呂布の娘の嫁入り噺6

 田舎者が都会に出ると、とにかくキョロキョロとあちこち見回してしまう。田舎の感覚ではあまりに目を向けるべきものが多く、情報過多になるからだろう。


 慣れて流し見ることができるようになるまでは、目と首が疲れるほどに視線を走らせなければならない。


「わぁ、やっぱり洛陽らくようはすごいわね。大きくて綺麗な建物がたくさん」


 と、少女のような声を上げたのは今年で三十路に踏み込む夫人だ。初めて見る洛陽の街並みに目を輝かせている。


 横を歩く龐舒ホウジョも同じような顔をして応じた。


「本当ですね。都はきらびやかであるとは聞いていましたが、まさかここまでとは」


「あっ、龐舒ちゃん!あれは何かしら!?」


「何かのお店のようですが……見たことのない物が並べられてますね。装飾品でしょうか?」


「あれで着飾るの?都の人はお洒落ねぇ」


「奥様ならきっと似合いますよ」


「やだもぅ、龐舒ちゃんったらすぐ褒める!」


 魏夫人が嬉しそうに龐舒の背中を叩き、二人で笑い声を上げた。


 それからまたキョロキョロと洛陽の街並みを見回す。


 玲綺レイキはそんな二人を後ろから睨みながら、不機嫌な声を上げた。


「ちょっと、二人ともやめてくれる?」


 魏夫人はそう言ってきた娘のことを不思議そうな顔で振り返った。


「え?何が?……っていうか玲ちゃん、なんでそんなに離れて歩いてるの?」


 娘は母親の鈍さに苛立ちを覚えながら、不満をはっきり伝えてやった。


「田舎者丸出しじゃない。おのぼりさんみたいで恥ずかしい」


 魏夫人と龐舒は顔を見合わせてから首を傾げた。


「でも、私たち田舎者だし」


「そうだよ。お上りさんなんだから、お上りさんらしくしてればいいじゃないか」


 純朴な目をしてそう言う二人を、若い女子は受け入れられない。


「嫌よ、私は。今日の服だってせっかく流行りだっていうのを着て来たのに」


 龐舒は玲綺の服装を改めて眺めた。


 それは洛陽の少し手前の街で新調した新しい服だった。確かにどこか垢抜けているようで、洒落ていると言われればそんな気もする。


 しかし、男の龐舒にはそういうこだわりが理解できない。


 小声で思ったことをつぶやいた。


「玲綺は元が可愛いんだから服なんて気にしなくてもいいのに……」


「え?何?なんか文句ある?」


 玲綺は何か悪口でも言われたと思ってまた睨んできた。


「いや、なんでもない」


 すぐに首を振る龐舒へ、魏夫人がにんまりと笑いかけてきた。


「龐舒ちゃん、女の子にはそういう事はちゃんと言ってあげた方がいいのよ?」


「え?いや、僕は別に何も……」


「っていうか、私のことは簡単に褒めるくせに。やっぱり私の方はお世辞なのかしら?」


「そ、そういうわけじゃ……」


「何?二人で何話してるの?」


 玲綺がまた不機嫌そうな声を出したので、龐舒はとにかく話題を変えようと手に持った地図へと目を落とした。


「えー、えっと……ここがここだから、呂布様から指定された建物は……」


 何度も確認した道のりを、再度見直す。


 呂布から来た文で、洛陽に着いたらそこを訪ねるよう指示されていたのだ。


「あの人に会えるのも本当に久しぶりだわ。慣れない都会で体を壊したりしてないかしら?」


 魏夫人は真面目な顔でそう言っているのだが、龐舒には呂布が体を壊す様子などまるで想像できない。


 そこは共感できなかったものの、あの畏怖すべき師に会いたいという気持ちは同じだった。


(呂布様がへい州を出て二年、最後に会ってから一年ほどか……)


 呂布が丁原と共に并州を発してから、そして南匈奴きょうどの離反が起こってから、それくらいの期間が経過している。


 その間、龐舒は玲綺、魏夫人と共に并州に留まっていたのだが、しばらくして呂布から文が届いた。


 そこには現在の簡単な政治情勢と、家族を連れて洛陽へ来るようにとの指示が書いてあった。


(なんだか中央政府は大変なことになってるみたいだけど)


 漢という国を乗せた船は、ここ数か月で時化しけにでもあったように大きく揺れていた。


 帝の死をきっかけにして、腐敗宦官とその反対勢力の争いが実際に血を見るまでに至ったのだ。


 この四月に霊帝レイテイが崩御し、その跡を継いで時の大将軍・何進カシンの甥である劉弁リュウベンが即位した。


 この何進という男は宦官かんがん(後宮で働く去勢された官吏)を嫌っていた。


 いや、何進だけではない。世の多くの良識人たちは宦官を皆憎んでいた。


(僕みたいな一般人でも、宦官って聞くと悪徳官吏を想像してしまうもんな)


 龐舒ですらそんな事を思ってしまう。


 もちろん全ての宦官が悪人という訳ではなかっただろう。しかしその多くは皇帝のそば近くに仕えるのをいいことに、賄賂を受け取り便宜を計るなどして政治を大いに腐らせていた。


 帝の死をきっかけにそれを責める世論が爆発し、宦官を排除せよという声は日増しに大きくなった。


 何進はそれを実行しようとしたが、宦官もただ一方的にやられるだけではない。何進自身の親族などを味方に取り込んで対抗した。


 特に何進の妹は帝の母である太后であり、その発言力はかなり大きい。何進もこれを無視できなかった。


 が、その一方で世論の突き上げもある。


 そこで何進の採った方策は、


『洛陽に地方の軍を集め、その武力を背景に宦官排斥の圧力をかける』


というものだった。


 呂布の属する丁原の軍も、何進の勢力の一つに当たる。宦官とその援助者への圧力として存在していたのだ。


(でも、そんな脅すような事をしたから殺されちゃったんだよね)


 何進の末路はそういう悲惨なものだった。


 怯えた宦官たちによって暗殺されたのだ。想像力と警戒心が少々足らなかったようにも思える。


(それで宦官も逆に殺されちゃったわけだけど)


 一方の宦官たちの末路は、これまた輪をかけて悲惨なものとなった。


 何進の暗殺後、その一派であった袁紹エンショウ袁術エンジュツといった若手将校たちが宮中へ乱入し、宦官たちを皆殺しにしたのだ。


 宦官であれば、問答無用で皆斬られた。そして宦官に与していた一部の役人たちも斬られた。


 この復讐で殺された人数は二千を超えると言われる。


 もしかしたら宦官たちは、自分たちがそこまで世間から憎まれているとは思わなかったのかもしれない。


 もし何進さえ殺せば自分たちへの憎しみが去ると考えていたならば、こちらも想像力と警戒心が足らなかったと言わざるをえないだろう。


 呂布はこの一連の事件の中、前帝が崩御した時点で家族に文を送っていた。


『丁原様の言っていた世の乱れが、いよいよ本格的になりそうな気配がある』


 呂布からの文にはそういうことが書いてあった。


 そして龐舒たちが并州を出発して洛陽に着くまでの間に、何進の暗殺や宦官の虐殺など一連の殺し合いが起こっていた。


 道々でそういう噂は聞いてきたから、三人とも大体の事情は把握できている。


 虐殺まであったという洛陽に来るのは正直不安ではあったが、現在の状況はいったんの落ち着きを見せていた。


(今の洛陽は、りょう州の董卓トウタクって人が帝を保護して事態を落ち着かせてるって話だったな。たくさんの人が普通に街中を歩いてるし、もう洛陽で危ないことなんて無いのかも)


 実はこれでも人通りが少ない方なのだが、田舎者の龐舒はまさかそうとも思わない。まるで祭りの日のようだと感心していた。


 ただ、その光景に少し気になるところもあった。兵士と思われる人間の数が妙に多いのだ。


(軍は街の外で野営してるはずだけど……交代で休みを取って、街で息抜きでもしてるのかな?)


 そのくつろいだ表情から多分そうだろうと推測している時、龐舒見ているのとは反対の方から小さな悲鳴が上がった。


「キャアッ」


 見ると、魏夫人が通行人の一人とぶつかったようだ。恐らく珍しいものにでも目を奪われて、前を見ていなかったのだろう。


「あぁ?なんだこのアマ。どこに目ぇつけてやがる」


 ぶつかった男は据わった目で魏夫人のことを睨みつけてきた。一緒に歩いていた仲間も足を止めてこちらを向く。


 三人組の男たちで、やたら体格がいい。


(まずい、こいつら兵士だ)


 龐舒はその体格と物腰からそう思い、心を緊張させた。


 龐舒には軍の経験は無いものの、以前に呂布から、


『兵というものは軍において、常に様々な欲求不満に晒されている。その発散のためにたまに休みを与えられるが、発散前に絡まれると面倒だから街で見かけても近づくな』


そんな話をされた記憶があった。


 そして、今まさに面倒なことになりかけている。


 龐舒は素早く男たちと魏夫人との間に割って入った。


「申し訳ございません。大変失礼いたしました」


 頭を下ながら、魏夫人を後ろへ押しやる。


 適当に取り繕って男たちから離れようとしたが、男たちはむしろ距離を詰めてきた。


「てめぇの主人か。お?よく見りゃ結構な美人さんじゃねぇかよ。許して欲しけりゃ、ちょっと付き合えよ」


 男は龐舒の肩に手を置いて押しのけようとしてきた。


 後ろの男たちも下卑た笑い声を上げる。


「いいな、女を買う手間が省けたぜ」


「俺もそいつでいいぞ」


 男たちの言葉を聞いた龐舒は腹わたの煮えくり返るような思いがしたが、ぐっと抑えて笑顔を作った。


 自分は師から家族を守るよう命じられている。そのためにはまず争い事を避けなければならない。


「どうかご勘弁ください。申し訳ございません、申し訳ございません」


 何度も頭を下げながら、押しのけようとされる力に抵抗した。そして魏夫人を振り返り、目でこの場を離れるよう促した。


 が、魏夫人には伝わらないのか、それとも龐舒を置いて行くのが申し訳ないと思ったのか、困った顔をするばかりで動いてくれない。


 男は龐舒がどかないことに苛立ち、大きな声を上げた。


「邪魔だてめぇ!ぶん殴られてぇのか!?」


 目を吊り上げて手を伸ばし、胸ぐらを掴もうとする。


 龐舒は反射的に腕を回し、その手をきれいに弾いてしまった。呂布との鍛錬で、体を固定されるような拘束は避けるよう叩き込まれていたからだ。


(しまった)


 後悔した時にはもう遅い。腹を立てた男は拳を固めて龐舒に殴りかかってきた。


「てめぇ!!」


(これはもう、気が済むまで殴られるしかないな)


 そう判断した龐舒は飛んできた拳を避けなかった。


 かわそうと思えばかわせるし、なんなら三人同時でも倒せる相手に見える。


 しかし、ここは首都洛陽だ。揉め事を起こせばそれがどう呂布の迷惑になるか知れないから、自分は手を出さないことに決めた。


(ただの被害者ならお咎めもないだろう)


 そんなことを考えながら、いい具合に首を回して衝撃を吸収する。拳にもしっかり手応えが残る程度には当たってやったから、むしろ相手は気持ちよく殴れたはずだ。


 もちろん痛いのは痛いが、幸いここ三年間で痛いのは慣れている。命の危険を感じる呂布の拳に比べれば、蚊が止まったようなものだ。


(さて、何発で機嫌を直してくれるかな?それとも周囲が止めてくれる方が先か……)


 そう思いながら二発目に備えていたが、その二発目は来なかった。


 風のように踏み込んできた玲綺によって、男が倒されたからだ。素早い掌底が見事に顎に決まり、男はその場に膝から崩れ落ちた。


「れ、玲綺!!」


 龐舒は慌てて玲綺の肩を掴んだ。


「揉め事はまずいって!」


「でも、こいつ龐舒を殴ったわよ」


「そんなの大丈夫だから」


「龐舒のほっぺが大丈夫でも、私の気持ちは大丈夫じゃないわよ。お父様だって舐められっぱなしは良くないっていつも言ってるわ」


「いや、呂布様のそういうのを真に受けてちゃ……」


「て、てめぇら……」


 二人が言い合う間に、一度倒れた男は立ち上がって反撃しようとしてきた。


 が、脳が揺さぶられてまともに歩けない。すぐにまた転倒した。


 それを見た男の仲間二人は肩を怒らせて詰め寄って来る。


 やり返してしまった以上、もうただの被害者面で済ませられはしないだろう。


(……仕方ない。こうなったら出来るだけ早く倒して、一刻も早くこの場から立ち去ろう)


 龐舒がそう決めて残る二人に目を向けた時、少し離れた所から別の声が上がった。


「やめろ!!女性相手に何をしてるんだ!!」


 見ると、白馬にまたがった一人の青年がこちらに厳しい目を向けていた。


 齢の頃は龐舒よりも少し上だろうか。非常に整った顔立ちをした青年で、匂うような気品を漂わせている。


 華がある、という表現が当てはまるかもしれない。何もせず立っているだけでも画になりそうな容姿をしていた。


 目の覚めるような鮮やかな白馬に騎乗しているが、その色までも青年を際立たせるための背景に見える。


「何だてめぇは?」


 男の中の一人が青年を睨み上げながら近づいていく。


 その様子は普通に見れば結構な迫力だったのだが、この青年を前にやるとどこか三文芝居じみていて滑稽にすら見えた。


「初めからから見ていたが、そのご婦人は往来で軽くぶつかっただけだろう。それに絡んで狼藉を働こうとするなど、民を守るべき兵のすべきことではない」


 青年の声は少し高くて透明感があり、聞く者の心を潤わせた。


(……えらく見栄えのする人だな)


 龐舒は青年に対し、そういう第一印象を持った。


 どこか貴公子然としており、田舎出の芋くさい自分とは性別以外の共通点が見当たらないようにすら思える。


 しかし、兵たちにとってはただの癪にさわる若者だ。その感情がはっきりと声に現れていた。


「うるせぇな。こっちは一人殴られてんだ。このままじゃ落とし前がつかねぇよ」


「そちらが先に従者を殴ったからだろう。それに女性に叩かれた程度で怒るのは男じゃない」


 玲綺の掌底は叩かれたというような威力ではないのだが、端から見ればそう思えたようだ。


 ただ、どちらにせよ兵たちはそんなことで納得はしない。


 手を伸ばして青年を引きずり降ろそうとした。


「んじゃ代わりにお前の身ぐるみで勘弁してやるよ。上等な服着てんじゃねぇか」


「お、それいいな。このムカつく野郎を裸で歩かせてやろうぜ」


 青年は馬を操ってその手を逃れようとした。


「やめろ!そうやってすぐに手を出すのが悪いことだと言っているんだ!それにお前たちは兵だろう!?街での狼藉は軍法に照らされて処罰されるぞ!」


 馬を回しながらそう言う青年を、兵たちはせせら笑った。


「ははは、それが俺たち涼州兵はそうでもないんだよ」


「俺らの主である董卓様は、兵のやる悪戯は大抵笑って許してくださる。ここ洛陽じゃまだ略奪は止められてるがな、多少のオイタは大目に見てもらえるんだよ」


 龐舒はそれを聞き、強い不安に駆られた。


(董卓って、帝を保護して今の洛陽を落ち着かせてる人だよな?多分、今の洛陽で一番力のある。その人が部下の兵に対してそんな態度で、今後の洛陽は一体どうなるんだ……)


 そんな事を考えはしたが、兎にも角にも今は目の前の兵たちの処理だ。助けに入ってくれた青年を裸に剥かせるわけにもいかない。


(やっぱりこいつらは倒さないと。少しの間、動けない程度に)


 そう思って動き出そうとしたが、その前に玲綺の方を見てその様子を確認した。


 このじゃじゃ馬娘の方が先に手を出しそうだし、過剰に攻撃を加える可能性も高いからだ。


 が、玲綺は全く動いていなかった。


「……玲綺?」


 龐舒がそう声をかけたのは、玲綺が今までに見たことのない表情をしていたからだ。


 頬が淡い紅色に染まっており、目はどこか別の世界を見ているようだった。その視線は馬を操る青年へと注がれ、そこに囚われているかのように離れない。


(なんか……嫌だな)


 龐舒は心の底が焦げるような感覚を覚えつつ、青年の方へ一歩踏み出した。


 なぜか好ましく思えなくなった青年ではあるが、やはり往来で全裸は忍びない。


(出来るだけ早く、怪我をさせないように)


 龐舒はそういう前提で戦い方を組み立てた。


 が、それを実行する前に、また別の声が上がって足を止めた。


袁燿エンヨウ殿!!袁術殿のご子息であられる、袁燿殿ではありませんか!!」


 それは違和感があるほど大きな声で、龐舒だけでなく兵たちもその手を止めて振り返った。


 声の元を目でたどると、一人の中年男性が張り付かせたような笑顔で青年の方を見ていた。


「……許靖様」


 袁燿と呼ばれた馬上の青年は、呼んだ男性のことをそう呼び返した。


 許靖は笑顔のまま、やや早口で喋る。


「お久しぶりです、袁燿殿。こちらの皆さんはお父上の麾下である虎賁兵こほんへいの方々ですか?」


 いきなり出た『虎賁兵』という単語に、兵たちの表情は固くなった。


 虎賁兵とは皇帝の身辺警護なども行う衛士で、軍の中でも特に花形とされる兵たちだ。そしてそれを率いる指揮官を虎賁中郎将こほんちゅうろうしょうという。


「父上の袁術殿は虎賁中郎将でいらっしゃるから、袁燿殿の護衛にも虎賁兵が付くのでしょうね」


「いえ、この人たちは……」


「虎賁中郎将のご子息たる袁燿殿を傷つける人間など、この洛陽にはまさかいないでしょうが。いれば即座に首を刎ねられましょう」


 許靖は相変わらずの笑顔のまま、袁燿の言葉を遮って喋った。よく見ると足が小刻みに震えている。


 許靖の言葉で現在の状況を正確に認識した兵たちは、青くした顔を見合わせた。


 虎賁中郎将は超高級官吏だ。


 いかに董卓が兵の狼藉に鷹揚とはいえ、その息子を往来で裸に剥いてなんの処罰もないということはありえない。本当に死刑でも何ら不思議はないだろう。


 二人の兵はまだ足をふらつかせているもう一人を支え、足早に立ち去っていった。


 袁燿と許靖はその背中を見送ってから、深いため息をついた。


「……許靖様、助けていただいてありがとうございます」


「いえ……というか、ご自身の立場を言えばそれだけで難を逃れられたでしょうに」


 許靖にそう指摘された袁燿は、はにかんだように笑った。


「それは分かっているのですが……父や血筋の威光を背に威張り散らすのが、私にはとても恥ずかしいことに思えるのです」


 許靖はそう言う袁燿のことを立派だと思ったが、若者らしい倫理観のせいで傷つくのも面白くないとも思う。


「血筋とて、袁燿殿の持つ力の一つです。必要な時には使われた方が良いでしょう」


 袁燿は曖昧に笑うだけでそれには答えず、龐舒たちの方を向いた。


「お怪我はありませんか?……といっても、従者の君は殴られてしまったね。私がもう少し早く止めていれば良かったのに、申し訳ない」


 龐舒の立場はなんと言ったらいいか微妙だが、別に従者というわけでもない。


 しかしわざわざ否定する必要もないので、そこは流して頭を下げた。


「いえ、おかげさまで助かりました。なんとお礼を言えばよいのか……」


「わ、私!!」


 と、大きな声を上げたのは玲綺だ。


 その声量に、袁燿はちょっと驚いた顔を向けた。


「私、呂玲綺と申します。あの……丁原様の主簿をしている呂布という者の娘で……」


 呂布の名を聞いた袁燿は、あぁ、と声を上げた。


「あの呂布様のご息女でいらっしゃいましたか。呂布様の武勇はすでに洛陽で知らぬ者がいないほどです」


「え?ただの主簿の父が、ですか?」


「ええ。常に丁原様のそばにあり、その身を守る鉄壁の豪傑がいると大層な評判です。様々な思惑が行き交う今の洛陽で、呂布様がいれば丁原様の身は安全だろうと言われていますよ」


「そ、そうですか……」


「そんな呂布様のご息女なら、私が助けなくてもあんなごろつき兵くらい返り討ちにしてしまったかもしれませんね」


 袁燿は当然それを冗談として口にしたわけだが、横で聞いている龐舒は別の意味で可笑しかった。つい鼻息を吹き出してしまう。


 が、言われた玲綺の方は、今まで龐舒が見たことのない笑い方をした。


 柳のように体をしならせて、上品に口元を覆いながら可愛らしく笑ったのだ。


「ふふ……イヤですわ。私、怖かったんですから」


 その様子を見た龐舒の口は、あんぐりと開いたまま塞がらなくなった。


 玲綺は元が美人だから、今の仕草は世の大半の男が胸をときめかせるほどに愛らしい。


 が、普段の玲綺を見慣れている龐舒からすると、なにか異質な妖怪にでも見えた。


(ば、化けた……女って生き物は……化け物だったのか……)


 龐舒はこれまでに呂布や丁原、張遼といった化け物を目の当たりにしてきた。


 しかし今日、世の中にはまた別種の化け物がいることを知った。しかもその化け物は、人類全体の半分を占めるのだ。


 青年は世界の真理を一つ学び、その分だけ一歩大人に近づいた。

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