呂布の娘の嫁入り噺32

(この花……綺麗だけど、到着前にしおれちゃうわよね。もう一回付け直すのかしら?)


 玲綺は馬車の中に飾られた花々を眺め、そんな疑問を持った。


 壁にも、天井にも、床にさえ色とりどりの花が添えられている。


 その甘い香りに包まれて気分が良かったのは初めだけで、正直今は馬車の揺れも相まって気持ち悪い。


(もし付け直すなら、車内の花だけでも早めに取ってもらおう)


 そう決心した。


 花は馬車の内側だけではなく、外側にも美々しく飾りつけられている。


 中国には婚礼の際に、新婦がこの花車に乗って新郎の家まで送られるという文化が存在した。儒教の作法について書かれた礼記らいきという書物に、そういった段取りが記されているのだ。


 玲綺は州一つを領有する呂布の娘であるから、当然花車もその道の職人によってたいそう立派なものが作られた。


 が、乗っている本人としては大いに不満がある。


(車内の花くらい匂いの無いものにしなさいよね。花嫁がゲロまみれになったらどうすんのよ)


 と、花嫁らしくないことを考えてから窓の外を眺めた。


 赤くなりかけた空に雲が流れていく。その形がふと、今朝自分を送り出してくれた大切な人たちの顔に見えた。


「龐舒……」


 玲綺はまず、その名をつぶやいた。


 すると、胸の奥がキュッと締め付けられるような気がした。


(ちゃんとお互いの目を見て、笑って別れられたから良かった)


 心からそう思う。


 だからきっと、この苦しい気持ちは幸せでもあるのだろう。玲綺はそう考えることにした。


 母は龐舒とは反対に、顔がぐちゃぐちゃになるほど泣いていた。


 玲綺が今着ている花嫁衣装の胸のところにはシミができている。魏夫人の鼻水だ。 


「ほんと、お母様はしょうがないなぁ……」


 しょうがない。


 笑ってそう思える人ほど、自分にとって大切な人なのだとよく分かった。


 お母様の娘で良かった、愛してくれてありがとう、そういう自分の一番大切な気持ちを伝えて別れることができた。


「お父様……お父様はアレ……どういう事だったんだろう?」


 父はなぜか、終始なんとも言えない微妙な顔つきで自分のことを見送っていた。


 もともと感情を読みづらく、何を考えているか分かりづらい父ではある。


 しかし、つい昨日まではもう少し分かりやすい顔だったのだ。


 それは、


『自分が娘の恋を成就させてやったのだ!』


というような、明るく自信に満ちたものだった。


 もちろん一人娘と離れることの寂しさも感じられた。しかし自分の頑張りで娘を幸せにしてやれたという自負心が、父に胸を張らせているようだった。


 それなのに、今朝の父の姿はなぜか小さくなったようにすら見えたのだ。


(もし考えられるとしたら……昨夜のことだけど……)


 昨夜、自分は龐舒と色々あった。端的に言うと、乳繰り合っていた。


 父はその結構前にそこから離れたと思っていたのだが、もしかしたら少し離れた所から弟子を見守っていたのかもしれない。誰からも恐れられる呂布だが、娘は父にそういう所があることを知っている。


「もしかして……見られた?」


 さすがの玲綺もそれは恥ずかしい。


 馬車が出発してからそう思い至り、もしそうならもう父の顔をまともに見られないと思った。


(……でもまぁ、もう滅多に会えないんだから気にすることもないか)


 ため息とともにそう思い、再び空を見上げた。


 すでに雲は朱色を帯びている。呂布たちのいる下邳かひからは随分離れた。


 嫁入りには袁術の使者と共に、高順コウジュンの部隊が護衛として付いてくれている。最も忠誠心の高いこの武将なら、間違いなく娘を送り届けてくれるだろうという人選だった。


 その高順の騎馬が玲綺の馬車のそばまでやって来て、外から声をかけた。


「失礼いたします。今よろしいでしょうか?」


「はい、何でしょう?」


「もうすぐ日が暮れますので、本日は少し先の丘で野営の予定となっております。幕舎に泊まることになりますが、ご勘弁ください」


「私は全然平気ですよ。何なら地べたに焚き火でも」


 高順は玲綺の言うことに好感を抱いた。


「はっはっは、さすがは呂布様のご息女です。まぁ、花嫁の肌にアザがつかない程度の夜具は用意させてください。他にも何かご要望があればお聞きしますが」


 そう言われ、玲綺が車内の花について頼もうとした時、一行の後ろから激しい馬蹄の音が聞こえてきた。どうやら騎馬が近づいて来ているらしい。


 一騎だけのようだが、明らかに急いで駆けている音だった。


「何だ?伝令か?」


 高順は一騎だけということでそう判断し、馬首を後方へ向けた。そして玲綺に、


「失礼」


と一言残して下がって行った。


 高順が少し行くと、駆けてくる騎馬に兵たちが慌てて道をあけているのが見えた。


 それもそのはずだ。現れたのは呂布軍きっての猛将、張遼チョウリョウだった。


「張遼殿、一体どうしたのだ?しかも単騎で」


 高順に問われた張遼は、興奮する馬をなだめながら答えた。


「火急の伝令だ。とにかく急ぐので、一番速い私が来た」


「火急か」


「そうだ、行軍をすぐに止めてくれ。というか、下邳まで引き返してくれ」


「なに?どういうことだ?」


「お嬢様の嫁入りが中止になった」


 高順と周囲の兵たちはいきなりの命令に驚き、どよめきが広がった。


 が、驚いたのは兵ばかりではない。馬車の中で聞き耳を立てていた玲綺も仰天した。


 少し離れていたが、二人の会話は十分聞こえる距離だったのだ。


「そ、それは……一体?」


「とりあえず、袁術の使者たちが逃げないよう兵で囲んでくれ。場合によっては多少の拘束もやむをえん」


 高順は張遼の言葉から、袁術との対立もやむなしとする伝令の本質を理解できた。


 素早く言われた通りを命じて実行させる。


 それから張遼と二人で少し歩き、兵たちと距離を置いてから再び尋ねた。


「一体、何かあったというのだ?」


「実は……」


 という二人の声は、兵に聞かれないようにするため先ほどより小さくなっている。しかし兵から離れた分、玲綺の馬車には近づいてしまっていた。


(丸聞こえだけど……)


 玲綺はそう忠告するのもどうかと思ったので、引き続き聞き耳を立て続けた。


「嫁入りの一行が出発してから間もなく、陳珪チンケイという客人が現れてな」


「陳珪?……というと、確か下邳の名門の」


「そうだ」


 陳珪は徐州を代表する名家の産まれで、自身も県や郡の長官などを歴任した名士だった。


「その陳珪殿が婚姻の話を聞きつけて、袁術と手を結ぶことの危険性を説きに来たのだ。むしろ難しくとも、曹操との和解を選んだ方が良い、と」


「そのことに関しては我らも十分に議論を重ねたと思うが……」


「確かにそうだが、結局のところしっかりとした結論は出なかっただろう?そこへ来た陳珪殿はかなりの能弁家でな。袁術の危うさについて、大半の人間を納得させてしまった」


「そんな、ちょっとした口先で」


「いや。陳珪殿と袁術とは若い頃からの知り合いらしく、その性格までよくご存知だった。そういう説得力は確かにあったな」


 陳珪の説く袁術の危うさは、この後現実となる。皇帝を僭称せんしょうしただけでなく、民に重税を課して自身は享楽にふけるようになるのだ。


 ただしこの陳珪、実は呂布のことを思って忠告に来たわけではなかった。むしろ呂布と袁術は提携によって強大になると思い、曹操のための弁舌に来たのだった。


(天下は曹操を中心にまとまりかけている)


 という認識のもと、他勢力を大きくしないための行動を取ったのだという。


 ただ、陳珪はこれ以前に皇帝を名乗り始めた袁術から仕えるよう誘われており、それをすげなく断っている。


 そんな状況で呂布と袁術が一つになれば、自身に害が及ぶことも十分考えられるだろう。保身も行動原理の一つであったことは想像に難くない。


 なんにせよ、陳珪は呂布陣営の説得に成功した。弁舌によってその場を支配し、呂布陣営の考えを改めさせることが出来た。


 しかし、その場にいなかった高順には納得し難い話だ。


「それはすでに出発した花嫁の行列を止めてまで、手を切るべきだと言う話になったのか」


 それを先導する名誉を賜った身としては、言葉に不満の棘が出るのも仕方のないことだった。


 張遼もその気持ちはよく分かるから、すぐに高順が納得できるであろう話をした。


「そのことだ。実は大半の者が袁術の危険性を認識したとはいえ、さすがに花嫁姿で見送られたお嬢様を連れ戻すのはどうかという雰囲気だった」


「ならば」


「そういう空気の中で、呂布様が決めたのだ」


 高順は耳を疑った。


 そして、それは盗み聞きしている玲綺も同じだった。


(お父様が?私の嫁入りを積極的に止めた……ってこと?)


 呂布はこの縁談に関して終始推進派だった。それもこれも、娘を惚れた男のところへ嫁がせてやりたいという父親としての願望が理由だったはずだ。


(それが真反対になったってことは……)


 玲綺にはそれについて思い当たる節があったが、高順にはまるで理由が分からない。


「呂布様自身が……その雰囲気の中で、自らお嬢様を連れ戻すよう命じたというのか?」


「そうだ」


「ありえん。私にはそれはありえないことに思える」


「そうか?」


「大きな声では言えんが、呂布様は何とかしてお嬢様を惚れた男のところへ嫁がせてやりたいようだった。そんなことを私に漏らしたことがあるのだ。その言葉には『何を差し置いても娘の幸せを』という本音が見え隠れしていた」


 張遼は高順の言うことに苦笑した。


「……なるほどな。あの人らしくないようで、実はとてもあの人らしいことだ」


「だろう?なのに、周囲がもう仕方ないと思っている所でそんな命令を出すか?」


「私にもその点はよく分からんが……呂布様は陳珪殿の話を聞きながら、小声で『渡りに船だ』とつぶやいていたぞ」


「渡りに船?」


「ああ、一番近くにいた私にしか聞こえないような声だったがな。呂布様の中で何か考え方の変化があったのかもしれん」


「むぅ……」


 高順はいまだに半信半疑だったが、張遼としては話したことが真実なのだからどうしようもない。


「私からは、そういう経緯でこういう命令を受けたとしか言いようがない。嘘をつくような話でもなかろう」


「そう……だな。すまない、張遼殿を困らせるつもりはないのだ。しかし、やはり納得しづらくてな……」


 そう言った高順だったが、盗み聞きしていた玲綺としては理由まで完全に推察して納得できてしまった。


 父は自分と龐舒とのことを知り、これ好機とばかりに嫁入りを止めたのだろう。


(やっぱり見られてた……)


 そう思うと、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなってくる。


(どんな顔でお父様に会えばいいのよ……っていうか、龐舒も!また目も合わせられなくなるじゃない!)


 昨夜はもう別れだと思って気恥ずかしさもなかったが、そもそも龐舒は人生の半分を共に過ごした近すぎる存在だ。


 それといきなり男女の関係になったというのは、正直かなり気まずい。


(もぅ……もぅ……もぅ……)


 顔を手で覆いながら、馬車の中でうずくまる。耳まで熱くなってきた。


 そうとは思わない高順は、花嫁の馬車の方を向いて小さくつぶやいた。


「それに……お嬢様に……なんと説明すれば良いものか……」


 それを聞き、玲綺はパッと顔を上げた。


 自分自身も色々困りはするものの、周囲まで困らせるのは申し訳ない。


 そう思ってすぐに馬車の窓から顔を出し、手を振った。


「あの、大丈夫ですよ!実は聞こえてましたけど、私は別に気にしてませんから!むしろ帰れるのは嬉しいっていうか……」


 玲綺は努めて明るい声を出したつもりだった。それで高順も張遼も笑ってくれればいいと思ったのだ。


 しかし帰ってきたのは笑い声などではなく、ひどく気の毒そうな無言の視線だった。


 憐れみと気まずさの入り混じった、大変に居心地の悪くなる視線だ。


 それはそうだろう。結婚が破談になった花嫁姿の娘に対し、それ以外の視線など送りようがない。


 しかも玲綺と袁燿は政略結婚とはいえ、共に想いを寄せ合っているというのは有名な話になっていた。


 玲綺はその視線に晒されて、一つの未来を覚悟せねばならない事を知った。


(そっか……しばらくは誰に会ってもこういう視線を浴びることになるんだ……)


 それはもはや、決定事項と言って良いほど確実な未来の苦行だった。


(……きっついわね)


 とりあえず、早く花嫁衣装を脱ぎたいと思った。

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