呂布の娘の嫁入り噺21

 玲綺は自宅の居間で、壁と母親を背にして剣を構えていた。


 その目元には焦りが浮かび、口元は歯ぎしりするほどに噛み締められている。


 自分を囲む五人の男たちに、隙が見当たらなかったからだ。


 血脂の巻いた剣を軽く揺らしてみるが、敵は動いてくれない。やや遠巻きに玲綺と魏夫人を包囲し、下手に手を出すことを避けていた。


「お嬢様……悪いようにはいたしませんから、どうか武器を置いてください」


 と言う男の丁寧な言葉遣いを、玲綺は信じなかった。


 つい今朝まで、この男は父の選んだ信頼できる護衛だった。ただしそれは敗戦が決まるまでのことで、城門が破られてしまうと途端に敵に変わった。


 その男だけではない。十人の兵が護衛に付けられていたが、その全てが敗戦と同時に玲綺と魏夫人とを拘束すべく動き始めたのだ。


(変わり身が早すぎる。多分、あらかじめ仲間内でそうするって話に決まってたのね)


 敗戦の報が届いた時、玲綺は自室に一人でいた。


 そこへ五人の兵が押し入ってきて、玲綺を縛り上げようとしたのだ。


 玲綺は開戦後、常に剣を帯びることにしている。それでその五人の兵たちは斬り捨てることができた。


 と言っても、言うほど簡単なことではなかった。護衛は呂布自らが選んだ手練だったため、それを一対五で倒すのはかなりの大仕事となった。


 それなのに今は戦闘力のない母親を背後にして、それを守りながら戦わざるを得ない状況に陥っている。


(お母様を助けようとしてすぐに飛び込んだのがいけなかった……もう少し様子を見て、どこかで奇襲するのが正解だったわ)


 そういう自省は今後の役に立つことではあったが、それも今後の人生があればこそだ。


「悪いようにはしないって、どうするつもり?敵軍は董卓の仇討ちも戦の理由にしてるのよ。うちなんて、九族皆殺しに決まってるじゃない」


 男は玲綺の言葉に対し、適当な希望的観測を言うことはなかった。これでも護衛として短期間だが親しんだ仲なのだ。


 だから自分の思う、二人のためになることを伝えた。


「ここで我らに斬られるよりは、敵の将に命乞いをした方がまだ助かる可能性があります」


「へぇ……でも、あなたたちを全員斬って逃げる方がよっぽど可能性高いと思うけど」


 その回答に、男の目は猫のようにすっと細められた。


 視線にどこか残忍さが乗ったようにも思える。


「ならば、そうして見せればいい」


 男は正眼に構えていた剣を上げ、上段に変えた。より攻撃的な構えだ。


 相変わらず五人に隙はない。


 玲綺は強がってみせたが、ここまでの手練にきれいに囲まれ、しかも守るべき人間を背後に抱えていては勝てようはずもない。


(せめて何かきっかけがあれば……)


 玲綺がそう思った時、部屋の中に軽い足音が飛び込んできた。


 そしてその直後、一人の兵の足元で獣の唸り声が上がる。


 貂蝉チョウセンが兵に噛み付いたのだ。


「うわっ……!!」


 ペキニーズは小型犬とはいえ、本気で噛めば肉を食いちぎる程度の咬合力はある。


 噛まれた兵は慌てて足を振った。


 が、その時には玲綺の突きによって絶命している。剣の切っ先は喉のど真ん中を突いていた。


 突いたからには引かなければならないのが刺突だが、玲綺はそうしない。


 その兵の首を裂きながら横に振り、隣りの兵の頸動脈も一緒に斬った。元々そのつもりで剣を水平にして突いていた。

 

(偉いわよ貂蝉!後でたくさんナデナデしてあげる!)


 ツンとした貂蝉がそれを喜ぶかどうかは分からないが、少なくとも普段からそうしていた自分のことは大切に思ってくれているはずだ。だから自分の敵である兵に躊躇なく噛み付いたのだろう。


 玲綺は思わぬ援軍に感謝しながら、さらに横の兵へと向かった。先ほど言葉をかわしていた男だ。


 上段から来る斬撃を、剣を横に振って弾く。本当は武器を持つ手を斬りつけるつもりだったのだが、簡単にそうさせてもらえるほど甘い相手ではなかった。


 それで男が手を引いた結果として剣を弾く形になったのだが、玲綺としてはそれならそれで構わない。剣の軌道を変える技術には自信があった。


 ヒュッ


 と高い音がして、玲綺の刀身はまるで燕が翻るように曲がった。相手の剣が戻ってくるよりも圧倒的に速い速度で斬撃を追加する。


 男はあまりの鋭さに身を引くこともできなかった。先ほどの二人と同様、首を切られて血しぶきを上げた。


(あと二人、勝てる!!)


 そう思った玲綺だったが、すぐに自分の考えを改めざるを得なくなった。


 というのも、二人のうち一人が迷わず魏夫人へと向かったからだ。人質にするつもりだろう。


 もう一人がそれを援護するように立ちはだかる。


(それが一番嫌なのよ!)


 玲綺は焦った。


 母を人質に取られたら、自分は間違いなく動けなくなる。


 だからそれだけは避けなければならなかった。


(ちょっと無理するしかないか……)


 玲綺は即座にそう判断し、軽く体を屈めた。


 そして全身のバネを使い、敵に向かって跳ぶ。


 急加速した玲綺の剣は、手前の兵の腹を貫通して柄のところまで刺さった。


 そこまではいい。そこまではいいのだが、このままさらに向こうの敵に追いつくには、剣を離さなければならない。抜いている暇などないからだ。


(丸腰でぶつかってやる!!)


 それは剣を持った敵に対する戦法としては、かなり危険なものだろう。


 実際、速いとはいえ一度前面の兵にぶつかって速度を落とした玲綺に、兵はしっかりと反応した。


 振り返りざまに剣を振り、突っ込んでくる玲綺の頭を叩き割ろうとする。


(ぎりぎり当たるけど……)


 玲綺は傷を覚悟した。


 恐らく身をよじっても剣は自分へと届く。直感的に顔の半分、左目から頬にかけてをやや深めに斬られると思った。


 しかし、たとえ隻眼になっても死ぬよりは良いだろう。


 そういう暗い覚悟を決めた時、玲綺の体は斜め前に飛んだ。


 己の意思で飛んだのではない。何かにぶつかられて弾き飛ばされたのだ。


 そして先ほどまで玲綺の頭があった場所を予定通りの斬撃が走った。そこには玲綺の代わりに別の頭があった。


「龐舒!?」


 龐舒の横っ面が斬り裂かれていた。左耳が半分に割られ、頬もざっくりと斬られている。


 しかし龐舒はその傷に一寸の動揺も見せなかった。


 血の雫を飛ばしながら、先ほどの玲綺よりもさらに速い踏み込みで抜き打ちを放つ。


「はぁっ!!」


 龐舒の剣は兵の胸を斬り上げ、一撃で絶命させた。


「玲綺、大丈夫!?奥様も怪我はありませんか!?」


 血をドクドクと流しながらそう尋ねる龐舒に、玲綺はまず唖然とした。


 それから思わず大声で罵ってしまった。


「ば……馬っ鹿じゃないの!?そんな大怪我してて、人の心配してる場合!?」


 どう見ても相当な痛みのはずだが、本人はまるで構う様子がない。


「僕は平気だよ」


「平気なわけないでしょ!耳が半分に裂けてるわよ!?ほっぺの傷もかなり深いじゃない!」


 玲綺は懐から布を出し、急いで龐舒の横顔に当てた。


「なんでこんな無茶するのよ」


「なんでって……玲綺が危ないところだったじゃないか」


「私一人でもやれたわよ。勝ち筋は見えてたもの」


「でも、あのままじゃ顔を斬られてたよ」


「代わりに龐舒の顔が斬られたじゃない」


「いいんだよ僕の顔くらい。玲綺の綺麗な顔を傷つけるわけにはいかないじゃないか」


 戦闘後の興奮のせいか、龐舒は恥ずかしげもなくそう言った。


 それを受け、玲綺の顔は耳まで赤くなってしまった。


 龐舒とはあまりに身近すぎる関係だから、こんなことを言われると逆にドキリとしてしまう。


「ば……馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!!」


 ついまた罵りながら、片手で何度も龐舒の背中を叩いた。


「ちょっ……なんだよ……」


 そんな二人の間に魏夫人が入り、娘から血の染みた布を奪った。


 その片手には、部屋の棚から取ってきた裁縫道具がある。


「とりあえず、応急処置で縫いましょう。座って」


「いや、それよりも早く逃げないと……」


「そんなので動き続けたらすぐに倒れちゃうわよ。いいから座って」


 魏夫人に肩を強く押さえられ、龐舒はやむなく座った。


「ちょっと痛むけど、我慢してね」


 そう断ってから、頬から耳にかけてを絹糸で縫っていく。


 その手さばきに玲綺は感心した。


「お母様すごい……なんだか手慣れてるけど、こういう経験があるの?」


「そりゃあの人の妻をやってるんですから。あなたが生まれる前にはたまにこんな事もしてたわよ」


「へぇ、お父様でも縫うような怪我をすることがあったんだ」


「いいえ、喧嘩のお相手の怪我よ。あの人、昔は手加減が下手でよくやり過ぎてたの」


 玲綺と龐舒はそれを聞いて苦笑した。


 確かに呂布は怪我させる方専門だろう。


「龐舒ちゃん、今笑わないで。縫ってるところが動いちゃう」


「ご、ごめんなさい」


「ううん、謝らないといけないのはこっちよ。ごめんなさいね、私たちのためにこんな怪我させちゃって」


「このくらいどうってことありませんよ。僕は呂布様に、二人を五年間守るって誓いましたから」


「五年?」


「ええ、五年です。その間、翼の生えた虎が思うままに天地を翔び回るんです。想像するだけでワクワクしませんか?」


 笑うなと言われた端から、龐舒はまたにんまりと笑ってしまった。


 それがいかにも嬉しそうで、魏夫人と玲綺もつられて頬を緩める。


「ふふっ……よく分からないけど、五年間あの人の好きにさせてあげるってことでいいのかしら?」


「ええ、呂布様は五年後に僕たちを胸張って迎えてくれるそうです」


「まぁ、それは楽しみね。じゃあ私たちはそれまで元気でいないと」


「ええ、絶対にこの状況を生き抜きますよ。そのための方策は考えていますから、僕に任せてください」


 龐舒の傷は縫われた後、ベッタリと膏薬を塗ってから包帯を巻かれた。とりあえず出来ることといったらこの程度だろう。


 それから三人は手早く荷物をまとめた。


 と言っても、実は龐舒があらかじめ避難用の荷物を用意していたため、それは本当に短時間で終わった。


 当面必要な生活道具や食料、小さくて価値のある玉などをまとめて包んでいたのだ。


「奥様に内緒で蔵の絹や穀物を宝石なんかに換えておきました。呂布様の許可は得てたんですが、秘密にしていて申し訳ありません」


 家計を預かっているのは魏夫人だったが、現物の管理は龐舒が担当していた。それを利用して、言ってみれば横領のようなことをしていたのだ。


「それはいいけど、なんで秘密にしてたの?言ってくれれば私だって止めなかったわよ?」


「護衛たちに知られないようにするためです。どこからどう漏れるか分かりませんから。実はどういう処理をしたかは呂布様にもお話ししていません」


 呂布は『もしもの備え』『家族のため』という二点だけ聞いて、全資産の処理を許可してくれた。


 あまりに危険な会計処理ではあるが、任された方は信用に応えようとやたらやる気が出た。


「ちょっと派手に使っちゃったから驚かれるかもしれませんが……」


「え?宝石に換える以外にも何かしたの?」


「とにかく急ぎましょう」


 三人は準備が整うと、急いで家を出た。


 城門が破られたのだから、もういつ敵兵が来てもおかしくはない。そう遠くないところで略奪が行われているような声も聞こえてくる。


 もちろん敵としては帝を押さえるのが第一目標ではあるはずだ。しかし全ての兵がその通りに動いてくれるわけではないだろうし、他とかぶりにくい手柄を求めて呂布の家族を拘束しに来る兵がいてもおかしくはない。


 魏夫人と玲綺、そして貂蝉は龐舒に先導されて長安の街を走った。


 すれ違う人間はあまりいない。ほとんどの住民は兵たちからの暴行を受けないよう、家に立てこもっているようだ。戸に板を打ち付けている家も多かった。


 そんな中、三人と一匹は一つの建物にたどり着いた。


「ここです。いざという時のために、この家を買っておいたんです」


 龐舒が足を止めたのは、パッと見なんのことはない普通の屋敷の前だ。ただし、立地が少し特殊ではある。


 魏夫人がそれに気づいて驚きの声を上げた。


「こ、ここに避難するの?ここのお隣りって確か……李傕リカクっていう人のお屋敷じゃない?」


 李傕は長安を攻めている大将の一人だ。


 敵から逃げなければならないのに、敵の頭の隣家に逃げ込むのか。


「だからこそですよ。きっと今から街では略奪が起きますけど、李傕の屋敷周りは狙われないはずです」


 玲綺も魏夫人も驚きはしたが、なるほどとも思った。確かにこの周辺ほど安全なところはないだろう。


 李傕もそうだが、ある程度の将になると外に配置されている者でも長安に屋敷があって、家族を住まわせていることが多かった。


「半月ほど前にちょうどこの家が売りに出されてて、これは買っておかないとと思ったんです」


「開戦後もご家族は住まれてるのかしら?」


「そうらしいです。見せしめに家族が殺される場合も多いでしょうが、今回は和睦の可能性も考慮して自宅に軟禁されているだけという話でした」


 ならば敵兵たちも気を遣って襲わないはずだ。もしかしたら、一目散にここへ来て家族を保護するかもしれない。


「これが敵将の家か……」


 玲綺は李傕の屋敷を塀越しに眺め、ふと気になるものを見つけてその屋根を指さした。


「あれ、何かしら?」


 屋根に何やら怪しげな彫像が飾られている。獣とも人とも取れる像で、不気味だがどこか神々しさも感じられるものだった。


「さあ?分からないけど、李傕は邪教を崇拝してるって話だったよ。その御神体じゃないかな?」


「邪教……」


 玲綺は見るからに嫌そうな顔をした。


 超現実主義者の父に育てられたこの娘は、宗教全般に対して冷淡な印象しか持っていない。そこへさらに邪教と言われれば、不快以外を表明しようがなかった。


「とにかく家に入ろう。しばらく暮らせるだけの食料もあるから」


 三人と一匹は門をくぐり、屋敷へと上がった。


 基本空き家なので家具はほとんど無かったが、奥に行くと龐舒の言う通り食料などが運び込まれていた。寝具もある。


 その準備の良さに魏夫人が感心した。


「龐舒ちゃんすごい。本当に気が利くわね」


「普通に食べても半月くらいは保つ量を買ってます。物不足だからすごく高かったですけど……」


「いいわよいくらでも。ほとんどの資産は捨てることになっちゃったわけだし。それよりありがとね、頑張ってくれて」


 魏夫人は龐舒の労をねぎらってから、娘の方を向いた。


「玲ちゃん、旦那さんにするならこういう頼りになる人がいいわよ」


「なっ……!?」


 玲綺は言葉をつまらせ、珍しくうろたえた表情を見せた。


 龐舒もその向かいで同じような顔になっている。


「お、お母様……変なこと言わないでよ……」


「別に変なことじゃないでしょ。私は二人がそうなればいいなって、ずっと思ってたわよ」


 その言葉に、二人の顔はいっそう赤みを増した。


 何を言っていいか分からなくなった二人はうつむき、無言で床を見つめた。しかし段々とその空気に耐えられなくなって、同時に視線を上げる。


 そうすると今度は目がばっちり合ってしまった。それで急いでまたうつむき、床を見つめ始める。


 二人を繋ぐ線上に気まずい空気が流れた。しかしその只中にいるはずの魏夫人だけはどこか満足そうな、どこか人の悪そうな顔をしていた。


(ふふふ……これはまたとない絶好の機会だわ。玲ちゃんったら、龐舒ちゃんに守ってもらってドキドキしてたみたいだし、今なら押せばくっつきそう)


 魏夫人は二人の縁談を成立させるため、こういう機会を虎視眈々と狙っていたのだ。それがようやくやって来た。


(しかもお邪魔虫なあの人が五年もいないんだから、この機会を逃す手はないわ。あの人『もし玲綺を嫁にしたければ、まず俺を倒してみろ』とか無茶なこと言ってたらしいじゃない。龐舒ちゃんほど善い男の子なんて、なかなかいないのに)


 姑の立場からすると、龐舒ほど婿としてありがたい男はいない。


 穏やかで優しいし、家事もしてくれる。忍耐強いし、お金にもきれいだ。しかも今日のように、家族にとって非常に頼りになる。


(あの人がいない五年の間に既成事実を作って、それで押し通すのが正解だわ)


 魏夫人は己の中でそういう結論に達した。


 しかも、もしそれが叶えば自分は孫を抱けるということになる。


(孫?……孫……孫……欲しい!!)


 子供好きな魏夫人はそう思い至り、俄然やる気を出した。


 そして二人の仲を推し進めるための言葉を必死で考え、口にしようとする。


 が、魏夫人の口は開いたものの、言葉は出て来なかった。ちょうどその瞬間に女性の悲鳴が聞こえてきたからだ。


 声の大きさからして、悲鳴は隣家で上がったもののようだ。


 しかもそちらは、李傕の屋敷がある方だった。

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