呂布の娘の嫁入り噺7
「はぁ……
ため息混じりの言葉を耳にして、
先ほど袁燿と別れてから、
「あぁ、でも駄目……
そんな事をつぶやき、またため息をつく。
母の
「た、確かに格好いい人だったわね……でも玲ちゃんにはもっと身近にお似合いの男性がいるんじゃないかしら?」
「ううん、お母様。私にとっての最良の男性は袁燿様よ。あの方以上なんて望むべくもないわ。袁燿様が玉だとしたら、他の男なんて皆砂利ね」
その砂利である龐舒はうつむき、手元の地図を凝視した。ただし地図を見る意味など本来なら無い。
もう目の前に目的地があるのだから。
「……着きました。このお屋敷です」
龐舒は様々な感情を滲ませて、ごく普通のことを口にした。
三人の目の前には見たこともないような立派な屋敷が建っている。
ただ大きいだけでなく、その作りや手入れの状態から随分と銭がかかっていることが容易に推察された。
「うわ……すっご」
「これはすごいわねぇ」
玲綺と魏夫人は今しがた話していたことを全て忘れ、その絢爛さに目を奪われた。それほどの屋敷だったのだ。
一方の龐舒も改めて屋敷を見上げ、同じような感想を持った。
「……
執金吾とは都や宮殿の警備などを司る役職で、虎賁中郎将よりもさらに上等の官吏に当たる。
そして、その執金吾を務めているのが呂布のごく身近な人間なのだ。
「
龐舒のつぶやき通り、丁原は元の役職である騎都尉からさらに進んで今は執金吾を拝命している。
その時からこの屋敷に住まうようになっているということだった。
「ほ、本当に私たちもここに住むの?」
魏夫人が不安そうな声を上げた。
呂布からの手紙にそう書いてあったのだ。
「呂布様は丁原様の警護のため、四六時中ご一緒に行動されているとのことでした。だから呂布様の家族も同じ屋敷で寝起きすればいいというお話で……」
「でもこんな立派なお屋敷、何だか落ち着かないわ」
慎ましやかに生きてきた人間のあるある話かもしれない。過度に高級な待遇を受けると、緊張して逆に心が休まらないのだ。
それは玲綺も龐舒もそうで、こんな豪邸に住めと言われてもむしろ困ってしまう。
「まぁ、きっと私たちの住む所は使用人用の小さな離れとかなんじゃない?」
「うん……そうであることを祈ろう」
と、慎ましい家族が変に慎ましいことを言っていると、何やら屋敷の中がバタバタと慌ただしくなった。
それは主の動きに伴う使用人のものであったらしく、しばらくすると丁原が建物の一つから出て来た。
「……ん?おぉ、青年!着いていたのか!」
丁原は龐舒の顔を見つけると、人懐こい笑顔を見せてくれた。
そして両手を広げて近づき、抱擁してその背中をバシバシと叩いてくる。
「ご、ご無沙汰しております、丁原様」
雲の上の偉人から親しく接された龐舒は、思わずどもってしまった。
丁原はこういう少し馴れ馴れしい所が兵から好かれている男だ。
「奥方も、娘さんも、遠路はるばるご苦労でしたな」
「いえ……こんなお屋敷に呼んでいただけるなんて、光栄です」
「ハッハッハ!どう見ても儂みたいなのには不釣り合いな屋敷で、住んでいる儂自身が落ち着きませんな。屋敷付きだった使用人たちも、どこかお上品でいまだに慣れません」
屋敷の主である丁原からそう言われて、三人はむしろホッとした。
「でも、本当に私たちも一緒に住まわせていただいてよろしいんですか?」
遠慮がちにそう尋ねた魏夫人へ、丁原は後ろを指差しながら答えた。
「あれを見てください。呂布は家族ごとこの屋敷に住んで何の不足もないほどに働いてくれています」
丁原の指す先から呂布の巨躯が現れた。
久しぶりの再会ではあったが、夫の姿を見た魏夫人の顔からは逆に笑顔が消えてしまった。目を丸くして、口元を押さえる。
というのも、呂布の衣服がべっとりと血に染まっていたからだ。
「あ、あなた!!どうしたんですか!?」
驚く魏夫人とは対照的に、呂布は普段通りの落ち着いた声音で答えた。
「暗殺者を処理した。返り血だ」
夫は心配は要らないという意味でそう言ったのだが、暗殺者という単語だけで妻の不安をあおるには十分だった。その顔が青ざめていく。
そんな魏夫人へ、丁原が優しく声をかけた。
「奥方。儂が見る限り、少なくとも呂布という豪傑は暗殺者に殺されるような男ではありません。それは心配なさるな。ただ儂の方は日常生活では割と緩みまくっておる中年親父でしてな。こうして呂布に守ってもらって、今の魔物だらけの洛陽を生き抜いておるのです」
「魔物だらけって……」
「力を持っていた宦官が皆殺しにされました。では、次に力を持つのは誰か?それが自分でありたいと思う者はごまんといて、その中の幾人かは暗殺者を使ってでもそうなろうとしておるのですよ」
「…………」
魏夫人は言葉が出なかった。そんな仕事をしている夫と、そんな街に来てしまった自分たちとを思うと、頭の中は不安のみで占められてしまう。
呂布はそんな妻の気持ちを察し、短く言葉をかけた。
「不安かもしれんが、仕方ないのだ」
丁原もその言葉を補足する。
「并州の賊徒や異民族にまた動きが見られるとの情報も入っておるのです。呂布のように、その討伐で恨みを受けている者の家族は呼ばざるを得ないという現実がありましてな」
魏夫人もその事はよく理解できた。
ここへの道中、賊などの物騒な話を自分たちも聞いてきたのだ。しかも娘の玲綺は実際に一度さらわれてしまっている。
「……おっしゃること、よく分かりました。私たちとしては丁原様におすがりするしかありません。どうぞよろしくお願いいたします」
そう言って、深々と頭を下げた。
丁原は頭を掻いて応じる。
「そうかしこまられても困りますな。先ほども言ったように、儂の方が呂布にすがって生きておるようなものですから」
そして明るく笑いながら歩き始めた。
「まぁ、とりあえず住む家に案内しましょう。離れですが、上等な建物ではあるので」
「え?いえ……私どもはあばら家くらいの方が落ち着くので……」
「そういう訳にもいかんでしょう」
魏夫人は恐縮しながら丁原の後を歩いた。
龐舒と玲綺、呂布もそれを追う。
玲綺は久しぶりの父が嬉しいようで、陽の光が差したような顔を見せた。
「お父様、久しぶり。慣れない都会で体を壊してない?」
「ああ、特に変わりない」
「私たちも変わりないわ。あ、でも龐舒が騎乗の練習をすごく頑張ってたから、そこは変わったかも。騎馬戦も強くなったって自慢してたわよ」
それを聞いた龐舒は焦った。
玲綺の言ったことは全くの真実ではあるのだが、呂布に『強くなった』は禁句なのだ。それを確かめると称して、半殺しの目に遭う。
「ちょっ……玲綺……!」
慌てて小声でたしなめるものの、当然もう呂布の耳に入っている。
龐舒は今晩の地獄を覚悟した。
……が、意外にも呂布から返ってきたのはごくごく淡白な返事だった。
「そうか」
「……!?」
龐舒は我が耳を疑ったが、呂布はそれ以上何も言ってこなかった。
別に玲綺の話を聞いていないわけでもないようで、その後の会話は普通に受け答えしている。
ありがたいと言えばありがたい事のはずだが、龐舒はそれで逆に心配になった。
(呂布様……どこか体調でもお悪いんじゃないだろうか?それとも、よほどお疲れなのか?)
一見して何ら問題なさそうな呂布ではあったが、龐舒にはどうもおかしいように感じられる。
そしてこの龐舒だけが気づいた呂布の異変を揺りかごに、一つの国を滅亡させる乱世がひっそりと育っていたのだった。
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