呂布の娘の嫁入り噺8

「呂布様、お茶をお持ちしました」


 龐舒ホウジョは廊下から室内の呂布にそう声をかけた。


 陽はすっかり落ちていて、灯火がないとほとんど視界が利かない時間になっている。


 久しぶりに家族そろっての晩餐を済ました後、自室で雑務を片付けている呂布のもとへ龐舒は茶と菓子を差し入れに来た。


「入れ」


 短い返事の後、龐舒は室内へと入った。


 呂布は卓の前に座って何か書き物をしていた。


「遅くまで大変ですね。僕に手伝えることがあればやりますから、おっしゃってください」


 と、言いながら卓の上にある竹簡に目を落とした。いつも通りの事務仕事なら手伝えるはずだ。


 が、そこに並んでいたのは人物の名前と役職などの羅列だった。


「いや、これはそういう類のものではない」


 呂布の言う通り、普通の事務仕事ではないようだ。


 名前の中には龐舒が耳にしたことのあるものも多かった。


「それは……今の洛陽の偉い方々や、地方を治めている方々のお名前でしょうか?」


「そうだ。力のある者たちの名を並べている。丁原様に付いて動いているから、そういう情勢に多少なりと詳しくなった」


 その羅列を見る呂布の目は、いつになく厳しいものに感じられた。


「名前を並べて見ると、何か分かるのでしょうか?」


「俺はこういうことは得意ではないが……それでも丁原様が言っていることが正しいのだと分かるな」


「丁原様が?どういうことでしょうか?」


「世が乱れるのだ」


 呂布は、まるでそれが確定事項であるかのように断言した。


「元々この漢という国は、政治腐敗や貧困などによって限界を迎えていた。五年前の黄巾の乱は必然だ。それで国力を使い果たしたにも関わらず、今までやってこられたのは宦官かんがんという妖怪が力を持って周囲を押さえていたからだ」


 多くの者が不満を持っていても、力を持った強者がそれを押さえていれば表面上の平穏は保たれる。


 しかし、丁原や呂布はその強者を排除するための勢力だったのだ。その後に世が乱れることを推察できるのも当たり前かもしれない。


「歴史的に見て、この国で力を持ってきたのは帝本人か、宦官か、外戚がいせき(帝の妻の親族)かの三通りが多いらしい。そして今、その三つの誰もが力を持っていない」


 先日、外戚である大将軍の何進が暗殺された。そしてそれを実行した宦官たちも皆殺しにされた。


 帝自身は即位直後な上に若年で力がない。しかも後ろ盾だったのは殺された何進だ。


 結果、権力の実質的な空白が生じているのだった。


「さらにこうして名前を並べてみるとよく分かるが、飛び抜けて力を持っている人間もいないのだ。そうなると、これから状況次第で誰が力を持ってもおかしくはない」


「つまり……この国の未来の主導者になるための争いが起こる、というわけですか?」


「そういう事だ。『この国に未来があるのなら』と、丁原様は言っていたが」


「漢の国が……終わる?」


 龐舒にはにわかに信じられないことだった。


 この国は前漢・後漢合わせて四百年ほどの歴史がある。そこまで長く続いたものが終わるなど、想像もできない。


「確かなことなど誰にも分からん。しかしこれから世が乱れるなら、自分自身が力を持たねばならんのは確かだ」


 龐舒からすればこれ以上はないというほどに強い呂布ではあったが、その表情は険しいものだった。


 いかに呂布が不世出の豪傑とはいえ、人一人の力ではどうにもならないことが多いのも確かだろう。


 そんな呂布の向こうに並んだ名前の中で、ひときわ大きく書かれているものが龐舒の目に止まった。


「董卓様……という方が今の洛陽を落ち着かせているんですよね?その方が国を主導する立場に最も近いんじゃありませんか?」


 その質問に、呂布の表情は一瞬、本当に一瞬だが凍ったようになった。


 それは龐舒の心に矢のように刺さったが、表情の意味は分からなかった。


「……そうだ。そういう事になる」


「えっと……りょう州の兵を率いている方、ですよね?」


「元々はそうだったが、殺された何進と何苗カビョウ(何進の継弟で将軍だった)の軍を吸収し、さらに強大になっている。今の洛陽で軍事力と言えるほどのものを保持しているのは、董卓と丁原様くらいだ」


 丁原の手元には執金吾しつきんごとして率いている近衛兵がいる。


 龐舒としては董卓と丁原なら、やはり丁原の方により力を持ってほしいと思う。


「夕食の時にもお話しましたが、昼間に涼州兵に絡まれました。ああいうことがあると、やっぱり丁原様に頑張っていただきたいですね」


 呂布も当然それに同意してくれるものと思っての発言だった。


 が、意外にも呂布は首を横に振った。


「しかし、丁原様が力を持っても俺の立場はそう良くはならないだろう」


「え?で、でもあんなに頼りにされてて……」


「口ではああ言っていても、俺の役職は主簿のままだ。丁原様が執金吾になった後もだぞ?」


「それは……その内、きっと」


「いや、そうでもなかろう。やはり高い官職の人間になると頭脳労働を求められる。俺のように学の薄い人間は使い物にならんと、丁原様はそう思っているはずだ」


「そんな事ありませんよ」


「なぜそう言い切れる?丁原様も学が無く、どちらかと言えば俺もそちら側だ。丁原様は苦労した分、俺が今後の中央政府で役に立たんことを知っているだろう。その下では俺は力を持てんし、それでは今後の乱れた世を渡るのに難儀する」


 龐舒はやはりそんな事はないと思うのだが、それは呂布本人でないからそう思えるのかもしれない。


 事実として丁原自身は執金吾にまで出世しているのに、呂布を主簿のまま留め置いているのだ。呂布と同じ立場になれば、自身の将来について様々考えてしまうのも仕方ないことだろう。


(丁原様、気が利かないな)


 龐舒がそう思う通り、丁原は少々粗野な所がある。人を使うには気遣いが足りないかもしれない。


 しかし龐舒がそんな不満を口にしたところで現実が変わるわけではないのだ。だからそういう無駄なことは言わず、師を気遣う言葉を口にした。


「もし僕に出来ることがあったら何でもおっしゃってください。大したことは出来ないでしょうけど、呂布様に受けた恩を少しでも返したいと思っていますので」


「恩……だと?」


 呂布はその単語を繰り返し、急に立ち上がった。 


 龐舒よりも頭一つ以上大きな呂布の巨躯が、恐ろしいほどの威圧感でもって弟子を圧迫した。


「以前にも言ったはずだ。恩とはすでに過去のものであって、現在と未来とを生きる人間には無価値のものであると」


 龐舒には師が急に殺気立った理由は分からなかったものの、それでも自らの思うところを述べた。


「ですが、現在と未来の僕がいるのは呂布様のおかげであって……」


 パァン!!


 と、大きな音がして、龐舒の体は後ろに倒れた。


 呂布の張り手が頬を打ったのだ。


 龐舒は師の突然の折檻に驚いた。ありえないことだと思った。


 というのも、実は武術の鍛錬以外で呂布から手を上げられたことは一度もなかったからだ。半殺しにするほどの鍛錬を行う呂布ではあったが、日常生活で暴力を振るうことは絶対になかった。


 だから驚いていたのは龐舒だけではなく、頬を張ってしまった呂布自身もだった。


「……なぜ、よけなかった?」


 師は弟子を見下ろしながら、それを尋ねた。


 予想していなかったとしても、自分が鍛え上げた弟子ならよけられた一撃だったと思ったからだ。


 実際、龐舒は思い返してみてよけられないものではなかったと思った。


 しかし、もう一度同じことがあっても自分はよけないだろうとも思った。


「もし僕が殴られて呂布様の心が軽くなるのなら、そうして欲しいと思います」


 言われた呂布の眉は、龐舒が今まで見たことがないような歪み方をした。


「……しかし、そんなお前を守るためにも力は要るのだ」


「え?」


 呂布のその声はあまりに小さ過ぎて、自身の口中にだけ響いた。龐舒の耳には届かない。


 それで聞き返した弟子に対し、師はもう答えなかった。


 くるりと背を向けて、また卓の前に座り直す。


「もういい。行け」


 龐舒はそんな師の背中に、放っておけないような、そばに居てあげたくなるような何かを感じていた。


 が、それを実行するには師は強すぎた。それに、言葉通りの拒絶も感じる。


 だから龐舒は言われた通りに部屋を出た。 


 それが後にどれほど大きな後悔に変わるかなど分かろうはずもなく、ただ悲しい気持ちで師の部屋の扉を閉めたのだった。

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