呂布の娘の嫁入り噺5
(これが
ビッ
と音がして、振られた戟の穂先は確かに敵の騎兵に届いた。
が、浅い。刃先が皮膚を撫でる程度であり、致命傷には程遠かった。
(間合いが難しいっ)
焦りを覚えつつ、もう一度戟を振る。
二度目の斬撃はもう目測を誤ることはなく、見事に敵兵の首を斬った。
(騎乗しての闘いはまだまだだな……)
そう自省しつつ、馬上で素早く周囲を見回した。
街の通りを騎兵が数騎走っている。そのほぼ全てが龐舒の敵だ。
見慣れた街並みが戦場となり、所々から火も上がっている光景は一見何かの冗談のようにも見える。
が、これは紛れもない現実だった。龐舒たちの住んでいる街は軍によって襲われている。
(実戦で慣れていくしかない!!)
そう気合を入れ直したが、実は本人が思っているほど龐舒の騎馬戦は悪くない。
馬の扱いは十分身についているし、呂布に命じられて死ぬほど体幹を鍛えていたから馬上の動きも安定している。ここ一年は、特に騎乗の鍛錬を課せられていた。
それでも龐舒が苦戦しているのは、敵の騎兵の練度がかなり高いからだ。しかも一人二人ではなく、全体として馬の扱いが上手い。
それも当然の話で、龐舒が相手にしているのは騎乗が日常生活である遊牧民族、
(くそっ、南匈奴は味方じゃなかったのか!?)
龐舒は心の中で悪態をつきながら、また戟を振る。今度の敵も二発目で仕留めることができた。
龐舒たちの住む街を攻めてきたのは、南匈奴とその同盟部族たちだ。
この南匈奴という部族は匈奴の中でも漢に服属している一群で、漢民族とは良好な関係を保っていた。異民族に備えた万里の長城の内側に住むことさえ許されている。
さらに漢の戦力にもなっており、反乱の鎮圧に兵を出したり、北匈奴や
異民族とはいえ、漢民族にとってそういうありがたい部族だったのだ。
しかし龐舒は今、そのありがたい南匈奴たちと武器をぶつけ合っている。
(まぁ……南匈奴の人たちが怒るのも、仕方ないかもしれないけど)
人の好い龐舒はつい敵の事情まで考えて、そんなことを思ってしまった。
漢は
はっきり言ってしまうと、便利使いしていたという事だろう。
過酷な徴兵を強制され、不満が募り、それがついに爆発した。南匈奴内での反乱が起こり、彼らの
漢民族のために兵を出していたことに不満があったわけだから、当然漢民族も敵になる。単于と一体になって自分たちを搾取していたのだ。
(せめて丁原様が刺史のままだったら、ここまで負け戦にはなってなかっただろうに……)
城門はすでに破られ、敵は街の中にまで攻め込んできていた。だからこうして龐舒も戦っているのだ。
ちなみに現在の并州刺史の名は
そして一般人の龐舒が知る由もないが、実はこの時点ですでに張懿は殺されていた。
だからあとは匈奴の兵たちによる街の略奪があるだけだ。
(丁原様ごめんなさい。僕は
心の中で謝りながら、戟を突き出す。今度は一撃で敵兵の心臓を貫いた。
丁原の役職は
現在は首都の洛陽にほど近い
つまりこの危機に、この世で最も頼りになる三人の化け物はいないのた。だから守るべきものは自分で守らなければならない。
(僕が玲綺と奥様を守る!!)
決意とともに心の中でそう叫んだ時、龐舒の後ろで短い風切り音がした。そしてそれに、木の折られる音が重なる。
振り返ると、玲綺が鉾を振って矢を叩き落としてくれていた。矢は龐舒に向かっていたものだ。
「ボサッとしない!狙われてるわよ!」
「あ、ありがと……」
龐舒が礼を言う間に、玲綺は矢を放った騎兵のところへ馬を駆けさせて行く。しなやかな黒髪が揺れ、戦場に天女の羽衣でも舞ったように見えた。
敵の騎兵は武器を弓から鉾に持ち替えた。そして玲綺の騎馬と交差する。
髪のように流麗な玲綺の鉾使いで、敵の穂先は後ろへと流された。そして玲綺の方は、敵の首をしっかりと突いている。
攻防一体の見事な動きだった。
(上手い)
龐舒は感嘆と羨望と情けなさの入り混じった感情でそれを見ていた。
玲綺の技は見惚れるほどに鮮やかなもので、比較すると自分の戦いがひどく泥臭いものに思えてくる。
そんな玲綺を、今度はまた別の騎兵の矢が狙った。匈奴の兵は皆、騎射が上手いのだ。
しかし玲綺は小さく屈むだけでそれを避けた。最小の動きで回避できている。
先ほどの技といい、相手の攻撃に対する感覚といい、玲綺は父である呂布から多くのものを受け継いでいるようだ。
(でも、そんな玲綺だって無敵じゃないんだ!僕がやらなきゃ!)
龐舒は玲綺を狙っていた騎兵へ突進した。その兵は素早く次の矢をつがえて龐舒を射ったが、戟に弾かれて届かない。
来ることが分かっている矢には対処できるよう、呂布からキツく鍛えられている。鍛錬用の矢をしこたま食らったから全身アザだらけにはなったが。
「はぁっ!!」
気合の声とともに、龐舒の戟が繰り出される。その刃は敵の持った弓を折りながら体を突き通した。
その間に玲綺は別の二騎を同時に相手にしていた。
敵の武器を絡ませながら鉾を滑らせ、腕を撫で斬る。そして武器を落とした相手二人を容赦なく突き殺した。
それから周囲を見回したが、これでとりあえず視界に入る敵はいなくなった。
「ふぅ……お母様、もういいわよ」
玲綺にそう言われ、
しかも、それを自分の娘がやっているのだ。
「れ……玲ちゃん大丈夫?怪我してない?」
「私は大丈夫よ。それよりこの馬に乗って。早く」
玲綺は今しがた倒した敵の乗っていた馬の手綱を引き、母の前に連れてきた。
魏夫人は娘に急かされながら鞍にまたがった。
「うん……よいしょっと」
「じゃあさっき話した通り、街の外まで一気に駆けるわよ」
玲綺は早口にそう言って、すぐに馬を走らせようとした。
しかし魏夫人は不安を滲ませた声でそれを止めた。
「ちょ……ちょっと待って」
「何?今は一刻を争うんだけど」
「本当に上手く逃げられるかしら?」
玲綺はそんなことを言ってきた母親に、はっきりとした苛立ちを向けた。
「……お母様、さっきも話したわよね?街の中にまで攻め込まれてるのよ?逃げなきゃもう、どうしようもないじゃない」
古代中国における城とは、多くの場合ひとつの街を高い城壁でぐるりと囲んだものを言う。もちろん純粋な防衛施設として関や砦もあるが、基本的な防衛戦略上の拠点とは城塞都市なのだ。
ということは、街中が戦場になっている時点で最も重要な防衛線はすでに破られているということになる。玲綺の言っている通り、もはや難しかろうが何だろうが街を出るしかない。
が、魏夫人が言いたかったのはそういう事ではなかった。
「あのね、玲ちゃんと龐舒ちゃんだけなら上手く逃げられるんじゃないかって思うの。二人とも強いから」
つまり、自分を置いて行けと言うのだ。
それは純粋に娘たちのことを思っての発言だったが、娘の苛立ちはただただ大きくなった。
「お母様、あのね……」
「僕も玲綺も奥様を置いて行くことはありません。それは奥様もご存知のはずです。ならこの会話は、ただの時間の無駄です」
龐舒にしては珍しく、断定的で強い口調だった。特に魏夫人に対してこんな言い方をすることはまず無い。
だから魏夫人には龐舒の言うことがよく理解できた。
「そう……そうね、ごめんなさい。行きましょう」
魏夫人は馬をくるりと回して城門の方を向かせた。
戦えはしないが、夫の影響で馬の扱いは慣れている。駆けさせるのも人並み以上にはできるはずだった。
「僕が先頭を行きます。奥様は玲綺の近くを走ってください」
龐舒よりも玲綺の方が器用だから、魏夫人を守るにはその方がいいと思った。
玲綺もそれには異論なかったのだが、それとは別に龐舒の方を見て首を傾げた。
「なにそれ?替え馬にする気?」
龐舒の周りには先ほど倒した敵が乗っていた馬が集められていた。手綱は両手に三本ずつ、計六頭の馬を連れている。
手綱は切られて長くされていたが、それでも少し窮屈そうだ。
「替え馬にしてもいいけど、色々使えるかなって」
「……?」
「いや、とにかく急ごう」
龐舒は馬を引いて走り出した。
多く連れているので初めはゆっくりだったが、馬には群れで走ろうする習性がある。段々と加速し、そのうち疾駆と言っていいほどの速度になった。
龐舒の乗騎を合わせ、七頭の馬が並んで走っているのだ。その質量と勢いは、もはや戦車のようなものになった。
「あはは!それすごいわね!」
玲綺が後ろで楽しそうな声を上げた。
龐舒たちの進む道には敵兵もいたが、一丸となった七頭の馬を見て道をあけた。そうしなければ
何人かは矢を射掛けてきたが、匈奴にとって馬は財産だ。勝ち戦で自分たちのものになる馬を傷つけるような射線は避けたし、その本数も少ない。
龐舒と玲綺はそれを捌きつつ、城門へと向かった。
自分たちの走ってきた道を振り返り、龐舒がつぶやく。
「意外に追いかけて来ないね」
「そりゃこんなのを襲うよりも、そこらの民家から略奪した方がいいでしょ」
三人が大きな抵抗なく逃げられているのは、実際のところそれが大きいだろう。
略奪される人たちには申し訳ないが、助けられるだけの余裕などない。自分たちだって殺されるか、奴隷として連れ去られるかもしれないのだ。
ただ城門が見えてくると、玲綺はそればかりが理由ではないことを知った。
「……そうか、出口はがっちり固めてるわけね」
城門には二十人前後の兵が付いており、再び閉じられるのを防いでいた。当たり前といえば当たり前の対応かもしれない。
もちろん中の住人が逃げるのを妨げる目的もあるだろう。人間も労働力としての戦利品だ。
ここを抜くのはかなり厳しそうだったが、龐舒は馬足を緩めなかった。
「龐舒、どうするの!?」
「突っ切ろう!」
「出来る!?」
「やるしかないじゃないか!」
このまま街の中にいたら無事では済まないだろう。ならば出るしかない。
そして、城門以外に出られる道はないのだ。
「ごめんよ……!」
龐舒は謝罪の言葉をつぶやきながら、引き連れた六頭の馬の尻を戟で強く叩いた。
当然馬たちは驚いてさらに加速する。もはや暴れ馬だ。
そして龐舒自身はやや速度を落とし、玲綺たちと並んだ。六頭の暴れ馬のすぐ後ろを、龐舒と玲綺で魏夫人を挟んで進む。
そもそも龐舒は城門の状態を予測していたから、こういう事を考えて馬を引き連れていたのだった。
(上手く走ってくれよ!!)
龐舒は祈るような気持ちでそう思った。
暴れ馬がどのような動き方をするかなど、知れたものではない。作戦と言うにはあまりに疎漏な方策だったろう。
しかし、ありがたいことに馬たちは希望通り城門へと走ってくれた。
いくら人が集まっていても、六頭の暴れ馬を体を張って止めようと思う者などそう居ないだろう。
城門前の兵たちは道をあけ、龐舒たちは上手く突破することができた。
その背中へ矢が射掛けられはしたが、戟と鉾で何とか弾くことができた。
最高速度まで加速していた三頭は、城門の守備兵からすぐに離れていく。
龐舒と玲綺は背後の矢を引き続き警戒しながらも、ホッとした声を上げた。
「た、助かった……」
「龐舒、やるじゃない!」
しかし、唯一前を向いていた魏夫人は二人とは対照的な声を上げた。
「二人とも、前見て前!!」
その視線の先には敵の騎兵隊がいた。
数十騎はいるだろうその部隊は、おそらく予備兵力として城外に布陣していたものだろう。
龐舒たちを見つけると、すぐに馬を駆けさせ始めた。
「み、右手の林へ!!」
三人は急いで方向転換し、林の中へ逃げ込もうとした。
敵部隊との距離はそう遠くない。林まではギリギリ辿り着けるかどうか、微妙なところだった。
「あの人数は抜けないわね……何とか撒かないと」
「林まで行ければ何とか……なんなら林の中で馬は捨てて、木の密集した所へ逃げ込もう」
「そうね……あっ!駄目!」
玲綺は急に大きな声を上げた。
「え?何が?」
「林の中!伏兵がいるわ!」
言われて目を凝らすと、確かに林の奥の方で動いているものが見える。
玲綺は龐舒より目がいい。それらが兵であることがはっきりと認識できていた。
玲綺は歯ぎしりしながら周囲を見回した。
他に逃げられそうな所は見当たらないが、それでも何とかして逃げなければならない。
「どう動けばいいかしら……林に沿って走って、どこか逃げ込めそうな所を探して……」
やや絶望に染まりかけた心を叱咤して、必死に頭を回転させる。
できなければ、捕まって殺されるか奴隷になるのだ。
玲綺のつぶやきには絞り出すような苦渋が滲んでいる。
しかしそれに応じた龐舒の声は、意外なほどに平静なものだった。
「いや……このまま進もう」
「えっ?何言ってんの!?伏兵の所に突っ込んで行く馬鹿なんていないわよ!」
「いや、でもあれ……感じない?」
「感じる?何をよ?」
「僕は玲綺ほど目が良くないからあんまり見えないけど……この感じは……」
「…………?」
玲綺は眉根を寄せながら、再び目を凝らす。そして小さな声を上げた。
「あっ!!」
その声をかき消すように、敵部隊の馬蹄が後ろから迫って来た。敵の方は馬が疲れていないからだろうが、徐々に距離を詰められている。
そして林に入る直前で、龐舒たちはついに追いつかれた。
それと同時に、林の中からも騎馬たちが飛び出して来た。
本来なら挟み撃ちになるのだから、死を覚悟するしかない状況だろう。
が、三人の頭には恐怖などまるで浮かばず、むしろ完全に安心しきっていた。
世界で一番頼りになる存在が、林の中から現れたからだ。
「呂布様!!」
「お父様!!」
「あなた!!」
林の中から現れたのは、騎兵隊を引き連れた呂布だった。丁原が援軍として一軍を派遣してくれており、その部隊を率いて来たのだ。
呂布は三人の声に答えるように戟を振り、敵部隊の先頭を紙屑のように吹き飛ばした。
そしてそのまま勢いを止めず、敵の編隊を真ん中から断ち割っていく。それに触れた兵たちは、その身体も無惨に断ち割られていった。
伏兵に遭った形になった敵兵たちは焦った。しかも伏兵たちの先頭を行く男は、鬼神かと思えるほどの武力を有しているのだ。
完全に混乱に陥った部隊は、呂布の率いる騎兵たちによって蹂躙されていく。
呂布の騎馬隊は丁原が派遣したものだが、騎都尉になった丁原の麾下は
龐舒は一方的に攻めまくる味方を見て安堵したが、その一方で己の中に
それは目の前の兵たちの強さが原因ではない。呂布とすれ違った時に見た、呂布の口の動きのせいだった。
(『良くやった』って、言ってくれてた……玲綺と奥様を無事にここまで連れて来られたことを、褒めてくれたんだ)
声が聞こえたわけではなかったが、確信を持ってそうだと思えた。
その聞こえもしなかった労いの一言で、全てが報われたと思った。
(僕は、もっと役に立ちます!)
龐舒は馬を翻し、呂布の後を追った。
そして戟を振るい、崩れた敵部隊の殲滅を手伝いながら呂布へと追いついた。
「呂布様!来てくださったんですね!」
「手短に状況を言え」
呂布は弟子の感動には付き合わず、すぐに現実への対処を始めた。
龐舒も即座にそれに応じる。
「城門が破られたのは半刻ほど前です。城内はほぼ敵が制圧しているようですが、北東の方だけ激しい戦闘音が続いています」
一般人として分かるのはその程度だったが、それでも十分な情報だった。
呂布は自軍の兵に向かって声を上げた。
「城はすでに落ちている!我々に今出来ることは、可能な限りの住民を逃がすことだ!まずは北東の生き残り部隊と合流して軍を立て直し、その後住民の誘導を開始する!後ろの張遼にもそう伝えろ!」
その言葉を受けて、すぐに伝令が走った。
(張遼様も来てるのか)
その事は龐舒をさらに安心させた。
それから呂布は龐舒の方を向いた。
「林の向こうに
「玲綺と奥様が安全なら、僕も呂布様と一緒に行かせてください」
その言葉に、呂布は龐舒の目を覗き込むように見た。
そこに何を感じているのか龐舒には分からなかったが、一瞬の後、師はうなずいてくれた。
「いいだろう。役に立て」
「はいっ」
短い返事とともに、馬を進めて呂布と並ぶ。
龐舒はこの偉大すぎる師と馬を並べて戦えることを、心の底から誇らしいと思った。
***************
「なんだお前の騎乗術は。さては俺がいない間の鍛錬をサボっていたな?」
戦いが終わってからの道中、師からそう言われて龐舒はうつむいた。
サボってなどいない。むしろ師を驚かせてやろうと思い、課せられたもの以上をやってきたのだ。
にも関わらずこのようなことを言われては、本当のことなど言えようはずもない。小声で嘘を言った。
「いえ……言われた通りの量を毎日やってました……」
「ならば、課した量が足らなかったということだな。増やすぞ。次に会う時までしっかりとやれ」
そう言われて課された量は龐舒が多めにやっていたものときっかり同じだったのだが、それよりも別のことが気になった。
「あの……次に会う時までってことは、僕たちはまだ呂布様の駐屯している
龐舒はこの後、玲綺や魏夫人とともに呂布の住む地へ移住することになると思っていた。もと住んでいた街は南匈奴たちによって落とされたのだ。
しかし、呂布にそのつもりはなかった。
「いや。各地の情報を聞くに、河内郡も安全とは言い切れん」
呂布の話はあながち的外れでもない。
黄巾の乱後、各地で起こっている反乱の一つはこの翌年には河内郡の隣りにある
ちなみに河内郡も河東郡も、首都洛陽のある
「では、避難民の人たちと一緒にしばらく近隣の街に住むのでしょうか?」
龐舒は背後を振り返りながらそう尋ねた。
二人の後ろには、街から避難させた住人たちの列が続いている。一体何人いるのか、数える気にもならないほどの人数がいた。
呂布と張遼の連れて来た軍は相当数の住人を逃がすことに成功した。
やり方が上手かったということもある。張遼の案だったが、敵へ、
『自分たちは住民を避難させるためだけに戦う。それを邪魔するならば容赦しないが、そうでなければこちらからは攻撃しない』
と何度も宣言しながら軍を動かしたのだ。
もちろん人間も戦利品になるから鹵獲したかったろうが、それを見逃しても物品は獲り放題なのだ。あえて攻撃してくる部隊は少なく、住民の避難は順調に行えた。
ただし、呂布は最後の引き際に置き土産を残した。城門を派手に壊し、火をかけてから去ったのだ。
『匈奴は防衛力の低くなった街にあえて駐留せんだろう。獲る物を獲ったら出て行くはずだ』
呂布はそう言っていた。
そうなれば荒らされているとはいえ、住民が戻るのも容易になる。周辺の街も難民問題が早めに片付くなら、ある程度は戻るのを支援してくれるはずだ。
「お前たちには避難民とは別の村に移ってもらうつもりでいる。そのうち中央に呼ぶことになると思うが、今しばらくはそこで暮らせ」
「そこが安全ということでしょうか?」
「そうだ。大して裕福でもないが、強力な自警団の組織されている地域がある。今の時代、そういう所が一番安全だ」
「……なるほど」
龐舒は呂布の言うことを噛み砕いて考え、納得した。
賊にしろ反乱軍にしろ、狙いたいのは弱くて美味い獲物だ。強くて不味い獲物をわざわざ襲わないだろう。
それに、今は残念ながら公的な軍が頼りになるとは言い難い時代だ。その一方、自らの地域に責任を持つ自警団は常に信頼が置ける存在だと言える。
事実、ちょうどこの頃の史書にも自警団に阻まれて得るところなく去った南匈奴の話が載っていたりする。
「分かりました。呂布様が呼び寄せてくれるのをそこで待ちます。それまで玲綺と奥様は、僕が必ず守ります」
実際には今日もずいぶん玲綺に守られたのだが、龐舒は今後の決意も含めてそう宣言した。それが敬慕する師にとって、何より役に立つことのはずだ。
師もその言葉にしっかりとうなずいてくれた。
龐舒はそのことにまた心を昂らせながら、ふと一年前の丁原の言葉を思い出していた。
「そういえば、丁原様は本当にご慧眼でいらっしゃいますね。『世が乱れる』って、今日のことを予見できていたみたいです」
しかし呂布は首を横に振ってそれを否定した。
「何を言っている。丁原様の指していたのは、この程度の事態ではない」
言われた龐舒は驚いた。
かなり多くの人が傷つく事態になったのだが、それが『この程度』なのか。
「え?で、でも街一つが落とされて、州の刺史まで殺されて……」
「被害が小さかったとは言わんが、こんなものは言ってみればただの一反乱だ。丁原様が言っていたのは、もっとこの国の根幹を揺るがすようなものだぞ」
「国の、根幹?」
「そうだ」
そう言われても、龐舒にとってはあまりに話が大き過ぎて想像もできない。
「それは……具体的にはどういう事態なんでしょうか?」
「先のことだ。具体的なことまでは誰にも分からん。ただ、その時に力が必要になることだけは確からしい」
「力……」
「そう、力だ。力のない者は、力のある者に喰われる。そういう時代が来るのだそうだ」
人が、獣のような生き方を余儀なくされる時代が来るということだろか。
龐舒はそのことを想像して、身震いを起こした。
「だからお前はもっと強くなれ。お前が俺の家族を守るというのなら、強くなってもらわねば困る。お前は力ある者になるのだ」
そう言って呂布は、今後行うべき鍛錬を再び弟子に示した。
が、なぜかその量は先ほど言われたものよりもずっと多く、厳しくなっていた。
(……え?なんで増えたの?)
人間は予測嘔吐というものができる生き物で、実際に嘔吐すべき物質や状況に晒されていなくても吐いてしまうことがある。
龐舒は師の課した鍛錬の内容を頭の中でなぞってみて、早くも吐き気を催していた。
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