呂布の娘の嫁入り噺16

 その日も呂布は遅くに帰って来た。


 外はもうすっかり暗くなっており、家族は夕食を済ましている。


 夕方には呂布の部下が家まで来て、遅くなるから食事はいらないとの連絡を受けていた。そしてその時に玲綺がその部下を捕まえて問い詰め、仕事自体は終わっていはずであることを吐かせている。


 ということは、呂布はこの時間まで自らの意思と都合で董卓の屋敷にい続けたということになる。


 玲綺は父が帰宅する物音を聞き、足音も荒々しく玄関へと向かった。


 その背中を魏夫人が追う。


「玲ちゃん……やっぱりやめましょうよ」


 母は娘を止めようとしたが、荒事になるような事案に関しては娘の方が圧倒的に強い。


 止められたところで止まる気は毛頭なかった。


「なんでよ。お母様に悲しい思いをさせて楽しんでるなんて、許せないわ」


「でも……あの人の今の地位なら、お妾さんが何人かいたっておかしくないのよ?」


「そんなの知らないわよ。世の中の普通がどうとかよりも、目の前のお母さまが悲しんでることの方が問題だわ」


 龐舒は二人の会話を聞きながら、玲綺が相変わらずの玲綺であることに苦笑していた。


 しかし、その考え方は尊敬できるものだとも感じる。


(玲綺は既成概念とか常識とかよりも、人の心を見てるんだよな。偉いよ、それは)


 そう思うし、龐舒自身も大切な魏夫人が悲しい思いをしているのは辛い。そして、そうさせている師に対しての怒りも感じていた。


 こんな優しくて綺麗で料理上手な妻がいるのに、よその女にうつつを抜かすとはどういう了見だ。


 呂布が自分の師でなかったらそう面罵してやりたいところだった。


(でもそんな恐ろしいことできるわけないし……ここは玲綺に任せよう)


 実際、あの呂布に対してそれができるのはこの世で玲綺ただ一人だけだろう。


 その玲綺は玄関をくぐろうとした父の前に立ちふさがった。


 仁王立ちで目を怒らせる娘を前に、呂布ほどの男でも思わずたじろぎを見せた。


「な、なんだ?」


 明らかに機嫌の悪い娘を避けるように、半歩下がる。


 娘はその機嫌の悪さを口から吐き出したような声を出した。


「お父様、最近帰りが遅くなることが多いけど、どこで何をしてるの?」


「それは……董卓様の屋敷で仕事を……」


「今日のお仕事は夕方には終わってるはずよ。ちゃんと確認したんだから」


「いや、急な仕事で……」


「毎回?それはどんな仕事?言える範囲でいいから答えて。誰からの依頼で、どういう内容で、なぜ夜遅くなるほど急ぐものだったのか」


「…………」


 矢継ぎ早に質問を射掛けてくる娘に、呂布は閉口した。


 これは明らかに自分の行動について、何かしらを責めるつもりの問い詰め方だ。


「答えられないの?じゃあ、私が当ててあげましょうか。お父様は董卓様のお屋敷の可愛い子と、こっそり楽しい時間を過ごしてたんでしょう!」


 短刀で斬りつけるような玲綺の言葉に、呂布はまた半歩後ずさった。


 表情の分かりづらいこの男が、明らかな動揺を浮かべている。


 玲綺は男という生き物がここからどんな言い逃れをしてくるか、あらかじめ想像してその論破方法を想定していた。


 が、呂布という男の中の男は、それ以上一切の言い逃れをしなかった。


「……そうだ。ここしばらくの俺は、確かにそうしていた」


 その肯定は確かに潔いものではあったものの、妻である魏夫人の顔にはいっそうの陰がかかった。


 玲綺は肩越しに振り返ってそれを見ると、怒りをさらに爆発させた。


「お父様どういうつもり!?こんなに素敵な妻がいるのに、それを放っておいて享楽にふけるなんて!不潔よ!」


 その激しい罵倒に、呂布は眉をしかめた。


「不潔……?そんなことはないと思うし、そもそもそれほど責められることか?」


 玲綺は耳を疑った。


 男という生き物は、やはりそういうものなのかとウンザリした気分になる。


 どんな理屈を並べたところで、あなたの妻はあんな顔をするほどに悲しんでいるのだということを分かって欲しかった。


「お父様、お母様の顔を見て。お父様との時間を奪われて、あんなに悲しい思いをしているのよ」


 呂布は妻の顔をあらためて確認し、そして後悔した。


 確かに妻は辛そうだったし、そうさせてしまうのは自分の本意ではない。


「それは悪かった……しかし……」


 しかし、と呂布は続ける。


「しかし、俺は貂蝉ちょうせんを放っておけなかったのだ。董卓様の屋敷で、酷い扱いを受けていた。放っておけば、病にでもなっていたかもしれない」


「貂蝉……?それが、お相手の名前なの?」


「そうだ。それに……貂蝉は、俺が自分を抑えきれないほど魅力的で……」


 三人はその呂布の台詞に驚いた。この男はそういうことを口にする男ではないのだ。


 しかしそれを言わせてしまうほどという事になると、呂布は貂蝉に対してかなり本気ということになる。


 その推察は魏夫人の心にさらなる陰を落とし、そして玲綺の怒りを爆発させた。


「お父様がそんな情けない男だとは思わなかったわ!!本当にそれでいいの!?お父様の本当に大切なものが何か、よく考えてよ!」


「情けないのは自分でも重々承知している。しかし自分でももう、どうしようもないのだ。それに貂蝉もすでに、俺の中では大切なものの一つだ」


 そこまで言われて、魏夫人はついに涙をこぼした。


 しかしこの豪傑の妻として、受け入れなければならない。そういう覚悟を決めた。


 玲綺は玲綺で頭に血が上り過ぎて、逆に声が出なくなった。


 龐舒はなんとかこの場を取り繕う言葉を探したが、適切な言葉が見つからない。


 そんな三人に対し、呂布はさらなる爆弾発言を落とした。


「実は今日、ついにその貂蝉をさらってきてしまった」


「「「さら……っ!?」」」


 三人は同じ声を上げながら、愕然とした。


 主君の侍女を攫ってくるなど、洒落にもならない。叩き斬られても仕方のないことだろう。


 しかし、呂布の顔には一切の後ろめたさはなかった。


「仕方がなかったのだ。先ほども言ったように、貂蝉は董卓様の屋敷で酷い扱いを受けていたからな。うちで保護して、共に暮らすことにした」


(((……え?愛人と暮らすの?)))


 今の言葉からすると、そういうことになる。


 お妾なら別邸にでも囲いそうなものだが、呂布は共に暮らすと言った。


 それに関してひどく戸惑っている三人を尻目に、呂布は玄関の外へ出て行った。そこに貂蝉を待たせているのだろう。


 三人は固唾を飲んで呂布が帰ってくるのを待った。果たして貂蝉とは、どんな女なのか。


 そして緊張の数秒後、呂布は三人の前に再び姿を見せた。くだんの貂蝉をその腕に抱いて。


「ペキニーズの貂蝉だ」


 呂布の腕の中には、モフモフの美しい毛並みをした小型犬が収まっていた。


 舌を出し、ハッハッと短い息づかいをしながら三人を見ている。そのつぶらな瞳が非常に愛くるしい。


 しかし、今の玲綺にはその可愛さを喜ぶ余裕などなかった。目を白黒させて、先ほどまでとは全く違った声を絞り出す。


「……え?貂蝉って……その犬?」


「そうだ。新しいうちの家族になる。良くしてやってくれ」


「う、うん……いや、でも……どうして……」


 玲綺は愛人が犬に変わったことに対してそうつぶやいたのだが、呂布はペキニーズがここにいる理由を問われたと思って回答した。


「ペキニーズは本来、宮殿のみで飼育を許されている宮廷犬だが、董卓様が気まぐれに連れ帰ったらしい。恐らく門外不出のものを得ることに価値を見出したのだろう。しかし得るだけ得ればそれで満足してしまったらしく、まともな世話をされていなかったのだ」


 呂布はそう説明してくれた。


 それで事情は分かったのだが、思いもしなかった展開に玲綺と魏夫人は唖然として、口が開きっぱなしになっている。


 龐舒だけがかろうじて声を出すことができた。


「えっと……呂布様は、その犬を愛でるために董卓様のお屋敷に長居してらしたんですか?」


「別に愛でるためだけではない。色々と世話をしていた。俺が初めに貂蝉を見かけた時、残飯を適当に与える程度の扱いしか受けていなかったのだ。それ以外ほぼ放置だな」


「放置は確かに可愛そうですが……」


「しかも残飯には玉ねぎやニンニク、ぶどうといった犬の毒になるものまで入っていた。お前たちもこれから餌をやる際には気をつけてくれ」


「あ、はい。そういうのは毒になるんですね」


「そうだ。それと、このペキニーズの美しい毛並みはきちんとくしけずってやらねば維持できん。面倒かもしれんが、手の空いている時にそれも頼む」


「分かりました」


「あと、顔などのシワに汚れや皮脂が溜まりやすいから食後などに拭いてやってくれ。皮膚炎を起こすといけない」


「はい」


「それに、この長い毛並みを見ても分かると思うが暑さには少し注意が必要だ。水分不足にはさせないように」


「えっと……暑さに注意……」


「あとは……」


 次々と注意事項を並べ立てる呂布に龐舒は困った。覚えきれそうもないから何かに書き記しておきたい。


 だからいったん呂布の口を止めようとしたが、龐舒がそうする前に魏夫人が口を開いて止めてくれた。


「あなた」


 妻の呼びかけで、夫の顔はそちらを向いた。


「……なんだ?」


「私、あなたの連れてきた新しい家族を大切にするわね」


 人差し指で涙を拭いながら微笑む妻を見て、呂布は幸せそうにうなずいた。


 その光景は龐舒にとっても幸せなものだったのだが、一点引っかかりを覚えることもある。


(そういえば昔、呂布様に『うちの家族になろうなどと、厚かましいことを考えているのか』って言われたことがあったな)


 その時のことを思い出し、複雑な感情を抱いた。


(その時から僕の立場はずっと変わらず『住み込みの弟子』みたいなもんだよな……でも……この犬は簡単に家族になるんだ……)


 龐舒はまさか自分の人生で、犬に嫉妬する日が来ようとは夢にも思わなかった。

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