呂布の娘の嫁入り噺20

 三国志といえば、武将同士が一対一で戦う華やかな一騎打ちを思い浮かべる人が多いだろう。


 しかし最も基本的な史書である正史三国志に記載されている一騎打ちは、注釈に引用されているものを含めても本当に少ない。


 もちろん史書に残されているものが全てではないはずたが、現代において『どうやらあったらしい』と言えるほどのものはそう多くないのだ。


 そんな史書には珍しい一騎打ちの一つが、龐舒の目の前で行われていた。


(あの郭汜カクシって人も弱くはないけど……呂布様が相手じゃどうしようもないよな)


 相手の将に対して、つい同情心を抱いてしまった。


 長安の城北にて、呂布と郭汜が一対一で鉾を交えている。龐舒はそれを少し離れたところで眺めていた。


 郭汜の従者たちも龐舒と同じように、少し距離をあけて見守っている。そしてさらに離れた所で両軍の兵士たちが観戦していた。


 郭汜が率いている軍は、董卓の残党である涼州兵たちが主力になっている。そして呂布の方は、それから長安の街を守る官兵たちだ。


 この二者により長安と帝、そして今後の覇権を争う戦が起こっていた。


 そしてその最中、呂布の呼びかけで両軍の将による一騎打ちが実現したのだ。


れる)


 と、龐舒が思った瞬間に呂布が鉾を振った。


 しかしその刃は郭汜の命を奪わず、肩を軽く裂いただけだった。


 別に呂布の調子が悪いわけではない。先ほどからずっと同じように、仕留められる時に仕留めず、小さな傷をつけ続けているのだ。


 服や鎧のあちこちが斬られているから、このままでは裸になってしまうかもしれない。


(少し可愛そうだな)


 優しい龐舒はまた郭汜に対して同情してしまった。言ってみれば、なぶられているようなものだ。


 相手の従者の顔を見ると、郭汜が危なくなる度にひどくヤキモチした表情になっている。逆の立場なら気が気ではないだろう。


 そして、郭汜自身もこの状況にしびれを切らしたらしい。馬の腹を強く蹴り、少々強引すぎる突撃をしてみせた。


「ふん」


 呂布は面白くもなさそうに鼻を鳴らし、鉾を小さく動かした。


 それで渾身の突きは力の向きを変えられ、しかも鉾の柄は郭汜の手元から弾け飛んだ。


 呂布はそれで頃合いだと思ったのか、郭汜の体の中心を強く突いた。


 ただし刺し殺しはしない。石突の部分で突き、落馬させた。


 従者たちは派手に飛ばされて落ちた郭汜のもとへ慌てて向かった。どう見ても完全に勝負はついており、急いで主人を避難させなければ殺されるだけだ。


 呂布は仰向けになった郭汜へと鉾の切っ先を突きつけた。ただし、やはり本当に突きはしない。


 馬上から恐怖に歪んだ顔を眺めつつ、相変わらずつまらなさそうな顔をしているだけだった。


 そこへ従者たちが駆けつけ、郭汜の両肩を抱えるようにして下がっていく。


 呂布はごく短時間だけそれを見送ってから、長安の城内へと戻って行った。


 城壁の上では兵たちが歓声が上げてそれを迎えた。それとは対照的に、郭汜の軍の方はお通夜のような雰囲気になっている。


「呂布様、お疲れさまでした」


 城門をくぐりながら、龐舒は師を労った。


「ふん……こういうのは好きではないが、仕方ない。殺しても敵の戦意を高揚させるだけだからな」


 呂布はそういう意図で郭汜を殺さなかった。


 郭汜自身が非常に有能で、しかも兵にとって無二の存在というのなら殺しがいもある。しかしそうではない以上、指揮官を殺された怒りで戦意を高揚されるだけ損なのだ。


 龐舒も師の意図することは理解していた。


「上手くいったと思いますよ。こっちの士気は上がって、向こうの士気は下がりました」


 それはそうなのだが、呂布はそのことに欠片も喜びを見いだせなかった。


「何をやったところで焼け石に水だがな。どうあがいても勝てる戦ではない」


 呂布の結論はそうだった。


 そして、現状は龐舒の目から見てもそう思えるものだった。


 敵とは戦力差がありすぎるのだ。その具体的な数字の差はもう、龐舒にもよく分からない。


「……敵は今、何万人いるんでしょうか?」


「考えるだけ無駄だな。こちらがあらがいようもないほど多い、としか言えん」


 呂布の言葉通り、検討する意味もないほどに敵兵の数は多かった。


 その責は全て、とまでは言わないものの、大部分が王允オウインに帰するべきものだった。


 董卓の死後、王允は早々に涼州兵の追放を決定した。董卓の下で多くを奪い、多くを傷つけてきた涼州兵たちを罰せねばならんと思ったのだ。


 しかしこの方針には呂布を始め、多くの人間が反対した。


 理由は単純だ。涼州兵にはまだ大き過ぎる力があったからだ。


(董卓が死んでも、その手足だった涼州兵は無傷で残ってるんだ。『もしこれが敵になったら?』っていう単純な発想を、なんで分かってくれなかったんだろう)


 龐舒には理解しがたいことだったが、王允は譲らなかった。呂布が求めた恩赦おんしゃを拒否し、あくまで涼州兵を罰しようとした。


 そして実際に涼州兵の駐屯地の一つに兵を向け、攻めさせた。


(こっちが官軍で向こうが賊軍になるから、それで勝てるとでも思ったんじゃないかな)


 だとしたら子供の空想並みではあるが、王允は現実にそれを執行できるだけの権力を持ち合わせている。しかもかたくなだった。


 今長安を攻めている将は、先ほど呂布に敗れた郭汜カクシ、そしてその幼なじみである李傕リカクが中心なのだが、実はこの二人、初めは投降を申し入れていたのだ。


 が、王允は受け入れない。


 ここで少し広い心を持つだけで良かったのに、それをしなかった。


(それで、誰かが教えちゃったんだよな。『いや、戦えば勝てるよ』って)


 そう教えたのは、賈詡カクという天才軍師だ。後に曹操をはじめ、多くの群雄たちへも値千金の助言を行っている。


 賈詡の言葉に従い、郭汜と李傕は諸軍をまとめ上げた。


 涼州兵はもちろんのこと、その悪さに大なり小なり関わってしまった兵たちも王允を恐れてこれに参加した。連帯責任が適用されやすい軍隊という環境が引き起こした、特殊な化学反応かもしれない。


 その流れに勢いがついたのだろう。反乱勢力の人数は、なんと十万人にも上ったという。


(要は、王允様が兵たちに不人気ってことなんだよな。それだって呂布様の意見を聞いてたら防げたのに)


 龐舒は改めて師の提言が容れられなかったことを残念に思った。


 呂布は兵たちの罪をゆるすだけでなく、亡き董卓の財産を協力的な兵たちに配ることを提案していたのだ。


 が、これも王允は拒否した。真面目過ぎるこの男には、理由のない報酬に思えたのだろう。兵が命令に従って働くのは当たり前のことだと思っていたのかもしれない。


 そして王允の不人気はさらに状況を悪化させる。


 李傕、郭汜の率いる十万人に対し、王允は三人の将を迎撃に向かわせた。


 が、この三人のうち二人が軍ごと敵に寝返ってしまった。


 出撃前に王允から嫌味を言われたことがその原因とされているが、兵に厳しいこの上司をそもそも嫌っていたのだろう。


 ちなみに裏切らなかった一人はその時の敗戦ですでに戦死している。


 こういった事情で、もはや戦にならないほどに戦力差が開いてしまっているのだった。


「後はもう、いかにして和睦を結ぶかということだけだな」


 呂布はすでにその線でしか考えていない。だから郭汜に一騎打ちを申し込んだのだ。


「それなりに恐ろしい思いをしただろうからな。あれで和睦に応じる気になればいいが」


「逆にムキになって攻めてきたりしませんかね?」


「郭汜のことは多少なりと知っているが、あれは小物だ。一騎打ちなんぞに応じたことでも分かるが、深い考えもない。戦いが嫌になっている所へ和睦の話が来れば、乗る気がするな」


「じゃあ、後は李傕って人の方をどうにか……」


 二人がそう話しているところへ、横合いから声がかかった。


「本来は戦うべき将に、和睦のことまで考えさせてしまい申し訳ありません」


 そちらを見ると、城門のそばに王允が立っていた。


「一騎打ちをするという話を聞き、応援に駆けつけましたが無意味でしたな。一対一で戦って呂布殿に勝てる者など、天下には存在しないのでしょう」


 そう褒める王允の体は、以前に見た時よりも随分と小さくなっているように見えた。顔も憔悴しきっている。


 よほど今の絶望的な戦況がこたえているのだろう。


 しかし、呂布としてもその落ち込みに同情している余裕はない。すぐに現実への対処を口にした。


「王允殿、世辞よりも今は和睦を成立させるための工作だ。李傕の方をその気にさせるための妙案は見つかったか?」


 王允もすでに『官軍が賊軍を成敗する』などという妄想からは抜け出している。


 現実を見て、色々動いていた。


「ええ、李傕はとある邪教を崇拝しているという情報がありました。その線で交渉しようかと」


「邪教?」


「詳しい教義などは分かりませんが、牛などの生贄を捧げたりして巫女から神託を受けているとのことです。国として、その宗教を保護してやることを条件にすれば、おそらく応じましょう」


「なるほどな……なんなら国教にするとでも言ってやればいい」


「いや、さすがにそれは……」


 と、二人が話しているところへ遠くから喚声が聞こえてきた。


 呂布たちが今いるのは北の城門だが、反対の南の方で声は上がっている。


 その音を耳にして、呂布の眉間は厳しく寄せられた。


 すぐに城門の物見櫓ものみやぐらに駆け上っていく。龐舒と王允もそれに続いた。


 高所から南方を眺めると、火が上がっているようで煙が見えた。


 物音とその様子から、呂布は何が起こっているのかをすぐに理解した。


「南の城門が……破られたな」


 はっきりそれが見えるわけではなかったが、確信を持ってそう言った。


 それが他の人間の言なら龐舒も王允も疑いと希望を残しただろうが、呂布が言ったのだから二人にとっても確定事項となった。


「そんな……じゃあもう……」


「長安が落ちる……官軍が……負ける?」


 王允の絶望的なつぶやきは、呂布の容赦ない指摘で訂正された。


「官軍が負けるのではない。官軍と賊軍が入れ替わるのだ。李傕と郭汜が官軍で、俺たちは賊軍になる」


 王允の絶望的な表情は、さらに苦渋に歪むことになった。


 自分は叛逆者にされる。


 帝に、漢の国に忠を尽くしてきた男としては、これ以上に辛いことなどなかった。


「そんな……私はこれまで……」


「何を言ったところで、この国の構造はそういうものだ。それよりもこれからの事だな。俺は家族と共に逃げるぞ。王允殿もそうしろ」


 呂布と王允は、言ってみれば敵の親玉に当たる。和睦や条件付きの降伏ならともかく、完全な敗戦で殺されない理由などない。


 が、王允は首を横に振った。


「朝廷では、まだ年若い帝が私のことを頼りにされています。それを残して逃げることなどできません」


「……無駄死にだぞ?」


「無駄ではありません。ここに国家の安定を願った男が一人おり、その願いに殉じたという事実は無駄ではないのです」


 そばで聞く龐舒は、王允のことを一人の士大夫として見直した。


 もし王允が呂布の提言を採用してくれていたならば、文は王允・武は呂布という形での漢帝国再興すらあったのではないかと思った。


 が、ごくごく現実的な呂布という男には王允の考えに大いに異論がある。


 ただ、それを口にする暇もない。短く餞別せんべつを告げた。


「そうか。俺は王允という男がいたということを忘れないようにしよう」


「嬉しいことです。ついでと言ってはなんですが、各地の有力者に会うことがあれば『己のみでなく、天下のことをお忘れなきように』とお伝え下さい」


(この男でも、これからは己のことをまず第一に考えざるを得ない弱肉強食の時代が来るのだと分かっているのだな……)


 呂布は王允の言葉にそんな感想を持ったものの、口には出さずにただうなずいてやった。


 それから呂布は王允と別れ、麾下の中心となる部隊を招集した。今後のことを話すためだ。


 降伏するか、逃亡するか、どこかに身を隠すか、生き延びるための選択としてどれが正しいかは蓋を開けてみるまで分からない。それを己の責任で選ぶよう伝えるつもりだった。


 集まったのは張遼チョウリョウなど精鋭からなる数百騎の騎馬隊で、并州における丁原の時代から苦楽をともにした仲間も多かった。


 将の責任として、本来なら全軍を集結させて話をすべきだとは思う。しかし時間がないのだ。今こうしている間にも、家族が襲われているかもしれない。


 呂布は一段高いところに上がり、部隊の全員を見渡した。龐舒はその下に従者として控えている。


 大きく息を吸い、朗々とした声で告げた。


「南の城門が破られたようだ。この戦、我らの完敗となる」


 兵たちはどうやらそれを予測していたようで、思いの外ざわめきは小さかった。兵たちが精鋭揃いだったため、腹が据わっているのかもしれない。


 呂布は一拍置き、続けて今後のことを話そうとした。各々が身を保つため、思うように動けと言うつもりだった。


 しかしその台詞は一人の兵が上げた声で遮られた。


「俺は呂布様について行きます!!どこまでもついて行きます!!」


 熱のこもった、熱い言葉だった。


 こういう本気の温度を持った言葉は他人にも容易に伝染する。


 一人の声を契機にして、部隊のあちこちから声が上がった。


「俺もそうさせてください!!」


「俺も!!」


「呂布様の見る景色を見たいんです!!」


「連れて行ってください!!」


「呂布様以外の指揮なんて、もう受けられません!!」


「俺たちを最強の騎馬隊のままでいさせてください!!」


 どの声も、呂布と運命を共にすることを希望する声だった。


 しかし当の呂布はというと、予想だにしていなかった展開に唖然としてしまった。


 自分という人間は、はっきり言って人から好かれるような人間ではない。むしろそこにいるだけで多くの人間から恐れられ、避けられる人生を歩んで来たのだ。


 にも関わらず、数百人いる兵のほぼ全てが呂布と共に行くことを希望している。


 そういった兵たちの気持ちが、龐舒にはよく理解できた。


(呂布様の強さはもう、ちょっとした信仰対象みたいなものなんだよな……)


 かく言う龐舒も初対面の時からずっと、呂布は鬼神か竜神かの生まれ変わりだと思っている。


 もちろん呂布自身がこれまで体験してきたように、多くの人間にとってそれは畏怖すべき対象だろう。


 しかし目の前にいるのは全て兵として極めて精強な男たちだ。呂布の強さは皆の憧れになっていた。


 が、呂布は正直困っていた。この兵たちの希望を叶えるとすると、数百人の騎馬隊を率いて包囲を破り、逃走しなければならない。


(それは出来る。それ自体は出来るのだが……)


 最強の騎馬隊を率いる最強の男は、かなり難度であるはずのその作戦自体には何ら不安を抱いていなかった。


 ただし、もしそうするなら時は一刻を争う。家族を連れて来るから待ってくれなどと、言えようはずもなかった。


 それに娘はともかく、妻はこの騎馬隊の動きについて来られないだろう。


 家族を取るか、部下たちを取るか、呂布は突如としてその選択を迫られることになった。


 そんなこととは露とも知らない兵たちは、当然呂布は応えてくれるものと思って期待を膨らませている。


 まるで薪をくべ過ぎた焚き火のような歓声と視線の中、龐舒だけは呂布の葛藤を正確に理解していた。


 だからすぐにその裾を引き、小声で話しかけた。


「呂布様、行ってください」


「しかし」


「玲綺と奥様は僕がこの身に代えても守ります」 


 龐舒は目に力を込めてそう言ったが、呂布の瞳にはまだ迷うような色があった。


 それで龐舒はずっと考えていたことを口にした。


「呂布様を縛っているもう一本の鎖ですが、おそらく家族です」


「……何?」


「許靖様は、虎がそれを愛おしんでいるとおっしゃっていました。きっと虎は、家族を気遣って翔べないでいるんです」


 呂布は言われて、己の胸に尋ねてみた。


 確かに家族を気に掛けるあまり、思うままに生きられていない自分がいる気がする。自分は本質的に、もっと激しい生き方をする存在だと感じるのだ。


(ただ、俺はそれでも家族が大事なのだ)


 それも呂布の本音だった。


 もし家族のせいで本来の自分が縛られているとしても、それはそれで幸せなのではないかと思う。


 龐舒はそんな師の暖かいところも知っていたから、さらに言葉を重ねた。


「僕には二人を守るための方策もあります。言ったはずですよ?僕は呂布様の役に立つって」


「……ああ。お前はずっと、俺の役に立ってきた」


「なら僕を信じて、翔んでください。来たるべき乱世を思うままに飛翔するんです。丁原様もそう望んでおられました」


 呂布はその言葉に背中を押され、愛おしい鎖を外すことにした。


 ただし、捨てはしない。己の最も信頼する忠犬へ、しばらく預けるのだ。


「五年だ。五年待て。それまでに俺は、お前たちを胸張って迎えられるほどに高く、高く翔ぶ」


 龐舒はその言葉に胸を熱くしながらうなずいた。


 そしてそれ以上は何も言わず、すぐに身を翻して走り出す。


 背後では呂布が剣を抜き、天を衝いて兵たちの熱望に応えていた。


 その勇ましい姿に、耳が痛いほどの大歓声が上がる。


 しかし龐舒は振り返らない。


 感傷に浸り、名残惜しむことに何の意味があるだろう。


 師は自分を一人の男として信じ、大切なものを預けてくれたのだ。


 ならばその信頼に応えること以外、一人の男として為すべきことはないと考えた。

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