの衝撃を受けながら、わらにもすがる思いでつっかえ棒にしがみつく。


(これは……死んだな)


 そういう覚悟をした。


 自分の体が今どうなっているか、さっぱり分からない。目と耳も利かないどころか、水の冷たさすら感じなかった。


 上と下の区別もなくなっているから、すでに自分は天に昇っているのかもしれないとも思う。


 が、その直後には何かが背中を打つ感触があった。


 段煨にとってその感触はとても馴染み深いものだったから、それが何かはすぐに分かった。


(土?……奇跡が起こったか)


 自分は鉄砲水に流されて死ぬはずだったのに、奇跡的に川岸に着いたらしい。


「ガハッ……!ゴホッゴホッ!」


 咳き込みながら、何とか川べりへと体を転がす。


 そして起き上がろうとして、ようやく自分が助かったのが奇跡ではないことに気がついた。


 段煨が必死にしがみついていたつっかえ棒には縄が結ばれていたわけだが、楊定がその先を掴んで尻餅をついていた。


 どうやら縄を引いてくれて、それで岸までたどり着けたらしい。


(しかし……鉄砲水だぞ?その力に反して縄など引き続けられるものか?)


 しかもよく見ると、縄は馬に繋がっていない。縛る前に堰が切れてしまったのだろう。


 そして楊定の足元には相当な距離の足の筋がついており、縄には所々に赤くなっている部分があった。楊定の血のようだ。


「おい段煨、生きてるな?死なれたら殿軍の指揮を取ってた俺の評価に傷がつく。死ぬのはこの撤退戦の後にしろよ」


 この後に及んでまで憎まれ口を叩く楊定に、段煨は苦笑しかできなかった。


 水を滴らせながらヨロヨロと立ち上がり、楊定のもとへ歩いて行く。


「ああ、生きてるよ。おかげ様でな」


「そうだ、俺のおかげでお前は生きてる。俺はお前の命の恩人だ。分かったら、今後は俺のことを『楊定様』と呼べ」


 そんなことを言ってくる楊定の手ひらの皮はズルリと剥けており、生の肉が剥き出しになっている。


 しばらくは飯を食うのにも難儀するだろう。


 それを見た段煨は、


「……参ったよ」


そう笑ってから、その呼称を口にしようとした。


「楊定さ……」


 そこまで言ったところで風切り音が聞こえ、段煨は素早く地を蹴った。


 楊定へ向けて腕を伸ばす。その手の甲に矢が刺さった。


 突き抜けたやじりは楊定の顔の寸前で止まっている。


 振り向くと、対岸から羌族の騎兵たちがこちらへ矢を射掛けてきていた。すでに結構な数がいる。


 二人は川を背にして一目散に駆け出した。


 そこへまた矢が飛んで来る。


 段煨は耳元をかすめる矢に首をすぼめつつ、並び走る楊定へと声をかけた。


「……あー……命の恩人もお互い様になったし、呼び方はこれまで通り『楊定』のままでいいか?」


「フンッ!!」


 楊定は大きく鼻を鳴らしながら、同じように首をすぼめた。

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