短編 王連2

 王連オウレンは市の日に休みを取った。


 自分はこの広都こうと県の長である県令だ。だからいつ休んでいつ働くかといったことは、ある程度自分で決められる。


 ここ最近は許靖も一緒に行動しているものの、許靖はそういったことに口を出してくるような人間ではない。


 初めこそ中央政府から人が来て自分に付くということに多少の緊張していたが、許靖とは元々面識があったこともあり、すぐに気を許せるようになった。


 しかも、許靖は自分の望んでいることが分かるような言動を取ってくれるのだ。


 前回の市の日には、


『今日もまた市を視察に行きましょう』


と言ってきた。視察が悪いとは言わないが、二回連続というのは妙な気がする。


(まるで私があの歌舞うたまいをまた見たいと思っていることを知っているような提案だった)


 そう感じる。


 そして実際、自分があの女性の歌舞に長時間見惚れていても何も言って来なかったのだ。


 無意識にかなりの時間そうしていたはずだが、文句を言わなかったどころか、ただその歌舞を褒めてくれた。


 自分を褒められたわけではないのに、なぜかやたらと嬉しくなってしまった。


(しかし、三回連続で市に視察というのはさすがにないだろう。しかも視察に行って、歌舞に見惚れ続けて時間を潰すなど……)


 そう思った王連は、市の日に休むことにした。


 これならばどれだけ長い時間見惚れていても一向に構わないはずだ。県令とはいえ、休日くらい好きなことをしていいだろう。


(今日は初めから最後まで、全部見よう)


 そういった意気込みで早朝から来ていた。


 市の日だけ現れる商人たちが通りに沿ってに筵を引いたり、商品を並べたりしている。


 まだ商売を始めている人間は少ないので、人通りもあまりなかった。


(……早過ぎたな。こう人が少なければ、芸人たちもまだ動かんだろう)


 そう思いながら、あてもなく通りを往復した。


 それが三往復目になった時、視界の隅で鳥が羽ばたいた気がした。


 振り返ると、くだんの女性がいた。


 いつも通りの刺繍の見事な服を来て、路地から市の開かれる大通りへと出てくるところだった。


 その姿を視界に入れた途端、王連の心臓は鐘のように高鳴った。鼓動がいやに早いから、まるで早鐘でも打ったようだ。


(なぜ、このような事になるのだ……なぜ?)


 王連はこの女性に初めて会ったその日、人生で初めてこのような生理現象を起こしていた。


 心臓が早く鼓動し、胸に羽根が生えて舞い上がるような気分になる。


 そして、顔に血が上って紅潮してくるのだ。


(なぜ……なぜ……なぜ……)


 本当は自分でも気づいているのかもしれないが、あえてその単語を言葉にして脳に浮かべることはしなかった。


 王連は恋をしたことがない。


 王連には世の中のものが全て何らかの数字に置き換えて見えるのだ。もちろん視覚的にそうというわけではなく、認識としての話だが。


 例えば諸葛亮を見て浮かぶのは『知力・百』といった具合だ。


 美人ともてはやされる女を見ても、『容姿・八十五』という認識しか得られなかった。


 そんな風に人まで数字に見えてしまうと、恋愛感情など抱きようがない。


 だからこの齢まで独身だし、今後も妻をめとる気など無かった。


 先日許靖に結婚する気はないのかと問われても、鼻で笑って問い返してやった。


『許靖殿は結婚生活で浪費される銭、家庭のために失われる時間を計算したことがありますか?』


 その辺りをしっかりと計算している人間ならば、結婚や家庭などという非合理的なものを人生から排除すべきだと分かるはずだ。


 独り身の方が、自分のために使えるものが圧倒的に多くなる。


(しかし、あの歌……あの踊り……)


 それは自分が初めて認識した数字以外のものだったように思える。


 あの歌が耳に入り、あの踊りが目に入ると、自然に体中が拍子を取り始めた。心地良かった。


 ミャオ族は漢民族と言語が異なるから何を歌っているかは分からない。


 しかし明るい曲であれば心が浮き立つほど楽しくなり、悲しい曲であれば涙が浮かぶほど切なくなった。


 この女性は歌と踊りだけでそうさせられる。


 言語ですらないという、至極あやふやなものに心を揺り動かされた王連は戸惑っていた。


 そして戸惑うほどに、この女性のことばかり考えてしまう。


 そんな相手がいきなりそう遠くないところに現れて、王連は体を硬直させた。


 しかも急に足を止めてしまったからか、女性の方もこちらを向いた。


 そして目が合い、数秒してから女性は目を細めた。微笑みかけてくれたのだ。


(わ、私などに微笑んでくれて……)


 本来なら芸人と県令ではどう考えても県令の方が社会的地位が上だろう。しかしそんな認識は鼻から浮かばなかった。


 王連は意識を失いそうなほど舞い上がったが、ここで失神してしまうのはあまりにもったいない。


 必死に意識を保ちつつ、声を絞り出した。


「あの……何度も拝見させていただいて……」


 王連は言ってから、


(いや、何度もと言ってもまだ二度だな)


とか、


(話しかけて迷惑だったか?)


とか、


(というか、ミャオ族は言語が違うから分からないか?)


などと思考があっちこっちに飛んだ。


 県令が一芸人に使うにはあまりに丁寧な言葉だったが、そんなことは一切気にならない。この女性の方が自分よりも数段高みにいると認識している。


 女性は笑みをいっそう深めて口を開いた。


「前と、その前に、来てくれてましたね」


 その言葉は少したどたどしくはあったが、王連の使う漢民族の言葉だった。


(良かった。ちゃんと言葉が通じる)


 王連はそのことにまず安堵した。


 女性は歌い終わっても頭を下げるだけだったから、ミャオ族の言語しか話せないかと思っていたのだ。


 そして安堵した後、女性が自分を覚えてくれていたことにまた舞い上がった。


「と、とと……とても感動しました」


 どもりながら、その事がとても格好悪く感じて嫌になる。


 しかし、喋ることを止められない。


「お、覚えてもらえているとは思わなくて……ありがとうございます」


「こっちも、見てくれてありがとう。私は、歌と踊りを見てもらえるのが、とても好きです。だから、覚えてました。だから、故郷を出てきました。あまり、上手くいかなかったけど……」


「いえいえそんな!とても上手いです!最高の歌と踊りです!今日は最初から最後まで見たいのですが、構いませんか?」


 勢い込まれてそう言われた女性はキョトンとした顔になった。すぐに言葉を理解できなかったのかも知れない。


 しかし少しすると、王連の顔を心配そうに覗き込んできた。


「嬉しいですけど……朝から夕方まで、休みながらですけど、やります。長いですよ?」


「構いません!ぜひお願いします!」


 王連は、壊れた人形のようにガクガクと首を横に縦に振った。


 その様子が可笑しくて、女性は笑った。


 笑いながら自己紹介してくれた名前を聞いて、王連は神鳥が小さくさえずったのだと思った。


小燕ショウエンです。よろしくお願いします」



***************



 王連はその日、これまでの人生で一番の幸せを味わっていた。


 小燕の歌舞を朝から晩まで、しかも一番前で見られたのだ。


 ずっと立ち見だったが、足の辛さなど欠片も感じない。それを感じる余裕もないほどの幸福さだった。


 素晴らしい歌舞に、感動の興奮そのままの拍手を送る。すると小燕は少しはにかんだように笑ってくれた。


 王連にはそれが人の笑顔だとは思えなかった。


「まるで女神のようだ……」


 実際に口に出してしまったその言葉は、拍手に紛れて誰の耳にも届かなかっただろうと思った。


 しかしその直後、小燕の頬に小さく朱が挿したように感じられた。


 それを見た王連は、この人は女神で間違いないのだと思い直した。


 昼食の時はまさに天にも昇る気持ちだった。


 人通りが少し減る時間を見て、王連は市で売られている食べ物を買ってきて小燕に渡した。


 小燕は少し驚いていたが、遠慮がちにそれを受け取って自分の横のむしろを指した。隣りに座って一緒に食べようという意味らしい。


 そこまで図々しいことを考えていたわけではないのだが、昼食を渡した手前断っても小燕が困るだろうと思い、その通りにした。


 食べながら、王連は小燕の故郷のことを聞いた。


 このような女神を育てる環境というのは、きっと蓬莱のような所なのだろうと思った。


 小燕は故郷が好きらしく、嬉しそうに話してくれた。


 美しい山並みや、季節の花々。斜面に作られた畑や、それを眺めながらの針仕事。


 祭りの日には美しく刺繍された服を来て、人々が歌い踊る。


 もちろんそれは広都のような街よりも不便なことの多い生活なのだろう。しかし小燕の話を聞いて、王連はそんな所で余生を送りたいと思った。


(思えば私の人生は、その大半が仕事で埋めつくされていた。そこから離れた後の余生など、初めて考えたな……)


 王連は数と計算を好むから、必然的に娯楽的な趣味は持っていない。たまに算術を学問として研究するくらいだろう。


 しかし小燕の歌と踊りに触れて自分にった娯楽というものを知ると、それを楽しみつつ静かな所で世を送るのがとても魅力的な生活に感じられた。


「小燕さんの故郷は聞けば聞くほど素敵な所ですね。しかし、ここからはかなり遠い」


 王連はそのことが気になった。


 小燕の故郷は益州南部の山岳地帯だ。益州はかなり広大な土地だから、同じ州内といっても相当な距離がある。


「はい。とても遠いです。だから、帰るためにもお金がいります」


(小燕さんは故郷に帰りたいのか。だからこうして芸人として銭を稼いでいる)


 そのことを知った王連はジレンマに陥った。


 人一人を南部に送れる程度の財力は、王連には当然ある。しかしそれをやってしまうと小燕には会えなくなる。


(この人の願いを叶えてあげたい。しかし、この歌と踊りをいつまでも見ていたい)


 悩みながら地面を見つめている王連の隣りで、小燕はスッと立ち上がった。


 そしていつも歌っている場所へと歩いて行く。午後の歌舞を始めるのだろう。


 王連も立ち上がり、一番良く見える所に陣取った。今日は一日中、自分が一番客だ。


 小燕は自身が言っていた通り、歌舞を見てもらうのが嬉しいらしい。王連の顔をあらためて見て、小さく微笑んだ。


 それで王連の懊悩は薄まった。そして歌い始めると、完全に霧散した。


 王連は愛らしい燕の舞を見ながらこの世の全て、数字すら忘れて、全身で小刻みな拍子を取り始めた。



***************



 夕日の赤焼けで市が染まり、商人が店じまいを始めた頃、小燕の最後の歌も終わった。


 人通りはもう多くはなかったので、それほど足を止めている人はいない。しかしその少ない観客の中で、王連は割れんばかりの拍手をしていた。


 小燕は観客に一礼した。それから王連に向けて、少し照れた笑顔を向けてくれた。


(ああ……女神よ……)


 王連はもう確定したその認識をあらためて思った。


 が、次の瞬間女神の顔が曇った。眉を寄せ、明らかに怯えた顔をしている。


 その目は王連の斜め後ろに向いていた。


 王連が振り向くと、男が二人立っている。


 何か怒っているようで、目がつり上がっていた。肩を怒らせて王連の横を通り過ぎていく。


 そして小燕の前に来ると、その腕を乱暴に掴んだ。


「小燕、てめぇこんな所にいやがったのか!」


「工場から逃げて芸人の真似事か!?舐めてんじゃねぇぞ!」


 男たちは荒い言葉をかけながら小燕を引っ張っていこうとする。


 小燕は腕を引いてそれに抵抗した。


「いや!やめて!」


「てめぇに拒否権はねぇんだよ!村からここまで路銀分、俺たちに借金があるんだからな!」


「でも、もう五年も働いた!いつまで働くの!?」


「まだ何年分も残ってんだよ!」


「そんな……私は街で、歌と踊りの仕事ができるって聞いたから、ついて来たのに!来たら建物に押し込んで、針仕事ばかりさせて!」


「ちゃんと借金返し終わったら自由にしてやるって言ってんだろ!」


「そんなこと言って、自由になった人、一人もいないじゃない!」


「全員まだ借金が残ってんだよ!」


 王連は三人のやり取りを聞き、状況をざっくりとだが理解した。


 どうやら小燕は『歌と踊りで食っていける』と誘われて、故郷から出てきたらしい。


 しかし街に来てみると、強制労働所のような所で針仕事を強いられた。ミャオ族は刺繍の上手い一族だから、その能力を狙って言葉巧みに若者を連れてきたのだろう。


 そして本人たちには『かかった路銀分の仕事をしてくれたら自由にする』とでも言って働かせている。


 しかし小燕が五年出られなかったということは、恐らくは虚言だ。働ける限りいつまでも逃がしはしないだろう。


 だから小燕は脱走して、ここで銭を貯めて帰ろうとしている。夢だった歌と踊りで稼ぎながら。


(そんな人攫ひとさらいのような真似、この広都で許せるものか!!)


 王連は脳が沸騰しそうなほど頭に血を上らせていた。


 自分の治める地でこのような非道がなされていることに、自分の女神がその非道に遭っていたことに、そして今まさに非道の場に連れ戻されようとしていることに。



「やめなさい!!」


 男たちの前に立ち、一喝する。


 そして男たちが振り向くのと同時に名乗った。


「私はこの広都県の県令、王連だ。話は聞いていたが、お前たちのやっていることはいくつもの法令に違反している。その女性を離し、役所まで同行してもらおう」


 その言葉を聞き終わった男たちの顔が見る間に青ざめていく。


 県の長直々に摘発されようとしているのだ。もはや逃れることなどできないだろう。


 が、片方の男が周りを見回し、軽く首を傾げた。


 王連にはその意味が分からなかったが、男はすぐにそのことを尋ねてきた。


「護衛とか……いないのか?」


 問われた王連は焦った。確かに今日は自分一人だ。


 休日でも護衛を連れていることは多いのだが、今回は外出の目的が目的だったから一人で来ていた。


「いや……今日は休日で……」


 王連がはっきり答えなかったのも悪かったのかもしれない。


 男たちはその様子に、県令を名乗るただの一般人だと思った。


「県令様が護衛も付けずに歩き回ってるかよ!?適当な嘘ついてんじゃねえ!」


「騙す気あんならもうちょっと上手くやれよ!」


 言いながら、王連のことを突き飛ばしてきた。


 そんな男たちの姿が王連の中で数字に変わった。


(二人とも、武力五十)


 特別体格がいいわけではないし、鍛えている様子も見られない。平均的な成人男性の能力と仮定した。


 そして残念ながら、自分もごく平均的な成人男性で武力は五十だと認識している。


(五十が二つと一つでは、勝てる見込みが薄いな)


 そう冷静に計算した。


 が、王連は引かない。伸びてきた二人の手をそれぞれ掴み、出来得る限りの力を入れた。


 男たちはそんな王連に苛立ちを募らせたようで、拳を握って威嚇してくる。


「殴られねぇと分からねぇか!?」


 王連は男の言葉を無視して、小燕の方を見た。


「小燕さん、逃げなさい!今のうちに!」


 言った直後、男の拳が顔面を強打した。重い衝撃が脳に響く。


 しかし腕は離さない。握った手にさらに力を込めて男たちをこの場に止めようとする。


 男たちはそのことにさらに怒り、空いた方の手で王連をまた殴りつけた。


 王連は左右の手を男たちを掴むのに使っている。だから防御もできないまま、何度も何度も殴られた。


 意識が飛びそうになるが、それでも腕を離さない。女神を助けるためなら、ここでこのまま死んでもいいと思った。


(小燕さん……早く遠くへ……)


 そう思いながらの頑張りだったのだが、残念ながら小燕は遠くに行かなかった。


 むしろ、すぐ近くからその声が上がる。


「やめて!もうやめて!言われた通りにするから!」


 揺れる視界でそちらを見ると、小燕が一人の服を引いて止めていた。


 引かれた男は振り向きざまに小燕に引っ叩き、罵声を浴びせかけた。


「当たり前だ!お前ら獣みたい民族は俺らの家畜をやってりゃいいんだよ!」


 その言葉と倒れた小燕の姿に、王連の怒りが爆発した。


 それまでただ握っていただけだった腕を引き、男の頭と自分の頭を近づけた。


 そして獣のように歯を鳴らし、男の耳を食い千切った。


 それは一寸ばかりでひどい傷ではなかったが、やられた男の方は耳を押さえてその場を転がる。


 そして肉片を吐き出す王連の様子を見て、もう一人の男も急に怯えた目になった。


 しかし王連はその腕を離さない。


「彼女の民族が獣と言うなら、お前らはそれ以下の虫けらだ。虫けらの首を噛み切ったところで文句もあるまい」


 男には王連の本気が伝わったようで、握っていた拳を解いた。


 そして先ほどまでとは一転、弱い声を出す。


「お、おい待てよ……悪かったって」


「悪かったと思うなら私ではなく彼女に……」


 と、王連がそこまで言ったところで別の声が上がった。


 少し離れたところからだ。


「王連殿!大丈夫ですか!?」


 見ると、なぜか許靖がこちらへ駆けてきていた。しかもその後ろには数人の兵を連れている。


「すいません、兎にも角にも衛兵を呼ぼうと思いまして……」


 その言葉からすると、揉め始めの時にはすでに許靖は来ていたのだろう。


 市は役人が管理しているし、犯罪が起こりやすいから兵も配置されている。それを呼びに行ったのだ。


 兵たちはボロボロになった王連を見て言葉を詰まらせた。


「王連様!?そ、そのお怪我は……この男たちが……?」


 それを聞いた二人の男は顔を見合わせ、それからまた青ざめた。そして今度はその顔色は戻らない。


 自分たちはどうやら本物の県令をボコボコにしてしまったらしい。


 その事実に震え上がっている二人の前に、王連は背筋を伸ばして仁王立ちになった。


「お前たち、計算はできるか?」


 男たちはどういう意味で問われたか分からなかったが、とりあえずうなずいてみせた。


 強制労働とはいえ工場を取り仕切っていたのだ。多少の計算はできるつもりだ。


 王連もその返事に満足そうにうなずいた。


「よし、ならば二つの道から選ばせてやる。己の犯罪を正直に話して慈悲を乞う道と、県令への暴行で裁かれる道。どちらが生き残れる可能性が高いか、計算出来るなら分かるだろう」



***************



「きょ、許靖殿……やはりこれは……」


 王連は困惑していた。


 事件の処理が一段落してから許靖がしてきた提案が、王連の困ってしまうものだったからだ。


 が、許靖は全く意に介した様子がない。むしろ、どこかオドオドとした王連を楽しむように笑った。


「何か問題がありますか?怪我した王連殿のお世話を、助けられた小燕さんにしてもらおうとしているだけです」


「し、しかし……」


「小燕さんがご自宅に入るのが嫌ですか?」


「いや、そんなことは」


「でしたら、しばらくの間は王連殿のご自宅で寝起きしてもらえばいいでしょう」


 許靖が提案してきたのは、そういうことだった。


 小燕が働かされていた強制労働施設の摘発はすでに完了している。


 すでに夕刻ではあったが、速やかに軍を動かして関係者を逮捕、被害者を保護することができた。


 やはり県令に暴行を働いてしまったという事実が効いていて、二人の男たちは我先にと自供をしてくれた。王連がそうすれば暴行の方を見逃してくれるという事を匂わせたのが大きい。


 明朝からさらに詳細な捜査が行われる予定だが、捕り逃しはなさそうだ。


 被害者の多くはミャオ族の女性たちで、小燕と同じように騙されて村から連れ出されていた。やはりその刺繍の腕を狙っての犯罪だった。


「私たちは知らぬ間に、非道な行いのもとで作られた商品を使っているかもしれないのだな……」


 王連はそうつぶやき、許靖も同じように暗い気持ちになった。


 それは無意識ではあっても、罪と言われればやはり罪かもしれない。


 まずはそういう事もあるという認識、そしてもしそうならば使わないという選択をすることが、消費者にとって罪を犯さないために出来る行動だろう。


 被害者たちはしばらく県の施設で寝起きすることになる。全ての片がついたら故郷の村へ送ってもらえる予定だ。


 だから小燕も他の被害者たちと共に県の施設に行く予定だったのだが、許靖がそれを止めた。


「王連殿は結構な怪我ですから、もしよかったら何日か付いていてくれませんか?」


 言われた小燕はつぶらな瞳で許靖のことを見返した。


「付いて……?」


「ええ、王連殿のお屋敷に泊まり込みでお世話してもらえたら」


「ええっ!?」


 と、大きな声を上げたのは王連だ。まさかの提案だった。


「いや……それは……私は独身ですし……」


「だからですよ。誰かが身の回りのことをしてくれたら助かるでしょう」


 それはそうだが、王連の就いている県令はそれほど軽い職ではない。家のことをしてくれる人間を雇ってはいる。


(しかも……泊まり込みだぞ!)


 しかし王連が何か口にする前に、小燕が一歩進み出た。


「やります!お世話します!」


「しょ、小燕さん……」


「王連さんに助けられました!少しでもお礼、したいです!」


 さらに間を置かず、許靖が言葉を重ねてきた。


「王連殿、このまま何も返せないというのは小燕さんにとって辛いことです。それに県の施設で寝泊まりしてもらうよりも、王連殿のお屋敷の客室の方がよほど快適でしょう。小燕さんのおかげで犯罪集団を摘発できたわけですし、そのご褒美という捉え方をしてもいいのではありませんか?」


 許靖の言い方は畳み掛けるようで王連は二の句が継げなかったし、こういう言い方をされれば断るわけにもいかなくなる。


 王連はオドオドとした態度で了承した。


 そして今もオドオドしている。


 オドオドした態度で自宅に帰り、小燕と許靖に屋敷を案内した。


 許靖までいるのは、王連が半ば無理矢理に連れてきたからだ。小燕と二人にされるとどうしていいか分からなくなりそうで、懇願するように引っ張ってきた。


「きょ、許靖殿も一緒にミャオ族の話など聞きましょう!お互いまつりごとに携わる身ならば、異民族のことは知っておいて損はありません!」


 もう辺りは暗くなっているのだが、そんな理由までつけて許靖に泊まっていくよう頼んだ。


「そうですね、では」


 許靖は苦笑しながら了承した。


 夕飯は使用人が作ってくれていたのだが、小燕と許靖の分が足らない。


 それで小燕が腕まくりをしながら申し出た。


「私に作らせてください。ミャオ族の料理、ごちそうします」


 そう言って、慣れない台所にも関わらず手早く食事を作ってくれた。


 強制労働所にいた時と違い、食材など豊富に使えることが嬉しいようだ。楽しそうに料理をしていた。


 その後ろ姿をぼうっと見つめる王連へ、許靖は小声でささやいた。


「小燕さんが奥方になれば、こんな光景を毎日のように見られますよ?」


 その言葉に、王連は面白いほどの動揺を見せた。


「なっ、何を……」


 しかし許靖はそれ以上何も言わず、笑みだけ残して自分は客間に下がっていった。


 出来上がった料理を食べた王連と許靖は、揃って同じ感想を持った。


「これは……」


「酸っぱいですね」


 小燕が出した料理はどれもいい具合に酸味が効いていた。


「ミャオ族の料理、酸っぱいものが多いです。みんな酸っぱいものが好きで。美味しくなかったですか?」


 その心配を、王連は首を横にブンブンと振って否定した。


「いえ、とても美味しいですよ!私が今まで食べた料理の中で一番です!」


 許靖はその過剰な反応に苦笑いしつつも、美味しいということには同意だった。


「私もこの味付けは好きですね。それに……なんだか癖になりそうな酸っぱさです」


「ミャオ族の歌にも『三日酸っぱいものを食べないと、足もおぼつかなくなる』っていう歌詞があります」


「ははは、では王連殿に毎日これを食べさせてください。小燕さん無しでは生きられない体にしてあげればいい」


 そう言われて、王連と小燕は赤くなった。


 王連は、自分はともかく小燕までそうなったことに少し驚いた。


 許靖の台詞は客観的に聞けばなんのことはない軽い冗談だ。


 しかし完全に意識してしまっている自分だけでなく、小燕まで赤くなっているというのはどういうことだろう。


(そういえば、小燕さんの目が助ける前と後で少し違う気がする)


 バタバタしていたから今気づいたのだが、自分に向ける視線が変わっているように感じられた。どこか熱を帯びているような気がする。


 いつもならこういった変化も何らかの数字に置き換えて検討することができるのだが、不思議とどんな数字も浮かばない。


 その視線を受けると、ただただ心拍数が上がった。


 それからやや口数が減りかけた二人だったが、許靖の取り持ちでまた歓談を再開した。


 話題は初めに王連が言っていた通り、ミャオ族のことが主になった。それは興味深いだけでなく、許靖にとっては確かに有用な話だった。


「なるほど、ミャオ族の方々は万物に霊魂が宿るという信仰のもと暮らしている方が多いのですね」


「はい。だから山とか川とか、自然を崇拝します」


「そういう考えはいいと思います。きっと色々なものを大切にしようと思えるのでしょう」


「そうです。大切にするのは、大切なことです」


 この辺りは日本の八百万の神と概念が似ているかもしれない。確かに万物を尊重するという考えは人を優しくするし、謙虚にもする。


「それに『文字を持たない文化』というのは、それだけで我ら漢民族の文化とは相当な違いがあると言えますね」


「私もそう思います。でもその代わり、ミャオ族には、歌で色々なことが伝わっています」


 それは文化として非常に面白いと思えた。


 しかし、特に王連のようにあやふやなことを好まない人間としてはその不便さが気になる。


「文字が無ければどんなことも曖昧にしか存在できません。私などは大変なことが多かろうと思ってしまいますが……」


 そう言う王連に対し、許靖はその瞳を覗きながら逆説の言葉を返した。


「しかし今の王連殿なら、そういう曖昧なものの中にも大切なものがあるということを理解できているのではありませんか?」


 『今の王連殿』という言い方に、王連は引っかかった。


(確かに私は小燕さんの歌舞に触れてから、曖昧なものへの認識が改まっている。しかし、なぜそんなことが分かるのだ……)


 そう思う王連の瞳には、算木さんぎや珠算の珠で軽快な拍子を取る「天地」が見て取れた。


 ただ計算を続けるだけだった男たちが、今は音楽という数字にできない歓びを知ったのだ。


(私が出来るのは、ここまでだな)


 許靖はそう判断し、スッと立ち上がった。


 後は王連が男としてせねばならないことだ。


「私はそろそろ自分の宿舎に帰ります。ごちそうさまでした」


「えっ!?そんな、許靖殿も泊まっていくというお話だったと……」


「すいません、明朝一番で諸葛亮殿に送らねばならない報告書を思い出しました。どうしても帰らねば」


 もちろん嘘なわけだが、仕事を理由にされては引き止めるわけにもいかないだろう。


 オドオドを増した王連を尻目に、小燕への礼を重ねて踵を返した。


 が、一歩進んでから思い出したように振り向く。


「そうだ、小燕さん。食事の片付けが終わったら王連殿に一曲披露してあげてください。それが何よりの痛み止めになるでしょうからね」


 それだけ言い残して、許靖は去って行った。


 そして小燕は片付けを終えると王連の前に立った。言われた通り、歌と踊りを見せるためだ。


「私、王連さんに見てもらうの好きです。とっても喜んでくれるから」


 そう言って歌い踊る小燕を見て、確かに王連は喜んだ。


 あの市では多くの観客に向けて歌っていたが、今は自分のためだけに歌ってくれているのだ。あまりに贅沢過ぎる。


 夢見心地を通り越して、もはや言葉も出なかった。


 そんな王連の様子に、小燕も喜んだ。


 だからもう夜更けにも関わらず、二曲、三曲、四曲と続けた。


 そしてそれが五曲目になった時、急に曲調が変わった。それまでの明るい曲とは違い、どこか切ない曲だった。


 歌い終わってから、王連は自分が涙を流していることに気がついた。


「あ……いや、これは失礼。不思議と胸が締め付けられる曲だったもので」


「悲しく、なりましたか?」


「ええ、そうですね。どういった歌詞の曲なのです?」


「好きな人が、別の人と婚約してしまう曲です」


 それを聞いて、王連は自分の涙に合点がいった。


「なるほど。この曲の気持ちは、今の自分に痛いほどよく分かります」


「そうなんですか?」


「ええ。私は県令としてあなたを無事に故郷へと送り返さなければなりませんが、その後のあなたは故郷の誰かと結婚することになるのでしょう。それを思う気持ちと同じです」


 と、王連はそれが本心だったため、なんの躊躇もなくそう言った。今この時まで感動しっぱなしだったから、どこか脳の理性が緩んでいたのかもしれない。


 しかし小燕はその意味を理解すると、顔を真っ赤にして下を向いた。


 王連もその段になって、ようやく自分の口にしたことを気づいた。


「あ……いや……これは……」


 ひどく狼狽うろたえながら言葉を探す。


 そして小燕の顔が赤くなっているのを見て、そういえば、と思い出した。


「そ、そういえば小燕さんは頬を張られてましたが、それは大丈夫でしょうか?まだ痛かったりはしませんか?」


 あれから慌ただしかったし、小燕も何も言わないから冷やしたりもしていない。


 小燕は下を向いているから頬には髪がかかっている。それをどけて頬の状態をよく見ようと、王連は髪に手を伸ばした。


 そして髪をかき上げて現れた瞳に、言葉を失った。


 熱っぽく潤んだその瞳は美しいだけでなく、不思議と理性を溶かせるようなあでやかさがあった。


「王連さんの手、冷たい……」


 小燕は伸ばされた王連の手を取り、その頬に当てた。


 押し付けられた肌の感触に、王連の思考は停止してしまう。


「気持ちいい……」


 そう小さくつぶやいた小燕の唇を見て、王連は親指を動かした。その柔らかさが気になって、無意識に触れてしまったのだ。


 その親指を、小燕の唇が小さく吸った。


 柔らかな感触と小さな音で、王連の頭は完全に真っ白になってしまう。


 後のことはまるで夢でも見たかのように、あまり覚えていない。

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