呂布の娘の嫁入り噺33

 退却戦における殿しんがりというのは大変危険が大きい。


 進行方向と逆を向いて戦わなければならないし、味方は逃げているのだから援軍も望めない。


 何より負け戦での犠牲になれと言われて士気を保てる人間など、そうそういはしないだろう。


 だから殿を命じられるのはそれに耐えうる良将か、逆に使い捨ててもいいと思われている愚将かのどちらかになりがちだ。


 そして呂布が今攻めている相手は、残念ながら良将のようだった。


「龐舒、あまり突っ込みすぎるな!」


 敵の防衛線が硬いので、弟子にそう警告した。


 が、馬を走らせる龐舒は止まらない。呂布の騎馬隊から一騎だけで突出してしまった。


 別に師の命令を無視しようとしたわけではない。気持ちと勢いが乗りすぎて、もはや止まることが出来なかったのだ。


「ちっ」


 と、呂布は舌打ちを一つして弓を持ち上げ、素早く騎射した。


 またたく間に三射が放たれ、龐舒の前の歩兵隊が崩れる。龐舒はそれをさらに戟で突き崩しながら、敵の防衛線の中に入った。


 しかし、そのままでは当然囲まれる。呂布は龐舒の周辺に騎馬隊を突撃させ、それを阻んだ。


(しかし、もう出られんぞ)


 敵陣に単独で侵入してしまった弟子の背中に危ういものを感じるが、完全に離れてしまった。


 そして龐舒ももう戻れないことは分かっているのだろう。振り返らず、前だけを向いて猛進を続けた。


 その先に殿軍の指揮官がいる。


(確かにあれをやれば楽にはなるが……)


 呂布にも当然それは分かっているのだが、たどり着けるか。


 もしかしたらたどり着くことは出来るかもしれないが、その時には弟子の体は穴だらけになっているだろう。


「ちっ」


 呂布はまた舌打ちし、馬上で何度も弦を引いた。その指が離される度、龐舒の進行方向の兵が倒れる。速いだけでなく、強く、正確無比な射撃だった。


 が、龐舒が無事に指揮官のところへたどり着くまでには足らない。


 その直前で兵たちの槍衾やりぶすまに遭った。


「ああっ!!龐舒殿!!」


 と、叫んだのは呂布の隣りを走っていた部下だ。


 何本もの穂先に突かれ、龐舒が落馬したように見えたのだ。


 しかし、呂布の目にはもう少し違うものが映っていた。龐舒は突かれる直前、自ら後ろに倒れて馬を落ちたのだ。


 槍衾を出していた兵たちは誰も手応えを感じなかったが、誰か他の者の槍が当たったのだろうと思った。


 しかし龐舒は服が裂かれた程度で傷も負っていない。


 地面に足をついた瞬間、まりにでもなったかのように強く跳ねて馬の後を追った。


 何人かの兵は、落馬した敵が妙な方向に弾んだなと思った。しかしそれは明確な意思を持って自分たちの間をすり抜けようとする。


「……こいつ!!」


 と、声を上げて掴もうとした兵もいたが、その手は空振った。この速度で走る人間がいるとは思わず、想定の場所にはすでに龐舒の体がなかったのだ。


 龐舒はその勢いのまま跳び上がり、馬上の敵指揮官の首を剣で刎ねた。


 そしてその瞬間、血しぶきが上がるよりも早く呂布が叫んだ。


「お前たちの指揮官は倒れたぞ!!降伏する者は武器を捨てろ!!」


 その大音声で、必死に抵抗していた敵兵たちは後ろを振り返った。


 そして馬上に吹き上がる血しぶきを見て、一気に士気を下げる。


「抵抗する者には容赦せん!!突撃!!」


 武器を捨てろと言っておきながら、その余裕すら与えない突撃命令だった。


 むしろそれで焦った敵兵の多くは慌てて武器を捨て、呂布の騎馬隊に道をあけた。


 呂布はその先頭を走り、わずかにいた抵抗する兵を肉片にしていく。鬼が駆けていくようなその光景に、ほとんどの兵は抗戦を諦めた。


 呂布が突撃した先には金星を上げた弟子がいる。当然囲まれてはいたが、呂布の声はここにも届いていたから全ての兵が攻撃してくるわけではない。


 それで何とか持ちこたえられていた龐舒は、呂布の到着によってようやく息をつくことができた。


「呂布様!!……す、すいません……」


 師の憮然とした顔を見てすぐに謝った。上手くいったとはいえ、普通なら死んでいてもおかしくはない。


「謝る暇があったら早く馬に乗れ。追い討ちに討つぞ」


「はいっ」


 龐舒は歯切れの良い返事を返しながら馬まで走って飛び乗った。


 呂布は手早く降兵の処理を命じ、軍の大半を率いてまた駆け出した。


 いま破ったのは退却する本軍を逃がすための殿軍だ。それを突破したのだから、その先には背を向けた敵がいる。


 勝ち戦の追撃戦では呂布の言葉通り、追い討ちに討って戦果を拡大させるのが常道だ。


「袁術の軍なんてギッタギタにしてやりましょう!!」


「……ふん」


 龐舒は興奮を隠そうともせずそう言ったが、呂布の方は半ば苦笑するような気持ちで鼻を鳴らした。


 一時は政略結婚まで成立しそうになっていた呂布と袁術だが、その後は関係性が悪化している。


 そして今日の戦だ。


 原因は呂布が花嫁を送らなかったことだけではない。それに加えて、袁術の使者を曹操のところへ送ったことが大きかった。


 つまり呂布は袁術と手を切り、曹操と和解する道を選んだのだ。


 袁術は皇帝を自称しているわけだが、曹操はその皇帝を擁している。そんな所へ袁術からの使者を送ればどうなるか、火を見るより明らかだった。


「使者を処刑されて怒った袁術が攻めてくるぞ。どう責任を取ってくれるつもりだ?」


 呂布がそう尋ねたのは、玲綺の嫁入りを止めた張本人である陳珪チンケイに対してだ。


 呂布陣営は袁術と手を結ぶつもりだったのに、この男の言に従ってそれをやめて曹操に擦り寄った。その結果として激怒した袁術が軍を差し向けてきたのだ。


 予想されていた事とはいえ、戯れを含めてそのくらい言われても仕方がないだろう。


 しかしこの陳珪、なかなかの切れ者な上に、随分と腹の据わった男だった。


 誰もが恐れる呂布の言葉を笑って受け止め、さらに勝利を決定づける策まで披露してみせた。


「攻めてくる袁術軍は俄作にわかづくりの即席同盟軍です。物資さえ惜しまなければ、切り崩しはそう難しくはありますまい」


 陳珪の言う即席同盟軍というのはまさにその通りで、攻めてくる将たちの一部は最近袁術と提携したばかりの新参者だった。しかも食うに困ってそうしたという所もあったから、義理の情など微塵もない。


 さらに言えば、袁術が皇帝を僭称せんしょうしていることの危うさは誰もが知っている。


 陳珪の言に従って目いっぱいの物資提供を約束してやると、あっけないほど簡単に裏切りを約束した。


 袁術が呂布へと差し向けた軍勢は数万という大軍だったが、そんな状況で勝てるわけがない。戦場で友軍に寝返りを打たれ、大混乱におちいった。


 そこを呂布の騎馬隊に切り崩され、散々に打ち破られて今は退却戦を余儀なくされている。


「袁術が二度と立ち上がれなくなるくらい、ボッコボコにしてやりましょう!!」


 龐舒は荒い鼻息とともに、同じようなことを再び口にした。


 呂布はその様子を横目で見て、


(まぁ……仕方ないか)


と、軽く口の端を上げた。


 龐舒にとって袁術、というかその息子の袁燿は憎っくき恋敵に当たる。それを間接的にとはいえ、物理的にどつき回せるのだから気合が入るのも仕方ない。


(やや前のめりが過ぎるが……)


 そのせいで先ほどはあわや死ぬところだった。


 ただし、そのおかげで戦果を上げられたわけでもある。退却軍を守る殿軍を速やかに突破できたから、この追撃戦はかなりの大勝になるはずだ。


「このまま寿春じゅしゅん(袁術の本拠地)近くまで攻め込むぞ。物資も可能な限り鹵獲する」


 呂布は全軍に伝令を送り、実際にそれを実行した。寝返りを打たせるために投資をしているのだから、少しでも回収しておかなければならない。


 こうして袁術軍は呂布と寝返った味方によって蹂躙され、大敗した。


 多くの兵が川に追い込まれ、溺れ死んだ者は数知れない。


 その川との挟み撃ちの最中、龐舒は神経にさわるような既視感を覚えた。


 視界の隅を、何か不快なものが動いたような気がする。


(何だ?あれ……やたらと見栄えのする騎兵がいるけど……)


 それは光を放つほどの見事な武者姿の兵だった。


 龐舒は目を細め、それからその顔を認識するとすぐに馬首を巡らせて駆け出した。


 その騎兵はちょうど周囲の味方を崩され、殺されそうになっている所だった。そこへ龐舒が割り込む形で攻め入る。


 ガキィ!!


 という高い音がして、龐舒の戟と敵兵の鉾とがぶつかった。そしてそのまま武器の押し合いになる。


 その至近距離で、龐舒は小声で話しかけた。


「袁燿様……!!」


 名前を呼ばれた騎兵、袁燿は腕を震わせながら尋ね返した。


「……?な、なんだお前は?」


 龐舒は恋敵が自分の顔すら覚えていないことに苛立ちを覚えた。


 が、それは飲み込んで短く告げる。


「玲綺の、従者の」


「……っ!君か!」


 袁燿はどうやら思い出したようだった。


 しかし龐舒にとっては実際のところどうでもいい。小声のまま、素早く聞くべきことを聞いた。


「泳げますか?」


「な、何?」


「泳げますか!?」


 龐舒の苛立ちを肌に感じた袁燿は、急いで首を縦に振った。


 それを確認した龐舒は返事もせずに、戟を鉾に絡ませて巻き上げた。鉾は回転しながら落とされる。


 さらに腰の剣を吊っていた帯を斬り落としてから、石突きで突いて落馬させた。


 丸腰になった袁燿に、矢継ぎ早にさらなる戟を繰り出す。


「わっ!ひぃっ!」


 袁燿はその一撃ごとに殺されると思ったのだが、刃は体に届いていない。龐舒は器用に鎧だけに当て、剥ぎ取ってしまった。


 それからその鎧を穂先にかけ、周りの兵に投げてやる。


「ほら、割り入ってすまなかった!上等な鎧だから誰かの戦利品にしてくれ!剣も鉾も早いもの勝ちだぞ!」


 明らかな高級品に兵たちが群がっていく。龐舒はそれ横目に、さらに戟を何度も振った。


 一振りごとに袁燿の服が裂け、丸裸に近づいていく。


 最終的に下帯一つにしてやってから、龐舒は袁燿を石突で小突いた。


「川へ……」


 その小声でようやく龐舒の意図を理解した袁燿は、目だけで礼を述べてから回れ右した。そして全力で走り出す。


 他の兵たちに紛れ、水しぶきを上げて川へと飛び込んだ。


 流れはかなり早かったが、これが一番死ぬ可能性の低い方法だろう。せめて浮いていることが出来る程度に泳げるなら、負け戦の戦場に身を置くよりは生きられる可能性が高い。


 龐舒は流れていく袁燿を眺めながら、自分のやってしまったことに関して諸々考えた。


(僕は……何をしてるんだ?なんで逃がした?袁術の息子なんて、大将首じゃないか。なんで討たなかったんだ……)


 どう考えても自分の行動はおかしい。しかし、気づけばそうしていた。


 その理由を考えると、玲綺の笑顔が脳裏をよぎった。


(……玲綺の大切な人だから、殺したくないって思ったのか?)


 そんなふうに思う。


 恋敵ではあるものの、だからといって不幸になればいいとは思えない。それはきっと、自分の大切な人が悲しむことだからだ。


 そんなことを考えながら、馬を翻して師のもとへと戻る。


 勝っているとはいえ、激しい戦の最中だ。呂布は厳しい目で戦場を見渡している。


 そんな中でいきなり駆けていった弟子に、目も向けないまま短く尋ねた。


「どうした?」


 龐舒は一瞬怯えた顔をした。考えてもみれば、これは師を裏切る行動だったかもしれないと思ったのだ。


「あの……袁燿様がいて……」


「……!!殺したのか?」


「いえ……玲綺が悲しむ気がして……川に落とすだけにしてしまって……」


「…………」


 呂布は弟子の顔をチラリと確認すると、また戦場に目を戻した。


「生け捕りにすれば良かっただろう」


「…………ぁあ!!」


 龐舒はようやくそのことに思い至った。そして頭を抱える。


 当たり前といえば当たり前の選択ではある。しかしあの時の袁燿は兵に囲まれており、その死がまず脳裏をよぎったので思いつきもしなかったのだ。


(いや……もしかしたら玲綺に会わせたくないから無意識に生け捕りを避けたのか?)


 真偽はともかく、そんなことまで考えるともはや後悔は底知れない。


 呂布はそんな弟子へ助け舟を出してやった。


「……過ぎたことはもういい。それに息子を殺して袁術の恨みを買うより、あえて逃がすくらいの方が再提携の道が残されていいかもしれんしな」


「え?そ、それはちょっと……」


 龐舒としては、師が自分を気遣ってくれていることは分かる。


 しかし再提携で玲綺との縁談が再び持ち上がるのは絶対に嫌だった。


「それを避けたいなら、ここで袁術軍を徹底的に叩いておくことだな。こちらの方が強ければ、提携の条件もこちらが決められる」


「……はいっ!!じゃあ、徹底的にやっつけて来ます!!」


 龐舒は気合を入れ直し、敵に向かって突進して行った。


 そしてその言葉通り、この戦は呂布軍が袁術軍を徹底的に叩きのめして終わった。前述の通り、本拠地近くまで攻め込んで物資も多く鹵獲することが出来た。


 ここが袁術の建てた『ちゅう』という国にとって、最大の分岐点になったと思われる。


 袁術の皇帝即位に関してはほとんどの群雄が冷ややかな視線を送っていたわけだが、当然その後に勝利して勢いをつけられれば見る目も変わっただろう。


 しかし、袁術はいきなり負けた。


 呂布の徐州を併呑するどころか、返り討ちにあって一軍を殲滅された。


 ここで勝っていればもしかすると中国史が大きく塗り替えられ、歴史の教科書にも『仲』という国が太字で書かれていたかもしれない。


 が、それは呂布によって阻まれた。


 第一歩でつまづいては人心が離れるのも仕方ない。袁術からは離反する者が相次ぎ、この男の周りに今後良い話はほとんど無くなる。


「呂布様、もうこの際袁術とは絶交してやりましょう!そうだ、手紙!絶交の手紙を書いてやるんです!」


 戦勝後、奮戦のたかぶりでそんなことを言ってくる弟子に呂布はまた苦笑した。


 しかし、その気持ちも少しは理解できる。玲綺の嫁入りが止められたとはいえ、その後龐舒との結婚が決められたわけではないのだ。


 というのも、先日のことでもよく分かったが玲綺の結婚には外交的に大きな価値がある。ならば、せめてもう少し情勢が良くなるまでそれは一つの手段として取っておきたいというのが呂布陣営の願いだった。


(こいつにとっては気が気ではないのだろうな)


 生殺しな上に、明日には別の男へ嫁入りになるかもしれないのだ。そういう背景を思えば、この弟子の様子も納得できるものだった。


「手紙くらい書いてもいいかもしれんが」


「でしょう!?よかったら僕が文面を考えて……」


「まぁ待て。さすがに絶交などというわけにはいかん。またそのうち連絡を取ることもあるだろうと書いておく」


「そんな必要ありますか?こんな数万単位の大戦おおいくさを仕掛けられて」


「誰がいつ敵になって、いつ仲間になるか分からんのがこの乱世だ。俺と曹操だってそういう関係だしな」


「それはまぁ……そうですが……」


 三年前に呂布と曹操は兗州えんしゅうを巡って争ったが、今は近づこうとしている。


 呂布は袁術からの使者を曹操へ送ることで和解の意思を示し、曹操は呂布に左将軍という地位を与えることで懐柔をほのめかした。


 人と人との関係ほど表裏のひっくり返りやすいものもないが、この乱世ではそれがより容易になっている。


「もちろんあの曹操がこちらの思う通りに動いてくれることなど、まずないだろうが」


 師の言うことは龐舒にも理解できた。


 曹操という男はただ強いだけでなく、外交や政略にも極めて鋭敏な感覚を持っている。その言動を馬鹿正直にそのまま捉えることなど出来ない。


「曹操は、いつか攻めて来るでしょうか?」


「分からん。しかし何かしらの布石は打ってくるだろうな」


「布石、ですか……」


 龐舒は腕を組んで首を傾げ、天才の打つ手を考えてみた。が、まるで何も浮かばない。


「……僕みたいな凡人には想像もできませんね」


「あの男の思考など誰にも読めんさ。ただ……俺と曹操の間を考えると、どうしても頭に浮かんでくるものはあるな」


「何ですか、それは?」


「大耳だ」


「……大耳?」


 龐舒は意味の分からない単語を耳にして、傾げた首をさらに傾けた。


 それがまさか『劉備』という小群雄を指すとは思わず、なんの隠喩だろうかと必死に思考を巡らせた。

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