呂布の娘の嫁入り噺2

 龐舒ホウジョは今日も、まだ夜が明け切らぬうちに目を覚ました。


 この頃に鳴き始める鳥がいるのだ。その歌声で起きるのが習慣になっていた。


(眠い……)


 まだ十四で育ち盛りの本音としては、少しでも長く寝台の上にいたかった。


 が、その欲求をグッと抑えて体を起こす。毎朝のこの瞬間が人生で一番力の要る時なのではないかと思うほどに大変だったが、そこは頑張らなければならない。


 この家に来て一年余り、龐舒は早起きを続けていた。


 モソモソと寝台を降り、眠気まなこをこすりながら水場へと向かう。


 顔を洗い、口をゆすいで気合を入れると、炊事場へと向かった。まずは火の準備だ。


 枯れ杉に火を点けて薪を放り、十分な大きさになったら次に食材を取り出した。


 野菜と干し肉を切り、穀物と一緒に鍋に入れてから火にかける。薪を少し足すと、龐舒の仕事は一息ついた。


「よし。これで鍛錬が始められるぞ」


 しばらくは放っておいてよくなった鍋を背を向け、炊事場を離れた。


 外に出ると、ちょうど太陽の全体が出たところだった。その眩しさと朝の清らかな空気とが心地良い。


 一度大きく伸びをしてから、壁に立てかけてあった棒を手に取った。訓練用のげきだ。


 呼吸を整え、教えてもらった構えを取り、振る。


 短く風を切る音がして、戟の先は地面スレスレのところでピタリと止まった。


 龐舒は同じ動作を何度も繰り返した。


 それが百回になった頃には額にじんわりと汗が滲んできていた。


(一年前は、百回も素振りをしたら息が上がってたんだけどな)


 そういう変化があると、自分が強くなったのではないかと思うこともあった。


 が、それを口にしてはいけない。口にすると、恐ろしいことが起こる。


『では試してやろう。お前が強いかどうかを』


 師からそう言われて、半殺しの目に遭うのだ。


 龐舒はその時のことを思い出し、暑いのに鳥肌が立った。


 恐怖を振り払うように、今度は横薙ぎの型を百回繰り返した。その次は振り上げる型を、その次は突きの型をやった。


 そうして基本の型を全てやり切ると、今度は木剣を手に取った。剣の型も同じように百回ずつ繰り返していく。


 合間合間に炊事場の様子も見に行った。火を調節し、塩や香辛料を加える。


 そして最後の型をやり終えた時、バタバタと騒がしげな足音が聞こえてきた。


「今日も寝坊しちゃった、ごめんね龐舒ちゃん」


 そう言って小走りに駆けて来た女性を見て、龐舒の表情は緩んだ。


「おはようございます、奥様」


 女性はこの家の奥方で、夫人という。


 魏夫人は可愛らしい寝癖のついた髪を押さえながら、火にかかった鍋を開けた。


「おはよう……あぁ、やっぱりもうほとんど出来ちゃってるわね。全部やってもらってごめんなさい」


「いえ、でも最後の味の調節だけはお願いします。僕じゃ奥様みたいに上手には出来ませんから」


「まぁ、龐舒ちゃんは相変わらず口が上手ね」


 魏夫人はそう言ったものの、別にお世辞でもない。同じ調味料を使っても、魏夫人が味付けをすると料理は格段に美味くなった。


 龐舒も料理には自信がある。というか、物心つく前に母が亡くなっているので家事全般には慣れているのだ。


 だから龐舒はこの家に来てから、魏夫人の仕事をあれこれと手伝っていた。


「龐舒ちゃんがうちに来てからすごく助かってるわ。本当にうちの子になってくれたらいいのに」


 魏夫人は懐から手拭いを取り出し、龐舒の額の汗を拭いてくれた。


 手拭いに付いた魏夫人の匂いが顔にかかり、龐舒は顔が熱くなるのを感じた。これでは拭いてもらってもすぐに汗が吹き出てくる。


「いえ、そんな……」


「何を朝から鼻の下を伸ばしている」


 そんな野太い声をかけられて、緩みきった龐舒の顔の筋肉はすぐに引き締められた。


 龐舒の師であり、この家の主である男が起き出してきたのだ。


「お……おはようございます、呂布リョフ様」


 呂布は顎に手を当て、首をゴキゴキと鳴らしながら歩いて来た。


「うちの家族になろうなどと、厚かましいことを考えているのか」


 言っていない。


 魏夫人がそう言っただけで、龐舒はそんなこと一言も口にしていなかった。


 が、そう抗議しても機嫌を損ねるだけだ。それが分かっている龐舒は、わざわざ悪手を選択しなかった。


「いえ……ここに置いていただいているだけで十分です。本当にありがたく思っています」


 龐舒は呂布に助けられた後、この家の居候のようなものになっていた。


 居候とはいっても、役には立っているはずだ。


 前述のような家事に加えて、呂布が持ち帰ってくる仕事まで手伝っていた。


(呂布様って、意外にも事務職なんだよね)


 誰よりも強いであろう肉体を持った呂布は普段、頭脳労働をしている。そのことを初めて聞いた時にはひどく驚いたものだ。


 現在の呂布の立場はへい州の『主簿しゅぼ』というものだが、この主簿は公文書や会計帳簿などを司る役職だ。完全な事務方になる。


 そして龐舒は読み書き計算が十分できる上、実は亡くなった父も州の事務官だった。その話を多少聞いていたから、やり方を説明されればそれこそ呂布よりも速く仕事を片付けられた。


『……役に立つのなら、置いてやらんこともない』


 初めは短期間だけ泊まらせてやるつもりだったであろう呂布は、龐舒の仕事ぶりを見てそう言った。


 ただし、と条件を一つ付け加えた。


『ただし、お前が強くなることが条件だ』


『強く?』


『そうだ。俺は諸事情で、多くの人間から恨まれている。だからこの間のようにまた家族を狙われないとも限らん。お前が俺の課す鍛錬に耐え、強くなり、家を守る男手としての価値を持つのならこの家に居させてやる』


 龐舒は少しだけ逡巡したものの、すぐにうなずいた。


(強い人間になりたい)


 そう思ったのだ。

 

 少し前までの龐舒なら、そんなことは思わなかっただろう。むしろ『弱くても正しい人間になりたい』と思っていたはずだ。


 しかし、龐舒は現実というものの理不尽さに晒された。


 そんな正しくないものを受け入れるつもりは毛頭ないが、受け入れないためにも力が要ることを学んだ。


 初めは反発していた玲綺レイキの『現実はいつも力を持ったものが決める』という発言も、身に沁みて感じるものがあるのだ。


 だからこの一年、龐舒は強くなろうと呂布のしごきに耐えてきた。


(半端なく辛かったけど……)


 呂布の課す鍛錬は厳しかった。


 呂布自身が人並み外れた運動能力を持っているせいか、普通では考えられないほど量をこなさせられるのだ。


 ありえないほど走らされ、ありえないほど素振りさせられる。実戦形式の稽古の時は、少しでも気を抜けば死ぬほど打ちつけられる。


 何度も耐えられず倒れたり、吐いたり、動けなくなったりした。


 すると呂布は、


『弱いから出来ないのだ。強くなるために、もっと鍛錬を増やさねばならんな』


などと無茶苦茶な理論を展開する。


 そして、実行する。


(自分でも知らなかったけど、僕は生まれつき頑丈なんだろう。普通ならとっくに死んでるよ)


 この一年を思い起こし、大げさでなくそう思った。よく死ななかったものだ。


(あと、魏夫人と玲綺のおかげだな)


 ものを言うのもためらわれるほどに恐ろしい呂布だが、妻と娘の言う事ならある程度聞いてくれた。


 二人は何度も龐舒のために怒ってくれて、それで命を繋いだというところがある。


 あと家事や呂布の仕事の手伝いが多い時も休めたので、龐舒は自然と働くのが好きになっていた。


(魏夫人……母上って、こんな感じなのかな?)


 龐舒には母の記憶がほとんど無いので、そんなことを思ったりもする。


 ただ、十六で玲綺を産んだ魏夫人は今年で二十八だ。龐舒とは齢が倍違うとはいえ、母と考えるにはやや若過ぎる。


 それに玲綺によく似た美しい顔立ちは、龐舒をドギマギさせるほどに魅惑的だった。今も汗を拭かれるだけでつい赤面してしまっている。


 そんな魏夫人は龐舒の後ろに回り、その肩に手を置いた。


「あなたが正式な養子にしなくても、私は龐舒ちゃんのことを勝手に息子だと思ってるからいいわよ。こんな可愛いらしい息子、あなたからは産まれないでしょうけど」


 夫にそう言ってやり、心の息子を背中から抱きしめる。


 その柔らかい感触に、龐舒の頭は真っ白になった。


「ふん、こんな弱いのが俺の息子なわけがない」


 不満げに鼻を鳴らした呂布は大きな手を伸ばし、龐舒の頭をむんずと掴んだ。


「おい、お前は一体いつになったら強くなるんだ?ここに置いてやる条件はそれだったはずだぞ」


 死ぬほど努力してきたつもりの龐舒としては、そう言われると返す言葉が見つからない。


 そんな龐舒を魏夫人が耳元から援護してくれた。


「龐舒ちゃんは十分強くなったでしょう?ここに来た頃と比べると、まるで別人みたいな動きをしてるわ」


「でもお母様、いまだに実戦稽古で私に勝てたことがないのよ?」


 と、娘の玲綺も起きてきて、余計な口を挟んできた。


「玲ちゃん、おはよう」


「おはよう」


 母へ挨拶を返してから、玲綺も訓練用の木剣を取った。龐舒と同じように日課の素振りをするのだ。


 人さらいに遭って以来、玲綺は父に武術を教わっている。あの屋敷でも言っていたが、自身が力を持たなければならないと思ってのことだった。


 さすがの呂布も可愛い娘に龐舒と同じような死の鍛錬は施さなかったものの、それでも普通の道場以上のことはさせていた。


 そしてやはり呂布の血筋か、玲綺の武術の成長速度はちょっとありえないほどだった。


「でも龐舒ちゃんが玲ちゃんに勝たないのは、女の子を相手に遠慮してるからでしょ?」


 魏夫人が当たり前のようにそう言うものだから、龐舒は余計に恥ずかしくなってうつむいた。


 本気の本気でやっても勝てないのだ。こちらは死ぬほどの鍛錬をしているのに。


 玲綺は木剣を構えながら笑った。


「んー……仮に遠慮があったとして、龐舒がそれをしなくても、今後どれだけ鍛錬を積んでも、永遠に負けない気がするのよね」


 言われた龐舒はムッとした。


 永遠というのは酷くはないか。自分は確かに成長しているし、いつか玲綺から一本取れる日が来るかもしれない。


 そう思った龐舒は口をとがらせて抗議した。


「そんなの分からないじゃないか。僕だって強くなってるんだ」


「……ん?」


 と、呂布が短い声を出したのを聞いて、龐舒は激しい後悔にかられた。


「強くなってる?お前がか?ならば今日、仕事から帰って来たら試してやろう」


 先ほどまで上気していた龐舒の顔は、見る間に青ざめていった。

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