呂布の娘の嫁入り噺18

「呂布様、本当に董卓様の暗殺を請け負うんですか?」


 明けて翌朝、出勤の準備をしている呂布へ龐舒があらためて尋ねた。


 あの後、王允オウインは龐舒と玲綺に固く口止めしてから上機嫌に帰って行った。


 もちろん貂蝉チョウセンは連れて行かれずに済んだ。頑固一徹、真面目一徹の王允でも、犬一匹見逃せば大願を成就できるとあらば当然そうする。


 が、困ったのは呂布だ。つい口を滑らせてしまったものの、そこまでの決意と覚悟があるかと問われれば否というほかない。貂蝉を取り返すだけ取り返したら前言をひるがえすつもりだった。


 しかし、そこは王允も海千山千の政治家だ。言質を取ったからにはそれを撤回させるような話の流れには持っていかせなかい。


 その場を手早く切り上げ、足早に屋敷を出て行ったのだった。


「昨日もあれから随分と考えたが……」


 呂布は唸るような声で龐舒に返事した。


 改めてじっくりと思いを巡らせると、王允の危機感も理解はできるのだ。


 董卓が董卓であるがゆえに、国が大きく乱れることになっている。


「……正直なところ、董卓を殺すべきだという話自体には俺としても異存はない。許靖殿も言っていたが、あれは勝者の立場にいれば敗者の全てを奪っていいと思っている人間だ」


「勝者が奪う……」


 許靖が逃亡する前に、呂布はそんな話をされたことがあった。


 董卓の瞳には『戦による略奪の様子』が見えると言われたのだ。それは勝者の権利を過剰に肯定してしまう性向を意味する。


「董卓は相国しょうこくという国の最高位にあり、それを力で勝ち取った以上、国の全てを自分の所有物と考えているだろう。最近は特にそういう認識が表に現れてきた」


 呂布の言う通り、この頃の董卓は狂態と言ってよいほどの行為が目立ってきた。


 罪がなくとも気に入らなければ処刑を行い、その処刑も舌を抜いたり手足を切断するなどの残虐な方法で行うこともあった。


 しかもその最中に自身は飲食をしていたというから、ちょっとした魔王のようなものだ。


 もちろん史書のこういった記述を鵜呑みにするのは危険だが、董卓はすでに暴君と呼んで差し支えない程度の評判であったことは確からしい。


「じゃあ、本当に暗殺を引き受けるんですか?」


 龐舒の問いに対する呂布の答えは、まるで呻き声のようだった。


「……いや、もう一本鎖を巻かれるのもな……」


 苦々しさのあふれるその声音から、呂布自身が今巻かれている鎖を重く感じていることがよく分かった。


 龐舒も思っていたが、丁原を殺してからの呂布はどこかそれ以前の呂布とは違う。何をするにも、それまでのようなキレがないように感じるのだ。


 きっと丁原を殺して巻かれた鎖が虎を縛り、それまでのような働きができないのだと思われた。


(董卓様と呂布様は父子ということになってるからな……)


 父のように思っていた丁原を殺した時と同様、新たな鎖を巻かれるかもしれない。師はそれを避けたいのだ。


 特に呂布のような男は個人の能力でもって世に立っていると言える。であれば、さらなる鎖はその存在にとって致命的になりうるのだった。


「差し出がましいかもしれませんが、僕もそれで呂布様の身が重くなるのならやめておいた方がいい気がします」


「……そうか」


 呂布はそう答えてくれたが、それだけでも龐舒には師が本調子ではない証左に思える。以前の師なら、軽く鼻を鳴らされるだけな気がした。


(新たな鎖を巻かれないことも大切だけど、今の鎖を断ち切る方法も考えないと……)


 それをずっと考えているのだが、罪悪感を消すというのは人にとって非常に困難なことだ。


 しかもそれが父のような恩人を裏切り、殺してしまったという大罪なのだから良い考えなど浮かびようがない。


 心中で悩む龐舒に呂布は背を向け、部屋を出ていった。準備が整ったので出勤するのだ。


「王允殿の方は適当にごまかして、うやむやにしよう。向こうもあまりやかましく騒げることではないしな」


「そうですね」


「それより、今日は遅くなる。貂蝉の世話を頼んだぞ」


 呂布は遅くならない日には必ず自分の手で貂蝉の世話をしていた。


 それは魏夫人の笑顔と同様、呂布にとっての癒しになっている。


(その路線でいつか鎖が切れないかな)


 龐舒はそんな望みの薄そうなことを考えながら師を見送った。


 それから朝食の片付けを始める。食器を洗いながら、今日の予定を頭の中で組み立てた。


「これが終わったらまず掃除だな……それから走り込みに行って、貂蝉と一緒に水浴びして、それから……」


 などと一人でつぶやいているところへ、魏夫人がバタバタとやって来た。


「龐舒ちゃん大変よ。あの人、これを忘れて行っちゃったみたいなの」


 魏夫人の手には色鮮やかな組み紐と、その先に付けられた印鑑があった。印綬いんじゅだ。


 印綬は官吏として採用されると朝廷から貸し与えられる物で、『印』が公文書などの封印に用いる印鑑であり、『綬』がそれに結び付けられる長い紐だ。


 この印の材質や綬の色によってその身分が表されている。


 綬は印を入れた懐から腰まで垂らすのが正装だから、普通なら忘れるという事はありえない。しかし呂布に関しては董卓の護衛上、動きやすい格好をしているから常時身に付けてはいなかった。


「えっ、印綬を忘れちゃったんですか?出勤用の荷物に入れっぱなしにしてませんでしたっけ?」


「それがね、貂蝉ちゃんがいたずらして取っちゃってたみたいなのよ。ほらこれ……」


 魏夫人が指さした所を見ると、印に貂蝉の歯型がくっきりと付いていた。それに綬の方にも所々に噛んで引っ張ったような跡がある。


 印綬は朝廷から借り受けているものであり、退任する際には当然返さなくてはならない。


 そうでなくとも国家権威の象徴のようなものだから、犬にボロボロにされたなどというのは結構洒落にならない事態だった。


「これ……やばい気がしますけど……」


 龐舒は貂蝉のきれいな歯型に引きまくってしまった。


 魏夫人も同じような顔をしている。


「そうよね……でも、とりあえずでも無いと公務に支障をきたすこともあると思うの。龐舒ちゃんの足なら間に合わないかしら?」


「今からだと微妙ですけど……とにかく急いでみます」


 守衛に言付けて渡してもらってもいいが、ボロボロになっていることをどう説明したら良いやら悩んでしまう。出来れば直接渡した方がいいだろう。


 龐舒は印綬を受ける取るとすぐに外へ出て、全力で走り出した。


 師に死ぬほど走らされているので足には自信がある。そのあまりの速さに通行人が何事かと龐舒を振り返った。


(確か今日は董卓様を護衛して参内さんだいする予定だったよな)


 ならば董卓次第で間に合う可能性もある。最高権力者になったこの男は寝坊での遅刻とて許されているという話だった。


 そして実際に、龐舒は董卓のおかげで参内直前の一行にぎりぎり追いつくことができた。ただしそれは寝坊などが原因ではない。


 官庁前の広場で、董卓の怒声が鳴り響いていた。


張遼チョウリョウ!貴様なぜまさかりごときを捨てられんのだ!?」


 その声を中心に、人だかりができている。集まっているのは董卓の護衛や家臣など、参内の供をしている人間たちと思われた。


(張遼……って聞こえたけど。張遼様が叱られてるのかな?)


 龐舒は少し離れた所から人だかりの中を覗いた。


 すると推察通り、跪いた張遼の前に董卓が立って罵声を浴びせかけていた。


「まさかまだ丁原に対しての忠誠心を残しているのではなかろうな!?」


「いえ、決してそのようなことは」


「ならば、なぜ奴の使っていた武器を後生大事に持っている!?」


 そう問われた張遼のそばには二本の鉞が横たえてあった。丁原の使っていた双鉞そうえつだ。


 呂布が丁原を殺したあの日、張遼は募兵のために河北を回っていたのでその場にはいなかった。そして帰って来てから数々の驚きに晒されることになる。


 そもそも募兵を命じていたのは、宦官に殺された大将軍の何進だ。


 張遼はその命をきっちり果たして千人もの兵を集めて来たのだが、帰った時には命じていた何進どころか丁原まで殺されていた。


 世はすでに董卓のものになっていたのだ。


『丁原様と呂布殿の一騎打ちか……見たかったな。私の人生で、一番の心残りかもしれない』


 そんなことを漏らした張遼は、そのまま時代の流れに身を任して董卓に従った。今は呂布の率いる軍の幹部になっている。


 丁原を殺した呂布に対してこの英傑がどう思っているのか、龐舒は従軍中に聞いたことがあった。


『恩人を殺されて何も感じないわけはない。だが同じような立場の人間として、呂布殿が苦しんでいることは余人よりも知っているつもりだ』


 呂布も張遼も同じように丁原によって見出された武人で、しかも常人ではたどり着けないような圧倒的な領域にいる。同類にしか分からない苦しみというものがあり、責める気にはならないとのことだった。


 ただし、本人の言う通り丁原の死について何も感じていないわけではないようだ。部下たちによって大切に保管されていた双鉞を引き取り、今も技を磨いていた。


(張遼様、あの双鉞を振り回して物凄い働きをしてたよな……)


 龐舒は反董卓連合軍との戦いを思い起こし、戦慄に震えた。呂布もそうだが、鬼神の戦う様というものは味方であっても畏怖せざるを得ない。


 元々は鉾をよく使っていた張遼だったが、武に関しては疑いようもなく天才だ。重量級で扱いの難しい双鉞を難なく使いこなし、日によってはこちらを携えて護衛任務などに就くこともあった。


 そして今日もそうしていただけなのだが、それが悪いことに董卓の目についたらしい。疳の虫を起こしてしまったようだ。


「捨てろ。この場で破壊して、そこらに放り投げておけ」


 声に怒りを滲ませ、改めてそう告げた。


 張遼は頭を下げ、地面を向いたまま答える。


「しかし先ほども申し上げた通り、この双鉞はめったに見ないほどの業物わざものであり……」


「知ったことか!!俺が捨てろと言ったら捨てるのだ!!この国の決まりごとを、貴様はまだ理解できんのか!?」


 龐舒は離れたところで董卓の言葉を聞きながら、呆れるような思いを抱いた。


 董卓は龐舒の三倍ほども生きているわけだが、まるで子供のわがままでも見ているような気分になる。


(この国の決まりごとって……相国の地位にいるからって何をしても許されるわけじゃないだろう。今朝の呂布様も言ってたけど、本当にこの国の全てを所有しているつもりになってるのか)


 もはや誇大妄想としか思えない認識だが、今の発言からするとそういう事になってしまう。


 もちろん董卓も全ての人間に対してこうではないだろうが、それでも腹の底が見えたようには感じられた。


「おい、誰か大槌を持って来い。それで粉々にするのだ」


 従者にそう命じた董卓を、別の声が静止した。


 今は張遼の上司になっている呂布だ。


「お待ちを。この鉞の破壊力は自分も身を以て経験していますが、張遼の言う通り確かに惜しいものです。どうかご再考を」


 呂布の言葉に、董卓の目がギョロリとそちらを向いた。


 その目は怒りを鎮めるどころか、いっそう燃え上がらせていた。


 董卓は無言で従者の所へ行き、持たせていた手戟を掴んだ。それを振り向きざまに呂布へと投げつける。


「…………」


 当たれば致命傷の投擲だったが、呂布は体を少し動かしただけでそれをよけた。手戟は後ろの塀へと突き刺さる。


 董卓もそれがこの豪傑に当たると思って投げたわけではないようだ。そのことには一切触れずに話をした。


「呂布よ……貴様も丁原への忠誠心を捨てきれておらんのではないか?」


 呂布は無表情に短く答えた。


「いえ」


「本当にそうか?丁原は貴様が己の手で殺したとはいえ、その様は英雄同士の決闘のようであったというではないか。俺は密かに暗殺せよと命じたのだ。豪傑ぶった奴の顔に泥を塗るように、無惨に殺せばよかったものを。まるで奴の誇りを守るためにそうしたようではないか」


「そのようなことは」


「ない、と言うか。ならば、この場で丁原をはずかしめてみせろ。奴のことを、救いようのないごみだと言え」


 そう命じられた呂布は、口元を引き締めたまま押し黙った。


 それは、周囲の人間たちにはいつも通りの憮然とした表情に見えただろう。


 しかし龐舒には、師がひどく怒っていることが分かった。


 そして龐舒も怒っていた。誇り高き戦士だった丁原を辱めようとする董卓に、師の心を傷つけようとする董卓に、はらわたが煮えくり返るほどの怒りを覚えていた。


(なんで……なんでこんな男が国の頂点にいるんだ!!)


 心の底からそのことが憎らしく思える。


 つい昨日、王允が董卓を暗殺しようとしていると知った時には『何もそこまで』と思った自分がいた。しかし、今ここにいるのは王允以上の殺意を抱いている自分だった。


(許せない……)


 董卓は遠目に向けられる憎しみには気づかず、さらに呂布を煽った。


「どうした、それほど長い言葉ではないぞ?『丁原は救いようのない塵だ』と、それだけを言えばいいのだ」


 しかし呂布は変わらず黙り続けた。


 張遼がそれを跪いたまま申し訳無さそうに、悔しそうに見上げている。


 董卓は反応の無い呂布に対し、さらに怒りを募らせた。


「……なぜその程度のことが言えん?やはり貴様、丁原への忠誠心を残しているな?俺への忠誠心は偽りだったか!?」


 呂布は怒りのせいか、その言葉を否定することすらしなかった。同じ表情で沈黙を続ける。


 師の心を感じられる龐舒の怒りも、それでいっそう強くなった。


「なぜ黙ったままでいる!?貴様が俺への反逆心を抱いているのなら、お前を家族ごと殺すしかなくなるぞ!!言え!!言うのだ!!丁原は救いようのない塵だと、言ってお前の忠誠心を証明しろ!!」


 さすがに家族の安全まで持ち出されると、呂布としても口を開かざるを得なくなる。


 呂布は声を出そうとした。


 が、龐舒はそうさせたくなかった。それは師の心をひどく傷つけることになる。


 それに、龐舒の怒りも限界に達していた。


「……丁原様は救いようのない塵なんかじゃない!!誇り高き戦士だった!!」

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