短編 王連3

王山オウサン殿ですか!こんなに大きくなって!」


 諸葛亮は高い声を上げて、目の前の男の子を高く上げた。


 背が高い男だから持ち上げられれば結構な眺めになる。それが楽しくて、男の子はキャッキャと笑った。


「子供の成長は早いものだ。今いくつでしたかね?」


 王山は手のひらを大きく開いて諸葛亮へ向けた。五歳、と答えたつもりだ。


「おお、さすがは王連殿の息子だ。数はばっちりですか」


「山は齢どころか、四則演算も概念だけは理解していますよ」


 王山の後ろでそう言ったのは、父親の王連だ。息子自慢をする気はないが、それでも誇らしさは当然ある。


「四則演算?この齢でそれは……恐れ入りました」


「この人が数の話ばかりしているからですよ」


 笑いながら現れたのは小燕だ。


 少したどたどしかった言葉はすでに滑らかになり、王連の妻も板についている。


 諸葛亮は今日、王連の自宅に招かれていた。


 たまにだが、こういうふうに呼ばれて酒食を共にすることがある。というのも、王連は諸葛亮の側近中の側近になっているからだ。


 数年前に塩や鉄などの専売が開始されて、王連は『司塩校尉しえんこうい』という役職に就いた。


 その職掌は難しい専売の管理であり、しかも最も大変な立ち上げを任されたわけだ。


 さらに言うと前述の通り、儒学者を中心として反対意見の多い政策だから実務管理以外にも様々な気を遣わなければならい。


 しかし王連はそれを見事にやりきり、国庫を大いに潤わせた。


「王連殿は本当に変わりましたね」


「そうですか?」


「まるで別人のようですよ。妻をめとって落ち着く人間は多いですが、ここまで良い方向に変わるとは。さすがは月旦評げったんひょうの許靖殿が導いた結婚なだけある」


 専売が落ち着いてから、諸葛亮がそんなことを言っていた。


 王連もその通りだと思う。


 思い出してみると、許靖は明らかに自分と小燕をくっつけようとしていた。そして、確かに小燕の存在によって自分は変わった。


 それまで認められなかった曖昧な存在を受け入れることが出来たのだ。それがなければきっと儒学者たちと揉めていたと思うから、良い方向に変わったのだろう。


 財政を改善するという最大級の国家貢献を成した王連は出世し、現在『丞相長史じょうしょうちょうし』という役職に就いている。


 丞相というのは諸葛亮の務めている国家最高位の官職だ。


 そして長史というのはその筆頭の官吏になるから、現代で言うところの内閣事務次官のようなものだと思えばいいだろう。


 諸葛亮は経済官僚として極めて優秀な実績を残した王連を、己の最も近い側近とした。


 それほど近しい役柄なのだから、たまにはこうして家に招かれることもある。


 諸葛亮は久方ぶりに食べた小燕の料理に舌鼓を打った。


「これこれ。この酸っぱ美味しさはここでなければ食べられませんからね」


 小燕はミャオ族の料理で諸葛亮をもてなした。以前に出した時に喜ばれたから、今日もそうしている。


「しかも以前よりもさらに美味しくなっている気がします」


「すごい、諸葛亮様はよくお分かりになりますね。段々とこちらの食材と気候とに慣れてきたんです」


 ミャオ族は自宅でよく発酵食品を作るが、所変われば作り方のコツも当然変わるだろう。


「なるほど、日々改善ですか。王連殿は本当に良い奥方をもらわれたものだ」


「良い結婚だったのは、私の方こそですよ。おかげでこうして母親にもしてもらえて、しかも市での歌と踊りも続けさせてもらえて」


 小燕は結婚後も市が開かれる日には大通りに出て道行く人々に歌舞を披露している。


 もちろん生活費には困っていないが、稼ぎとは関係なく小燕にとって幸せなことだった。


「まぁ、主人に見せるのが一番楽しいんですけど」


「ははは、確かに奥方の歌と踊りを見る王連殿の顔は、まるで女神にもてなされているようだ」


 結婚して数年経った今でも、王連は自宅で妻の歌舞をねだった。


 それは小燕にとっても嬉しいことだったし、自分の歌舞を見る夫の顔が好きだった。


 ただ、そうも堂々と惚気のろけられては王連も顔を赤くするしかない。


 それを見た息子の王山が、


「父上の顔、正の数!」


と言って父の顔を指さした。


 初めは大人三人とも何のことやら分からなかったが、王山が走って赤い算木を取って来たことでようやく理解した。


 算木による計算では赤い棒を正の数、黒い棒を負の数とする。


 それで笑い声を上げた大人たちが楽しかったらしく、王山は算木で卓を叩きながら踊ってみせた。


 そんな楽しい食事を終えてから、王連と諸葛亮の二人は王連の自室で話をした。


「ごちそうさまでした。美味しいだけでなく、とても暖かい食卓でしたよ。王連殿は本当に素敵な家庭を築かれて……」


 と、そこまで言ってから、諸葛亮は何か思い出したように忍び笑った。


「……?なんです?」


「いえね、以前に許靖殿から聞いたことを思い出してしまいまして。王連殿が、


『許靖殿は結婚生活で浪費される銭、家庭のために失われる時間を計算したことがありますか?』


と言っていたという話でしたが」


「あぁ……」


 王連は苦笑いで応じた。


 苦笑いしかできないだろう。確かに自分はそういうことを明言していた。


「恥ずかしい台詞ですが……まぁなんというか、世の中には経験しないと分からないものが多いということです」


 諸葛亮もそれはよく分かる。


「そうですね。世の中、そんなものだらけです」


「銭にしても時間にしても、家族のために使われているようで実は自分のためなのですね。家族ができて、自分より大切なものができて初めて分かりました」


「自分より大切なものの幸せは、もはや自分の幸せですからね」


「ええ。だから銭も時間も浪費ではなく、失われるわけでもない。自分が望んで、自分個人より大きな幸せのために使うわけですから」


 もちろん家庭と家族に対する認識は人それぞれだから一般化できる話ではないし、独り身を長く経験しないと分からない楽しみもあるだろう。


 しかし多くの人が家庭を持っているのは、要はそういうことだ。そしてそれで幸せだという人間が多いのもまた事実だ。


 王連もその大勢の一人だった。


「丞相が私に目をつけてくれて、許靖殿が後押ししてくれて、それで幸せを得られました。ありがとうございます」


「礼には及びませんよ。王連殿は今日まで国家に多大な貢献をしてくれました。すでに十分過ぎるほど返してもらいましたから」


「今日まではそうでした。しかし明日からはそうでなくなるかもしれない話を、丞相はしに来られたのですね?」


 自然と来訪の核心を突いてきた王連に、諸葛亮は笑みを消した。


 それから一国を束ねる人間としての目を向ける。


「分かりますか」


「分かりますよ。私は丞相府の長史です。これだけ近くで働いていて、分からないはずはありません」


 王連は諸葛亮のそういう微妙な雰囲気を感じ取っていた。


 そして、その理由の検討もついている。


「南征の件、ですね?」


 南征とは、文字通り南方へと軍を向け征討に行くことを指す。


 諸葛亮たちの建てた国、蜀漢ではここのところずっとこの征旅について議論がされていた。


 そもそもの始まりはこの前年、劉備が亡くなったことに起因する。


 上にいただくに足る英雄がいなくなり、若年の二代目が帝位に就いた。しかも蜀漢はその少し前に孫権に敗れて大打撃を受け、中央政府の力は弱まっている。


 元々益州南部は南蛮西南夷なんばんせいなんいなどと呼ばれる異民族たちが多く住まう土地だ。それこそ劉備の生前から一部の地域は不服従を続けているし、死後はさらに離反する勢力が増えてきている。


 しかも孫権がその勢力を支援しているという情報まであるのだ。こうなると大火になる前に消さなければならないという意見が出るのは当然だろう。


 諸葛亮もそのつもりだった。


「孫権との戦で多くの有能な将を失いました。今回は私自身が軍を率いて南征を実施したいと考えています」


 皆、現在の戦力不足が分かっているからそれを止める者はいなかった。


 王連を除いて。


「南方は風土病の蔓延する土地です。丞相が軍旅の途上で倒れてしまう可能性もありましょう。どうかご自重ください」


「しかし……」


「一国を担う者がそのような危険を犯すべきではありません」


 王連は南征の議論が始まると、終始反対の立場を取った。


 何度も何度も、繰り返し反対の意見を述べた。


 王連は前述の通り、諸葛亮の管掌する丞相府の筆頭官吏だ。それが一切の妥協を見せずに反対し続けるので、南征は実行に移せていない。


 しかも王連は数字に至極強い経済官僚だということは皆知っているから、


『王連殿があそこまで反対しているのだ。今の財政状況では軍を起こすことなどとても出来ないのだろう』


という認識まで広がっている。


 それはその通りで、孫権敗戦の痛手はいまだに回復しきっていない。


 さらに言えば、王連は銭を食いまくる戦というものが軽蔑するほど嫌いだった。だから反対して止められる戦なら、いくらでも反対する。


 ただ、諸葛亮はそればかりが反対の理由ではないことを知っている。


 だから部屋で二人きりになった今、そのことを問うてみた。


「奥方の故郷に戦火が飛ぶのが、どうしても受け入れられませんか」


 王連はもともと鋭い目つきをさらに細めた。


 南征の議論になると、たまにこんな目をする。


 それを見た諸葛亮は、王連がただの政策議論としてこの問題に望んでいるのではないのだということを感じていた。


 ミャオ族も西南夷と呼ばれる異民族たちの一つであり、その集落は南方に多い。南征が行われれば被害を受ける可能性も十分あるだろう。


「公僕たる官吏が私情を挟むなと、そうお思いになりますか?」


 問い返された諸葛亮は首を横に振った。


「いいえ、大いに結構ですよ。何を言ったところで、人の行動など結局は全て私情に基づくものです」


「ならば正直に答えさせていただきますが、私はミャオ族の住まう地が戦に巻き込まれるのがとても嫌です」


 嫌です、と王連は私情丸出しの語尾で気持ちを伝えた。


 諸葛亮にはその素直さが好ましく思えたから、少し笑った。


「今のところミャオ族が積極的に反乱にくみしているという情報はありません。戦はミャオ族とは関係のないところで始まり、終わるかもしれませんよ」


「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。『かも』ということでしたら私は反対させていただくだけです」


 諸葛亮は王連の意志を確認し、うなずいて了解した。


 そして王連も諸葛亮の意志をすでに了解しているつもりだ。


「それでも丞相はかれるのですね」


 諸葛亮は再びうなずいて肯定した。


 だから今日は王連を説得に来たのだが、顔を見て気が変わった。どんな説得も受け付けないだろうと感じたのだ。


「王連殿にはもう、何を言っても無駄なのでしょうね」


「丞相の方こそ、私が何を言っても決行されるわけですし」


「それでもあなたは反対し続けますか?」


「いいえ、私はそういう無駄なことは嫌いです。それに反対し続けて戦意を削ぐのも申し訳ないと思います。いい機会だから、妻と子を連れてミャオ族の地へ向かいますよ」


 さすがにそこまで予想していなかった諸葛亮は驚いた。


「ミャオ族の地へ?奥方の故郷へ行かれるのです?」


「ええ、そのつもりです」


「丞相長史が……敵になるかもしれない西南夷の地に移り住む……」


「私も自分のような立場の人間がそうすることの意味と影響は分かっているつもりです。公的には死んだことにしてください」


 何でもないことのように軽くそう言われた諸葛亮は、逆にそれで王連が本気でそうするつもりだと理解した。


「それはやってやれない事はありませんが……こちらの機密情報が漏れる可能性を考慮すると、簡単には許可できませんね」


 当然ながら、丞相というのはそういう立場だ。


 王連が自発的に漏らさずとも、責められて口を割るかもしれない。家族を質に取られる可能性もあるだろう。


 王連もそれは理解している。


「私もそう言われると思っていました。だから、賭けで勝負をしませんか?」


「賭け?」


「そうです。私が勝てば先ほど言ったように、死んだことにしてミャオ族の地に向かわせて下さい」


「負けたらどうするのです」


「手のひらを返し、南征を全面的に応援させていただきます。丞相に認められた経済官僚の誇りにかけて、全力で軍費を捻出しましょう」


 それは諸葛亮としても大変助かる。


 反対派の長史を罷免して戦に望むというのも諸葛亮の望む国家運営ではないし、王連が本気で軍費を捻出するというのはこれ以上ないほど心強い。


「それは検討に値しますが、どのような賭けですか?」


「下手にイカサマを疑い合うのも面倒です。簡素な賭けにしましょう」


 王連は背後の棚を漁り、赤と黒の算木を一本ずつ出した。それを諸葛亮へ渡す。


「私が後ろを向いている間に、丞相はこれを左右の袖に隠して下さい。私が赤を言い当てられたら私の勝ちにしましょう」


 諸葛亮は少し考えてから、その公平性については納得した。


 隠すのはこちらだし、小細工もできなさそうだ。


 ただ、一点だけ異論を申し出た。


「赤を一本、黒を二本にして、左右の他に懐にも隠させてください。こちらが勝つ確率が上がりますが、そもそも王連殿のしようとしていることは職務規律違反と言われても仕方ないことです。これくらいは受け入れていただきたい」


「……分かりました。私が勝つ確率が三分の一、丞相が勝つ確率が三分の二ですね。私も自分のしようとしていることは理解していますから、受け入れましょう」


 王連は了承して、黒い算木をもう一本手渡した。


 そして背中を向ける。


 不利な賭けにはなったが、それでも負ければ前言通り職務を遂行しようという覚悟も決めていた。


「いいですよ、隠しました」


 諸葛亮は左右の袖、そして懐に算木を隠し終えて声をかけた。


 袖口はしっかり握っているから中は見えないし、その両腕で懐も押さえている。


 王連は振り返るとすぐに右腕の方を指した。


 理由はない。確率的にはどれも同じなのだ。


「右、ですね」


 諸葛亮は一言確認してから右の袖を動かそうとした。


 が、その直前に王連が片手を上げて制止した。


「お待ち下さい。やはり、少し悩ませていただいていいですか?」


 諸葛亮にはその王連の態度が意外だった。


「数に強い王連殿らしくありませんね。三つの確率が同一なら、悩まず即決すると思っていました」


「いえ、実は妻の顔が浮かびまして」


「奥方の?」


「実はこんな事になるのではないかと思い、妻には故郷に移り住むことを相談しているのです。それで妻がとても喜んでいたものですから……」


「あぁ……そういえば奥方は元々、故郷に帰るために歌舞で路銀を稼ごうとしていたという話でしたね」


「そうなのです。それを私が引き止めて、子まで成して動けなくしてしまいました」


「ふふふ……あの王連殿も奥方のことを思うと非合理的に悩んでしまいますか」


「ええ」


 それから王連は腕を組み、右の袖、懐、左の袖を順番に睨んだ。


 しばしの黙考の後、口を開く。


「……丞相。私の方が譲歩しますので、こちらの勝率を上げてもらっていいですか?」


「譲歩?それは、どのような?」


「私が勝とうが負けようが、軍費の捻出だけは全力で行わせていただきます。その代わりに選択肢を一つ減らしてください。私の選んでいない懐と左の袖には少なくとも黒が一本は入っていますが、片方を除いてほしいのです」


 諸葛亮は頭の中で王連の提案を検討した。


 つまり王連は三択から二択になるから、こちらの勝率は下がってしまう。


 しかし軍事費の捻出は魅力的だった。


(出征の予算を得るために他部署の予算を削ることも多くなるだろう。王連殿は負けた場合、その不満を抱えたまま死んだことになってくれるというわけか)


 それは不満を抑えるための手段として、確かに有効なものになる。憎い相手が死ねば、その憎しみは諦めざるを得ない。


(ただ正直なところ、予算捻出よりも王連殿に残って欲しいが……)


 それだけの能力がある人間でなければ己の属官筆頭になどしていない。


 しかしその一方で、王連はすでに出て行きたいという希望を申し入れているのだ。そういう人間を引き止めて使うことで起こりうる諸問題も、当然ながら覚悟しなければならない。


 さらに言うと、王連が本気で軍費確保に取り組んでくれるかという不安も検討材料の一つになるだろう。


「奥方の故郷を攻めるかもしれない軍事費を捻出することになるのです。いいのですか?」


躊躇ためらいがないかと問われれば否定できませんが、戦火が一番飛びやすくなるのは反乱が長期化・慢性化した場合です。丞相が出征を決意されている以上、一気呵成、完膚なきまでに鎮圧していただいた方がいいのは間違いありません。実利を取り、軍費の捻出は全力で行います」


 実利、という単語を聞き、諸葛亮は王連の言を信じることにした。この男はそういう男だ。


「……いいでしょう、懐か左かを抜けばいいのですね」


 諸葛亮は王連の申し入れを受け入れて、左の袖を振った。


 黒い算木が卓にコトリと落ちる。


 それを確認した王連はすぐに口を開いた。


「では、懐で」


 短く回答を変えた。


 諸葛亮は表情を変えずに確認する。


「右ではなく、懐ですね?初めと答えを変えていいのですか?」


「はい。懐でお願いします」


 先ほどとは一転、迷いのない態度だった。


 諸葛亮は一つうなずき、懐に手を伸ばした。そして開く。


 胸元から覗いた算木は、赤だった。


 それから諸葛亮はふっと力の抜けた息を吐いた。


「負けてしまいましたね」


 王連の方はというと、勝ったというのにあまり嬉しそうな顔をしなかった。


 しばらく無言で赤い算木を見ていたが、やがて諸葛亮に頭を下げた。


「半ばイカサマのような勝ち方をしてしまいました。申し訳ありません」


 そう言われたが、諸葛亮にはなんのことが分からない。


「イカサマ?算木に何か仕掛けがしてあったのですか?」


「いえ、回答を後で変えたことです」


「右ではなく懐にしたこと、でしょうか?しかし、それがイカサマとは……」


「丞相なら少し考えていただければ気づくと思いますが、懐と左から一本抜いた時点で残り二択の確率は同一ではなくなるのです。初めと回答を変えると勝率が倍になります」


 諸葛亮は許靖が龍の叡智と呼ぶ頭脳を回転させ、またたく間に全ての場合を脳内で試行してみた。


 すると、確かに回答を変えると勝てる確率が倍になる。


「これは……不思議なことですね。最終的には右と懐の二択になるので確率は二分の一ずつだと思ってしまいましたが、三分の一と三分の二になってしまう」


「そうなのです。これが数というものの面白い所です」


 これは俗に『モンティ・ホール問題』と呼ばれる確率論の数学問題だ。


 三択で一つの当たりを求めるにあたり、まず一つを仮選択した上で、残りの二つから外れの一つを除外してもらう。


 すると選択肢としては初めに仮選択した一つともう一つが残るわけだが、この時に仮選択した方からもう一つの方へ回答を変えると、当たりを引く確率が二倍に増えるのだ。


 最後は二択なのに、確率は三分の一と三分の二になる。


 納得いかない読者もいるだろうが、ネットで『モンティ・ホール問題』を検索すると解説してくれるサイトがいくつもあるのでそちらを参考にしていただきたい。


「賭けを受けた時には三分の二だった私の勝率は、言葉巧みに三分の一まで下げられていたわけですね」


「そういうことになります。やり直しを要求されますか?」


「いいえ。確かに王連殿に有利な賭けにはなりましたが、私は納得して勝負を受けました。それに王連殿の算術能力・確率計算があってこその攻略法ですし、イカサマとは言えません。私の完敗です」


 本心として、諸葛亮は負けたと思っている。


 誰もが称えてくれる自分の知恵だが、こと数においては勝る者がいた。そのことに、むしろ愉快な気分になる。


「しかしこうなると、王連殿がいなくなるのが本当に残念ですね。もっと算術の談義などしていればよかった」


「しましょう、算術談義を。直接お会いすることはもう無くなるかもしれませんが、文を送ります。そこに面白い問題を考えて添付させていただきますよ」


「ミャオ族の村でも算術のことを考えますか」


「ええ。私は余生を楽しむために行くつもりでいますから、自分が楽しいと思うことをするつもりです」


「余生を楽しむため……ミャオ族の反乱加担を止めるため、ではないのですね?」


「そんなことをしに行くつもりはありませんよ。もしミャオ族の戦意が上がっているとしたら、殺されかねない行為です」


「私もそう思います。もしそのつもりなら、私の方が止めるつもりでした」


「もしミャオ族が冷静で、理性的に意見を求められれば反乱加担を思いとどまるよう言いましょう」


「それくらいの心積もりの方がいいでしょうね。しかし、それにしても……余生ですか……余生……」


 諸葛亮は余生という言葉を繰り返して、どこかフワフワとした視線を宙に漂わせた。


 それは何か現実味のないものを捉えようとでもする視線にも感じられる。


 その顔が面白くて、王連は笑い声を上げてしまった。


「はっはっは、良い顔をされますね」


「いや……さすがにその目的は思いもしなかったものですから」


「そうでしょう。常に仕事と苦労に塗れている丞相は、余生とは世界一遠い方ですからね」


 諸葛亮の働き過ぎは今に始まったことではないが、あらためて考えるとちょっと異常なほどだった。もはや義務感だけでそうしているのではなく、性向としてそういう人間なのだろう。


 だから余生を楽しむというのとは程遠く、諸葛亮なら思いつけないだろうと思った。


 諸葛亮も己を顧みてそう思う。


「なるほど、確かにそうかもしれません。しかし……余生ですか……」


「ええ。そこで静かに暮らしていけたらと思っています。のんびり算術の研究などしつつ、息子の教育などしつつ、といった感じでしょうか」


「そして、奥方の歌と踊りを楽しみつつ、ですか」


「そう、それです。私はミャオ族の地で、山で、歌い踊る妻を見たいのです。本当はそれが一番の望みなのかもしれません」


 諸葛亮は微笑んでうなずきながら、この優秀な部下を引き止めることを完全に諦めた。


 王連の顔はすでに官僚のものではなく、風流を嗜む好事家こうずかのものへと変わっていたからだ。


 ただ、諸葛亮は少しもったいなくも思う。


「しかし王連殿は完全に隠居するにはまだ少し早いでしょう。先ほど息子の教育と言っていましたが、王山殿だけでなく他のミャオ族の教化も是非お願いしたい」


 ミャオ族は文字を持たない民族だという知識があるから、諸葛亮はそういうことを考えた。


 領内の異民族の文化水準が上がるのは良いことだ。話も通じやすくなるだろう。


 しかし、王連は首を大きく横に振った。


「いいえ。ミャオ族の文化は文化として、周囲があえて変えるべきものではないと思います」


「そうですか?しかし文字すらないというのは……」


「確かに不便かもしれません。それに、本人たちが望んで変わるのはもちろん悪くないと思います。しかし長年培われた文化というのは一見しただけでは分からない価値があるものです。それを認めないことは相手を傷つけるだけでなく、反発で自分たちを傷つけることにもなります」


 王連が小燕から日々様々な話を聞いて得た結論は、そういうものだった。


 異文化は慣れぬ耳で聞いても違和感しか覚えないが、よくよく聞いて、よくよく考えてみるとそこには必ず光るものが存在している。


「なる……ほど……王連殿の言う通りかもしれません」


 諸葛亮は本心でそう思ったが、それよりも王連の認識がそこまで進んでいることに驚いた。


 どうやら異民族の女性との結婚生活は、思っていた以上にこの男を育てたらしい。


 王連は少しの間だけ優秀な官僚の顔に戻り、それから腹に力を込めて声を出した。


「丞相はこれから南征して多くの異民族を屈服させるでしょう。ですが現地人の文化に対する尊重がなければ、傷つくのは結局自分たちということになりかねません」


 諸葛亮も背筋を伸ばしてそれを受けた。


「その言葉、しかと胸に刻みつけておきます。丞相長史の最後の助言、確かに受け取りました」


 諸葛亮はそう応えた翌年、南征を実施した。


 反乱は南方の各地、いくつもの勢力に広がっていたが、諸葛亮自らが軍を率いてまたたく間に鎮圧していった。一年も掛からずに平定を終えている。


 諸葛亮は戦後処理に関して、各郡の太守を指名した以外は現地人の役人や統治を可能な限りそのまま使ったという。


 無理に中央の意向を押し付けず、やり方や細かい部分は現地に任せる。安定と管理費の削減を考えると上策だろう。


 ただそれだけでなく、諸葛亮の選択には現地人への尊重という部分もあったのではないかと思う。


 これはほとんど民間伝承のような話だが、諸葛亮がこの南征の時に世界で初めて饅頭を創り出したという説がある。


 氾濫した川を渡るために現地人から生首の生贄が必要と言われ、代わりに人の頭に似せた肉饅頭を作って捧げたところ、氾濫が静まったという説話だ。


 史実としては怪しい話だそうだが、感心させられる話ではある。


 諸葛亮は現地人の生贄という文化を尊重して残しつつ、一般倫理として問題になる人命の犠牲を回避させたわけだ。


 異文化の尊重は、世界平和への第一歩だと思う。


 筆者は饅頭を食べるたびそれを思い出し、世界平和に一歩近づいている。

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