短編 簡雍1
時は遡り、許靖が劉備に仕え始めてから数年経った頃。
「あ〜仕事したくねぇなぁ〜」
というぼやきが聞こえてきて、許靖は思わず廊下で足を止めた。
別に大したことはないぼやきだ。誰もが日々、心の中では思っていることだろう。
ただ、許靖が今歩いているのは中央官庁の庁舎の廊下だった。役人には清廉が強く求められた時代だから、激怒する者がいてもおかしくはない。
(誰だ?まぁ、厄介な人間に聞かれていなければそれでよいが)
許靖自身は咎めるつもりもないため、そんなことを思いながら廊下の曲がり角から首を伸ばして先を覗いた。
普通に堂々と本人の前に行ってもいいのだが、こう見えて許靖は『
が、許靖はすぐにその気遣いを後悔した。全く不要な気遣いだったからだ。
「
やれやれ、というような気分でその人物の名をつぶやく。
許靖の視線の先には廊下に置かれた長椅子の上でだらしなく寝そべっている男がいた。
仰向けになった腹が小山のように盛り上がっており、それが泰然と上下に揺れている。
この男が劉備陣営における最古参の重鎮、
「お、許靖さんじゃないか」
簡雍は許靖に気がつくと、長椅子に寝そべったまま片手を上げて挨拶した。
儒教の隆盛したこの時代にあって、行儀の悪いことこの上ない。
「何というか……簡雍殿は相変わらずですね」
許靖は苦笑を浮かべつつ、何とかそれだけを言った。
ここには役人が
しかも、この場にいるのは許靖だけではなかった。簡雍は許靖よりもさらに高官の者と話をしていたのだ。
長椅子に寝そべったままで。
「今、
諸葛亮は簡雍のそばに立ち、こちらも相変わらずの深い瞳で許靖へと笑いかけた。
「まぁその仕事をお願いしたのも私なんですけどね」
そう言う諸葛亮の尻を簡雍がペシペシと叩く。
「そうなんだよ。だからこうやって長椅子を占領して座らせないようにしてやってるんだ。嫌がらせさ」
とはいえ諸葛亮を立たせたまま寝そべって話す人間など、この庁舎どころか天地の間にいはしないだろう。
(ただ、これが簡雍殿なのだ。仕方がないし、これが良いところでもある)
許靖は簡雍の瞳の奥の「天地」を見て、そう思った。
そこには抜けるような青空が広がっている。広々として爽快で、見ているだけで気分が良くなる、そんな青空だった。
(本当におおらかな人だ)
簡雍のこの態度を批判する人間もいないではないが、劉備陣営のほとんどが簡雍のことを好いている。
劉備自身も簡雍とは若い頃からの朋友で、個人的にも至極仲が良い。簡雍は劉備が強大な群雄の一人になった今ですら、『劉備さん』と軽く呼んでいた。
諸葛亮はそんなだらしのない人気者に、好意の視線を落とした。
「怠けたいところに申し訳ありませんが、益州は今大変な状況ですからね。
昭徳将軍、というのが今の簡雍の役職だ。将軍位なので、当然かなりの高官に当たる。
「何を仰せつかったのですか?」
許靖に問われた簡雍は、これ見よがしなため息をついてから答えた。
「なんか州内の不平分子の所に行って、なだめてきて欲しいんだと。わざわざ怒ってる人間の所に行くなんて、ろくな仕事じゃないだろ?」
「あぁ、なるほど」
許靖はその仕事内容に納得した。
簡雍はこういう人好きのする性格だから、使者・外交官として用いられることが多かった。先方に好いてもらえることが多いのだ。
実際に劉備が益州を攻めてきた時も、攻められた側の
そういう人間だから、怒ってる人間をなだめに行かせるのに丁度いいと思われたのだろう。
(しかし、しんどい仕事ではあるだろうな)
簡雍が言っている通り、わざわざ怒っている人間のところに行くのだ。ろくな仕事ではない、というのは言い過ぎかもしれないが、ほとんどの者から嫌がられる仕事であるのは間違いないだろう。
それに関して同情はしつつも、許靖にとって他人事であるのは間違いない。お悔やみだけ述べてその場を去ろうとした。
「簡雍殿も大変ですね。無理はなさらないでください。では私は仕事があるのでこれで……」
と、廊下を過ぎようとする許靖の肩を、諸葛亮がワシッと掴んだ。
その肩の感触に、嫌な予感がする。
「……え?」
足を止めた許靖へ、諸葛亮が相変わらずの笑顔のまま告げた。
「申し訳ありませんが、許靖殿も簡雍殿と一緒にそこへ行ってください。
許靖はなんとなくだが、こんな事になるような気がしていた。
***************
「将軍二人が馬を並べてやって来るんだ。不平分子もビビって逃げ出すんじゃないかな?」
馬上の
今日の空は気持ちの良い青空だ。まるで簡雍の瞳のようだと許靖は思った。
「将軍……確かに私たちは二人とも将軍ですが、私たちほど将軍という称号が似つかわしくない将軍もいないでしょう」
許靖の言葉は謙遜ではないし、簡雍を貶めるつもりのものでもない。紛れもない真実だった。
簡雍はもっぱら外交官のように働いてきたから勇ましく戦えるような人間ではないし、許靖は自他ともに認める臆病者だ。
そんな二人が将軍として馬を並べているのだから、これはやや滑稽な光景と言えるかもしれない。
そう思った簡雍は、爽快な笑い声を上げた。青空に染み透るようなその声は、聞く者の心を和ませた。
「名ばかり将軍では脅しにもならんかぁ」
簡雍は昭徳将軍、許靖は鎮軍将軍ということで、ともに将軍という位にあるわけだが、実際に兵を率いて戦うわけではない。それ並みの地位にあるという形だけのものだ。
もちろん護衛の兵は連れているものの、その指揮も部隊長任せにしている。
実際に今回の仕事も簡雍は使者としての任務であるし、許靖は人物鑑定を頼まれて来ているわけだ。
「どちらにせよ、今日は脅しは必要なさそうなのでしょう?諸葛亮殿はそうおっしゃっていましたが」
「あぁ。不平分子とはいえ、そんな危険な連中ではないらしい。主張してることも『酒を作らせろ』ということだけだし」
許靖たちが向かっている相手は、そういう手合の連中だった。
そして今回の騒動の鍵となるのは簡雍の今言った『酒』だ。
「今年の干ばつは酷いですからね。酒造禁止令が出るのも仕方ないですよ」
今の益州の状況はそういうものだった。
今年は例年に比べて降水量が少なく、作物が育ちが悪い。食料品の品薄で需給の均衡が崩れ、値が上がり過ぎている。
この上、穀物を酒造に回してしまえば品薄に拍車がかかり、民の生活はより厳しいものとなるだろう。だから劉備は酒造を一時的に禁止する命令を出しているのだった。
が、世の中には酒飲みが多いし、酒で生活の糧を得ている人間も多い。そういった連中から不満の声が上がるのも仕方のないことだった。
二人が今向かっているのは伝統的に酒造業の盛んな町であり、不平分子とはそこの職人たちのことだ。
「酒造を行なえない間の労働は州から斡旋できますし、経済的な損失は少ないということさえ理解してもらえれば、納得してくれると思うのですが……」
州としてもただ食い扶持を奪うつもりはないので、そういった支援は予定はある。
そういうふうに考えていた許靖に対し、簡雍は疑問の声を上げた。
「いやぁ、そりゃどうかなぁ」
「……と、言いますと?」
「まぁとにかく行ってみよう」
それから二人は他愛もない話を楽しみながら道を進んだ。
やがて目的地の町が見えてくると、その状況に二人は思わず感心してしまった。
「許靖さん……こりゃあ……」
「……ええ、徹底していますね」
道沿いにいくつもの立て看板が置かれている。そこに太々とした文字が踊っていた。
『我々は武力を用いた活動を一切行わない』
『州からの命令にも服従する。酒造の禁止も命令である以上受け入れる』
『ただし、はっきりと抗議はさせていただく。酒造りは我らの喜びだ。人生だ。伝統だ。それを奪うような命令は撤回していただきたい』
そんなことが大書されている。
「話には聞いていましたが、やり方が上手いですね」
「ああ、抗議活動の指揮をしているのはかなり頭の良い人間だろう。諸葛亮さんが許靖さんを派遣した理由がよく分かるよ」
おそらくだが、この町は州と揉めることを望んでいない。しかしその一方で、隠していられないほどの強烈な不満があるのだ。
州による町への弾圧という危険性を最小限にしつつ、しっかりと抗議活動を行う。そのために表明しておくべき事が過剰なほどはっきりと主張されていた。
その辺りの要点を突いたやり方に諸葛亮が目をつけた。
抗議活動の首謀者が有能な人間であると見て、人材発掘のために許靖を同行させているわけだ。
「ここまではっきりと武力抵抗の意志がないことを示されていたら、州として手荒なことはできませんからね」
「あまつさえ服従を公言している。これに何かしら酷い対応でもしようものなら、行政に対する民の信頼は地に落ちるだろうな」
この立て看板を設置した者の意図は、そういうことだ。こちらの選択肢を削ってくるようなやり方ができる相手だから、厄介といえば厄介かもしれない。
ただ、許靖はこの立て看板を見て正直ありがたいと思った。
「私たちも今日は何ら酷いことをしにきたわけではありません。これならゆっくり話を聞いてもらえそうではあります」
「そうだな。向こうは自分たちの主張を聞いて欲しいわけだから、話はできそうだ」
そう思って町に入った二人だったが、いきなり当てが外れた。
殺気立った町民が数十人集まって二人を出迎えたからだ。
町民たちは先ほどの立て看板のようなことが書かれた板を手に手に持って、二人に厳しい視線を送ってきた。
あらかじめ二人の来訪を知らされて準備していたのだろう。
大声で抗議などを口にするわけではないし、武器を持っているわけでもない。しかし、その無言の圧力が逆に二人に大きな圧迫感を与えていた。
(思った以上に怒ってるな……これは理路整然と理屈を話しただけでは収まらないかもしれないぞ)
許靖がそう思っている中、代表と思しき男が一人進み出てきた。意外にもまだ若い男だった。
「お待ちしておりました。私が抗議活動を指揮しております、
杜直は慇懃に頭を下げ、そう自己紹介してきた。
(はっきり『抗議活動』と言ったな。その一方で、自分が指揮者であることも名言した。責任感の強い人だ)
許靖はそう思いながら、できるだけ柔和な表情を作って挨拶を返した。
「私は許靖、こちらは簡雍です。今日は皆さんとお話をしたいと思って参りました」
将軍という二人の役職はあえて口にしなかった。
それで相手を威圧するのも一つの手だが、許靖はそれよりもむしろ
が、それは失敗だったかもしれない。集まった町民の一人がいきなり怒鳴り声を上げてきたのだ。
「酒造禁止令を撤回しろ!!酒造りを、俺たち職人の心を何だと思ってやがる!!」
その一言で、周囲の人間たちの色がはっきり変わったのが見て取れた。
火薬を抱えた群衆というものは、どこか一点に着火すれば連鎖的に爆発するものだ。
(まずい、下手したら暴動になる)
許靖はまず護衛の兵たちを制するために、そちらへ手の平を向けて動き出すのを止めた。
その間に先ほど叫んだ男がさらに続ける。
「補償や銭の問題じゃないんだぞ!!職人にとって作りたいものが作れないということがどれほど悔しいことか……」
「やめろ!!」
と、それを大喝して止めたのは、代表として皆の前に出ていた杜直だった。
杜直は群衆を振り返って言葉を続けた。
「今回の話し合いは俺に一任する約束になっていたはずだぞ!!それが守れない者はこの町から出て、町外の人間として抗議を行え!!」
その一言で、群衆たちが急速に落ち着きを取り戻していくのがよく分かった。怒鳴っていた男もそれ以上は口を開かなくなる。
こちらに向き直った杜直の瞳を、許靖はあらためて眺めた。
(酒宴の「天地」か……人々が楽しそうに酒を酌み交わしている。それも馬鹿騒ぎするような宴ではなく、和やかな雰囲気の宴だ。おそらく杜直殿は、人の和を醸し出すのに長けた人物だろう)
許靖はそう思った。
宴の中を周旋している人物がいた。そのおかげで宴が和やかなものになっているように見受けられたが、これが杜直本人の本質だと思って間違いないだろう。
「許靖様、簡雍様、大変失礼いたしました」
杜直は深々と頭を下げてから先を続けた。
「まずはじめに伝えておきたいのですが、我々はお上と争いになることを望んでおりません。命令には従います。暴力的な行動も取りません。その上で、どうか酒造りをお許しいただけるようお願い申し上げているのです」
(揉め事にならぬよう、この杜直殿が皆を上手く制御しているのだろう。町が弾圧を受けぬよう、州と町の和が乱れぬよう、様々な配慮をした結果として今の状況があるらしい)
許靖はこれまでの経緯にそう検討をつけた。
群衆の様子を鑑みるに、下手をすれば過激な抗議活動になっていてもおかしくなさそうな状況が垣間見える。
しかし杜直のおかげでそういったことが避けられているようだった。
(人の和を醸す……まるで酒のような人材だな)
そんなことを思いながら、これからの話し合いについて頭を悩ませていた。
(先ほど『補償や銭の問題じゃない』と言っていた。となると、普通に説明したところで納得は得られないだろうな……)
『干ばつによる穀物不足で物価が高騰している。だから穀物を消費する酒造りを今年は控えて欲しい。その分の損失は補填する』
正論法でそう話しても、
『そんなこと分かってる』
と言われるだけだろう。本人たちもそれは理解の上で酒を造りたいと言っているのだ。
理屈を超えた抑えがたい感情がここに集まった者たちを先導していた。
(よほど酒造りが好きなのだろう。職人たちのそういった姿勢自体は尊敬に値するが……)
そうは思ったものの、そうなると単純にかけられる言葉が見つからない。
許靖はなんと言っていいものか悩んで、黙り込んでしまった。
正直なところ、簡雍が何か言ってくれないかという期待はあった。
というか許靖は人物鑑定を期待されて来たわけだから、町民との話し合いは本来なら簡雍の仕事のはずだ。
しかし簡雍は何を考えているのか、普段通りの緊張感を欠いた顔で群衆を眺めているだけだった。
仕方なく許靖が何か言おうと口を開きかけた時、その前に大きな声を上げた人間がいた。
先ほど怒鳴り声を上げて杜直に制止された男だ。
沈黙にしびれを切らしたのだろう。同じような声量で、こちらをなじる言葉を放ってきた。
「てめぇら成都からわざわさ来て、だんまり決め込む気かよ!?なんとか言ったらどうなんだ!?この能無し共が!!」
それを聞いて、護衛の兵たちが一斉に殺気立った。
許靖も簡雍も実際に兵を率いるわけではないとはいえ、益州軍の将軍だ。そして今日の兵たちはその麾下として従軍している。
自軍の将を辱められれば、怒って斬るのが軍人として当然の筋だった。
(これは本当にまずいぞ……!!)
この状況に許靖も杜直も焦った。
兵が誰か一人にでも暴力を振るえば、今度は群衆が暴徒になる可能性がある。それだけは避けなければならない。
許靖と杜直がそれぞれの身内を制する言葉を放とうとした時、それよりも一瞬早く弾けるような声が上がった。
「あっ!!」
振り向くと、簡雍が驚いたような顔をしている。それまで黙りこくっていたこの男が、急に大声を出したのだった。
その場の全員の視線が簡雍に注がれる。あまりに大きな声だったので、皆が一時的に怒りや焦燥などの感情を忘れて簡雍の次の言葉に耳を傾けた。
が、耳に入ってきたのは言葉ではなかった。
バフンッ
という、町中に響いたのではないかと思えるほどの、大きな屁の音だった。
皆が唖然とする中、簡雍は頭を掻いて笑った。
「いや〜失敬失敬。来る前に食った芋がやたら旨くてなぁ。神がかった味だとは思ってたんだが、まさか尻から風神様が吹き出ちまうとは」
その言い様に、あちこちで失笑が起こった。
それは兵たちも同じで、張り詰めていた殺気が一気に霧散する。
緊張のほぐされた雰囲気の中で、簡雍も笑いながら言葉を続けた。
「でもなぁ、今回のことも言ってみりゃ屁ぇみたいなもんだと思うんだよ。そりゃこいちまった時は臭くてかなわんが、時が経てば風に流れて消えちまう。今年の干ばつだってそうさ。来年にはまた旨い酒造りが出来るから、今年はなんとか勘弁してもらえねぇかな」
来年の天候など分かったものではないが、簡雍はそう言い切った。言い切られれば、不思議と疑問は湧いてこなかった。
それから簡雍は杜直へと歩み寄り、その首に腕を回して肩を組んだ。
いきなりの接触にうろたえる杜直の耳元へ顔を寄せ、声を落として告げる。
「もし穏便に済ましてくれるってんなら、俺の方も頑張らしてもらうよ。この地域の担当の役人に頼み込んで、仕込み一回分だけの酒造りはこっそり見逃してもらえるように取り計らおう。なに、俺はこう見えて将軍だ。そのくらいの事はきっと出来るさ」
簡雍はまるで内緒話のような喋り方をしたが、声の大きさはずっと変わっていない。当然のことながら、群衆にも話は伝わっていた。
許靖はそれを聞きながら、頬を引きつらせて苦笑していた。
(劉備様は今回の酒造禁止令に対してかなり厳しい態度で望んでいるという話だったが……勝手にそんな約束をして大丈夫か?)
簡雍らしいといえば簡雍らしいが、この後が心配になってくる。
ただ、簡雍の話で群衆のかなりの部分が心を緩めたように感じられた。明らかに表情が緩んだのだ。
それを見た許靖は、群衆たちの心情の出どころを理解した。
(そうか……この人たちは、この土地で脈々と続けられてきた酒造りが一年でも途切れるのが嫌だったんだ。伝統に対する人の思いとは、そういうものかもしれない)
許靖はそれに納得するとともに、それを分かっていたであろう簡雍の感性に脱帽した。
自分は今回のことを、どちらかといえば経済問題として認識していた。しかし簡雍は初めから人の心の問題として捉えていたのだ。
(簡雍殿は多くの人から好かれる人間だが、簡雍殿自身もきっと人が好きなのだな)
そんなことを思っている間に、簡雍は肩を組んでいた杜直を解放して群衆に向き直った。
そして確認する。
「この杜直さんが『抗議活動の指揮者』ということだったが、つまり酒造り自体の長は他にいるわけだな?」
群衆の何人かがうなずいて肯定した。
「……なるほど。つまり、杜直さんは自分が罰せられることも覚悟でそれを引き受けたわけだな。しかも町が弾圧を受けないよう、あんたら仲間が苦しまないよう、随分を気を遣っている。それはあんたらも分かってるだろう?」
当然、それは全員が分かっているはずだ。だからこそ、杜直は今の立場にいる。
簡雍は杜直の背中を強く叩いた。
「いい男じゃねぇか!こういう男は町の宝だ!俺たち役人も、こういういい男を罰したりしたくはない!だから頼む、この通りだ!今年いっぱいはなんとか、勘弁してくれ!」
両手を合わせて拝むようにそう叫んだ簡雍に、群衆は戸惑うような視線を向けた。
まさか将軍からこんな態度を取られるとは思ってもみなかったのだろう。
顔を見合わせる群衆に向けて、今度は杜直が叫んだ。
「皆、話は聞いた通りだ!!量は少ないが、それでも俺たちの伝統は途切れさせないで済みそうだ!!完全に納得できるわけじゃないと思うが、それでも仕方ないと思う者、今年の一回の仕込みに魂を込めてくれるという者は、後は俺に任せてくれないか!?」
その言葉を受けて、集まっていた者たちは少しずつ、少しずつ去って行った。
不満そうな顔をした者も少なくはなかったが、それでもしばらくすると杜直以外の者は全員がその場を後にした。
残された杜直は安堵の息を吐き、簡雍と許靖に向かって頭を下げた。
「無礼な者もいましたのに、寛大な態度で接していただいてありがとうございました」
「いえ……」
と許靖が返答しようした時に、パンッと小気味のいい音がした。
見ると、簡雍が先ほど群衆に向かってしていたのと同じように、今度は杜直に向かって手を合わせている。
「杜直さん……頼むから、見逃す仕込みは一回ってのは出来るだけこっそりやってもらえねぇかな?特に町外にはバレないように。あんまり大っぴらにやられて劉備さんの耳に入ったら、俺が大目玉食らっちまう」
思わず失笑した許靖と杜直に、簡雍は不満そうな声を漏らした。
「劉備さん、ああ見えて怒ると無茶苦茶怖いんだぞ……」
***************
「何とか穏便に済んで良かったですね」
町からの帰路、許靖は簡雍と馬を並べながらそう言った。
町との話し合いは概ね予定通りに終わった。
州が町に対して酒造りの代わりの仕事を斡旋し、それをこなせば酒造りをしたのと同じだけの賃金を払う。その細かい労働条件等を確認し、合意が得られたのだ。
唯一の予定外は、見逃すことになった一回分の酒造りだが。
「そうだなぁ。あの事が劉備さんにバレなきゃ完璧なんだけどなぁ」
ぼやくような簡雍に、許靖はまた笑った。
「まぁ、言ってしまったことはどうしようもありません」
「許靖さんが言ったことにしてくれねえかな?」
「ははは、嫌ですよ。そんなに怖いなら、いっそのこと自分から報告したらどうです?」
「それも怖い」
「では、せめて諸葛亮殿に報告しておくのがいいでしょう。バレた時にうまく計らってくれるはずです」
「そうか、そうだな。あの苦労人にもう一つ気苦労をかけてやるか」
「では私の方からも『暴動を避けるために仕方なかった』と申し添えておきますよ。それなら諸葛亮殿も処理しやすいでしょう」
「ありがてぇ」
そこでふと、簡雍は思い出して尋ねた。
「そういえば許靖さんが人物鑑定を頼まれてたのって、あの
「ええ、そうですよ」
「何て報告するんだ?」
許靖は杜直の瞳の奥の「天地」を思い浮かべた。そこでは和やかな酒宴が開かれており、杜直自身がその和を維持できるよう周旋していた。
「人の和を醸すことができる人物、とでも報告しておこうと思います」
「なるほど、確かにあれはそんな男だ。じゃあ、やっぱり諸葛亮さんに
許靖は少しだけ考えて、それから答えた。
「どうでしょう……それは諸葛亮殿次第、本人次第でしょうが、杜直殿にとって役人になる事が良い事かと問われると、私は微妙だと思ってしまいます」
「どうしてそう思う?」
「杜直殿の幸せは、あの酒造りの町で完成しているように思えるのです。あそこで職人たちの和を取り持ちながら、その居心地の良い空間で生きていく。酒造りというのも彼の本質に適っていると思えますし」
杜直の瞳の奥の酒宴は、それは幸せそうなものだった。
仮に役人になって世の濁流の中で働いたとして、果たして同じような幸せな「天地」でいられるものか。
簡雍には「天地」が見えるわけではないが、直感的に許靖の言うことに納得できた。
そしてこの人物鑑定家の有能さと優しさを、改めて思い知った。
「確かになぁ。俺も、あいつはあそこで生きていくのが一番幸せかもしれないって気がするよ。そりゃ役人になったらなったで良い事もあるだろうよ。でもあの町での幸せには勝てない気がする。『あの頃は良かった』って思いながら生きてくのって、なんか寂しいしなぁ」
「そう……そうですね。諸葛亮殿にはその辺りのことも併せて報告しておきましょう。私的な感情が入り過ぎていると思われそうですが」
「思うだろうな。でも、理解もしてくれる。許靖さんに負けず劣らず、諸葛亮さんも優しい男だからな」
「簡雍殿だって優しいでしょう」
「俺のはな、能天気ってんだよ」
簡雍は明るく笑ってから、青い空を見上げた。
簡雍はこういう空が好きだった。こういう空の下では、色々なことがどうでもいいことのように思える。脳天気でいられるのだ。
(皆がずっと能天気でいられる世の中ならいいんだけどなぁ)
そんな事を思いながら、空に向かって独り言のようにつぶやいた。
「それにしても……人の世ってのは本当にままならないなぁ」
そのつぶやきに対し、許靖は視線だけを向けて先を促した。
簡雍は空を向いたまま続ける。
「さっき暴動になりかけてた職人たちは、別に悪人ってわけじゃない。自分たちの伝統を守りたかっただけだ。そんでもって、それを禁止していた劉備さんにだって悪くない。民の生活を考えて、行政として必要な措置を取っただけだ。でも、揉める。揉めて暴動にでもなったら、下手すりゃ死人が出ることもある」
許靖にも簡雍の言うことがよく分かった。人の世の最も難しいところだろう。
「皆が善人ならば善いことばかりが起こる、そういう単純な世界だったら良かったのですが」
「そうなんだよなぁ。こんな複雑な世界で俺みたいなのに出来ることは、さっきみたいにその場を上手く誤魔化すことくらいだよ」
なるほど、と許靖は思った。
簡雍は自分を大したことのない存在のように言っているが、こういう男こそが人の世に最も重宝される人材かもしれないと思った。
「『くらい』などと言うことはないでしょう。簡雍殿のおかげで暴動を避けられました。死人どころか、怪我人も出ませんでした。善悪には多面性があって、しかも人と人は本質的に相容れない。そうである以上、簡雍殿のようにその場を上手く誤魔化せる人材こそが、世の中を穏やかに進めていけるのです」
「なんか難しい褒められ方をしたな。よく分からないなりに喜んでおくよ」
簡雍がまた空に笑みを浮かべた時、二人の行く道の先で土煙が上がった。それとともに、馬の蹄が地面を強く蹴る音が聞こえてくる。
護衛の兵たちが許靖たちの周りを固めた。周囲に警戒の視線を送る。
許靖も当然緊張したが、その馬と馬上の人間が目に入ると緊張はすぐに緩んだ。
「……芽衣?」
馬に乗っているのは芽衣だった。
やたら体格の良い馬に乗り、道を爆走してこちらに向かっていた。
「すいません、あれは私の義理の娘です」
兵たちにそれを伝えて警戒を解かせた。
が、向かって来る芽衣の方は必死の形相をしている。表情からすると、ただ事ではないことが起こったようだ。
許靖は緩んだ緊張を再び張り詰めさせながら芽衣を迎えた。
「芽衣、一体どうしたんだ?」
芽衣はかなり急いだようで、馬上で息を切らせながら許靖の腕に掴みかかってきた。
「きょ……許靖おじさん!!大変!!大変なの!!」
「何があった?」
「危機なの!!益州の危機なのよ!!」
その言葉を耳にして、許靖だけではなく護衛の兵たちも緊張した。益州の危機とはどういうことだろうか。
(まさか、どこかの群雄が攻めてきたのか!?)
全員が同時にそう思った。
許靖は芽衣を落ち着かせようと、その肩を掴み返した。
「落ち着け。危機とは、一体どういう危機なんだ?」
「お酒の危機!!」
「…………は?」
「だから、益州のお酒が危機なの!!」
酒の危機。
よくは分からなかったが、許靖と簡雍、そして酒飲みでない兵たちはいったん安心することにした。
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