呂布の娘の嫁入り噺17
「お〜よしよし〜、
玲綺は猫撫で声、もとい、犬撫で声を上げながらペキニーズの貂蝉を撫で回していた。
この犬種は長く美しい毛並みが特徴で、そのモフモフとした感触が触る者の心を癒やしてくれる。
しかし当の貂蝉自身の態度はツンとしており、それに喜んでじゃれつくでもなかった。
なかなかの塩対応ではあるが、玲綺にとってはそれもまた良い。そんなツンとした態度の中に、自分だけにしか見せない表情を見つけるとキュンとしてしまうのだ。
「あぁ〜……もぅたまらないわぁ〜」
ここが自宅の居間ということもあり、気の抜けまくった声を上げてしまう。モフモフしてはゴロゴロ、モフモフしてはゴロゴロを繰り返していた。
そんな玲綺に、龐舒が呆れたような声を出した。
「呂布様の浮気相手に対してあんなに怒り狂ってたくせに。自分がメロメロじゃないか」
「そりゃまぁ、まさか犬だなんて思わなかったし」
「それに、
龐舒はからかうようにそう言った。
袁燿はもうすっかり遠い人になっているから、多少の余裕を持てている。
しかし玲綺の中ではまだまだその存在は大きく、真剣な目で貂蝉を見つめた。
「そっか……そういえば許靖様がそんなこと言ってたわね。袁燿様の瞳にはペキニーズが見えるって」
「そうそう。それで玲綺がチベタン・マスティフで、僕がシャーペイ」
ちなみにこの三つは全て中国原産の犬種だ。分かりやすくするためにカタカナ名称にしているが、中国語では京巴、藏獒、沙皮と書く。
「じゃあ私はこの貂蝉を袁燿様だと思って大切にするわ」
そう言って、貂蝉のことをギュッと抱きしめる。
そんな玲綺へ、龐舒が無慈悲に告げた。
「いや、貂蝉メスだし」
「この場合はどっちでも良くない?」
「でも貂蝉は貂蝉だよ。袁燿様と一緒にして欲しくないな」
「私の中でそう思うって言ってるだけなんだから別に……」
そんなことを言い合う二人をうるさいと思ったのか、貂蝉は玲綺の腕からスルリと抜け出した。
そして軽快に駆け始め、そのまま居間から出て行ってしまった。
「あっ、戸が開けっ放しだわ」
「しまったな……」
二人は貂蝉を追った。
ペキニーズは門外不出の宮廷犬だから、外に出て見られるのはまずい。人に知られれば、呂布は罰せられるだろう。
「貂蝉ちゃ〜ん、待って〜」
「外は危ないぞー」
まるで幼い子供を追う両親のようにその後を走った。
ペキニーズは小型犬で足も短いからそれほど速くはないのだが、その小回りで逃げられると捕まえるのは難しい。
屋敷をドタバタと走り回り、そのうち一つの部屋の前に来た。
客間だ。
そして悪いことに、客間の戸はほんの少し開いていた。貂蝉はそこに鼻先から体をねじ込んで入ってしまった。
(まずい!今はお父様が来客の応対中だったはず……)
少し前に誰だか偉い人が来て、呂布と話をしているはずだった。
玲綺と龐舒は焦りつつ、戸の隙間に顔を寄せた。
そっと中を覗くと、貂蝉が客人の足元を走り回っている。
「この犬は……ペキニーズではありませんか」
客人が立ち上がってそう言った。背筋の伸びた六十前の男で、
今日の客は相当な官職の人間だとは聞いていたが、確かに重役然とした男だった。
(あちゃー……しかもペキニーズのことが分かる人だったか……)
廊下の二人はそのことでいっそう焦った。
ペキニーズは基本的に宮殿から出されないため、目にしてもどういう犬だか分からない人間が多いだろう。しかし、その客人は分かるようだ。
が、その前に座っている呂布は即座に否定した。
「
王允とよばれた客人は眉根を寄せ、首を傾げた。
「シーズー?しかし、これはどう見ても……」
「シーズーだ」
呂布は手を伸ばして貂蝉を捕まえると、ムクッと立ち上がった。その巨躯が威圧するかのように王允を見下ろす。
「シーズーだ」
豪傑の圧とともに繰り返しそう言われ、王允はたじろいだ。
「……な、ならばシーズーという前提で独り言をつぶやかせていただく。ペキニーズは宮殿でのみ飼育を許される皇帝の犬であって、それを外で所有することは法によって裁かれる行為です」
「承知している」
その返事に王允はムッとした表情になった。
「分かっていて法を破るというのは理性ある人の道ではありません。まるであの董卓のよう……」
と、そこまで言って、王允にはふと思い出したことがあるようだった。
「……そういえば、董卓が気まぐれにペキニーズを連れ帰ったという話を耳にしました。まさかこの犬は、それを下賜されて?」
「いや、そうではない」
「そう……そうでしょうな。いくら董卓でも、所有が違法なものを他人に下賜するほど馬鹿ではないでしょう。となると……董卓の屋敷から攫ってきた?」
王允という男は頭の回転が速いようで、見事にその真理にたどり着いた。
しかし呂布、そして廊下から部屋を覗く玲綺と龐舒からすれば、宮殿から盗んだと思われた方がまだマシだった。
今の董卓は長安で最も権力を持った暴君であり、その屋敷から所有物を盗むことの方がよほど罪が重くなるだろう。
だから呂布は一貫してしらを切った。
「攫ってなどいない。シーズーを飼育しているだけだ」
王允は少し目を細めて呂布の顔を眺めた。それから次に貂蝉の顔を覗き込む。
「可愛らしいものですな……もし呂布殿が私の頼み事を聞いてくださるなら、このことは黙っていてもいいのですが」
その言葉に、呂布の片眉がピクリと上がった。
「……頼み事?なんだそれは」
「先ほどからお願いしている、董卓の暗殺ですよ」
((暗殺!?))
廊下で盗み聞きしている玲綺と龐舒は息を呑んだ。
まさか自宅で国の最高権力者を殺す相談がなされているとは思わなかった。
「呂布殿が聞かなかったことにしてくださるのは私への気遣いでしょうが、そんなものは無用です。私は国のため、帝のため、あの男を殺すと決めてからすでに命は捨てておるのです」
そう言う王允の声は真剣で、その覚悟に一切の曇りがないことをうかがわせた。
しかし、呂布は董卓と父子の契りを交わしている人間だ。少なくとも形式上はそういう立場の男に対して頼むのは、普通ならありえない。
「王允殿の姿勢は立派だと思うが、俺に頼むことではないだろう」
「いいえ、むしろ呂布殿にしか頼めないことなのです。董卓の身辺警護を務めているのは天下無双の呂布殿であり、しかも董卓自身も相当な剛の者。殺そうとして殺せるものではないのです。ならば、もはや護衛の呂布殿以外に董卓を殺せる人間などおりません」
王允の言うことは、あながち間違いでもない。
董卓は自身が恨みを受けていることを十々承知していたから、暗殺に対しては過剰なほどの警戒を敷いていた。
ならば、むしろ護衛に殺させるというのは理に適っている。
「しかし、犬を盾に脅されてもな……」
呂布は眉をしかめてそう言った。
実際、無茶な話だと思ったのは王允も同じだ。その言葉を受けて笑った。
「まぁ、犬のことは冗談です。さすがの私も犬を質にして暗殺が叶うなどとは思っておりません」
この
しかしそれで安心したのか、呂布は王允が手を伸ばして貂蝉を抱こうとすると抵抗なく渡した。
「くそ真面目な王允殿でも冗談を言うのだな」
王允は貂蝉を腕に抱え、その頭を撫でた。
「くそ真面目、は褒め言葉だと思っておきましょう。しかしそんなくそ真面目としては、法が犯され、ペキニーズが外に出ていることを認めるわけにはいきません。私が宮殿に返しておきましょう」
「なにっ!?」
「大丈夫です。呂布殿が罰せられぬよう、こっそり返しておくだけですから」
王允としてはかなり譲歩してそう言ったつもりだったのだが、呂布としてはまるで受け入れられない。
「だめだ。貂蝉はもう、うちの家族なのだ」
取り返そうと、太い腕を伸ばす。
しかし王允は貂蝉を体で抱き込むようにしてそれを遮った。
「何をおっしゃる。ペキニーズが宮廷犬である以上、全ての所有権は帝にあります。盗品をさらに奪った物とはいえ、臣下が所有していていいものではありません」
「犬は物ではない。そんな理屈で扱わないでくれ」
「法的にはそれが正しい理屈なのですよ。むしろ私には呂布殿の執着が理解できません。別に新しい犬を飼えばいいだけではありませんか。それこそ本当のシーズーでも」
「何を言う。貂蝉は家族だと言っただろう。王允殿は自分の家族を捨て、新しい家族をよそからもらってこいと言われて納得できるか」
「いや、それとこれとは話が別でしょう」
「別ではない。そうだ、王允殿も犬を飼ってみればいい。そうすれば自分のやっていることが、いかに鬼畜の所業か理解できるはずだ。なんなら俺が初心者でも飼いやすい犬を見繕って……」
「結構です!!」
二人はそんな言い合いをしながら、貂蝉を巡って揉み合った。
もちろん本気で奪おうとすれば呂布の腕力で奪えるだろう。しかし貂蝉を傷つけてはいけないという思いでそうはできない。
しかも今の王允は司徒という、董卓を除けば最高位の役職にある大物だ。さすがに手荒な真似は
「なかなかしつこいですな」
「しつこいのは王允殿の方だ。そんなに頭の固いことでは董卓を滅ぼしても、その後の政務に難儀するぞ」
「正しいことをして難儀するのなら本望です!私は譲りませんぞ!」
頑固者の善人に対し、呂布は閉口した。これはどうあっても我が道を行こうとする人間だ。
そして貂蝉可愛さのあまり、この頑固をなんとか歪めようとした呂布はつい口が滑ってしまった。
「……よし分かった!董卓を殺そう!」
その言葉に驚いたのは王允だけではなかった。
廊下で二人の様子を覗いていた玲綺と龐舒も度肝を抜かれ、思わず顔を見合わせようとした。
が、戸の狭い隙間から縦になって中を覗いているのだ。至近距離で互いの方向へ頭を動かし、ぶつかってしまった。
「キャッ……!」
「いった……!」
二人は小さい悲鳴を上げると同時に、戸に向かって体勢を崩した。
体重の掛かった戸が倒れ、二人の体は折り重なって客間へと倒れ込む。
王允はその音に驚いて力を緩めたようで、貂蝉は腕の中から抜け出して床に着地した。そして玲綺と龐舒の方へ駆けていく。
普段はツンとしてなかなかじゃれてくれない貂蝉ではあったが、折り重なった二人のことが何かの琴線に触れたらしい。
珍しく尻尾を振り、上機嫌に二人の顔を舐め回してくれた。
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