呂布の娘の嫁入り噺24

「何ニヤニヤしてんのよ、気持ち悪いわね」


 玲綺レイキは隣りで馬に揺られる龐舒ホウジョに対し、辛辣な言葉を浴びせかけた。


 しかし龐舒には一切こたえた様子がない。ニヤニヤ顔のまま適当な相槌を返した。


「えぇ?そう?」


 二人は馬を並べて山道を進んでいる。


 季節は秋だ。


 紅葉は美しいものの、天気はあいにくの曇り空だった。まだ夕方前というのに結構な暗さになっている。


 しかしそんな分厚い雲も、龐舒の表情を暗くさせることはできなかった。玲綺に気持ち悪いと言われたニヤニヤ顔を続けている。


(まぁ、理由は分かってるんだけどね)


 玲綺は小さなため息をついてから、それを指摘した。


「どうせまたお父様の噂を思い出してるんでしょ」


 龐舒はこのところ、その思い出し笑いばかりを繰り返していた。だからすぐに分かるのだ。


「そんなに何度もニヤけられるほど嬉しいこと?」


「んー?そりゃねぇ……だって『人中の呂布、馬中の赤兎セキト』だよ?こんな評を受けられる人間なんて、他にいないよ」


 龐舒たちが長安を脱出してから一年余りが経っているが、この頃の呂布の評判はそういうものだった。


 元々その豪勇から『飛将ひしょう』という二つ名のあった呂布だが、それに加えて今は『人中の呂布、馬中の赤兎』という謳い文句まで追加されている。


『数多いる人の中、馬の中での傑出した存在』


として呂布とその乗騎である赤兎馬が語られているわけだが、要は、


『天下無双』


という意味だと捉えてもさしたる違いはないだろう。


 呂布が長安を出た翌年にはすでにそのような文句が人の口の端に上っていた。


 といっても、それまでの道のりは順風と言えるものではない。


 呂布の率いる数百騎には税を取れる本拠地がないから、放浪軍のような立場にあった。


 補給のない軍は悲惨だ。食うためには略奪もせねばならない。


 だから呂布はあちこちの群雄の元を訪れ、陣借りのような形でその世話になった。


(呂布様、初めは袁術様の所に行ったんだよな)


 短期間とはいえ元同僚のよしみか、呂布はまずそこを選択した。袁術の親族を大量に処刑した董卓を呂布が討った、ということも厚遇を期待した一因だろう。


 しかし袁術は冷たかった。呂布を積極的に追い払おうとはしないものの、あからさまにうとんでいた。


 それも仕方のない話で、事実として呂布は裏切りを繰り返している。自分を引き立ててくれた丁原、董卓を立て続けに殺したのだ。信頼を得られなくて当然だろう。


 しかも呂布は『仕えたい』と言って来たのではなく、『ちょっと軒先を貸してくれ』と言って来ているのだから扱いに困る。虎に軒先にいられても恐ろしいばかりだ。


 それで呂布とその軍は袁術の元を離れ、さらにあちこちの群雄を回った。


 ちなみにこの回った順序が史書によって異なるのだが、要はこの間の呂布はそれもよく分からなくなるほど転々とせざるを得なかったのではなかろうか。


 なんにせよ、呂布の軍は恐れられながら放浪する羽目になった。


 龐舒はその噂を聞いた時、呂布を邪険にした群雄たちを心の中で罵った。


(ものの価値が分かってないな。いざ戦となったら呂布様の強さは凄まじく頼りになるんだぞ)


 それが証明されたのが、袁紹の元を訪れていた時だ。


 袁紹はこの時、四方に敵を抱えて奮戦していた。戦力になるのなら猫の手でも借りたい。


 それで陣借りしに来た呂布を使い、黒山賊という冀州きしゅうの軍勢に当たらせた。


 黒山賊はその語感からただの一山賊と思われがちだが、実際には後漢王朝が『討伐は無理』と諦めてその実効支配を認めたほどの大勢力だ。


 誇張はあるだろうが、最盛期には百万人の勢力を誇ったとまで言われる。かの黄巾の乱が三十六万人とされているから、後漢王朝の弱腰も納得できるものだろう。


 その黄巾の乱とは違い、黒山賊は後漢王朝に形式上は降伏をしてみせたから、公的な立場を得て存続できていた。


 そして今は乱世の一勢力として、北の雄・公孫瓚コウソンサンと結び袁紹を潰しにかかっている。


 黒山賊は呂布の参戦した戦において、一万にも及ぶ精鋭歩兵と数千騎の騎兵を動員したという。


 対する呂布が長安を出た時に率いていたのは、たったの数百騎だ。


 しかしこの呂布の働きによって、黒山賊は敗北を喫することになった。


(赤兎に乗った呂布様が防壁も堀も飛び越えて、一日にいくつも陣地を落としていったって話だったな)


 龐舒は何度も想像したその姿をまた思い浮かべ、ニヤニヤを強くした。


 そうやって呂布の騎馬隊は一日に何度も突撃を繰り返し、十日あまりで黒山賊の軍を敗走させた。


 その働きがこれほどの評判になっているのだから、黒山賊の兵たちは呂布軍の強さを前に恐慌状態になっていたのかもしれない。


『来れば必ず殺される』


 そんな騎馬隊が敵にいれば、兵たちの崩れは早い。呂布が来たら問答無用で逃げた方がいいからだ。


 哀れ黒山賊は手ひどい敗けに内部分裂でも起こしたのか、この後は勢力の大部分が離散して完全に衰えてしまう。


 八年後に曹操に帰順するまで独立勢力としてあり続けるものの、実質的にはこの時呂布によって潰されたようなものだ。


(百万の勢力を数百騎の呂布様が潰したんだから、『人中の呂布』ってのはその通りだよね)


 別に百万人を数百人で倒したわけではないのだが、師のことを推しまくる龐舒はそんなふうにまで思ってしまった。


 ただ実際、龐舒の誇張を抜いても凄まじい戦果であったことは間違いないのだろう。


 呂布の武勇は世に知れ渡った。


「早く五年経たないかな」


 龐舒は極めて上機嫌にそうつぶやいてから、ふと気づいて訂正する。


「あ、もう一年以上経ってるから四年もないか」


 細かく刻んでくる龐舒に、玲綺はうんざりした声を上げた。


「そんなにお父様が恋しい?」


「恋しいっていうか、やっぱり会いたいよね。玲綺だってそうでしょ?」


「それはそうだけど……」


 玲綺は否定はしないものの、心の奥底に自分でも説明しきらない不満が渦巻いていた。


 そういうことを言いたいのではないのだ。


(私が何をしてあげたって、そんな嬉しそうな顔はしないじゃない!)


 そんなことを考えてしまったものの、そんなことを口にはできない。


 だから別の言い方をした。


「……私、四年後にはもう二十二になっちゃうわね」


 玲綺は今十八で、四を足すと二十二だ。


 結婚の早い時代だから、二十二はもう行き遅れだと言われてもおかしくはない。


 しかし龐舒はそんな事実には目を向けず、当たり前の事実を返した。


「そうだねぇ、僕は二十四になるよ」


 その回答に、玲綺はあからさまに不機嫌そうな顔をした。


 が、上機嫌な龐舒は気づかない。鼻歌でも歌い出しそうな顔をして馬を進め続ける。


 玲綺はそれを横目に睨んでから、苛立ちをため息に乗せて吐き出した。


 この一年、玲綺たちは以前住んでいた并州の片田舎で暮らしている。南匈奴によって街を追い出された後に住んでいた村だ。


 この周辺地域は大して裕福でもないが、いくつかの村で連帯して強力な自警団が組織されている。それによって乱世でも一応の安定を保てていた。


 三人は以前ここに住んでいたということもあり、すんなりとまた受け入れてもらえた。


 しかも龐舒と玲綺の二人は恐ろしく強い。普段は農業なども手伝っているが、自警団員として大変重宝されていた。


 魏夫人も自警団の炊き出しなどがあった時にはその料理の腕を喜ばれている。


 龐舒と玲綺が今こうして馬を並べているのも自警団の仕事帰りだ。


 今朝、近隣の村に十人ばかりの賊が現れ、穀物が奪われた。


 自警団が駆けつけるとすぐに逃げたので被害は大したことなかったのだが、放置しておくと次の賊を招く。


『ここを襲うのは割に合わない』


 そう思わせることが肝要だ。


 それで玲綺と龐舒の二人は少し深くまで賊を追い、三人だけ生かして残りを全て斬った。皆殺しにしなかったのは、自警団の怖さを吹聴させた方が得になるからだ。


「あいつら、もう来ないかしら?」


 玲綺はいったん龐舒への苛立ちをしまい、そう懸念を漏らした。


 しかし龐舒の方はその点について何も心配していない。むしろ玲綺の発言に苦笑した。


「……あれだけ怖い思いをさせたらもう来ないでしょ」


「そりゃまぁ、ちょっとばかり脅しはしたけどね」


「ちょっと?」


 玲綺の言うことに、龐舒は苦笑を深くせざるをえなかった。


 玲綺は生き残らせた賊三人を縛り上げ、その目の前で剣を何度も振ってみせた。


 と言っても、別にただ剣技を見せつけたわけではない。その一振りごとに賊の皮膚が一寸ずつ斬られていったのだ。


 その直前には仲間のほとんどが殺されている。その上でこのような事をされ、賊たちは生きた心地がしなかっただろう。


 しかも玲綺は罵るでもなく、何かを要求するでもなく、ただ無言でそれを何回も、いや、何十回も繰り返すのだ。


 数十カ所の傷を受けた賊たちは恐怖のあまり、三人中二人が失神し、一人が失禁した。


 玲綺はその時の顔を思い出し、次に龐舒の顔を見てからポツリとつぶやいた。


「……こんな怖い女、嫁の貰い手なんかないわよね」


 ふと自分を顧みて、そんなふうに思うことがあった。自分の行動を客観的に見た時、自分でも唖然としてしまう時があるのだ。


 それは玲綺にとって結構大きな悩みだったのだが、龐舒は軽く笑って応じた。


「ええ?そんな事ないよ。むしろ玲綺なら、どんな男だって結婚したいって思うんじゃない?」


(こいつ……たまにこうやって無邪気に人のことドキリとさせるのよね……)


 玲綺は少し顔を熱くしながら答えた。


「いや、やってることを考えてみてよ。完全にヤバい女じゃない」


「でも玲綺は現実をちゃんと見て、それに向き合って対処してるだけじゃないか。それって偉いし、強くないと出来ないことだよ」


(それを分かってくれるのなんて、あんたぐらいなのよ!!)


 と、玲綺はそう思ったが口には出さない。完全に顔を赤くして押し黙った。


 玲綺は完全に龐舒を異性として意識していた。それは魏夫人の妙な策略によるところも大きい。


 色々な手段で二人を触れ合わせたり、意識させたりしてくるのだ。そのやり方があまりに不器用でバレバレなことも多いので、二人も一時は怒っていた。


 しかし、やめてくれと言われた魏夫人は、


「さぁ、なんのことかしら?」


と、明後日の方を向いて口笛まで吹き始めるのだ。


 その不器用なごまかし方が可愛くて、二人はつい許してしまう。


 それに玲綺には魏夫人が母として言い聞かせる、


『夫としてこれほど良い人はいない』


という言葉も真実だと分かるのだ。


 龐舒は優しく穏やかで、働き者だ。家事もできるし、金遣いも荒くない。ごくごく真面目で、女関係の心配をする必要もないだろう。


 現実に、こういう男はなかなかいないものだ。


(それに、龐舒の前ではありのままの自分でいられる)


 それは何にでもなれる玲綺にとって、とても嬉しいことだった。どういう自分にもなれるから、逆にありのままが受け入れてもらえる喜びは大きい。


 もちろん人間というものは常に何かしらの仮面を被っているものだから、『ありのままの自分』などというものは本質的に存在し得ないだろう。


 それでもさしたる我慢もない言動を受け入れてくれる異性の安心感は、配偶者という視点から見た時には輝かんばかりの価値を現すのだった。


(袁燿様の時みたいなトキメキがあるわけじゃないけどね)


 若い玲綺にとって、そういった事も当然小さくはない。


 しかしトキメキと安心感は多くの場合、二項対立に近いようなところがある。


 そして配偶者という関係性を考慮すれば、後者のほうが圧倒的に価値を持つのだということも賢い玲綺には理解できた。


 ただ、そこまで自分のことを分析できている玲綺は、袁燿を落とそうとした時のような積極的行動を取らなかった。


 理由は単純だ。そしてそれこそが玲綺にとって、極めて腹立たしい事実でもある。


(こいつ、絶対私に惚れてるわよね)


 自惚うぬぼれでなく、客観的に見てそう思うのだ。玲綺くらい現実がよく見える人間にとって、それはもはや確信を持って言い切れるほどの真実だった。


 にも関わらず、龐舒は一切自分に対して言い寄ってこない。口説こうとする気配など、微塵もない。


 玲綺にはそれが腹立たしかった。


(もう惚れられてるんだからこれ以上どうしょうもないじゃない。お母様がいくらお膳立てしても全然進展させようとしないし)


 そのことでまた苛立ちを再開させ始めた時、玲綺の額に冷たいものがポツリと落ちた。


「……雨?」


 玲綺は急に暗さを増した空を見上げた。


 初めはポツリ、ポツリだった雨粒はほんの十数秒で本降りとなり、数十秒もすると視界が悪くなるほどの土砂降りになった。


 龐舒は首をすくめて手綱を絞った。


「わわわっ、こりゃすごいな!」


「ちょっとこのままじゃ進めないわね!どこかで雨宿りしないと!」


「えーっと……そうだ、確かこっちに……来て!」


 龐舒は山道を少しだけ戻り、そこから草をかき分けて山の中に入っていった。玲綺もそれを追いかける。


 二人はしばらく獣道のようなところを進んだが、少し行くと急に視界が開けた。


 広くはない空間だったが、杉の大木を中心にしてその周囲だけ木が伐採してある。その根本には小さな小屋が建てられていた。


 大木の下に入ると雨もほとんど落ちてこない。二人はそこに馬をつなぎ、小屋へと入った。


 簡素な作りの小屋だったが、板の間だけでも二、三人が寝起きできそうな広さはある。土間にはかまどもあって、火が起こせるようになっていた。


 玲綺は土間に立つと、ずぶ濡れになった髪を握って雨水を絞った。


「何、ここ?よくこんな所知ってたわね」


「村の猟師の人から、山には猟で使う小屋がいくつかあるって話を聞いたことがあったんだ。山道に目印の紐が巻いてあって、そこから少し入るとあるんだって」


 龐舒は少し前にそれらしき紐を見つけており、そこから言われた通り少し入ってみたのだった。


「もし必要な時があったら使っていいって言ってくれてたし、少し休ませてもらおう」


「そうね、ありがたいわ。でもすぐに止むかしら?」


「どうだろう……?急だから初めは通り雨かと思ったけど、それにしちゃ結構長いよね」


 龐舒は外の雨足を眺め、すぐに遠のきそうにはないと判断した。


「しばらく続きそうだから、とりあえず火を起こすよ。もう結構寒くなってきたし、このままじゃ風邪ひいちゃう」


 そう言って土間に積まれていた薪をかまどへ放り込み、火を起こしにかかる。


 この時代の発火法には太陽の力を使う凹面鏡の陽燧ようすいと、木と木の摩擦で火を付ける木燧ぼくすいという道具があったという。


 今は太陽どころか晴れ間すら出ていないので、龐舒は木燧を用いて火を起こした。


 それが十分薪に移ってから振り返る。


 そして、度肝を抜かれた。


 そこには服をすべて脱いだ、全裸の玲綺が立っていた。

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