呂布の娘の嫁入り噺1

↓挿絵です↓

https://kakuyomu.jp/users/bokushou/news/16817139554954638922


*本作を執筆するに当たり、一部の人物の名前をコーエー様のゲームから拝借させていただきました。


 その方が読者の方に馴染みやすかろうと思ってそうしただけなので、二次創作というわけではありません。期待して開いた方はごめんなさい。


 女性の名前は史書では伝わっていないことが多いので、いつもなら勝手に名前をつけてしまいます(妃紗麻キーシャオがそうでした)。


 でもそれだと作品ごとで人の名前が違うことになるんですよね。歴史小説を書く人間にとって本当に悩みの種なのです……



***************



 龐舒ホウジョは小さな部屋の片隅で、膝を抱えて泣いていた。


 なぜ泣いているのか。


 理由はいくつかあるが、一番大きいのは父が処刑されたからだった。


「父上……」


 龐舒は小さくつぶやいてから、また涙をこぼした。


「なんで父上が死なないといけないんだ……」


 父は清廉な役人だった。にも関わらず、罪を得て処刑された。汚職だという。


(冤罪だ)


 息子はそう信じて疑わなかった。


 父は常に正しくあるべし、くあるべしと教えて息子を育てた。それこそが人の歩むべき道なのだと。


 そんな父が賄賂を受け取ったり、帳簿を書き変えて便宜を計ったりするはずなどない。実際、家には汚職をして得たはずの財貨など無かったのだ。


 しかし、それでも不正利得を返済せよという役所の命令は実行された。


『返せるものがないなら体で払え。今日からお前は奴隷だ』


 役所から来たという悪辣あくらつな面をした男がそう言って、龐舒は人買いに売られた。そして今ここにいる。


『十三の健康な男子か。体格も悪くないし、これは優良物件だな』


『それだけじゃない。しっかりとした教育を受けてるから、読み書きや計算も十分できるぞ』


『そりゃいい。おい、お前は特別待遇にしてやる。育ててくれた親に感謝するんだな』


 人買いとの間にそんな会話が交わされ、龐舒はこの小さな部屋に押し込まれた。


 他の奴婢の扱いがどうなのかは分からないが、この部屋よりも暗くて不潔なところがあるのだろう。少なくとも、この部屋は出られないこと以外にはひどく困ることもなかった。


 ただ、龐舒はそのことに感謝する気にはなれない。


「父上……」


 龐舒はまたつぶやいて、膝に額を押し付けた。


「全て失いました……僕にはもう、何一つありません……」


 母は幼い頃に亡くなったので、自分の家族は父一人だった。その父を失って、一人ぼっちになってしまった。


 しかも家財まで奪われ、あまつさえ人買いに売られたのだ。


『もうお前のものは何一つない。その服だってお前のものではないし、服の中身だってお前であってお前のものではない』


 ここに来て、そう言われた。


 今日まで平凡な日常を生きてきた十三の少年にとって、あまりに辛い現実だった。


 耐えきれず、また涙が流れてくる。


 しゃくり上げてむせび泣くが、やはり現実は変わらない。


(このまま奴婢ぬひとしての人生を送るしかないんだ……)


 龐舒は諦めるようにそう思った。


 その時、廊下の板がきしむ音が聞こえてきた。どうやら誰かがこちらに歩いて来ているらしい。


 足音は龐舒の部屋の前で止まり、ガチャガチャと錠前を開ける音が聞こえてきた。そして扉が開かれる。


 龐舒はその扉から覗いた顔を見て、目を丸くした。


 人買いのいかつい顔が現れると思っていたのに、視界に入ったのは可憐なほどに美しい少女の顔だったからだ。


「え?」


 と驚く龐舒へ、野太い声がかかる。


「おう、新入りだ。仲良くしてやんな」


 少女の後ろから人買いが顔を出し、そう声をかけてきた。


 人買いは少女の背中を突き飛ばすように押した。それで倒れた少女が顔をしかめたのを見て、龐舒は強い苛立ちを覚えた。


 が、人買いはそんなことに頓着する様子はない。ぶっきらぼうに二人に告げた。


「狭い部屋に二人になるが、これでも他の奴婢よりゃだいぶマシなんだからな。売られるまで、ちゃんと元気でいろよ」


 それだけ言うと、扉に錠前を下ろしてからさっさと去って行った。


 残された少女と龐舒は、一度視線を交わしてから下を向いた。


 少しの沈黙の後、龐舒は目を上げて口を開いた。


「……僕の名前は龐舒ホウジョ。君は?いくつ?」


 問われた少女も視線を上げた。


 その小さな動きで長いまつ毛が跳ね、それが不思議と龐舒の心臓も跳ねさせた。


玲綺レイキ。十一よ」


 まるで鈴の音のような声だと龐舒は思った。


「玲綺……も、売られちゃったの?」


 龐舒は当然そうだろうと思って尋ねたのだが、意外にも玲綺は首を横に振った。


「ううん。さらわれちゃったの」


「攫われ……かどわかしかい?」


「拐かしといえば拐かしなんだけど……家を襲われたのよ。お父様に恨みを持ってる人がいて、その仲間が家族を狙ってきたの。お母様はちょうど外出中で助かったんだけど、家に一人でいた私だけが捕まっちゃって……」


 玲綺の話を聞いた龐舒は衝撃を受けていた。


 父の冤罪の件でも世の理不尽さに圧倒されていたのに、今また新たな理不尽を目の当たりにしている。


 それは世間というものをよく知らない十三の少年にとって、世界が変わりかねないほど衝撃的な現実だった。


「ひどい……でもそれなら、売られた後に上手くすれば帰れるんじゃない?」


「すごく遠い所に売られるって聞いたわ。そんなに簡単じゃないみたい」


「……そっか」


 理不尽だ。どうして世の中はこんなに理不尽なのだろうか。


 父に正しくあれ、善くあれと言われ続けてきた龐舒にとって、それを受け入れるのは簡単ではなかった。


(もっと正しくて善い世界だったら良かったのに……)


 そう思いながら、龐舒は謝った。


「ごめんね」


 玲綺は突然の謝罪の意味が分からず、ただ問い返した。


「え?何が?」


「だって僕は十三で君より二つも年上で、しかも男なのに君を助けてあげることができないんだ。だから、ごめん」


 玲綺は再び謝った龐舒をいぶかしげに見ていたが、やがて春風が吹くような笑みを吹き出した。


「ふふ……変な人」


「……?何が?」


「だって、出会ったばかりの私を助けないといけない理由なんてないでしょう。しかも二歳違うとかでそんな……」


 玲綺の言うことを、龐舒はかぶりを振って否定した。父から教わった人の道はそうではない。


「でも、それが正しくて善いことだと思うんだ」


 しかし、自分にはそれを実行するだけの力がないのだ。


 扉を出た廊下の先には見張りがいるし、そこを抜けたとしてもこの屋敷は砦かと思えるほどに広く重厚な作りをしている。


 自分の力で抜け出せるとは思えなかった。


 だから龐舒は情けなくて、申し訳なくて、思わず謝ったのだった。


 玲綺はそんな龐舒が可笑しくて、この少年のことを知りたいと思った。


「龐舒はどうしてここにいるの?」


「父上が汚職で処刑されたんだ」


「汚職?」


「冤罪だよ。でも有罪になっちゃって、そうすると汚職で得た銭を返せって事になって、でもそんな資産うちには無くて……」


「それで龐舒が売られたんだ」


「そう」


「そっか……でも、仕方ないね」


「えっ?」


 龐舒には玲綺の言っていることの意味が分からなかった。


 仕方ない、とはどういう事だろう。


 父と自分は何も悪くないのに酷い目に遭っている。なぜそれが仕方ないのか。


「仕方ないって、なんで?」


 問われた玲綺は、ごく自然に笑いながら答えた。


「だって、現実っていつも力のある方が決めるものでしょ?お父様の冤罪は気の毒だけど、それを晴らすだけの力が無かったから仕方ない。龐舒が売られたのも、逃げる力も払う銭もなかったから仕方ない。現実って、そういうものだから」


 言われた龐舒は、正直不快に思った。


 こんな綺麗な少女の口から平然と理不尽を肯定する言葉が出ているのが嫌だった。


「僕は父上からそうは教わらなかったな」


「そうなの?私のお父様はいつもそんなことを言ってるけど」


「現実が正しくないのなら、正しくなるよう努力すべきだ」


「もちろん、そう出来るだけの力があるならそうすればいいわ。でも結局、力のあるものが現実を決めるのは仕方がないことなのよ。私がこうやって捕まってるのも仕方がないことだし」


「玲綺が言ってるのは、ただ現実を諦めてるだけじゃないか」


「そんなことはないわ。現実を自分で決めるために、力を持つべきだって言ってるの。私のお父様は強かったから、その威を借りられた私も昨日までは強かった。でもお父様から切り離された今、私自身がもっと力を持たないといけないって思ってるのよ」


 龐舒には玲綺の言っていることの筋は理解できたが、正しいとは思えない。


 いや、正しいかどうかとは別次元にある話なので、正しさで捉えようとするところに無理があるのは分かっている。


 それでも常に正しさという方向から物を考えてきた龐舒にとって、玲綺の話は受け入れるのが難しかった。


 だから少しだけ意地悪な質問をしてしまった。


「……玲綺はこんな状況で、どう力を持つ気なの?」


 玲綺は口元に手を当て、少し考え込んでから方策を述べた。


「そうね……とりあえずここの連中のうち、力のある人間の愛人にでもなれないかしら。私くらいのが趣味なのもいるかもしれないし。そうしたら変なところに売られずに済むし、この近辺にいれば元の家に逃げやすそうだし」


 ごくごく真面目な顔つきでそう言う玲綺に、龐舒は啞然あぜんとしてしまった。


 まだ十一の可憐な少女の考えることには到底思えない。


 が、これが玲綺という少女だった。


(嫌だな……)


 龐舒がそう思ったのは、玲綺という人間に対してではない。玲綺が中年親父の愛人になったところを想像して、それを嫌だと思ったのだ。


(何とかこの子だけでも逃してあげられないかな)


 龐舒が部屋を見回した時、遠くの方から怒鳴り声が聞こえてきた。


 はっきり聞き取れないが、なにか揉めているようだ。


「…………?」


 二人は耳を澄ませて何が起こっているのかを知ろうとした。


 人買いの屋敷はあまりに広壮なので、端の方で起こっている音など普通なら聞き取りようがない。


 しかし今は、それでも揉めていることが分かるような大声が響いてきていた。


「なんだろう?」


 龐舒がそうつぶやいた時、金属と金属のぶつかる音がした。


 その硬い音で、二人は武器を使った争いが起こっていることを知った。


 しばらくすると、扉の向こうにバタバタと誰かが走ってきた。どうやら見張りの人間へ連絡に来たようだ。


「おい、お前も来て手を貸せ!」


「なんだ、襲撃か?」


「ああ、商品を取り返しに来た馬鹿が暴れだしたんだ」


「数が多いんだな?」


「いや、一人だ」


「一人?それなら常駐の守衛だけで大丈夫だろ」


「それがヤバイくらいに強い野郎なんだよ。ここには今ガキが二人入ってるだけだろう?ちょっと抜けたって構やしねぇよ」


「そりゃ分かったが……その馬鹿、この屋敷に何十人いると思ってんだ。一人でそれを全員やるつもりかね?」


 二人はそんな話をして駆けて行った。


 二人の足音が聞こえなくなった頃、玲綺がポツリとつぶやく。


「今のうちに逃げようかな……」


「えっ!?」


 龐舒は驚愕の顔つきで玲綺の顔を見たが、自分より二つ下の少女はごく落ち着いた顔をしていた。


「で、でもさっき愛人がどうとか……」


「別に愛人になりたいわけじゃないわよ。それが力を持つために効率がいいって思っただけ」


「そ、そっか……逃げられるかな?」


「とりあえず、ここの扉は蹴破れそうだったわ。錠前は頑丈そうだったけど、それが付いてる金具が緩んでたの」


 龐舒はそこまで冷静に見ていた玲綺に驚きながら、これから取るべき行動について逡巡していた。


(捕まったら殺されるかもしれないな……いや、商品だから殺されはしないか。でも、ひどく痛めつけられるんだろうな……)


 いかつい人買いに殴られることを想像して心を塞ぎかけたが、直後にその腕に抱かれる玲綺の姿が浮かんで口元を引き締めた。


(父上なら、きっとこの娘を助けてあげるはずだ)


 そう思い、心を決めた。


「父上……僕は父上の息子です……」


「え?何?」


「いや、なんでもない。玲綺の言う通り逃げよう。もし捕まったら、僕が無理やり引っ張って来たと言うんだ」


「でも、そんな」


「いいから」


 困り顔の玲綺を半ば無視するように立ち上がり、扉へと向かう。行動するなら早い方がいいだろう。


 扉の前に立ち、深呼吸した。


 そして扉に前蹴りを食らわせる。


「……何やってるのよ」


 玲綺が呆れたような声を出した。


 それも仕方のないことで、龐舒の蹴りは扉を破るどころか、大きめの音を立てた程度の威力だったのだ。


「い……今のはわざとだよ。音に反応して誰か来ないか確認したんだ」


 そうは言ったものの、本当は上手く体が動かなかったのだ。物を派手に壊すようなことを普段からしていないから、その行動に心理的な制動がかかっていた。


(体重をかければきっと大丈夫だよな)


 やや恥じ入りながらそう検討をつけ、後ろに下がった。助走をつけるためだ。


 龐舒の体格は悪くない。一昨年くらいから急激に身長が伸びて、大人と変わらないほどになっていた。その体重をかけて足をぶつければ、おそらく壊れてくれるだろう。


「……んっ!!」


 という小さな掛け声とともに出された足は、龐舒の推測を肯定してくれた。


 錠前も扉も壊れはしなかったが、扉の金具が外れて外には出られるようになった。


「良かった……」


 とりあえず男の面目を躍如できた龐舒はほっと息を吐いた。


「まだこれからでしょ。ほら、チャキチャキ歩く」


 玲綺はそんな龐舒の背中を押して廊下に出た。


 廊下の床には身の丈ほどの長さの棒が一本落ちていた。どうやら奴婢が抵抗した時に押さえつけるための物のようだ。


 龐舒はそれを拾い、玲綺の前を歩き始める。


「玲綺は僕の後ろにいて。危なくなったら僕を盾にするんだ」


「……ありがとう」


 この時点で玲綺は龐舒に大きな期待を抱かなくなっていたのだが、その気遣いには礼を述べておいた。


 そうとは思わない龐舒は、この少女を守れるのは自分だけなのだと思いつめている。棒を過剰なほど強く握りしめた。


 しばらく廊下を行くと、突き当りで左右に分かれていた。


「どっちに行こう……」


「玄関は右だけど、騒ぎになってるのも多分そっちよね」


 玲綺は当たり前のようにそう言ったが、龐舒はどちらが玄関だったかなど覚えていない。龐舒がここに連れてこられた時には心がいっぱいいっぱいだったので、そんな余裕はなかったのだ。


 その事に情けなさを感じながら、右に足を向けた。


「じゃあ、こっちが出口か」


「いや、なんで人が集まってる所に行くのよ。左でしょ」


 指摘された龐舒はすぐに回れ右して歩き出した。


「そ、そうだよね」


 情けない。しかし、この娘を守るのは自分なのだ。


 龐舒はまたそう言い聞かせながら廊下を進んで行く。


 玲綺はその後ろを歩きながら、一定間隔で並んだ窓に目を向けた。


「窓から出られたら良かったんだけど、どの窓にも格子がはまってるわね。進んでも同じかしら?」


 脱走防止の措置だろう。格子は鉄ではなく木だったが、太くて簡単に壊れそうにはない。


「どうだろう?でも、とにかく進むしかないよね」


「そうね」


 二人の行く廊下は、今度は右に折れていた。


 曲がり角の直前まで行ってから、龐舒がそっと先を覗く。


 すると、すぐ間近にいた男と目が合った。


(……普通に人がいるじゃないか!!)


 正直なところ、龐舒は屋敷の全員が騒ぎの方へ行ったのではないかと期待していた。が、それはあまりに楽観的な考えだったと言わざるを得ない。


 部屋を出てさほども進んでいない所で見つかってしまった。


「お前、脱走者か!?」


 龐舒が若過ぎるせいか、男には商品の奴婢であるとすぐに分かったようだ。


 厳しい顔つきになり、自分の腰へと手を伸ばす。そこに剣を下げていた。


 それを見た龐舒は気が動転した。


 動転しながらも、か弱い少女を背にしていることでやるべき事を見失わずに済んだ。


(ぼ、僕がやるしかない!!僕がやらなきゃ!!)


 心の中で叫びながら、棒を前に突き出したまま男へと突進した。


 そしてその棒の先は偶然、本当に偶然うまいことに、男の喉の真ん中に当たった。


 緊張で上半身がガチガチに固まっていたのが良かったのかもしれない。


「がっ……がはっ!!ごほっ!!」


 男は三歩下がって膝をつき、苦しそうに咳をした。


(やった!!……でも、ここからどうしたらいいんだ?)


 龐舒はしゃがみ込んだ相手を前にして戸惑った。まだ意識はあるし、動けそうだ。


(ぼ、棒で頭を叩くか?でも怪我しちゃうよな……)


 そんな当たり前のことに迷っていると、玲綺が龐舒の棒を奪い取った。


 そして何の躊躇もなく男の頭に叩きつける。


 ゴッ


 という鈍い音がして、男は即座に意識を失った。床にも頭をぶつけて倒れる。


「私はこいつの武器を取るから、龐舒は動けないように縛って」


 玲綺は棒を床に置くと、手早く男の剣を外しにかかった。


 龐舒も言われて男のそばにしゃがみ込む。


「えっと……何で縛ろうか?」


「服を半脱ぎにさせれば縛れるでしょ」


「そ、そっか」


 言われた通りにして、男を縛り上げていく。


 服の端を結びながら、龐舒は不安そうな声を漏らした。


「大丈夫かな……死んでないよね?」


「なに敵の心配してるのよ。息してるから死んでないでしょ。っていうか、死んででも構やしないわよ」


「いや、それは……」


「まぁ、聞きたいことを聞き出すまでは生きててもらわないといけないけど」


 そう言って、玲綺は拘束された男の顔に平手打ちを食らわせた。


 一発では起きなかったので、容赦なく何発も往復で打つ。


 龐舒が男のことを気の毒に思い始めた頃、ようやく目を覚ました。


「……ごほっ、ごほっ」


 玲綺は咳き込む男の目の前に、抜き身の剣を突きつけた。そして感情のこもらない冷たい声で告げる。


「抵抗したり、大声を上げたりしたら斬るわ。私の聞いたことにだけ答えなさい」


 言われた男の方は、か弱気な少女のことを睨み上げた。


「お前ら、こんな事して……」


 ビッ


 と音がして、男の右耳が一寸ほど裂けた。玲綺が剣を振り、耳を斬ったのだ。


 龐舒はその行動に目を剥いた。


 先ほど棒で叩いた時もそうだったが、目の前の綺麗な顔をした少女が平然とこんなことをするとは夢にも思わなかった。


「次は耳を完全に削ぎ落とすわよ。こっちの言うことに従う気があるなら、黙ってうなずきなさい」


 玲綺は相変わらず冷たい声でそう言った。


 目の前に血のついた剣先を示された男は表情を一変させ、急いでうなずいた。


 その様子に玲綺は満足したが、隣りの龐舒はあまりの展開に口をパクパクさせている。


「よし。それじゃ、まず出口の場所を教えなさい。できるだけ人の少ない出口よ」


 脅しがしっかりと効いているようで、男は即答してくれた。


 しかしその中身は、二人にとって喜ばしい内容ではなかった。


「この屋敷の出入り口は正面玄関しかない。脱走防止のためにあえてそうしてるんだ。塀も高くて越えられないぞ」


 玲綺は男の言うことに奥歯を噛み締め、それから再び命じた。


「……なら、何かしら脱出できる方法を考えて提案しなさい。出来ないなら斬るわ」


 命じられた男は焦った。


 この氷のような娘なら本当にやりかねない。


「む、無理を言わないでくれ!ここから出るには本当に正面玄関を出ていくしかないんだよ!もし助言できるなら、全力で走れくらいしか言えねぇよ!」


 男の言うことは本当だろう。施設の性質上、そういう構造に造られているのは完全に理に適っている。


 玲綺もそう思ったから、剣を握る手に力を込め直した。


 そして男の側頭部を剣の腹で殴打する。


「ぐっ……!!」


 と、喉奥からこもった音を出した男は再び意識を失って倒れた。


 龐舒は思わず玲綺の腕を掴んだ。


「ちょ……玲綺っ」


「気を失わせただけよ。それよりこうなったら時間との勝負になるわ。騒ぎを起こしてる人間が押さえられる前に玄関を抜けないと」


 龐舒は玲綺の荒っぽさに内心引きつつも、その主張には同意だった。


 出口が一つしかない以上、そこが混乱に陥っている間に通過する必要がある。


 幸いなことに、怒鳴り声や剣戟の音はいまだに聞こえてきている。襲撃者が善戦してくれているのだろう。


(でも、襲撃者は一人だって言ってた。一人でこの屋敷の全員を倒す事なんてできないだろうし、制圧されるのは時間の問題だよな)


 そう思った龐舒は棒をしっかりと握り、今来た方の廊下を向いた。


 こちらが玄関という話だった。そして、自分は玲綺の前を進まなくてはならない。


「行こう」


 短くそう言って走り出した龐舒の背中を玲綺も追いかける。


 二人は広い屋敷の廊下を小走りに駆けていった。


 屋敷の広さの分だけ廊下も複雑に枝分かれしていたが、玲綺が道を覚えていたのでそこは問題なく進めた。


 そして運も良かったのか、その後の二人は誰にも出会わないまま玄関までたどり着くことができた。


 玄関には大きな扉があり、その先はちょっとした広さの庭になっている。そのさらに先が正門だ。


 二人は扉の陰から顔だけを出し、庭をそっと覗いた。


「まだやってる……」


 龐舒は庭の一点を囲むようにできた人だかりを見て、小さくつぶやいた。


 そこではまだ襲撃騒ぎが続いていた。怒声や戦いの指示、怪我をしたであろう人間のうめき声などが飛び交っている。


 ただし、二人のいる位置からは具体的な戦いの様子までは見えなかった。人だかりに阻まれて、その中まで視線が通らないのだ。


(襲撃者の人って、この人数に囲まれて戦い続けてるのか?)


 龐舒が驚愕の思いでいると、人だかりの中心から何か丸いものが宙に飛んだ。


 それは放物線を描いてから玄関前の地面に落ち、二人の前まで転がって来た。


 見ると、人の生首だった。


「ひっ……」


 喉を引きつらせた龐舒は思わず一歩後ずさった。その背中に押されて玲綺も後ろに下がる。


 少女を守るべき男としては少々情けない反応ではあったが、動き自体は僥倖と言えるものだった。


 その一歩で龐舒と玲綺の姿は扉の陰に隠れ、首の行方を追った視線を避けることができたのだ。


「ひ、人が死んでる……」


 龐舒は感情をたっぷり乗せて、明確な事実を述べた。


「当たり前でしょ。殺し合いをしてるんだから」


 一方の玲綺は全くもって動揺を見せず、これまで通りの落ち着いた声音でいる。


「それより、丁度いい場所で戦ってくれてるみたいよ。さっきまでは皆、私たちと門には背を向けてたわ」


 玲綺の言う通り、人だかりは玄関から門への直線上から外れている。


 今は飛んできた首のせいでこちらに目が向けられたが、それが無ければおあつらえ向きな場所だ。


「あの生首から人の目が離れて、戦いに向いた頃に走り出しましょう。次に誰か殺された時がいいんじゃないかしら」


 平然と人の死について口にする玲綺に龐舒は辟易へきえきとしたが、確かに上手くいけば全速力で門までたどり着けそうに思えた。


「う、うん。じゃあそうしよう」


 そうして二人が心を決めた直後、人だかりから一際大きな声が上がった。


 期待通りと言ってはなんだが、また誰かが絶命したのかもしれない。


(今なら皆そっちを見てるはずだ!)


 そう思った龐舒は玲綺と共に走り出した。


(……行ける……行けそうな気がする!!)


 龐舒は人だかりを横目で見ながらそう思った。集まった人間たちは誰もこちらを見てはいない。


 が、そこで予想外のことが起こった。


 人だかりのこちら側がパッと開いたのだ。


 それに合わせて人々の視線もこちらへと向く。


(な、なんで……!?)


 龐舒の抱いた疑問は、開いた場所の一部から上がった血しぶきによって解決した。


 襲撃者がこちらに向かって斬り込んで来ていたのだ。


 龐舒はその襲撃者の姿を見て、度肝を抜かれた。


(……な、何だあれ!?人間か!?)


 その男は見上げるほどの巨躯で、パッと見には虎や熊のような猛獣に見えた。


 全身の筋骨が隆々としており、思わず魅せられるほどにたくましい。腕の太さは婦人の腰ほどもありそうだった。


 その猛獣然とした男が眼を鬼のように怒らせ、巨大なげきを振っている。


 凶悪な刃が不幸な一人に襲いかかり、縦に真っ二つにした。


 例えではない。斬られた人間は脳天から尻までをきれいに切断され、半分に割られている。


 男はさらに戟を一振りした。


 横薙ぎの一撃だったが、その半円上に立っていた三人の胴体は腰の所で同じように泣き別れになってしまった。


 それを見た近くの一人が恐怖に顔を歪め、背を向けて逃げ出す。しかし男はその背中を容赦なく追い斬った。


 次々と新たな鮮血が吹き上がり、男の周囲の世界だけ朱の割合が増えていく。


 男は背後からの攻撃を避けるためか、斬り込んだ勢いそのままに数歩駆けた。その先にはちょうど走っている龐舒たちがいる。


(この男は人間じゃない……もしこれが鬼じゃなかったら、龍だろう)


 龐舒はそう思った。


 そう思わせるほどの迫力をした瞳が、進行方向にいる二人を捕らえた。


 そして次の瞬間、龐舒は自分の心臓が止まったのだと思った。男の恐ろしい殺気を浴びて、脳がそんな錯覚を起こしたのだ。


「…………っ!!」


 龐舒は声にならない叫びを上げながら足をもつれさせた。その場に盛大に転び、立ち上がることが出来なくなる。


 腰が抜けたのだ。


(あ、足が動かない……逃げられない……玲綺は!?)


 首だけ後ろへ向けると、玲綺は転倒はしていないものの、足を止めて固まっていた。こちらも動き出しそうな気配が全くない。


 襲撃者の男は歩を止めず、こちらに向かって来る。


「……に、ににに……逃げて……玲綺だけでも……」


 ガチガチと歯を鳴らせながら、龐舒はかろうじてそう言った。


 が、玲綺は動こうとしない。


 男はどんどん近づいて来る。


(僕がやらなきゃ……僕がこの娘を守るんだ……)


 龐舒は押し潰されそうな恐怖の中、かろうじて離さなかった棒を握りしめた。そしてそれを頭上へと振り上げ、地面に叩きつける。


「ぼ、僕が相手だ……この娘には……指一本触れさせないぞ……」


 小さな声を震わせながら、何とか言葉を紡ぐことが出来た。


 地面に尻をつけたままで、何度も何度も棒を振り続ける。


 棒の先が軽く地面を削る音が虚しく響いた。


 男の丸太のような太い足が、削られた地面のすぐ前まで進んで来た。


 そこで歩を止めた男は、龐舒のことを指差して口を開いた。


 龐舒はその口から炎が吹き出てくるのではないかと思ったが、実際に出てきたのはむしろ困惑したような声だった。


「……おい、何だこいつは?」


 その質問は、龐舒の後ろに向かってなされていた。


 そこにいる玲綺は龐舒とは対照的に、相変わらずの落ち着いた声で答える。


「一応、私を守ってくれてるみたい」


 男は眉をしかめ、再び質問した。


「俺からか?」


「ええ、お父様から」


(……え?お父様?)


 龐舒は聞き間違いかと思って二人の顔を交互に見た。


 猛獣然とした襲撃者と可憐な玲綺が似ているとは欠片も思えなかったが、二人の落ち着いた様子を見るに、本当に親子なのかもしれない。


(じゃ、じゃあ襲撃者って……玲綺を助けに来てくれた、玲綺のお父さん?)


 龐舒の脳がまさかの結論に達した時、男は後ろを振り返って人だかりの方を向いた。


 屋敷の人間たちは襲撃者のあまりの強さに近づけないようで、遠巻きにこちらを眺めている。


 その人だかりの合間には、何十人もの人間が倒れ伏していた。


(あれ……玲綺のお父さんが全部やったのか?一人で?)


 冗談のような光景だった。


 倒れている人間は全てが血に染まっており、体がバラバラになっているものも多かった。


 その周りに立つ男たちの顔にはどれも恐怖の色が浮かんでいる。できればこれ以上戦いたくないという本音が滲み出ていた。


 次に襲いかかった者は、次の犠牲者になるだけだろう。


 そんな気の毒な人だかりへ、男はありがたい提案をしてくれた。


「俺がここに来た目的は、この娘を取り返すことだ。それが済めば用はない。お前らがこれ以上向かって来ないならこのまま帰るが、どうする?」


 その質問に返事をする者はいなかったが、完全に無言の肯定だった。


 男にもそれは伝わったようで、娘と共に門へ向かって歩き出そうとする。


 が、ふと思い出したように足を止めて、下に目を向けた。そこにはまだ腰を抜かして動けないままの龐舒いた。


「……お前も奴婢か?」


 龐舒は鬼のような男に対してうまく言葉が出ず、ガクガクと首を縦に振って答えた。


 言葉は代わりに玲綺が出してくれた。


「私と一緒の座敷牢に入れられてたの。これでもここまで逃げて来るのに、ちょっとは役に立ったのよ?だからお父様、龐舒も一緒に助けてあげて」


「……龐舒?お前の名は、龐舒というのか」


 娘の言葉を受けて、父はピクリと片眉を上げた。そして龐舒のことを値踏みするような目で眺める。


 震える犬のような少年は、おそらく大した値を付けてもらえなかっただろう。それでも父は、娘の願いを聞いてやることにした。


 龐舒の首根っこを掴むと、再び人だかりの方を向く。


「おい、こいつもおまけでもらう事にするぞ。本当におまけ程度の価値しかない奴だし、構わんだろう?」


 その質問にもやはり答える者はいなかったが、男はそれを肯定と受け取った。


 龐舒を引きずって門へと歩き始める。


 まるで子供の持つ人形のようにズルズルと引かれる龐舒へ、玲綺が明るく笑いかけた。


「良かったね、龐舒」


 言われた龐舒は赤面した。


 玲綺の笑顔が花のように美しく、思わず見惚れてしまったのだ。


 が、自分の方をかえりみると、腰を抜かして引きずられている。その情けなさが際立つようで、すぐにうつむいた。


(でも本当に良かった……そうだ、とりあえずお礼を言わないと)


 そう思った龐舒は背中越しに礼を口にした。


「あ、あの……ありがとうございます、お父様」


 その言葉を聞いた男は、ピタリと足を止めた。


 そして片腕で龐舒を持ち上げ、その顔を自分の顔の前に持ってくる。


「……お父様だと?お前に父などと呼ばれる筋合いはないぞ。それとも玲綺をものにして、俺の息子になる気か?まさか助平根性で玲綺を助けたのではあるまいな?」


 凄まれた龐舒は慌てて首を横に振った。


「い、いえ……玲綺のお父様だからそう呼んだだけで……」


 ぶら下げられたまま焦る龐舒へ、玲綺も助け舟を出してくれた。


「お父様、龐舒は馬鹿が付くほど真面目な善人よ。この短時間でもそれがよく分かったわ」


 言い方には少々引っかかったものの、玲綺が龐舒をどう思っているかはよく分かった。


 しかし父親は納得しない。不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「ふん。男なんぞ皆同じようなものだ。玲綺は母に似て美しいからな。お前、あわよくば玲綺を嫁にしたいと思ってるんじゃないか?」


「い、いえ……滅相もない」


「言っておくが、俺は弱い男に娘をやるつもりはないからな。もし玲綺を嫁にしたければ、まず俺を倒してみろ。そうすればれてやる」


 それは虎を素手で倒すよりも難しいだろう。


 そう思った少年は、ほのかに抱きかけていた恋心を封印することにした。叶わぬ望みを持つべきではない。


「あの……それでは何とお呼びすればよろしいでしょうか?」


 問われた男は、ごく簡潔に己の名を告げた。


呂布リョフだ」


 龐舒はその短い響きを耳にして、なぜか身震いを起こした。


(呂布様……呂布様はきっと、鬼神か龍神かの生まれ変わりだろう。そうでなければあんな事は出来ない)


 呂布が一人でなした殺戮の跡を思い出し、そんなことを考えた。


(きっと天界で何かしらの罪を犯し、地におとされたんだ。お可哀想に……)


 人ならぬ者が人の世で生きなければならない辛さを思い、つい憐れみの視線を向けてしまった。


 片手にぶら下げた少年からそんな目で見られた呂布は、不快さをあらわにギョロリと睨み返した。


「なんだ?」


 鬼だか龍だかに睨まれた少年は、恐ろしさで弁明の言葉も出ない。


 仕方がないので、ただただ首を左右に振り続けた。

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