短編 王連1

時は遡り、許靖が劉備に仕え始めてしばらく経った頃。



「銭がない……」


 というポツリとしたつぶやきが、中央官庁の一室で漏らされた。


 益州えきしゅうの財務を担当する部署の執務室だ。


 部屋には幾人も官吏がいたものの、皆それぞれの事務処理に追われているので他に喋っている者はいない。


 だからその小さなつぶやきは、実際の声量に比してやけに大きく聞こえた。


「銭がない……銭がない……銭がない……」


 その官吏は同じつぶやきを繰り返した。


 その間隔が徐々に短くなっていく。


「銭がない、銭がない、銭がない、銭がない銭がない銭がない銭がない銭がない!!」


 最後にはつぶやきなどではなく、完全な絶叫になっていた。


 その段になってようやく同僚たちは顔を上げ、叫ぶ吏員の方を向いた。


 が、何も言わない。そしてその吏員も叫ぶことをやめなった。


「なんで国庫にこんなに銭がないんだよぉ!?州一つを治めるための蔵だろう!?」


 この男は『国庫』と言ったが、正確には国庫ではない。


 劉備リュウビの治める益州は建前上、漢の国の一地域であり、それだけで国家という形にはまだなっていないからだ。


 ただし実質的には独立国家のようになっているから、あながち間違いとも言い切れないだろう。


 実際にいくら銭が足らなかったところで頼れる上位組織などないのだから。


「こんな額でどうやって行政運営していくんだよ!?無い袖振れってか!?無けりゃ振れねえよ!火の車ってのは地獄に連れてくための車なんだからな!」


 この吏員の言う通り、家計が苦しい時に使われる『火の車』というのは、地獄行きの燃えさかる車のことを指す。


 詰まるところ、銭が無い苦しみというのは地獄のような苦しみということなのかもしれない。


 ここは財務を担当する部署で、この男は真面目な吏員だから、現在の州の資産と他部署からの予算要求との板挟みに遭って地獄の苦しみを受けていた。


「今の懐事情を考えて予算要求してこいよな!っていうか適当な項目が多すぎんだよ!『通ったら幸運』くらいの気持ちで予算要求に上げんじゃねぇよ!こっちじゃ緊急性の判別が難しいんだよ!」


 他部署への怨嗟を口にする吏員を誰も止めはしなかった。


 同僚たちも全く同じ気持ちでいるからだ。


「予算が通ったら通ったでなんとか全額使おうとしやがるしよぉ!足りない時は追加要求するくせに、なんで多かったら返そうってことになんねぇんだよ!?あれこれ理屈つけて無駄遣いしてんの知ってんだからな!そもそもの見積もりが甘過ぎんだよ!」


 男は頭を抱えながらまた絶叫を続けた。


 使う側からすれば『使い切らなければ損』な上に『使い切らなければ次の時に減額されるかも』という懸念もあるから、どうしてもそうなってしまう。


 銭を管理する者と使う者が別であればどうしても起こる問題だが、無駄と不合理が多くなるのも確かだ。


「っていうか、そもそもの話をしたら益州を制圧した後にバラき過ぎなんだよ!その後どんだけ銭がかかるか考えてやれよ!」


 吏員の不満は最終的に劉備たち権力者にまで向いた。


 劉備軍は侵略戦争によって益州を得ることに成功したが、その後に人心を得るために州の蔵を開けてかなりの量をバラ撒いている。


 どんな世になろうと、これほど手っ取り早い人気取りの方法はないだろう。


 が、そのしわ寄せが現在の財務部門に来ているわけだ。


 予算を通さなければ他部署から文句が来ることもある。それによっていかに社会に悪影響があるかといった事まで言われ、極悪人扱いされるのだ。


 銭が無いのは自分たちのせいではないのに。


「火の車で地獄行きになる身にもなってみろってんだよぉおお!!」


 多くの同僚はその叫びに共感したものの、州の最上層まで批判するのはさすがにマズい。


 そう思った上司が立ち上がり、その吏員のところまで来た。


 が、叱責するわけでもなく、説教するわけでもない。


 ただただ優しくその肩を叩いた。


「……お疲れさん。ちょっと仕事回せよ。俺が処理する」


「え?いえ……」


「いいから。今日は少し早く上がって飲みに行こうぜ。……いや、家でゆっくり休んだ方がいいか。ちょっといい酒やるから、家に帰って一杯やりな」


「あ、ありがとうございます」


「明日も遅めに来ていいからな。無理すんな」


 そんな出来る上司のおかげでこの吏員は平静を取り戻したが、一人平静ではいられなかった男がいる。


 廊下で一連の叫びを聞いていた諸葛亮ショカツリョウだ。


 たまたまこの部屋の前を通りかかっていただけなのだが、頬が引きつるのを抑えられない。


 というのも、先ほどなじられたバラ撒きを実施してしまったのが自分自身だからだ。


 もちろん諸葛亮だけの意向でそうしたというわけではないが、劉備陣営の中で最大級に発言力の強い人間として責任を免れられるものではない。


(謝るべきか?……いや、私が今顔を出してもただ恐縮させてしまうだけだな)


 そう思い、彫像のような端正な顔を引きつらせたまま足早に廊下を進んだ。


 そして部屋を二つほどあけた次の部屋に体を滑り込ませる。


「突然失礼します」


 と、名乗りもせずに入室した諸葛亮に対して、部屋主は別に責める視線を送らなかった。


 むしろ、気の毒そうな目を向けてくる。


「諸葛亮殿……」


 声音にも気の毒に、という感情を乗せてその名を呼んだのは、許靖だった。


 ここは財務の部屋からそう離れていないので、許靖にも先ほどの叫びがしっかりと聞こえていたのだ。


 だから吏員たちに気を遣ったとはいえ、逃げるように部屋に入ってきた諸葛亮に同情を感じていた。


「許靖殿、無礼をお許しください」


「いえ。なんというか……大変ですね」


「ええ。ですがまぁ、自業自得ですよ。あの時は確かに大盤振る舞いしてしまいましたからね」


 許靖も大盤振る舞いだったとは思うが、自業自得とは思わない。


「その後の統治を安定させるためには仕方がない処置だったでしょう」


 益州人士にとって劉備は侵略者である上に、劉備には代々続いているような家臣もいない。


 となれば、少し無理をしてでも人気を得なければ統治に支障をきたすという現実があった。


 諸葛亮もその点は今でも仕方なかったと思う。


 ただ、この男の深い瞳はきちんと現実を見据えることができるのだ。


「しかしどんな言い訳を並べたところで、銭が無いものは無いのですから」


 結局のところ、それが問題なのだ。


 そしてこの問題は現実として降り掛かってくる。銭は日々要るのだから、避けようもない。


 諸葛亮は許靖の前まで進み、その長身で許靖のことを見下ろした。


 その瞳の奥には叡智をたたえた臥龍がりゅうがいるが、その叡智ですら銭を増やすことは容易でない。


「実は今日この部屋に足を運んだのは、別に逃げるためだけではないのです。元々お願いがあって来ました」


「何でしょう?」


「財務に明るい益州人士の情報をいただけないかと思いまして。一度お聞きしたことではありますが、改めて参考になる情報がないかを確認したいのです」


 許靖はすでに諸葛亮へ益州の有能な人材を紹介しているが、人間に関することだ。どれだけ時間をかけても不足なく伝えきれるものではない。


 その辺りのことは許靖自身が一番分かっていることだから、うなずいて答えてやった。


「分かりました。ではそういうことに強い人間を今一度並べてみましょう」


 そう言って筆を執り、木の札に幾人もの名前を羅列した。そこにその人材の特徴を書き足していく。


 許靖は以前よりも詳しい説明を心掛けた。諸葛亮であれば一度聞いた内容は覚えているだろう。


 その羅列がとある人間のところに来た時、許靖はふと手を止めた。


 そこには『王連オウレン』という名が記されている。


「……?どうされました?王連殿が何か?」


 諸葛亮も王連のことはよく知っている。


 現在の王連は広都こうとという地の県令けんれい(県の長官)を務めているが、広都は許靖たちが今いる成都せいとの南隣りに当たる。


 首都に隣接した地域の長官なわけだが、そういう重要な地域を任せているのだから諸葛亮自身もよく把握している人材だと認識していた。


「確か許靖殿のお話では、数字にめっぽう強い人材ということでしたね」


「ええ、そうですね」


「そういえば今治めている広都も、その前任地の什邡じゅうほうも財務状況が健全とのことでした。この財政危機にも関わらず、です。その前の梓潼しどうでもそうでしたか?」


 王連は劉備たちが攻めてきた時、梓潼の県令だった。


 この梓潼という県は劉備軍の侵攻途上にある地域だったが、王連は降伏勧告を受けても門を開けず節義を守り通した。


 ただその一方で攻めてくるわけでもないので、劉備もあえて王連を攻撃せずに通過した。上手くやって生き延びたと言えばそうなのかもしれない。


 そして敗戦後はそのまま劉備に仕え、什邡県令、そして現在の広都県令へと転任させられている。


梓潼しどうの財務状況は至極健全だったどころか、王連殿のもとで大幅に改善していましたよ。什邡じゅうほう広都こうともそうなはずです」


「なるほど、実績は十分ですね」


 仕事を任せるに当たり、実績ほど任せる側に安心感を与えるものはない。


 ただ、許靖がふと筆を止めたのはそれだけが理由ではなかった。


「実は以前、王連殿から国庫を潤わせるための方策を聞いたことがあるのです」


 諸葛亮はその言葉に身を乗り出した。


「国庫を潤わせる方策!?もしそれが実現可能なものなら、ぜひお願いしたい」


 まさに今の益州が必要としているものだ。


 が、許靖の方は微妙な顔をした。


「うーん……実現が不可能とは言いませんし、決して前例のない話でもないのですが……」


 諸葛亮はその顔を見て、面倒ごとの雰囲気を感じ取った。


 ここのところ面倒ごとにまみれた生活を送っているので、そういう空気は敏感に感じ取れる。


「何かしら問題を孕んでいる、ということですか?」


 また気苦労が増えるのかと思うとうんざりした気分にはなるものの、それでこの財政危機を乗り越えられるなら抱えねばならない気苦労だ。


 許靖もそれは分かっているから、その面倒ごとに一歩踏み出す決意をした。


 嫌々ながら、ではあったが。


「まぁ……そうですね……広都はそれほど遠い所でもありませんし、諸葛亮殿の予定さえ合えば一度王連殿に会いに行ってみませんか?」



***************



「計算も出来ん馬鹿どもの口を塞いでくださるなら、銭はいくらでも稼いでみせますよ」


 と、王連は何でもないことのように受けあった。


 しかしその辛辣しんらつな物言いには諸葛亮も許靖も苦笑せざるを得ない。


 ここが王連の執務室で、他に誰も聞いている人間がいないにしても、『馬鹿ども』というのは立場ある人間としていかがなものか。


 許靖は相変わらずな王連の姿を眺め見た。


 目つきの鋭い壮年の男で、才気走った目元は見る者をどこか警戒させる。


 そんなひと目見ただけで、思考の鋭さまでが分かってしまうような鋭利な相貌をしていた。


 事実、この男は刃物のように切れる。


(こういう所がなければ県令ではなく郡太守……いや、中央の最高級官僚でも十分通用する能力の持ち主なのだが)


 この時代の中国の行政単位は大きい方から順に州、郡、県になる。


 許靖としては、一県令なのがもったいないと思ってしまうほどの男だった。


(ただ、王連殿は非常に計算高いところがある。今の発言も、私たちが問題にしないことを分かっているからこそ出たものだな)


 そうも思う。


 王連が堂々と批判した『馬鹿ども』というのは、この時代の善悪を決める儒学者たちのことだ。


 そして王連の心の中にある財政健全化策とは、その儒学者たちから批判を受けるであろうものだった。


「塩や鉄などの専売、ですか。様々な問題を孕んでいる政策ではありますが……」


 諸葛亮は、あらためて今三人の間で検討に上がっている政策を口にした。


 諸葛亮と許靖は王連のもとを訪れ、三人で塩鉄の専売について話し合っている。


 『専売』とは、行政が特定の商品を管理下に置いてその利益を独占することを言う。


 生産、流通、販売を行政もしくは行政が請け負わせた業者で独占的に行い、その利潤を財政に当てるのだ。


 普通に民間業者が自由競争で販売しても利の一部しか税収にならないわけだが、この方法なら全額が国庫に入る。


 しかも独占だから値段も好きに決められるので、やろうと思えば利益は上げ放題だ。


「国家による専売は確かに二百年以上前にも行われていますが、その頃から議論になっていますからね」


 諸葛亮の言う通り、この専売というのは前漢の頃、それこそ紀元前から実施されていた。塩や鉄などがその対象品だ。


 しかし許靖たちの生きる後漢の時代には行われておらず、一時は再開の提案もされたが反対にあって実現しなかった。


 前漢の頃からこの専売に反対しているのが儒学者たちだ。


 しかし、王連にはその主張が理解できない。


「国家が利を求めるのが悪ですか。どれほど高潔な国家でも、国庫が空では出来ることなど何一つないのに」


 儒教でそこまで言っているわけではないが、儒学者は確かに国家が利潤を追求することには否定的だった。『卑しい』と言う者すらいる。


 ただ、それだけではない。


 前漢の時代に専売の是非について官吏と儒学者で議論を交わした『塩鉄論』という記録が残っているのだが、そこには現代の感覚で見ても至極納得できる主張が並べられている。


 専売否定派の儒学者からは、


『民業圧迫』『汚職の誘因』『画一的な官製品による不便』『国家管理で民間需要に応えることの困難』


 専売肯定派の官吏からは、


『国家財政への貢献』『品質確保・安定供給への寄与』『適正価格の設定』『反社会勢力の財源遮断』


といった事柄が論述された。


 なお、この議論は紀元前の国家でなされたものだ。


『大昔の政治・行政など程度の低いもので、一部の権力者の横暴でなされていたのだろう』


といった先入観を持っている方も多いのではないだろうか?筆者はそうだった。


 しかし、その現実はこうだ。


 たとえ二千年以上前の社会であろうとも賢良な人間は多くいて、社会というものをきちんと運営しようとする機構・人材・気概はあったのだ。


 このように、儒学者はあくまで善悪だけを見て反対しているわけではない。


 諸葛亮はそういったことを理解しているから、王連ほど強くは否定しなかった。


「まぁ、専売を否定する方々も色々考えてはいるのですよ」


 王連もそれは了解しているが、銭の無い現実を軽んじているようで苛立ちを覚える。


「なぜその考えるための頭を数字の計算に回さないのでしょうか。まるで数を知らない獣のようだ。きちんと計算さえできれば、『卑しい』などというあやふやな理屈で貴重な財源を捨てる愚行をせずに済むのに」


「それはそうかもしれませんが……」


 諸葛亮や許靖のように、その数字に基づいて行政を実施してきた者としては王連の言うことに強く共感できた。


 何を言ったところで、数字は正直にしか応えてくれないからだ。


 しかし、と許靖は思う。


(しかし、数字はあくまで数字でしかない。それで人の心は表せないし、ましてや計算で理解できるものでもない)


 その点を考慮すると、才気走った王連の目つきがやけに不安をあおるのだった。



***************



「許靖殿はどう思われます?」


 王連を交えての話し合いを終え、宿舎で一息ついている許靖に諸葛亮がそう尋ねてきた。


 二人の卓の前には熱い茶が置かれている。花琳カリンが選んで持たせてくれた茶だ。


 そこから上がる湯気と香りに目を落としながら、許靖はポツリと答えを返した。


「王連殿なら、専売の実務を見事にこなしてくれるでしょう」


 それは本心からそう思うことだった。


 専売というものは、とにかく管理が難しい。


 今回の場合は塩や鉄などがその対象だが、これらは生活に欠かせないものだ。


 販売を独占できるからといって値段を上げ過ぎると、民を困窮させてしまう。


 ただその一方で、財源確保が主目的なのだから上げられるところまでは上げたい。


 需要と供給、景況感、農作物の作柄など、民の生活状況を常に把握して、難しい計算をしながら舵取りをしなければならないのだ。


 また市場原理が働かなくなることによる効率低下や、汚職にも目を光らせる必要がある。


 しかし許靖は、王連ならそれを任せるに不足ない能力があると確信している。


 諸葛亮も許靖からそんな王連の本質はあらかじめ聞いていた。


「王連殿の瞳には算木さんぎが見える、ということでしたね」


 その言葉に、許靖はうなずいた。


「ええ。算木だけではなく珠算しゅざんたまなど、計算道具を持った人々が多数見られます」


 ここで出てきた算木とは、この時代の計算道具だ。赤と黒の棒を縦横に並べて数字を表し、計算していく。


 実は日本でも江戸時代までは数学者たちに用いられていたので、私たちにとっても意外に無縁ではない。


 そして珠算とは、言わずと知れたそろばんによる計算方法だ。


 ただしこの頃のそろばんはまだ珠が串を通っていなかったらしく、枠や溝に珠を置いていく形式だったらしい。


「王連殿の瞳には凄まじい速度で数字が流れているのですが、それをまた凄まじい速度で計算しているのです。これほど数に強い「天地」を、私は見たことがありません」


 許靖が王連の瞳の奥に見たものは、そういうものだった。


 頭の回転が早く、特に数字が絡んでくると抜群の能力を見せる。


 諸葛亮はそのことを一度聞いていたが、あらためて専売との相性について納得した。


「確かに専売で難しい価格設定や生産量を考えてもらうには最適な能力ですね。数字に基づいて決定がなされれば最適解に近づけるでしょう。それに帳尻が合わないことに気付ける人間であれば汚職の発見も容易なはずです。数字に現れやすい効率低下にも敏感でしょうしね」


 そういったことを考慮すると、数に強い王連は専売の実務をさせるのに最適な人材と言える。


 諸葛亮自身も今日、王連と専売について話してみて『この人物なら』と思った。


 少なくとも王連が働ける間は財政の大幅な改善が見込めるはずだ。


「ですが……揉めそうですね」


 諸葛亮はそれをうれいていた。


 そして許靖も同じ危惧を抱いている。


「私もそう思います。儒学者を中心に、反対意見がかなり出るはずですから」


 前述の通り、儒学者は基本的に国家による専売に反対の人間が多い。


 そして王連の態度はそういう人間たちの神経を逆なでしてしまうだろう。


「ただ王連殿は計算高い方ですから、ある程度は反対派にも気を遣った言動をしてくれると思うのですが……」


 許靖の控えめな擁護に、諸葛亮は首を横に振った。


「そうであっても、人の本音というものは割と感じられてしまうものです。王連殿はそういうことを隠すのが得意そうには見えませんでした」


「そう……ですね。おっしゃる通りです」


 たとえ計算して予測が出来たとしても、その解を現実に実行できるかは感情も絡む問題なので簡単ではない。


 王連の瞳には計算以外の『遊び』が見えなかったから、諸葛亮の懸念は当たっているだろう。


 それに加えて、王連は儒学のように計算ではっきりとした答えの出ないものに対してはやや思考が鈍るところがある。それが儒学者たちへの苛立ちに転化されてしまうのだった。


(理解できない他人の価値観は、時として攻撃対象になる。それはとても恐ろしいことだ)


 今日の辛辣な言い方を思い出しても、何かのきっかけで反対派と揉めてしまいそうに思えた。


「それでも今の危機的財政を考えると、専売は是が非でもやりたいのですが……」


 実は諸葛亮の頭にも、専売の実施は政策候補として一度上がっていた。


 しかし管理の難しさから諦めていたのだ。それがここに来て、少なくとも実務は完璧に任せられそうな人材の見当がついた。


 なんとか実施に漕ぎ着けたいというのが本音だ。


 諸葛亮は許靖の淹れてくれた茶をすすり、それから大きな息を吐いた。


 許靖はその息に、溜まりに溜まった苦労の重さを感じていた。


(このまま行くと、この人は気苦労で圧し潰されて死ぬのではないだろうか)


 確かに専売は魅力的な政策ではあるが、それによって諸葛亮のため息は重量を増してしまうだろう。


 そう思った許靖は己に出来ることを考えて、一つ提案してみることにした。


「もし可能なら、私をしばらく王連殿のそばに置いてください」


「それは構いませんが……何をされるのです?」


「まだ具体的にどうするということは言えませんが、あの数字で埋め尽くされた「天地」に何か面白いものでも投げ込めたらと考えています」



***************



「いや、許靖殿が色々助言してくださったおかげで助かりました。さすがは行政官としての年季が違う」


 王連は道を歩きながら、隣りを行く許靖に礼を述べた。


 許靖はここ数日、王連に付いて動いている。


 塩鉄の専売はいったん諸葛亮の持ち帰りとし、後日結論を出すことにした。どちらにせよ重大な政策だから、劉備にもしっかり相談しなくてはならない。


 そして許靖の方は広都に残っているのだが、建前上は諸葛亮から『広都の人材についての報告書を上げるべし』との命令が出ていることにした。


 そして県令である王連は当然有力者や中枢の役人と会うことが多い。彼らは報告すべき重要な人物たちだ。


 だから諸葛亮の命令の下、許靖は王連と共に行動させてもらう事ができた。


 さらに諸葛亮は成都へ帰る前に、


「しばらくお二人一緒にいてもらうことになりますが、王連殿は許靖殿を政治顧問のように思えばいいと思いますよ。中央官僚だけでなく、各地の太守も歴任されている方ですから」


と、言い残していた。


 そしてその言葉通り、王連はことあるごとに政務の意見を求めてきた。


(王連殿は答えのあやふやな問題は得意でないし、経験者に任せた方が早いという計算も働いているのだろう)


 許靖は客観性の強い王連の「天地」から、そういう性向を感じ取っていた。


 ただ、その客観的すぎる所を何とかして欲しいのだ。他人の主観を認められなければ、専売反対派との衝突は避けられないだろう。


 今も王連の瞳の奥では算木の棒が高速で動き、難しい計算が解かれ続けている。


 許靖はそれを横目に見ながら王連に返答した。


「行政官としての年季といっても、私の半生は難民のようなものでしたからね。自分で生粋の官吏だとは思っていません」


「半生?それは、何年間ほどでしょうか?」


 王連は曖昧な表現を聞いて、すぐに正確な数字を知りたがった。


「えっと……確か十五、六年?くらいでしょうか?」


 許靖は心の中で苦笑しながら答えてやった。


 別に王連は『それだと半生と言うには短い』などと指摘するつもりはないのだが、数字周りを適当にするのが嫌な性分なのだ。


 ただ、許靖としては数字以外にも目を向けて欲しいからここにいる。


「まぁ十五、六年といっても色々ありましたから、体感としてはそんな数字では計れないほどの長さでしたが」


「あぁ……そういえば戦に追われ、この国のあちこちを放浪されたとおっしゃっていましたね。確かに数字そのままでは評価できそうもありません」


 許靖はその言葉に、王連の理解が一歩進んでくれたかと思った。


 が、それは予想の斜め上を向いた一歩だった。


「つまり、その実年数に二を掛けたものを体感年数として捉えればいいということですね。ならば、ちょうど許靖殿の半分の生程度になります」


「…………」


 許靖は今度ははっきりと苦笑しつつ、歩いている道の両脇を眺めやった。


 そこにはむしろを敷いて、様々な商品を並べている人間たちがいる。


 今日は市が開かれる日で、許靖は王連を誘ってその視察に来ているのだ。


 聞けば、王連は自ら足を運んで現場視察をすることは少ないらしい。部下に調査を命じ、報告に上がった数字をもとに指示を出しているとのことだった。


(そういうやり方が悪いとは言わないが、こうして自分の目で見ることも大切だ。報告書や数字には上がってこない発見が必ずある)


 もちろん効率を考えると毎度毎度は無理だろうが、それでも可能な限り現場は自分の目で見るべきなのだ。


 それは数字以外にも目を向けて欲しいという今の狙いだけでなく、一行政官としても伝えたいことだった。


 だから許靖は強く推して王連を市に引っ張って来た。


「どうです?現場を自分の目で見るのも有用でしょう」


 王連はその問いに首肯した。


「ええ、上がってきた数字が正しいかを検証できるのは大変有用です」


「……ですよね」


「色々計算をする上で、その前提となる数字が正しいかどうかということはとても大切なことです。ですから専売が実施されることになった暁には、許靖殿にその辺りのことを理解できる優秀な事務官をご紹介いただきたいのです」


(どうも一筋縄にはいかなさそうだ)


 許靖はそう感じながらも、王連の希望にはうなずいてやった。


 確かに専売を適切なものにするためには優秀な事務官が必要で、許靖も大切なことだと思う。


「ええ、分かりました。何人か候補を上げますから、その中から王連殿が選んでください」


「選べるほどいますか」


「心当たりはあります。事務処理能力の高い人間でいうと呂乂リョガイ殿・杜祺トキ殿・劉幹リュウカン殿などが特に……」


 と、許靖が名前を挙げているところへ、大きな拍手が聞こえてきた。


 そちらの方へ目を向けると、市の一角に人だかりができている。


(何だ?大道芸か?)


 許靖と王連はそう検討をつけながら歩を進めた。


 市では様々な芸が披露されていることが多い。


 芸人からすれば人が集まるから稼ぎやすいし、商人からすればそれでさらに人が集まってくれるのでありがたい。


 市は役人が管理しているのだが、その相乗効果が分かっているから公序良俗に反しない限り止めることもない。


 許靖たちが人の隙間から中を見ると、小柄な女性が一人頭を下げていた。観客の拍手に応えているようだ。


 それから顔を上げた女性の姿を見て、許靖はおや、と思った。


(漢民族ではないな)


 ひと目でそれが分かった。


 顔つきは許靖たち漢民族とさして変わらない。成人はしているだろうが、どこかあどけなさが残る以外には別段特徴のある顔でもない。


 ただ、その服装は漢民族のものではなかった。細かな刺繍が施されており、美しいがどこか暖かさを感じさせる。


 不思議な温度感を抱いているその刺繍は、つい手を触れてしまいたくなるような魅力があった。


(あの見事な刺繍は、西南夷せいなんいのものだな。確か……ミャオ族といったか)


 西南夷とは、中国南西部に暮らす漢民族でない人たちのことだ。益州にも南方を中心に多くが住んでいる。


 複数の民族をまとめて指す時の呼び名で、この女性はその中でもミャオ族という民族の出身と思われた。


(益州に来た時、それぞれの民族の特徴を聞いたな。ミャオ族の特徴は美しい刺繍と……確か……)


 許靖がそれを思い出そうとしていると、女性はスッと片手を上げた。


 それから息を吸い、鳥の鳴くような美声で歌い始めた。


 紡がれる歌に合わせ、自ら舞う。その様子は鳥が風に乗って舞うようで、思わず許靖は見惚れた。


 不思議と雄大な山岳が頭に浮かび、その谷を風が鳥と共に吹き抜けていく。そんな風の爽やかさまで感じられるような歌舞うたまいだった。


(そう、歌と踊りだ。ミャオ族は、歌と踊りと刺繍の民だと聞いたことがある)


 許靖はそのことをはっきりと思い出した。


 目の前の女性は、まさにそれを表現している存在だった。


 許靖は時間を忘れて歌舞を眺め、そして終わった時には周りの観客と一緒になって大きな拍手を送っていた。


 そこでようやく王連と歩いていたことを思い出し、そちらの方を向いた。


「素晴らしい歌と踊りでしたね。王連殿もそう思われ……」


 と、許靖はそこで言葉を途切らせた。


 女性を真っ直ぐに見つめたままの王連の瞳に、これまでとは違ったものが見えたからだ。


算木さんぎの棒で……拍子を取っているのか?)


 そんな様子が見て取れた。


 つい先ほどまで王連の瞳の奥には、算木を並べて真面目に計算している人間しかいなかった。


 が、今はその棒を打楽器のように使い、拍子を取って体を揺すっている。


 その拍子は、今しがた聞いた女性の歌に合う拍子だと感じられた。


(……女性の歌舞に刺激されて、気分が乗っているということだろうか?)


 どうやらその様に思える。


 事実、王連の頬は高揚で赤く染まっていた。


 許靖は王連に声をかけることをやめ、女性の方へ再び顔を向けた。視察を中止してでもこの歌舞を最後まで見続けた方がいいと思ったからだ。


 女性がまた歌い始めると、王連の瞳の奥ではいっそう激しく算木が打たれた。


 算木だけではなく、珠算の珠までシャカシャカと小気味良く振られ始める。


 許靖はその様子を横目で見ながら、その拍子の心地良さに思わず膝を揺らしてしまった。

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